小俣行男氏 「侵掠」より


 小俣行男(おまたゆきお)氏は、読売新聞の従軍記者として、一九三八年一月から一九四二年八月までのほぼ五年間、日中戦争から太平洋戦争のビルマ戦に至る戦場を駆け巡りました。 その体験談が、「侵掠」「続・侵掠」という二冊の本になって出版されています。

 従軍期間からもわかるとおり、小俣氏自身には、「南京事件」の体験はありません。しかし、この従軍記録を読むと、中国各所で、「ミニ南京事件」とでも呼ぶべき事件が、随所に登場してきます。

 この本からいくつかの記述を紹介します。氏の筆致は冷静であり、当時の取材メモに基づいて書かれたものであるだけに、信頼性は高いといえるでしょう。


「隊長、ニ、三軒焼かせてください」

(略) 

 こうして、部隊から部隊へ、取材のために訪れたのだが、そこで私が耳にしたのは、暗い、残虐な話が多かった。

 上海陥落と同時に東京部隊(ゆう注 第一〇一師団)は抗州を攻めた。軍の進路にあたった部落は片っ端から焼き払われていった。 ときには道路の両側の家が燃え上がって、あとからきた部隊が前進できず、部落の入口で停止したり、迂回しなければならないこともあった。戦場では、人間の気持を狂わせてしまうこともあった。

「隊長、自分は火事をみないと眠れません。今夜もニ、三軒焼かせてください」。
そんなことをいう兵士もいた。


 江南地方は五十キロ行っても百キロ行っても水田や畑がつづき、山も、木も見当らなかった。しかし土の家も柱やハリには木を使っていた。いったいそれらの木はどこから運んでくるのだろう。一軒の家を建てるのに、どれほどの苦労がともなうか想像に難くない。

 ところが、兵士たちは面白半分に放火し、恨みもない民家を焼いた。日本軍がどこまで進撃したかを知るには煙をみればわかるともいわれた。部落、部落に火を放って前進するので、進路にはつぎつぎに煙が上ってゆくからだった。

(「侵掠」P27)


「皇軍の威信にかかわる、あの村を焼け」(1)

 上海にほど近い松江には砲兵部隊が駐屯していた。隊長はそのころ右翼のリーダーの一人で知られた大日本青年党の橋本欽五郎大佐。召集されて部隊長として戦線にやってきた。

 その部隊の兵二名が、部隊をそっと脱け出して女を探しに行った。ある部落で姑娘を見つけて抱いているところを部落のものに襲われて殺された。 もちろん、その兵隊の行為は軍律違反だ。しかし、そのことを知った橋本大佐は激怒した。兵も悪いが、それを殺した部落の住民を見逃がすわけにはいかない。

「”皇軍”の威信にかかわる。こらしめてやれ」。

 大佐は高い塔にのぼって、「やられたのはどの部落だ。焼き払ってしまえ!」とどなった。

 「あの辺から、この辺まで―」。塔の上から指さす。たちまち命令が出され、放火隊が動員された。その夜、えんえん二里余にわたって、街も村もいっせいに燃え上った。塔の上の大佐はローマを焼いた暴君ネロにも似た姿で、この火を眺めていたのだろうか―。

(略)

(「侵掠」P27〜P28)


 
「皇軍の威信にかかわる、あの村を焼け」(2)

 抗州攻略ではしばしば姑娘狩りが行われた。日本軍が近づくと、部落の人たちはいっせいに逃げ出したが、逃げ遅れた娘たちはたいてい捕えられて、兵たちに犯された。クリークのほとりに横穴を掘って、入口に草をかぶせ、中に家財道具やニワトリ、豚などといっしょに若い娘たちを隠しているところもあった。

 「穴の中に入っていた姑娘をみつけてね。連れだすと逃げだしました。女は逃げ場を失い、クリークにとびこんでしまった。そこは深くて救い出せない。とうとう女は溺れて死んでしまいました。可哀そうでしたよ。兵隊は面白半分なんですよね」。

 ある兵士は、そっとそんな話をしてくれた。


 こんな話をした兵士もいた。―納屋の中に入って行った。干草の中に若い女がいた。押えつけようとしたが、抵抗していうことをきかない。銃剣をつきつけて脅した。女は苦しまぎれに手で剣をつかんだ。掌が切れて真っ赤な血が吹き出した。

 「それで・・・?」

 ―その手を押さえつけてやりました。

 郷里に帰れば、純朴な青年として生きるであろう、その青年の顔を私はみつめ直したが、彼の表情には何の痛みもみられなかった。おそらく殺したわけでもないのだから・・・と、彼はほんとうに何の痛みも感じていないにちがいなかった。

