岡村寧次大将資料
岡村寧次大将資料


 岡村寧次(おかむらやすじ)大将は、南京事件後の1938年6月「第十一軍司令官」に就任し、武漢攻略作戦を指揮しました。終戦時には「支那派遣軍総司令官」の地位に就いています。なお中国側からは、もっぱら「三光作戦」の責任者として有名な人物です。

 原書房「岡村寧次大将史料(上)」は、「日中戦争」を中心とした岡村大将の手記をまとめたものです。「南京事件」関連の記述も散見し、ネットでもよく見かけますので、以下、ここに関連記述を紹介することにします。

 岡村大将は「南京事件」当時に南京にいたわけではありませんが、以下の資料から、部下などの報告により「南京事件」の存在をしっかりと認識していたことを伺わせます。 

 
「第三編 北京雑感」より

 十八 河南作戦雑感

(ハ) 治安良否と中国娘の態度

 私は華中、華北の戦場で、日本兵が昔日の神兵ではなく、掠奪、強姦、放火等の非行が少くないことを知り痛嘆した。このことは第四篇において数多くの実例を掲げて詳述するつもりであるから、ここには記述を省略するが、ただ次の一事だけを特記する。

 私は華北、華中の前線を頻繁に巡視して、その地方の治安良否(日本兵の風紀をも含め)の程度を中国娘の眼に見える関係で三とおりあることを総合的に発見した。

第一、絶対に娘の影を見ない。日本兵を恐れている証左で、「治安不良」

第二、私どもの自動車、トラック通行を物珍しげに遠く家の窓から眺めている。「治安稍良」

第三、前項の場合、自家の門前に出て眺めている。日本兵の往来する街頭を中国娘が平気で歩いている。「治安良好」

(「岡村寧次大将資料」(上) P280)


 
「第三編 北京雑感」より

 二十 戦地強姦罪

 私の第十一軍司令官時代強姦の非行が多くそれについていろいろ配慮したことは第四篇において詳述するとおりであるが、私は当時の陸軍刑法において強姦に普通刑法親告罪であることも、また根本的に間違いであると考え、昭和十五年二月内地に帰還したとき阿南陸軍次官に対しこれを改め戦地強姦罪を設くべき旨申言したところ、正義の士である阿南次官は即座に同意し改正すべき旨を断言した。それから二年を経過して昭和十七年漸く戦地強姦罪が制定されたのであった。

 しかし、この北支方面軍時代は第十一軍時代に比べて強姦罪が著しく少なかったのは幸であった。予後備兵が極めて少く、大部は年若い現役兵や補充兵であったこともその原因の一つであったと思う。

 これら若い兵隊が軍法会議で陳述した内容が共通していたことは、家郷を出発する送別宴の席上などで、既に戦地の務めを終えて帰郷した先輩から、中国戦線では良いことがあるぞと強姦を示唆されていたので、ついムラムラとその気が起きたということで、最初中国戦線に出動した予後備兵が、昔事の出征兵と比べて、如何に風紀観念に乏しくなっていたかを知ることができたのである。

(「岡村寧次大将資料」(上) P282〜P283)


「第四編 武漢攻略前後」より

 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟

 私は、従来書物によって日清戦争、北清事変、日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。

 それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、
差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。

 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。

一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。

 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。

一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。

一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
 七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。

 以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。

(「岡村寧次大将資料」(上) P290〜P291)


 
「第四編 武漢攻略前後」より

  先ず第一線巡視

 (略)

 潜山では、参集していた各団体長や師団司令部職員に対し訓示した。その内容は忘却したが、ただ次の要旨の一項を力強く述べたことを憶えている。
 軍の兵力は寡少である。これで武漢攻略の大任を遂行しなければならない。よって江北は第六師団だけでやって貰いたい。兵力増強のため重砲艦隊などは配属する予定ではあるが。
 この訓示は前項稲葉師団長の言う第六師団将兵の戦闘第一主義の精神には好感を呼んだらしく、後日九江に滞留中の八月六日、第六師団の連絡将校(工兵聯隊の三野村中尉)が来訪したとき『軍司令官閣下は潜山で、漢口は第六師団に取らせると言われたそうで士気大に振っています』と述べたところからみれば、地形の関係もあり自然漢口に突入するのは第六師団のみであるので、この訓示は誇張されて師団将兵の士気益々振う動機となったらしい。

 しかしそれだけに、南京攻撃戦で前科のある師団でもあり、如何にして漢口入城に際して立派に軍、風紀を維持せしめるかについては、私も、稲葉師団長も、牛島旅団長も相当苦心したことは後述するとおりである。

