
| 何人斬れるか ー日本刀の性能ー
その2 『戦ふ日本刀』をめぐって |
さて、山本氏は、最初に紹介した文章に続けて、今度は成瀬関次氏の戦前の著作『戦ふ日本刀』 に話題を移しています。
| 山本七平氏「私の中の日本軍」より
これでみると、日本刀の欠陥は、私のもっていた軍刀が例外だったのではなく、全日本刀に共通する限界もしくは欠陥であったと思われる。そこで、この三人の方のお手紙の一部をまず台湾人S氏のから掲載させていただこう。氏は次のように記されている。
同封の朝日新聞の切抜きは省略させていただくが、後述するように、私の体験では「三人」は到底無理で、したがってこれは「最大限三人」と解すべきであろう。
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「日本人一名、中国人一名、台湾人一名」という国際色豊かな読者から、それぞれ、当時ほとんど知られていなかった『戦ふ日本刀』について記した手紙が来、しかも三人とも「手元に本がな」い状態だった、という「偶然」が果たしてありうるのかどうか、という「疑問」はさておきましょう。
しかしこの「工学の教師」の手紙も、奇妙です。自分から「私の論拠は、工学的に考えて日本刀というものがあのような連続的な使用に耐えうるはずがない、というもの」と断言しておきながら、自分からは「工学的な裏付け」を全く示さず、それどころか、「工学的見地から日本刀の効用の限界」を調べるよう、山本氏に依頼 する、というちぐはぐなことを行っています。(そこまで断言するのであれば、断言するだけの工学的データを自分で持っていそうなものですが) そして語っている「論拠」らしきものは、「工学」とは縁もゆかりもない、「成瀬関次氏」であったり、「殺陣師の談話」であったりします。
この手紙は実は山本氏の「創作」であり、「権威付け」をするために「工学的」云々という単語を持ち出した、という 可能性も、決して否定できないように思います。
さて氏は、「手紙」の表現を受ける形で、ここで初めて「最大限三人」という数字を語っています。その根拠はやはり「私の体験」だそうですが、その「体験」なるもののお粗末さは、既に見たとおりです。
(「日本刀三人限界説」の根拠が、この成瀬氏の本の記述ではなく、単なる「自分の体験」であることに、ご注意ください 。後述の通り、成瀬氏の本をいくら読んでも、「限界説」の根拠になる記述は見えません)
氏は、次章「日本刀神話の実態」でこの『戦ふ日本刀』を入手し、自分の論の「補強材料」に使おうと試みます。
まず注意しておきたいことは、この『戦ふ日本刀』には、「日本刀三人限界説」を思わせるような記述は、一切存在しないことです。 それどころか、以下のように、成瀬氏は、「47人斬り」の話を何の疑問もなく肯定的に紹介しています。
成瀬関次「戦ふ日本刀」より 或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつてきた。苗田藩槍一筋の家に生れたと云つてゐたから、加賀百万石か、それとも支藩大聖寺、富山、上州七日市の前田かそれは聞き漏らしたが、無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐洲戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。少尉の物斬り話には、傾聴に値するものがあつた。
第一に、武道家は居合とランニングをやらにゃいかんと云つた。その理由は、南京物斬り三十七人中の三十人までは、後から追い縋り追い縋りして斬つた者で、ランニングの選手であつた賜物。次に居合の手にある”虎乱刀”即ち右足一足で抜き打ちに敵の背後から真一文字に切りつけ、左足一足でふり冠り、再び右足を踏んで上から切りつける。これを連続的に進行し乍らやる早業の動作であるが、その調子で斬つた。部下に中山博道先生門下の居合の達人が居て、戦地へ来てから習ひ覚えた。半年程のうちに、進行し乍ら抜打に切つて鞘に収める早業を、歩き乍ら実地にやつて見てこれも自信を得たと云ふ。つまり辻斬をやつたのだ。
刀を見ると、血糊で白くなつている。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刄まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刄こぼれも三ヶ所、刀全体がジツトリしてゐた。少尉は話をつづける。「向ひ来る敵のどこが一番斬りよいかと云へばそれは敵の左右の肩で、その次が胸腹部の突きだ。敵が鉄兜をかぶつてゐる限り面打は断念したがいいし、胴と小手は実際には斬りにくいものだ。剣道では、その切りにくい面、小手、胴を目標とし、突きにくい喉を狙ふ事をやらせてゐる。困難な事に習熟させるのだと云つて了へばそれまでだが、僕かア君、切りよいところ、突きよいところを狙ふ稽古に、平生から熟達させて置いた方がよいやうに思ふね。どうだい君やア。」