 戦場できく話は暗い残虐なものばかりだった。しかし、それらは書くわけにはいかない。書けるのは陣中美談というようなものだけだった。戦場でめぐりあった友情とか、戦線と銃後を結ぶ佳話とか―といったたぐいだ。

 私は部隊から部隊を歩いて、そのような話を探して書いた。捨てられた廃馬の、いたいたしい姿をみた兵士が、その馬を拾っていたわりながら五十里の道を行軍していった―といったふうな、内地の人たちの心を打つような話を探してあるいた。そんな話にぶつかると、私の心もいくらか安らいだ。

(「侵掠」P28〜P29)

*「ゆう」注 前の記述と合わせ、「強姦」が、特に「犯罪意識」もなく、日常的に行われていたことを伺わせます。


崇明城外での首切り

 警察の留置場に六人ほど囚人がいた。長い間囚われの生活を送っていたとみえて、ヒゲぼうぼうのものが多かった。通訳の話では「海賊」の一味だという。ジャンクに乗って島を荒しにきて捕まったものらしい。日本軍がくるときいて警察官は逃亡したが、この「海賊」たちはカギをかけられたまま置きざりにされたものだ。

  部隊といっしょに入ってきた憲兵はこの「海賊たち」を打ち首にすることにした。 どの程度の罪状かもわからない。六人が六人とも同罪かどうかも調べない。そもそも中国軍が処刑しなかったものを、なぜ日本軍が処刑しなければならないのか。それなのに、「こいつらは打ち首だ」と、刀の試し斬りの犠牲にされてしまうのだ。

 私はこわいもの見たさに、死刑執行をみにでかけた。 夕方、警察の前に一隊の兵がやってきた。六人の「海賊」がひき出された。前と後に銃をかついだ数名の兵がついた。物音一つきこえないような静かな街に、兵たちの靴音だけが異様に響いた。

 小さな城門を出ると、城壁の外側にいくつかもの穴が掘られてあった。 六人はそれぞれ穴の前に坐らされた。すっかりあきらめてしまったのか、いわれるままに静かに坐っているものもいた。どこにかくしてあったのか、しわくちゃの紙幣をとり出して、憲兵の前にさしだし、哀願するものもいた。

 やがて憲兵軍曹が軍刀を抜いて水をつけた。一番右側の男の髪をつかんで首を引き出すようにした。男は目をつむっていた。  バサ! というような音がして、男の首が宙にとんだ。サッ! と真っ赤な血しぶきがとび、首のない胴が前にのめった。

(以下略)

(「侵掠」P36)


 
生きたまま焼かれた姑娘

 それにしても、敵側の惨虐は報道し得ても、「皇軍」の残虐は報道できない―。

 町はずれの路傍で姑娘が、地べたに腰をおろしていた。近づいてみると、上衣はつけていたが、下着も下穿きも脱がされていた。二十歳前後だろうか。その頃流行の断髪姿、顔立ちも整った美人だったが、兵隊に犯されて立つ気力を失ってしまったのだろう、手だけはわずかに動いて、眼は大きく開いていたが、どこをみているのか、うつろな瞳だった。

 通りがかって兵隊がやったものだろう。裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。 女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。そのとき、小隊長らしい将校がやってきて、兵隊に向って「かたづけろ!」とどなった。

 いったいどこへ片付けろというのだろう。病院もなければ、住民もいない。手当するようなところもない。数人の兵が姑娘をかついで行った。

 夕暮どき、私は兵隊たちにきいた。

 「あの女、どこへかたづけた!」

 「焼いちゃいました。あんな恰好でころがっていたのでは、死んでも浮かばれないでしょうから、マキを積んで、その上にのせて、焼いちゃいました」。


 彼女は虫の息だったが、たしかに生きていた。すると、彼女は生きたまま焼かれたのである。

(「侵掠」P53〜P54)


支局で働いた陳青年

 この支局(ゆう注 九江支局)には陳という若い使役がいた。高橋部隊とともに九江を目指して進軍の途中、数名の敵兵が捕虜になって連行されてきた。

 もちろん、捕虜は勝手に殺すことはできないのだが、この戦争では捕えられたら最後、たいていの場合殺された。

 このときも足手まといになるから「斬って捨てろ」ときまったとき、写真班の三輪君が「ちょっと待った、九江まで一人貸してくれ!」と叫んでそのなかの一人、元気な若者を借りて、リュックをかつがせた。

 眼の前で同僚が処刑されるのをみていた
だけに、一命を助けられた陳青年は三輪君を神様のようにあがめて、忠実につかえてきた。

(「侵掠」P68)


 
「こいつらも敵の片割れ―老夫婦を銃殺

 この戦線では悲惨な話が多かった。東弧嶺から西弧山へかけて、山肌は日本兵の血で染まったほどだった。それだけに敵、味方の憎しみも強かった。第二大隊の本部の近くの民家のなかから老夫婦が発見されて連れて来られた。

