
| 鈴木卓四郎「憲兵下士官」より |
著者鈴木卓四郎氏は、大正8年(1919年)生れ。昭和15年(1940年)憲兵上等兵となり、南支那派遣軍に転属となりました。それから終戦までの間、主として海南島で憲兵業務に携わりました。
敗戦後筆者は「戦犯容疑者」として勾留されましたが、結局は不起訴釈放となり、昭和22年6月、復員しています。
1974年、氏は新人物往来社より、当時の回想録を出版しました。数々の興味深いエピソードが登場しますが、その中から5つを選び、以下、紹介していきます。
最初は、昭和15年の南寧撤退時のエピソードです。「防諜上の見地から」留置場に収容していた「女子供を含む百名以上」の「留置人」に対して、軍より、「防諜上処刑すべきである」との命令が出されました。結果としては、現場将校の命令拒否により全員助命されましたが、日本軍撤退時には、このような乱暴な命令が出されることもあったようです。
| 転進作戦 三好少佐以下の主力が、再び南寧に帰って来たのは(「ゆう」注 昭和十五年)十月の初句であった。既に次期作戦の準備は始まっていた。日本軍の海路より進駐した西村支隊と西原監視団の駐留によって、中国側はさらに奥地の昆明ルートを開いたため、広西公路を押える南寧占領の意気は失われた。(P28) 次期作戦とは南寧から撤退する作戦であった。作戦の名称は、南寧転進作戦というが、明らかに撤退作戦であった。だが軍の撤収は進攻以上の困難がともなうものである。(P28-P29) 作戦X日(二十二軍司令部が南寧を出発する日)は十月三十日と決定された。我々は軍司令部と共に出発するものと思っていた。 だが、全く予想もせざる問題が起った。それは五十余名を超える留置人と、在留邦人が使用していた現地人の処置であった。邦人引揚げの際は、防諜上の見地から一応保護の名目で留置場に収容していた。その数は女子供を含む百名以上にも達していた。 軍としては、防諜上、処刑すべきであるとの方針だった。だが此の命令を拒否したのは三好隊長であった。たとえ敵性住民として捕われたものであっても、犯罪事実の明確でないものを処刑することは、国際法に違反することではあるし、ましてや、軍または在留邦人に協力してきた善良なる中国人を処刑することは許されるべきではない。 それのみか、敵側は我が方に収容されている人員が如何なる処置をうけるのか監視しているものと見なければならない。かりにも処刑の如き強硬手段に訴えた場合は、無益な刺激を与えるのみか、撤退作戦其のものが至難となり、犠牲が多くなると思わねばならない。 三好少佐の正論に押えられ、二十二軍の参謀部は其の処置を憲兵隊に一任した。但し、X日プラス三日、即ち十一月二日〇時、後衛尖兵大隊が市内を撤収するまで、此の百五十余人を監視し釈放せざることを条件とした。此の軍から附された条件の下に、三好少佐は百五十余人の留置人を最後まで監視すべきものの人選をした。川北曹長を長とし、下士官以下五名、補助憲兵五名、計十名の川北隊と名乗る監視隊が出来た。幸か不幸か私も其の一員として加わることになった。(P29) |
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処刑者 |
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警備の弱体化 |
| 左遷 警務主任の井徳軍曹から、留置場整理係をやるようにとの命令を受けたのは、正月気分のようやくとれた一月中旬であった。資料として渡された部厚い留置人名簿を手にした時は、背に刃を刺されたような気に襲われた。(P101-P102) 憲兵隊には必ず留置場というものがあった。其の規模は、其の分隊の編成によって、多少の差はあったが、二十名から五十名程度を収容するものが普通であった。もっとも南支で一番大きい中央分隊などは、二百名以上も収容できる刑務所のような大きなものもあった。当時の江門分隊には、二十名収容のものが二つと、独房と日本人専用のものと五十名位の設備があって、常に二、三十名位は収容していた。 収監するものは、原則として現地中国人の軍に対する反逆行為・軍用物の破壊工作・謀報謀略等、要するに軍の存立に不利な行動をする敵側の潜入分子、または敵性住民であった。