この思ひがけない掘出物の戦場武道家は、僅か中学校で剣道をやつただけだといふ。驚きの目をみはると、
「いや、もつとえらいのがゐる。それ、新聞にも出たらう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺といふ人間だよ。」といふ。
最後の名説はかうだ。
「対敵中は物さへ見えればそれで勝つ。この修練だけは実際に場数を踏まぬと困難だ。目の見える結果は、本能的に多勢を避けて少なきに向ひ、足もとの危ない所をよける。それから・・・」と声を落して、「強きを避けて弱きに向ふ。つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね。」
と話を結んだ。
成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすればそれは小説だ。瞬間に自己の有利な安全な場所に就き、間一髪の間に敵の破綻を見破つてつけ込む。さうした機動的な刀法を使つたのも畢竟”目が見えた”からであって、武蔵が『兵法至極して勝つには非ず、自ら道の器用ありて天理を離れざる故』と云つた一面の機微の一つは、まさにその点にもあるのだ。次郎長の剣法も、彼が子分によく云つたといわるる『喧嘩して敵の両足が見えたら勝負はこつちのものだ。』という言葉に盡きてゐる。
目の見えるといふ事は落ちつく事で、武道修練といふ事もその条件であり、無意識の意識がさせる別作用である。
(昭和15年発行 P77〜P79)
さらに成瀬氏は、「十人二十人といふ敵を斬つた」という多くの「武功談」について、「誇張や法螺でない」、というコメントを残しています。
| 成瀬関次「戦ふ日本刀」より 今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人といふ敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、 部下のかうした武功談を度々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した 写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、五月初旬、蘭陵鎮へ行軍途上、左荘といふ部落の近くで、刀傷で倒れてゐる敵の死体幾つかを見た事があつた。 (P25) |
さて、こんな本から、山本氏は、何とかして自説に有利な材料を捜し出そうと試みます。しかし、成瀬氏自身が「何十人斬り」の肯定を前提に記述を行っている以上、いくらこの本の記述をつまみ食い的に引用しても、山本氏の「日本刀三人限界説」の補強材料にはなりそうにないことは、言うまでもないでしょう。
『戦ふ日本刀』が「日本刀の強さと弱さ」をさまざまな側面から語っているのは事実ですが、実際にこの本を読んだ方でしたら、「日本刀は、無限に人を斬れるスーパー兵器ではない。さりとて、三人しか斬れないような情けない兵器でもない」という印象を持つのではないでしょうか。
「日本刀で何人斬れるか」ということは、「実験」などしようもありませんし、おそらく誰にもわからないでしょう。しかし少なくとも「最大限三人」ということはありえないし、実際の話、当時の「専門家」である成瀬氏は、条件の良い日本刀でしたら、少なくとも「数十人」は十分可能だった、と考えていたようです。
なお、先にあげた「47人斬り」の部分について、山本氏は次のようにコメントしています。
| 山本七平氏「私の中の日本軍」より
そしてここにも「百人斬り」的自慢をする一少尉が登場して、四十七人斬りを披露し―この百人とか四十七人とかいう数が面白い―さんざん自慢した後で「いや、もつとえらいのがゐる。それ、新聞にも出たらう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺といふ人間だよ」といっている。言うまでもなく浅海特派員の「虚報」のことである。 (「私の中の日本軍」(下)P101〜P102) |
これまた「悪文」で、「解読」に苦労しそうな文章です。氏のコメントを、個別に見ていきましょう。
●この百人とか四十七人とかいう数が面白い