(「岡村寧次大将資料」(上) P293〜P294)


 
「第四編 武漢攻略前後」より

 九 軍紀、風紀所見(その二―戦地強姦罪)

 十三年八月十八日、吉本軍参謀長が、九江の対岸小池口附近を視察した結果、次のとおり。
 小池口附近駐留の波田支隊(第六師団と同じく南九州兵)の原田大隊は、風紀紊乱、略奪強姦少からず、附近村長を集めたときその被服を奪った者あり、この被服を着用すれば強姦に都合がよいためである。飛行場工事をある村長に請負わしめたとき、わが兵が該村長の妻と娘を輪姦したため飛行場工事は一頓挫を来した。

 飛行場工事の苦力賃のあたまをはねた兵もある。軍司令部の膝元の九江では非行ができにくいので渡江して小池口に赴いて暴行を敢てする者もある。討蒋愛民の標語は到る処に掲示されているが、毫もその実は挙っていない。
 そこで私は、吉本参謀長と協議し、九江にある憲兵全部を対岸小池口に派遣し、犯人を悉く逮捕して軍法会議に附すべき旨を厳命した。

 また別に九江特務機関の主力をも小池口に移して極力宣撫工作の立て直しをなさしめた。

 八月二十三日五十嵐憲兵隊長報告のため来訪、小池口における上等兵以下三名の輪姦事件を取り調べたところ、娘は大なる抵抗もせず、また告訴もしないから、親告罪たる強姦罪は成立せず、よって不起訴とするを至当とするとの意見を平然として述べた。同列した軍法務部長もまた同じ意見を述ぶ。

 それに対し、私は叱咤して云った。強姦罪が親告罪であることぐらいは予もこれを知っている。これは法を作ったとき内地を前提としたものであろうことを深慮しなければならない。抑々われわれの出動は聖戦と称しているではないか。神武の精神は法律以前のものであり、また一面被害の良民は銃剣の前に親告などできるものでないことを察しなければならない。憲兵は須らく被害者をみな親告せしめよ、そうして犯人はみな厳重に処分すべしと。

 憲兵隊長、法務部長は、はじめ吉本軍参謀長に対し同様の意見を述べたところ、私が場合と同様に反対されたので、爾来憲兵隊は軍司令官が厳しいからその口実の下に、かなり厳重に取締ったらしい。

 しかしその後も各地でやはり強姦が頻発し、しかも示談が少くなく、その示談金が到る処日本金の十五円に統一されているという珍妙な現象を聞いたので、私は根本的に陸軍刑法を改正して親告罪を改め戦地強姦罪を設定しなければならないと痛感し、内地に帰還した昭和十五年三月二十六日、阿南陸軍次官に対し、この戦地強姦罪設定の意見を強く述べたところ正義の士である阿南は、直に同意し、改正に着手すべしと答えたことは第三篇でも述べたとおりである。

(「岡村寧次大将資料」(上) P300〜301)


 
「第四編 武漢攻略前後」より

 十 軍、風紀所見(その三)(ゆう注 「軍紀」の「紀」の文字が抜けていると思われます)

 (略)

(二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。

 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。

 嘗て聞いたところによれば、北京附近の中国古老は、団匪事変のとき、欧米各国兵が掠奪強姦の限りを尽くしたのに、ただ独り日本兵のみが、軍、風紀森厳にして寸毫も冒すことなかったことを回想し、どうして今の日本兵がかくも変わったのかと痛嘆したという。

 全く昔と今とどうしてかくも変わったのか。

(三) 憲兵報告の一節。蚌埠在住の中国人に嫁した日本中年女性は言う。中国兵は、掠奪するが強姦はしない。日本兵は、掠奪しないが強姦をする。可否何れにかあらん。頼みとするのはただ天主教会の神父のみと。

 刑罰種目中最も多いのは上官暴行と強姦である。そうして犯人の年齢別を見るに最多数は三十三歳である。

 以上の報告を視て私は考える。三十三歳と言えば固より既教育兵であるから現役時代の教育も責任を負わなければならないが、軍を離れて既に久しく一般社会に生活したことであるから、社会も責任を負わなければならない。軍の罪が国民一般の罪か。

(四) 来陣した中村軍務局長の言によれば、戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少からず、郵便法違反として没収したもの既に数百枚に達しているという。

 好奇心も甚しいというべし。

(以下略)

(「岡村寧次大将資料」(上) P302〜P303)