それが検挙責任者の転属とか、長期出張とかで取調べもせず、未解決のまま、一ヶ月も二ヶ月も留置されているのも珍らしくなかった。 此の忘れられた留置人を取調べ、釈放すべきもの、中国側に移送すべきもの、或いは厳重処分にすべきものとに分け、整理するのが留置場整理係(正式職名はなく、我々は俗にそう呼んでいた)の本来の任務であった。 だが問題は其の陰にあった。分隊の功績成果をあげるため、或いは憲兵個人の名誉のために、本来ならば当然釈放されるべきものに、適当な罪名を付けて厳重処分を申請するのであった。其の適当な留置人を選び、適当な罪名を付けるのが整理係である取調官の本来の任務以上の任務であった。(P102) 好奇心とか、功名心にかられて、進んで此の任務に就くものもいたが、無実の囚人に死刑の判決文を起草するような、此の仕事を良識のあるものは殆んど敬遠したものであった。私も以前に命令があったが、なんとか理屈をつけて体よく逃げた。 だが今度は観念した。河本伍長の忠告にもかかわらず、井徳主任とは着任早々から感情がうまくいかなかった。彼は二、三ヶ月前内地から増員され、まだ内地憲兵気分がとれていなかった。中野の憲兵学校の三期生という意識が強く、「内地では」「憲兵学校では」と、ロに上らせて優越感を誇っていた。 "二期の差があっても、俺だって軍曹であり、五期生だぞ。昨日や今日外地に来て、何がわかるものか"と、多少の軽侮していたのが、彼の勘にさわったらしく、ことごとに意見が対立した。嫌な任務ではあったが、避けられぬ関門であり、一度や二度は必ず通らねばならない任務と覚悟はしていたものの、井徳主任の職務を笠に着た高圧的な命令に強い反発心が湧いた。 "やりますよ。だがお前の功績を上げるため無実の住民の犠牲は許さないぞ"と、決心して、取調補助の河井伍長と警戒兵の補助憲兵、通訳に対して、公正なる取調べをするため、 ○拷問は絶対やらない ○検挙責任者の居ないものは直ちに釈放 ○日本軍に関係のない犯罪者は中国側に移送 ○証拠のないものは保留として、今一度証拠を集め、再び取調べをすること 以上のことを指示して、一人でも多く釈放し厳重処分者は一名でも少なくするようにした。 軍法会議、軍律会議に送致するものとは違って、取調べは簡単なものであった。形式的な聴取書をとり、取調官の意見を附して隊長に提出し、其の許可を得ればよいのであった。(P103) しかし、簡単といっても、三十余人の取調べは一日や二日で出来るものではなかった。漸く書類をまとめ、井徳主任に提出したのは一週間以上も経ってからだった。(P103-P104) 最後まで目を通した井徳軍曹の声は怒りにふるえていた。 「鈴木軍曹、これでは全員釈放ではないか」 彼の爆弾を予想していたので、別段驚かなかった。 「そうです。厳重処分予定者の者から罪状の明確なもの四人だけ申請することにしました。保留再取調のものが五入居りましたが、犯罪事実が明確でなかったから、中国側に移送するのが適当と思います。」 「厳重処分者は、たった四人か。今月は十八年の最初の月として少なくとも十人は予定していた。それが四人では話にならん。保留者五人全部厳重処分者として隊本部に申請せよ。」 余りの暴論にいささか興奮した私は、「井徳軍曹殿、無実の住民を犠牲にしてまでも功績をあげなければなりませんか。私は、そんな馬鹿なことはできません」と不謹慎な言葉を吐いてしまった。 「鈴木、馬鹿とは何か。それが上官に対する言葉か」と私以上に興奮した彼の、柔道三段の右手が左のほおにとんできた。 不意の暴力によろめく身体を漸くささえて、「上官である井徳軍曹殿を馬鹿と言ったのではありません。裏付ける証拠もなければ、自白もないものを、ただ一回の取調べで極刑にすることが馬鹿なことだと言っただけです。憲兵拝命して四年、初めて私的制裁を受けました。それが職務上の意見の相違からとは心外です。私の取調べ方法に不満でしたら、他のものと交代させて下さい。」 敬礼も会釈もせず、井徳軍曹に背を向けて事務室を出ようとした。(P104) 「鈴木、貴様は上官を侮辱する気か」と、荒々しい言葉と共に追いかけてきて、再び暴力を振おうとした。 「鈴木軍曹、言葉を慎しめ。井徳軍曹も暴力を振うのはやめよ。」 