山本氏は、どうやら、「四十七人」という数は「赤穂浪士」の話に合わせたものではないのか、と言いたいようです。しかし、元の文を読めばわかりますが、「斬った数」は、「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐洲戦で十人、都合四十七人」と、「内訳」が明らかにされています。「四十七人」という数の一致は、単なる偶然、と見る方が自然でしょう。
●ところが相手が専門家とわかったためか彼の大言壮語がだんだん変になっていく。
語り手である「時目少尉」は「刀の修理」を頼みにきたのですから、成瀬氏が「専門家」である、ということは、初めからわかっていたはずです。元の文を見ても、話が途中から「だんだん変になっていく」という雰囲気のものではなく、私にはむしろ、時目少尉は、実はこうなんだよ、と悪戯っぽく告白しているように思われます。
●この少尉の言っていることをフィクションだと断言しているのではないのである。そして、それをどう判読するかは、読者にゆだねているわけである。
どうも山本氏は、「成瀬氏は、時目少尉の話をフィクションだと考えているが、そうはっきり言うことはできないので、遠まわしにフィクションであることをほのめかしている」と言いたいようです。
しかしこのあたり、山本氏の「解釈」は、滅茶苦茶です。元の文は、こうでした。
「(略)それから・・・」と声を落して、「強きを避けて弱きに向ふ。つまり弱さうな奴から先に片づけるんだね。」と話を結んだ。成る程、宮本武蔵でも近藤勇でも、乱刄渦中で闘つた記録は絶対にない。あるとすればそれは小説だ。
少尉は、「47人斬り」の裏話として、「弱さうな奴から先に片づけるんだね」と告白しています。成瀬氏はそれを受けて、なるほど、「乱刄渦中で闘つた」わけではなかったわけだ、と書いています。それだけの話であり、これを、成瀬氏は実は「47人斬り」を「フィクション」だと考えていたのだ、と解釈するのは、どう見ても「
無茶」というものです。
ネットでは、「日中戦争という近代戦の場で、刀がそんな大きな役割を果たしたはずがない」という「思い込み」の書き込みを目にすることがあります。実際には、「銃剣突撃による夜襲」は日本軍の得意戦法でした。例えば、支那駐屯軍主任参謀、関東軍参謀副長等の要職を務め、終戦時は鈴木貫太郎内閣の綜合計画局長官の地位にあった池田純久氏の記述です。
| 池田純久氏『陸軍葬儀委員長』より
一体野戦の方法の巧拙によつて、軍隊の強弱を測定する事が出来るものである。勇敢な軍隊程全く射撃なしで肉迫し、一挙に銃剣を以て突入する。 それでも中には臆病な兵もいて、夜間行動の最中に、恐ろしさの余り無意識に発砲して全体の攻撃企図を曝露することがある。だから、夜襲しようとする軍隊は、銃に弾丸を装填せず、時には銃を縄などで巻いて弾丸が入らぬようにして置く位である。 恰度あの川中島の戦のように「鞭声粛々夜渡河」である。その粛々として行動する事が夜間戦闘の秘訣である。 日本軍は総じて夜間戦闘が上手であり、特に第六師団は、これを最も得意としていた。黙々として敵陣に迫り、一挙に銃剣で突入するのであるから、支那側が第六師団を恐れるのも無理はなかつた。 (同書 P54) |
日本刀が本当に二、三人しか斬れないものであるならば、そもそもこんな戦法は、成立するはずもありません。
最後に、この時期、いろいろなメディアを賑わせた「何十人斬り」の武勇伝を、 私の手元にある資料から、いくつか紹介しておきましょう。全部が全部真実であったかどうかまではわかりませんが、「百人斬り競争」が、決して、孤立した特異な話ではなかったことがわかると思います。
| 「支那事変 忠烈偉勲録第二輯」より 豪瞻敵五十を薙倒す 陸軍歩兵曹長 I・Y (原文は実名) (略) 今日も亦戦ひぬいたが日は暮れて行つた。相変らず雨は止まない。畜生!!何んとかしてやり度いと・・・歯がみして居るのである。○○部隊(原文通り)は払暁を期して遮二無二に敵陣を奪取しやうと云ふことになつた。そのとき○○隊のI曹長は深く決する処があつて、軽装して家伝の名刀一振を命として唯一人のM上等兵(原文は実名)を率ひて夜が未だ明け放れない前に敵陣へと肉迫した。 往年日露の役に蘇麻堡(そまほ)の敵襲が決行せられた時に少壮の士官達は極寒零下十度の冬空に襦袢一枚に抜身の日本刀を堤(ひっさ)げて突進したことを思ひ出すのである。 曹長は身長六尺に近い大男で、その上剣道の達人であるから十分の自信を以て居るばかりでなく、燃へるやうな攻撃精神を以て殉忠奉公の時は今であるとばかりに勇躍敵陣に踊り込んだ、そして大声に敵兵を叱咤しつつ薄闇塹壕内に切り込んだのであるから、敵は全く失心するばかりに驚いた。