
| 資料:日中戦争における民間人殺害 |
日中戦争では、中国側民間人に多くの被害者が生じました。今となってはその正確な数を知る術もありませんが、数十万−数百万のオーダーであることはほぼ確実であると思われます。
しかし「民間人殺害」に触れた日本側資料は、必ずしも豊富なものではありません。「無辜の民」の殺害を記録に残すことへの抵抗、また証言をはばむ土壌の存在(コンテンツ「なぜ「証言」しないのか」参照)も、おそらくその一因でしょう。
民間人はどのような状況で殺されたのか。それを探る一環として、本コンテンツでは、「民間人殺害」に関する日本側資料を集めてみました。これらの資料をみると、戦争において「民間人」がいかに簡単に殺されてしまうものなのか、あらためて認識させられます。
*「南京事件・敗残兵狩り」「陽高事件」といった集団殺害事件については別コンテンツで取り上げていますので省略しました。また、いわゆる「郷土部隊戦史」ものに登場する事例は別コンテンツにてまとめてありますので、こちらも省略しました。
**本コンテンツは、私の現在の手持ち資料のみで構成したもので、組織的・系統的な調査を行ったものではありません。例えば日中戦争後期の「燼滅作戦」関連資料は、こちらには掲載していません。
<目 次>
| 1 「第十軍法務部陣中日記」 小川関治郎 「ある軍法務官の日記」 2 浦岡偉太郎 「身辺記」 3 塩野雅一 「還って来た軍事郵便」 4 石井清太郎 「いのちの戦記」 5 恵暉雅 「大陸終戦秘話 ああなつかしの広部隊」 6 鈴木二郎 「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」 |
| 1 | 「第十軍法務部 陣中日記」、 小川関治郎『ある軍法務官の日記』 |
まずは、日本側の軍事法廷で裁かれた、明らかな「犯罪」の事例です。
上海−南京戦を戦った第十軍(柳川兵団)には、兵士の軍紀違反行為を取り締まるべく、数名の法務官が「法務部」として従軍していました。
当時法務部が取り扱った事件の記録は、みすず書房『続・現代史資料(6) 軍事警察』所収の「第十軍法務部陣中日誌」、及び小川関治郎『ある軍法務官の日記』に見ることができます。
ただし第十軍に憲兵として従軍していた上砂勝七が「この取締りには容易ならない苦心をしたが、何分数個師団二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは、如何とも方法が無い」「僅かに現行犯で目に余る者を取押える程度」(「憲兵三十一年」)と述べている通り、これは氷山の一角であった、とみられます。
しかしそれでも、ここに登場する数件の事件は、「民間人殺害」の状況を把握する上での貴重な資料になっています。
上海−南京戦に従軍した軍法務官、小川関治郎の日記からです。
| 「小川関治郎陣中日記」より
12月26日 (「ある軍法務官の日記」P129-P130) |
数十名の兵士が部落に乱入し、中国人26人を集団殺害してしまった、という事件です。「第十軍法務部陣中日誌」の該当部分も紹介します。
| 「第十軍法務部陣中日誌」より
被告事件の受理 |
日本側の準公式資料ともいえる「陣中日誌」に、このような「集団殺害」事例が掲載されるのは、大変珍しいことであると思われます。
さらにこの資料には、強姦・略奪目的、あるいは「泥酔」しての殺害など、明らかな「犯罪としての民間人殺害」事例も、何点か収められています。
| 「小川関治郎陣中日記」より
11月25日
11月26日 結局犯人は三人を殺害し三人に重傷を与へ六人の女を略取し或る離れた空家に連れ込み一室に兵一人一人宛入りその上女に酌をさせて散々勝手気侭の事を為し悪さをなしたるものにしてその最中に憲兵に取押さへられたるものにして万一発見せられざれば女六人は殺害せらるるところなるべし |
| 「第十軍法務部陣中日誌」より
12月2日 |
| 「第十軍法務部陣中日誌」より
陣中行事報 第六号 柳川部隊法務部 |
| 「第十軍法務部陣中日誌」より
被告人 第十八師団歩兵第百十四聯隊機関銃隊 |
| 2 | 浦岡偉太郎 『身辺記』 |
戦前の出版物には、当然のことながら、「民間人殺害」などという「皇軍にふさわしくない」行動の記録を見ることはほとんどありません。この浦岡偉太郎『身辺記』は、数少ない例外でしょう。