低いが、貫録というか、ドスのきいた特高主任の富樫曹長の声でさわぎは漸く納まった。 当然とはいえ、私の言葉が問題となった。同列同級とはいえ、命令権のある主任者に穏当でない言葉を吐いたことであった。しかしそれよりも大きな問題となったのは、鈴木軍曹を井徳軍曹の下に勤務させておいた場合、今後如何なることが起るやも知れないということであった。 私に対する処分は、其れから二、三日後の日日命令となって出た。 陸軍憲兵軍曹鈴木卓四郎 右の者、二月一日付を以って、中山憲兵分遣隊附を命ず。依って最近の便船を以って中山市に至り分遣隊長の指揮に入るべし。 現代流にいえば、本店の営業課次席から、支店の営業課次席に格下げ、左遷されたようなものであった。でも私としては意外に軽い処分であった。場合によっては、一週間位の重謹慎は覚悟していたが、単なる異動で済んだのは、外地に来て日の浅い井徳軍曹の"軍令憲兵なにものぞ 勅令憲兵の腕を見せてやるぞ"と気負って、功をあせり、上にも下にも好意がもたれていなかったことが大きな理由であった。(P105) 私に代って特高係の某軍曹の再取調べによって、保留者五名全員が厳重処分予定者として申請された。公正な取調べを望んだ私の完全なる敗北であった。だが、即時釈放、中国側移送は全員認められたのは、僅かながら慰めになった。(P105-P106) |
| 抗議 事件が起ったのは、曹長に進級する直前だったから二十年の一月の末か、二月の初めであった。事件の二、三日前、警務係で県政府の幹部である「李渉外課長」を逮捕し取調べ中であると警務主任から特高主任に連絡があった。 対中国人関係は主として特高で取扱っていたし、特に中国機関に対しては慎重を期して、たとえ職員の行動に多少の疑惑があっても、逮捕、監禁などの強硬手段は避けていた。それにもかかわらず、事もあろうに渉外関係を一手に握る李課長を逮捕したことについては、特高職員としては大きな不満があった。しかし、警務主任が班長の須賀准尉(中村隊長は本部に長期出張)の許可を得ての逮捕だから文句のつけようがなかった。 朝礼が終った九時頃、軍服を特務服に着替え、勤務に出ようとして留置場の隣にある取調室の前を通った。其の時、取調室の中から大きな怒号の声が聞えてきた。「随分早くからやっているな。誰だろう」と軽い気分で中をのぞいた。(P195) 私はその場を見た瞬間、「はっ」とした。我々が心配している李渉外課長の取調べを楢原伍長がやっているではないか。李課長は、乱れきった髪をふるわせて、怒りに燃える手で床をたたきながら、怒号のような声で抗弁していた。上流階級のみに許される羊皮の長衣は破れ、過酷な取調べを物語る紫色にはれあがった傷の下からは、卑しからぬ顔がありありとのぞかれた。(P195-P196) 「楢原どうした、止めんか」 倒れるようにうずくまっている李課長を抱き起して椅子に坐らせた。 「警務主任、班長の命令で取調べをやっているのです。関係のないものは文句を言わないで下さい」 「何に、関係がない、文句を言うなとは何事だ。遊匪や土匪ではないぞ。いやしくも県政府の高官ではないか。こんなひどい取調べをする奴があるか」 「これがひどい取調べですか。満州では、此のくらいは取調べの部類には入まりせんよ」と私の意見を容れようとしないのみか、更に拷問の「死の十字架」(拷問中の拷問で遊土匪の取調べ以外には禁止されていた)の準備を始めようとした。 「ここは満州ではない。南支那だぞ。警務主任には俺から話しておくから、此れ以上の拷問をやっては駄目だ」と強く念を押したが返事はなかった。 事務室に来たが警務主任がいなかった。若い伍長にすぐ探して来るように命ずると共に、須賀准尉に速やかに楢原伍長の取調べを中止するように要請した。しかし、須賀准尉は「警務主任の金城曹長がやらせているのだから、心配することはないだろう」と軍曹のくせに、生意気なことを言うなとばかりの言い方であった。 「此の無能准尉、問題が起きたって俺は知らぬぞ」と口の中でつぶやきながら、自分の机に坐った。(P196) 私の予想は三十分後に起った。あわただしく入ってきた楢原伍長の顔は真蒼であった。 「取調べ中の李課長が今死にました」と班長に報告する声はふるえ、とぎれがちであった。 事の重大さを知ったのか、須賀准尉も顔色を変えて立ち上った。