この隙を見て当るを得手と縦横に薙ぎ倒した。何しろ狭い塹壕の内で次から次へと切つて行く、まるで面白い程である、かうした間に夜は明け放れたので、M上等兵と協力して滅多切に斬つた。 敵はこの勢におぢて逃げまどうありさまは実に哀れな位であつた。曹長の切り倒した敵兵は五十人以上はあつた。この時味方は全線進撃を開始したので、曹長は敵の迫撃砲と小銃を鹵獲して悠々○○本部に合した。然しこの獅子奮闘の働きにも負傷一つせなかつたことは実に天佑と云はねばならぬ。 戦ひが済んで愛刀を調べてみたら、さすがに名刀ではあるが、刃が大部コワれて居た。 (昭和十三年発行。P165〜P166) |
| 「東京日日新聞」昭和十三年一月十日 単身・敵中で阿修羅王 廿余名を銃剣の槍玉 杭州戦線の大殲滅戦 【杭州にて六日早川特派員発】小堺、片岡両部隊の富陽における■■廿五日の大殲滅戦は杭州戦線において嘗て見ない目ざましいもので、敵の戦闘司令所はわが松木部隊の砲撃で吹ツ飛ばされ敵の損害は二千名に上り 非常な戦果を収めたが、殊にこの戦闘における歩兵部隊の活躍も物すごく組んづほぐれづの大白兵戦が展開されたのも特筆すべく、中でも広瀬部隊T上等兵(原文実名)は廿五日午後一時半頃高地でラッパを吹いて血路を開かんと逆襲に転じて来た四十余名の敵中に阿修羅のごとく殴り込み突いて突いて突きまくり廿名を銃剣で突き倒した、この時敵の拳銃弾はT上等兵の左足を貫通したがこれにひるむことなくさらに三名を突き殺したのでこの鬼神のごとき働きにさすがの敵も潰走した。 (2面右上、5段見出し) |
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「日の出」昭和十三年一月号 柳川武彦
浅間部隊のK少尉は、月浦鎮附近呉家宅の白兵戦で、敵兵二十人を斬り倒した。和知部隊でその人ありと知られた剣豪H少尉は、二十七人を斬り捲つた。人梯子を組んで
陽高一番乗りをしたM大尉は、左手に軍刀を揮(ふる)つて、群がる二十数人の敵を薙倒し、突き倒し、兵士の中にも敵兵四十人を芋刺しにした猛者があつた。(以上、原文ではすべて実名) |
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読売新聞社編輯局編「支那事変実記」第一輯より 羅店門は敵の死守する地点、和知、永津両部隊は二十七日から一斉に攻撃を開始した。夜半に至つて闘志に燃えた我部隊長の指揮する○○部隊は、夜襲により韓宅村附近を攻撃せんとして揚家村附近から南進を開始し、遙河村東側陣地区を通過せんとするや、
敵は突如右側面から攻撃を開始した。小癪なと和知部隊長は全部隊に対し、その右方に向つて攻撃前進を命じ、軍刀を引抜いて敵陣地に阿修羅の如く斬り込んだ。 |
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木村毅『上海従軍日録』より 丁度その晩は、○○師団の和知部隊が羅店鎮を、千メートルの長距離突撃をして、占領した詳報の入つた晩である。 『何しろ木村さん、こんな壮烈な白兵戦は有史以来無いですよ』 それはさうだろう。機械的武器を以て、距離をおいて対峙すれば支那兵もなかなかよく戦ふ。だが手許に食ひこまれたら、彼等はまるでたわいが無い。わが軍が敵塹壕へ飛こむと、彼等は気を呑まれて了つて、殆んど抵抗しないから、まるで向ふから斬つてくれと云つて首をさしのべてくるやうに思へたさうだ。 三十人斬り、二十人斬りと云ふのを、信じかねてゐる新聞もあつたが、羅店鎮でだけはそれが本当だつたやうだ。 (『改造』1937年十月増大号 支那事変特集 P152) |
| 『東京朝日新聞』昭和十二年八月二十二日
支那兵廿名西瓜斬り 上海陣の"宮本武蔵" 【上海にて高橋特派員二十一日発】 我が東部右翼最前線柴田部隊は十九日午後から二十日払暁にかけて我に十数倍する敵軍と猛烈な戦闘を続けてこれを撃退したが十九日夕刻の戦闘において敵の正規兵、便衣隊の中に踊り込み血しぶきを浴びて敵の頭を四つ刎ね又十六名をなぎ倒した二勇士の奮戦振りが陣中の話題となつてゐる 二十一日朝柴田部隊を尋ねると丁度○○、○両兵曹長が最前線出動の前を仲良く並んで一休みしてゐる所だ、両兵曹長は鞘を払つて見せてくれた氷のやうな日本刀にはまだ生々しい血がついてゐる、両兵曹長の持物も無銘であるが相当の業物だ、十六名を斬つたといふのに一ヶ所の刃こぼれもない 支那兵なんてまるで大根か蕪のやうなものさ、いくら斬つたつてちつとも手応へがない、この調子だと戦が済むまで百人以上は楽に斬つて見せるぞ 両兵曹長は豪快に笑ひ立上つて再び前線に向つた |