| 浦岡偉太郎『身辺記』より 少時して此の部落の掃蕩をやつたが、チエツコの逃げ場が判らないので不気味であつた。馬鹿みたいな爺さんが一人居て何か判らん事を言ふ。大隊本部の権と言ふ通訳が怒つて突き殺して了つた。(P33)
|
「爺さん」が何を言ったのかわかりませんが、あるいは、あまり部落を荒すな、と日本軍に抗議したのかもしれません。日本軍は、別に武器をとって抵抗したわけでもない民間人を、いきなり「突き殺して」しまったわけです。
なおこの「身辺記」には、こんなエピソードも登場します。
| 浦岡偉太郎『身辺記』より (昭和十三年)四月二十七日。 (略) 物凄く暑い日で汗を拭ふに遑なく、三四の部落を通過して午後一時過ぎ目指す大橋村に着いたが共匪共は部隊の来襲を知つて既に随徳寺をきめて了つた後であつた。昨夜荒し廻つたのであらう此の部落も、至極和やかな初夏の風にのんびり静まり返つてゐる。 只一人の獲物もなく、聊か拍子抜けの態で村長等の話をきき、茶水の接待を受け、乾パンを食ひ乍ら少時休憩。 終つてから自棄半分の実砲射撃を行ふ。この辺恐らく共産分子でない者は無いと言つて差支へない位ださうである。何処を撃つて、誰に中つても構はないのである。 大隊砲、重機、軽機、擲弾筒をぶつ放す。胸のすく思ひがして帰途につく。(P3)
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部落の中で、盲滅法に大隊砲、機関銃などの「実砲射撃」を行う。危なくて仕方がない光景ですが、このあたりは「共産分子」だらけですので、「何処を撃つて、誰に中つても構はない」のだそうです。住民にしてみれば、大変な迷惑でしょう。
| 3 | 塩野雅一 『還って来た軍事郵便』 |
塩野氏は、第十六師団野砲兵第二十二連隊所属。昭和十二年八月に召集を受け、上海−南京戦などに従軍。従軍中の功績により、勲七等金鵄勲章を受けています。戦後は材木商の会社を立ち上げ、地元有力協同組合の理事長を務めるなど、地元の名士であったようです。
あとがきには「素人の私がたどたどしく綴った拙文ではあるけれど、徹頭徹尾まぎれもない真実の羅列であり、一言一句のフィクションも含まれていない」と書かれています。
| 塩野雅一『還って来た軍事郵便』より
如何に戦争とはいえ、いかに戦死した戦友の復讐とはいえ、これが果して人間のすることだろうか。私は怒りにうちふるえてとても正視し得なかった。 敵兵ならまだしも、戦争に何のかかわりもない無心の幼児ではないか。日本軍の兵士のなかには、こんな非道な、鬼のような奴がいたのである。部隊は街を出はずれた処で夜営をしたが、あの惨虐極まる情景が頭にこびりついて寝付かれなかった。いま、よく新聞なんかに掲載されている中国旅行ツアーの募集広告を見て、そこに「無錫」という活字が目につくと、すぐこのことを思い出してしまうのである。 無錫から常州へ、そして丹陽へと日本軍は怒涛の如き快進撃をつづけたのであるが、その快進撃の裏には、まだまだ残虐非道の蛮行がその跡を断たなかった。 常熱から無錫、常州、丹陽と進撃して行くその街々には敗残兵の遺棄死体に混って、現住民男女の死体が散乱していた。その死体のなかの女性たちは下半身を裸にされて、こともあろうか、その局部に棒ぎれや竹筒が突込んであるのを私は馬上から、この眼で数回も見た。 全く目を覆いたくなるような、非人道的な惨状である。いくら戦争だからといっても、いくら戦死した戦友の弔い合戦だからといっても、これは許されない。言語同断の蛮行であり、鬼畜にも劣る残虐行為である。(P53-P54) |
これは、石川達三が取材したのと同じ、「第十六師団」の事例です。直接の「目撃」であるだけに、信憑性の高い事例である、と言えるでしょう。
| 4 | 石井清太郎『いのちの戦記』 |
石井清太郎『いのちの戦記』より 上海の敵が敗走を始めて、降る雨の中に追う者も追われる者もあごを出した数日である。 嘉定は十三日に落ちた。翌日霧深い朝、新しい服を着た部隊があらわれて駈けぬけるように前線へ出て行った。交替部隊がきてくれて我々は炊事する時間が与えられた。陣地にある間は、敵と僅かの距離に対峠して居て炊事どころでない。後方から命がけで運んでくれる握飯が頼りであった。敵が後方撹乱に出ると運んでもらえないので何も食べないで戦った。 それは集団難民が無惨な末路をとげているのを見てしまった事である。老人婦女子ばかりで射ち合いの中に迷いこみ、挟撃されたものなら、戦場の事とて諦めることも出来たが、残忍極まる殺戮なのに愕然としたのは私だけではない。貧しくて遠く避難することもならず残っていたであろう無辜の民衆である。何ということを…。 |