特高席の我々も一せいに立ち上って楢原をとりまいた。 「金城はどうした、金城曹長はどうしたのだ。まだ連絡がとれないのか」と、部下に命令する須賀准尉の声も興奮にふるえていた。 「死んだのではないだろう。楢原、お前が殺したのだ。此の馬鹿野郎が」と、大きな声で皮肉った。 悄然として首をたれる彼の姿にはつい三十分まえまでのような傲慢な態度は一つもみられなかった。 「楢原伍長、大変なことになったな。責任はとってもらうぞ」 無責任な須賀准尉の言葉に、むらむらと反抗心がおきてきた。 「班長殿、直接責任は確かに楢原伍長にあるけれど、其の大部分は班長殿にあると思います」 「何に、班長の俺に責任があるというのか」 「そうですよ。今から三十分前、此のような事故が起るから、取調べを中止して下さるように報告したのではありませんか。それを今更知らなかったとは、余りにも無責任ではありませんか」 事故による興奮よりも、一軍曹である私の言葉に度を失った班長は、 「鈴木、貴様は上官に向って」 すっくと立ち上って、握りしめた右手で机を強くたたいた。(P197) 「鈴木軍曹、言葉を慎しめよ」特高主任の富樫曹長の声に己を取り戻して、「どうも済みませんでした。興奮していたものですから」と軽く頭を下げて、あやまりながらも、責任をのがれようとする須賀准尉に対する不満を押えることが出来なかった。(P197-P198) 李課長の死体は、取調べ室から南向きの廊下に移されていた。手首、足首は紫色にはれあがり、麻なわで強く縛りつけられた跡が歴然としていた。更に顔から上半身にかけて、水につかったようにぬれているのは、「死の十字架」の拷問死によることを物語っていた。 あれ程注意し、強く中止を命じたのに、敢てやったのは、私に対する意地からでなかったか。私としても以前からの悪感情がなかったら、たとえ警務、特高の系統的差があっても、中止させることが出来たであったろう。なぜあの時班長に対してもっと強く中止を要請しなかったのか、とはげしい後悔の念が湧いて来た。 李課長の獄死は予想以上の反響をまねいた。敵地区発行の新聞はもとより、和平地区の新聞も一斉に、憲兵隊の処置を不満として連日のように攻撃した。 更に省政府の強い抗議を受けた軍司令部からは、真相究明のため調査員が派遣された。出張中の中村中尉は二度と江門市に帰って来なかったし、中心人物の楢原伍長は、広東の隊本部に召喚されたまま、我々の前には再び姿を現わさなかった。当時の責任者であった須賀准尉は三月一日附で予備役となり、内地に帰還した。 事件は一応解決したかのように見えたが、政府機関や和平軍の日本軍に対する不信感は、此の事件を契機として、新会県のみならず南支軍占領全域に拡がった。和平機関職員の敵地への逃亡或いは和平派軍の集団逃亡等の数は、二倍或いは三倍となった。心ない下級下士官の愚にもつかない感情のもつれから、二重三重の事件をひきおこし軍の占領政策に背いたことを今更ながら悔やまれてならない。(P198) |
その他にも、アヘン汚染の実態、中国側によるテロ事件、台湾人の石緑鉱山への強制連行など、興味深いエピソードが随所に登場します。当時の「普通の戦地憲兵」の実態を知る上で、貴重な記録であると言えるでしょう。
最後に、表紙扉の「筆者のことば」を紹介します。
| 著者のことば 昭和十三年から二十二年までの十年間は、私の人生の一部分ではあるが、ある意味においては大部分かもしれない。 戦後、幾多の戦記が出版され、その中には憲兵を取材とした戦誌もまた少なくない。諜報、謀略に華々しく活躍する姿がえがかれているが、私にはにわかに釈然としないものがあった。 果して、これが憲兵の本領であり、真実の姿であろうか。巡察、取締、あるいは情報収集等、軍の蔭にあって、地道に歩んだ憲兵こそ大部分でなかったろうか。 平凡な一下士官として、当時を回想し、真実の一端でも、世の中の人に理解していただければと、この一文をまとめたしだいいです。内容は粗雑きわまるものですが、偽りも、誇張もなく、あくまでも事実そのままを伝えようとだけ努力いたしました。 |
(2008.7.6.)
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