 
「第四編 武漢攻略前後」より

 十六 南京事件の轍を覆まないための配慮

 十月十一、十二日の両日、私は幕僚を伴い北岸の広済に第六師団を訪問した。その目的の一つは、私の主義である前線部隊を訪問する毎になるべく下級の将校下士官兵の実戦談を聴取することであり、事実この両日に亘り十一名の下級将校の実戦談を聴いたのであるが、もう一つの重大な目的は、近く漢口に進入するに際し、南京で前科のある第六師団をして如何にして正々堂々と漢口に入城せしむるかを師、旅団長と相談するに在った。

 ところが、稲葉師団長と第一線を承る牛島旅団長(後の沖縄の軍司令官)は、既にこの事に関し成案を立てていた。

 両氏が言うには、『わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まないから、漢口市街に進入せしむるのは、師団中最も軍、風紀の正しい都城聯隊(宮崎県)のニ大隊に限り、他の全部は漢口北部を前進せしむる計画で、前衛の聯隊を逐次交代し、漢口全面に到達するときには必ず都城聯隊を前衛とするようにする』と。

 そうして漢口に残存する唯一の租界である伊太利租界を通過するため一条の通路を開放して貰うことや、その案内など伊太利側との交渉は、軍司令部において担当することや、漢口の難民は当分一箇所に集中させることなどを協議した。

(以下略)

(「岡村寧次大将資料」(上) P312)


 
「第四編 武漢攻略前後」より

 十七 軍紀、風紀所見(その四)

 十三年十月十日、蘆山南側星子の兵站司令官友清大佐の報告によれば、同地附近の村長連名を以て殺戮、強姦、放火、牛掠奪の四件禁止を要請しこれ等の条件容れらるれば、他の要求には凡て応ずべしという嘆願書を提出してきたとのことなので、憲兵を急派して調査させたところ既に強姦だけでも二十件あるも犯人未検挙、偶々強姦現行直後の者を捕えたが、その所属隊長は、該犯人が歴戦功績者だとの口実を以て釈放を強請したという。この口実は当時到る処で行われたことである。

 私の愛民の方針は、なかなか徹底しなかったが、昭和十四年以後はこうした犯罪は漸く減少した。二、三年後は中国南北戦線を通じ激減したが、その最大の原因は軍紀刷新努力の結果と言わんよりも、寧ろ下士官兵の素質が老兵は殆んど皆無となり、現役兵と若年補充兵のみとなったからであろう。後者は未だ社会の悪習に染まずに出動したからであろう、と私は思ったことである。

(「岡村寧次大将資料」(上) P314〜P315)


 
「第四編 武漢攻略前後」より

 二十一 再び今昔の感 (十三年十月〜十二月)

 将兵の言動を観察し、日露戦役北清事変の昔時に比べて低下したと思われる点概ね左のとおりである。

(イ) 上官に対する服従心の低下(犯罪統計、言語態度、敬礼等)

(ロ) 性道徳の低下(強姦、慰安婦随行)

(ハ) 公共心の欠乏は益々甚しい(兵器破損したとき修理機関へ送付するの労を省き、これを路傍に遺棄する。他隊の馬を盗むこと流行、前送洫兵品の横取り等々、なお後述)

(ニ) 幹部で横領、収賄の罪を犯すものあり

(ホ) 処置面倒なりとて俘虜を殺す蛮風あり

(以下略)

(「岡村寧次大将資料」(上) P318〜P319)





 2006.7.6 追記

 その後2006年3月に出版された『現代歴史学と南京事件』の中で、笠原十九司氏・吉田裕氏が、岡村寧次大将に係る新資料を紹介しています。

 

笠原十九司氏、吉田裕氏『総論 現代歴史学と南京事件』より


 一つは、一九三八年六月に第一一軍司令官として中国戦線に赴いた岡村寧次の記録である。一九五四年六月に厚生省引揚援護局が作成したこの記録、『岡村寧次大将陣中感想録』(靖国偕行文庫所蔵)には、三八年七月一三日のこととして、次のような記述がある。


 中支戦場到着後先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れは従来派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する椋奪、強姦多数ありしことは事実なるか如し。
 

 なお、この記録の表紙には、「一切転載並公表を禁ず」とのただし書きが付されている。
 

(『現代歴史学と南京事件』 P12)


 上に紹介した『「第四編 武漢攻略前後」より 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟 』に類似した記述ですが、「大殺戮」の人数を「四、五万」と認識していることが注目されます。

(2003.8.30記 2006.7.6追記)


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