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兵にあるまじき感情を抱いて歩いていて、足もとに注意が足りなかったためか何かにつまずいた。死体だ。その死体は兵ではない。青衣を着た男の人で素足であった。脇腹を刺されている。これはあきらかに仲間の仕業だ。それにしてもなぜ、昨日は、難民の集団を老若を問わず婦女子までも刺殺してあった。 私が旅団警備の任にあった時、閣下が、住民にはなるべく非情は避けたいと言われた。その事を戦友に伝えて、残虐な事はやらぬと誓い合っていたわれらである。旅団長は、沼田徳重陸軍少将であった。 歩いている処はどこなのか兵にはわからない。何時死ぬかわからぬ兵にはどこでもかまわぬという気持がある。昨日前に出た部隊が遭遇した敵とのいくさは止んで、静かな朝であった。平坦な水田地帯をぬけて、起伏のある、丈高い枯草の中に曲りくねった道であった。 また死体が、三人目だ。そこから暫らく歩いて、とんとんと下って登りになる道のまんなかに、こんどは婦女の死体を曝してあった。私は目を閉じて通りすぎた。泣くに泣けない思いである。皇軍だなどと言うてこのざまが、糞喰えと思った。そして、このような残虐なことを止めようともせぬ指揮者のどてっばらに風穴をあけてやりたい思いであった。(P30-P31) |
第十三師団については、石井氏の所属部隊ではありませんが、十一月二十四日、荻州師団長が麾下の第百四連隊長を「この兵の有様は何事だ、火つけ、どろぼう、人殺し、勝手しほうだい、この荻洲は仙台以来、お前を見そこなったぞ。お前は南京に行かれんぞ」と叱りつけた、という記録が残っています。(「歩一〇四物語」)
さらに石井氏は、「若い女」を捕えて撃ち殺し、クリークに突き落した、という「目撃」事例を記録しています。
| 石井清太郎『いのちの戦記』より
汽車が通れないので駅に列車がとまっていて中に動けない傷病兵と多数の看護婦がいた。嫌な処を占領したとその時思ったが間もなく移動したので列車にとり残されていた彼らがどうなったかはわからない。 マラリヤなどという病気は始めのうちは隔日に寒けがして発熱する程度であったが、戦争の激しさと、追撃戦になってから糧秣を貰えなくてろくな物を食べていないので体力的にもすっかり参ったらしく、師走に這入ってから毎日発熱するばかりか、一日に二回も三回もくり返す有様でげっそり窶れ果てていた。(P47) その日も朝から例の高熱である。衛生兵が心配してくれてそばを離れずにいる。そこへまた一隊の兵が来て草場に腰を下した。私達のすぐ近くである。眼を開けて見るともなくおぼろな眼をむけると、兵が一人鉄甲を脱いで汗を拭いているのが見えた。鉄甲を脱ぐなど不用意なと思いながら良く見ると髭をたくわえている。(P47-P48) 「あいつだ」彼のは他の兵と異なり無精髭でないから一目でわかる。高熱に喘いでいる私が咄嵯に思いだしたことは、私がマラリヤに罹る前のことである。 私はあきれ果てたが託された兵であれば無関心ではいられなく、その非を説いて放してやるように説得せざるを得なかった。私に強く言われた時の彼の態度は素直そうに見えたし肯づきもした。(P48-P49) その場で放させれば良いものを、連れてゆく後姿を不安もなく見送っていた事が私の大きな失敗であった。いくばくもなく銃声が起った。銃の安全装置を外して二人は立ち上った。まさかと思ったが、行ってみると女を射ってクリークに突き落していたのである。 何ということを、無辜の然も震えていた女を射つという冷酷残忍で獰猛な人間であることに私の怒りは燃えた。勿論反抗覚悟で噛みつくばかり詰りよった。その私には例の如く抵抗しなかった。ずる賢い人間とはこんな奴の事だとその時思った。そして心の中でせせら嗤いしているであろうと。 射ってしまったいま、どうにもならない。腹が立って我慢ならなくなった私は同行などとても出来る事でなくなってしまった。「一人で帰れ」 と吐き棄てるようにいい残して連れの兵と共にそこを出た。道路に上ってみるとクリークが赤く女の血汐に染っていた。 目を瞑じていると怯えて震えて居た哀れな女の顔が瞼に浮んだ。相手を疑うことを好まない自分が殺したように思われ悔まれてならなかった。(P49-P50) |