「こいつらも敵の片割れだ」。兵隊たちは口々にののしった。

「後方かく乱のために残っているのだ。敵に内通しているのだ。だから昨日も敵の砲弾がこちらの陣地に集中してきた。老人だと思って油断してはならない。生かしておくわけにはいかない」。連れてきた兵隊の一人がそういった。

 ここは第百一師団の中の佐藤旅団の作戦地区だ。蘆山東麓地帯にはところどころに部落や民家があった。激しい戦場となったので住民はどこへか姿を消してしまった。ところがときには住民の残っている家があったのだ。

 ”この作戦地区には一人も住民を生かしてはならない”―佐藤旅団長は、そういう命令を出しているのだとのことだった。

 老夫婦は兵隊の前にひざまずき、哀願していた。こんな年寄りにスパイができるだろうか。逃げ遅れたものにちがいない。しかし、下士官は「早く片づけてこい」と命令した。老夫婦は川のほとりに引き立てられていった。間もなく数発の銃声が山にこだました。老夫婦は処刑されてしまったのだ。

 殺されたのが非戦闘員の老夫婦だっただけに、連れ去られていったときの後姿が、いつまでも私の脳裏に焼きつけられていた。

(「侵掠」P111〜P112)


 
「とい」の女

 (略)

 武漢作戦終了後、第三師団はこの応山に駐屯していたので「特殊慰安所」をつくっていたのだった。家は十数件、ここには珍しく日本の若い女がたくさんいた。

 (略)

 若林と私が入ってゆくと、三、四人女が出てきた。こんな前線には、もったいないような、若くて、器量のよい女たちだった。

 こんな器量の女たちなら、こんな前線に来なくても、どこでも立派に働けるのにと思って、そのうちの一人、丸顔の可愛い娘にきいてみると―

 「私は何も知らなかったのね。新宿の喫茶店にいたのだけれど、皇軍慰問に行かないかってすすめられたのよ。皇軍慰問ということが、どういうことかも知らなかったし、話にきいた上海へ行けるというので誘いに乗っちゃったの。仕度金も貰えたし、上海までは大はしゃぎでやってきたら、前線行きだという。前線って戦争するところでしょう。 そこで苦労している兵隊さんを慰問できるなんて素敵だわ、と思ってきてみたら、『とい街』 (「ゆう」注 「とい」は「特殊慰安婦」の略称)だったじゃないの。ここまできてしまったら、逃げて帰ることもできないし、あきらめちゃったわ」。

 そういって彼女は私にビールをついだ。

 ここにも”聖戦”のかげに女がいた。”聖戦”といい”皇軍慰問”といって女を連れだすのだが、その慰問の実態がこれだったのだ。私は、その後も、こういう慰安婦たちから話をきく機会があったが、朝鮮人女性の場合など、強制連行同様であった。 何も知らない少女たちが、戦場に連れてこられて、性に飢えた兵士たちを相手に、一日、何十人もの”労働”が課せられるのだ。何人も相手をしていると、しまいには”死んだ”ようになってしまう。

 それでも、殺伐な戦場から帰った兵士たちは、慰安所に殺倒した。このころのように日本軍が勝ち戦さをつづけている場合はまだよかったが、敗戦をつづけるようになると、足手まといの彼女らは、戦場に置き去りにされた。太平洋戦争下で、これら慰安婦たちの哀話は多い。

(「侵掠」P186〜P187)



 なお、この本に掲載されているのは、上記のような「日本軍の非行」に関する殺伐とした話ばかりではありません。

 読売新聞の平沢記者が「鹿地亘」のかつての愛人「河野さくら」にプロポーズ、失恋して自殺未遂を起こしたが、「そこまで想ってくれるなら」と結果的に射止めたエピソード、漢口陥落の現地に行けないまま支局総出で第一線の「インチキ原稿」を書いたところ、 あまりの出来の良さに本社から「感謝の電報」を受けたエピソード、上海における「汪派」と「国民党派」の悲惨なテロ合戦など、記者ならではの興味深い話が多数織り込まれており、読んで損のない一冊です。


著者略歴  

小俣行男(おまた・ゆきお) 本名<行夫>

一九一二年、山梨県大月市に生まる。

一九三六年、読売新聞社に入社。従軍記者として上海に特派され、中国、「仏印」、マレー、シンガポール、タイ、ビルマの各戦線に従軍。

一九四七年、読売新聞社を退社。

一九五五年、埼玉新聞社に入社。編集局長、専務となる。

一九六三年、大正製薬株式会社に入社。宣伝部長、総務部長、監査役、秘書室長を務める。

 (2003.9.28)


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