成瀬氏自身も、当時のメディアに現れた話を紹介しています。
| 成瀬関次「随筆 日本刀」より 香港ニコルス山の突撃に、岡田中尉が、白刃を揮つて英兵三十六人を斬つて落した話。馬来半島メンキボルの英本国兵の堅陣に対し、板家少尉が二十三名の精兵と共に日本刀を揮つて斬り込み、一隊壮烈なる戦死を遂げてしかも敵を潰走せしめた話。シンガポール島、ブキ・テマの堅陣を屠り、南貯水池に迫った時、逆襲して来た英戦車八台中の二台に飛鳥の如く躍り上り、日本刀を揮つて敵の乗員五人を斬つて落した大江中尉の話。さては、軍刀を揮つて爆雷の電動線を切り橋梁の爆破を未然に防いだ事。一兵が短刀を以て敵の宿舎深く忍び込み、敵の将校を刺し殺した事、等々。「日本刀日本人と共にあり。」の感いよいよ深きものあるを感ぜしめずには置かない。 (P4) |
2009.12.13追記
「日本刀の性能」問題に関する、秦郁彦氏の見解を紹介しておきます。
| 秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より ついでに解釈が分かれた日本刀の殺傷力をめぐる論争についても触れておこう。最初に問題を提起したのはベンダサン=山本七平で、山本の著書『私の中の日本車』上下(一九七五)における彼の言い分は「日本刀神話の実態」とか「白兵戦に適さない名刀」といった章のタイトルでおよその見当がつこう。 山本が主として依拠したのは、中国の戦場で二千本の軍刀修理に当った成瀬関次の著書『戦ふ日本刀』(一九四〇)などで、自身の経験も織りまぜ、「日本刀は非常に消耗が早く、実際の戦闘では、一回使えばほぼ廃品になってしまう」(R氏)とか「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」(殺陣師の談話)とか「一刀のもとに斬り殺すほど鋭利な日本刀は実際はほとんど皆無」(成瀬関次著より)といったくだりを引用して、「日本刀にはバッタバッタと百人斬りができるものでない」と結論づけている。 こうした山本の所論はその後の論争に大きな影響を与え、百人斬りの全面否定論者たちによって有力な論拠にされてしまう。だが山本の所論は二つの理由から、トリックないしミスリーディングと言えよう。 第一は首斬り浅右衛門の処刑法がそうだったように、無抵抗の「罪人」(捕虜)を据えもの斬りする場面を想定外としていること、第二は成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、悪い事例を無視していることだ。 成瀬著に目を通すと、刀や剣士の多彩な事例が豊富に紹介されていて、総合すれば日本刀の優秀性が印象づけられる。 「戦線には、何等武術の心得もなくして、実に巧妙に、如何様にも断り落とす名手が少くない。こうした今浅右衛門は、どこの部隊にも一人や二人は居る」とか、曲ることはあるが、「二千振近いものの中に、折れは一振も見なかった」とか、日中戦争では器械化戦とはいえ「他面一騎打の原始戦が盛んに行われ・・・斯く大量的に、しかも異国に於て日本刀の威力を発揮した記録は、全く前例のない事」のような記述である。 成瀬は、さらに具体例として無銘古刀の修理にやってきた時目少尉から「南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかった」が、多くは後から追いすがって断ったもので、ランニング選手だった賜物という感想も聞いた。 この少尉は中学校で剣道をやっただけというので成瀬が驚きの目をみはると、「いや、もっとえらいのがいる。それ、新聞にも出たろう。アノ百人斬りの先生は会社員で、重いものは算盤一挺という人間だよ」と、向井少尉らしき人物が引き合いに出されている。 また『ペンの陰謀』に寄稿した鵜野晋太郎少尉は、捕虜十人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を書き、「人斬りが面白くなり、同期生を見ても"いい首をしているなあ"と思うようになった」と告白した。鵜野によれば、「百人斬り競争」とは「据え物断り競争」のことだという。 白兵戦の機会はほとんどなかったはずだとか、一刀で何人も斬る前に日本刀が破損するはずといった臆断は必ずしも当らないことが知れる。 (『政経研究』2006年2月 P96-P97) |
(2004.6.20記 2006.6.7資料追加、2007.6.17資料追加 2009.12.13秦郁彦氏見解を追記)
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