| 5 | 恵暉雅 『大陸終戦秘話 ああなつかしの広部隊』 |
日中戦争末期に第五十八師団に応召した恵暉雅氏は、古参兵からの伝聞ながら、次のような話を書き記しています。
| 恵暉雅『大陸終戦秘話 ああなつかしの広部隊』より 死体といえば、それをわたしたちは至るところで見た。特に道路にころがっていたのはすでにカラカラに干上がって、これがミイラというものかと思ったものである。 *著者略歴・・・1920年奄美大島生まれ。昭和一九年中央大学経済学部在学中に応召、中国にて終戦、二一年六月復員。日本教育新聞、サンケイ新聞記者を経て著述業。 |
「伝聞」ではありますが、これまで見てきた諸例と比べて特に違和感のあるエピソードではなく、十分にありうる話であると考えられます。
「南京事件」の民間人殺害に関する資料は、「南京事件 初歩の初歩」に掲載しましたので、ここでは省略します。ひとつだけ、直接の「民間人殺害」ではありませんが、当時の雰囲気を窺わせる資料を掲載します。
| 鈴木二郎『私はあの"南京の悲劇"を目撃した』
「丸」 1971年11月号 当時毎日新聞社会部・陸軍報道班員
この目でみた"殺人鬼”の顔 まもなく三十四年目の"南京陥落"、そして東京陥落への一里塚ともなったなんともやりきれない思い出の、消え去らぬ『南京虐殺』の一大汚点の日がやってくる。 わたしは、十一月九日(十二年)竜華の戦の報道を初陣として、江南の冬の広野の戦火を越えて、およそ一ヵ月目に南京城にはいり、十二月十七日の入城式を見ずに、同城を出発して上海へ帰着した。そして、べつの作戦従軍のため、軍用船に乗ることになるが、城内四日間の駆けめぐり取材に、はからずもこの目で"戦勝軍団"の暴虐の行為を目撃することとなった。 しかも、城内いりしたうす曇りの十二日の昼さがり、あやうく残敵掃討の四人の日本兵に突き殺されそうになった。 そのとき、わたしは先輩記者の福島武四郎(寿克、現下野新聞社長)と二人だった。 "死"からまぬがれたとき二人は”オレたちを殺す人間の顔をみた。戦場とはいえ、こんな経験者はほかにあるまい”と語り合ったものである。 二人が社旗を持って、中山門内の中山路を歩き、後続の自社記者団の仮りの本部(宿舎)をさがそうと歩くうち、右手にりっぱな建物があり、『功志社』とあった。 この建物が国府にとって、政治、外交のビルであり、迎賓館であったことはあとで知ったが、とうじ、この建物の周囲には、まだ、抵抗する敗残兵が乱発する迫撃砲弾が落下し、数百メートルさきには、日本軍飛行機の爆弾が炸裂しており、われわれにはきわめて危険な状況であった。そんな状況から二人はあわててその建物に飛び込んだ。 一階の広間とみられるそこは、ガランとして椅子、テーブルなどが散乱し、片すみに、丸い大きなテーブル、体もうまるりっぱなソファーがあり、よごれてはいたがそのたたずまいは、かつての豪華さをしのぶに十分だった。 汗とアカ、ドロまみれの従軍服をまとい、クタビれたヒゲ面の二人は、内庭に落ちる砲弾におびえながらも、ホッとして、 『とにかくひとやすみしよう。そしてここをわれわれの前線本部にしよう』 と、これも醤油でしぼったように赤ちゃけた手ぬぐいで頬かぶりをして"将軍気取り"で二つのデッカイソファーにグッタリと身を沈め、ウトウトしていた。よそ目には、避難のうらぶれた農民とみられてもしかたのない風態だった。 突然、入口の大きな扉が、ドドッと開いたと思うと、血相をかえた四人の日本兵が、のめるように飛びこんできた。一人が指揮官らしく抜刀し、三人は銃剣を小脇にしていた。 二人は、物音にハッとして頬かぶりのまま、瞬間立ち上がったが、日本兵と知って、ニヤリとし、気持によゆうもできて、なにかことばをかけようとした。 そのときとつぜん抜刀の兵が、われわれを鋭くにらみ、大声を発した。 ”突けッ! 突けッ!” たがいの距離は十メートルほどであったため、二人は飛び上がった。 三人の兵は目を血走らせ、どうじに銃剣をしごいた。その銃剣が、二度、三度としごかれるとみるまに、ゴボー剣が二度、三度とわれらの胸先きで鋭く光った。 二人はさらに飛び上がり、本能的に頬かぶりをパッととり、あとずさりしながら両手をあげて絶叫した。 『日本人だッ! 日本人だッ!』 相手もビックリして、銃剣のしごきをやめて、ジッとすごい目でにらんでいたが・・・。 ガランとした部屋のなかを、上ずった声で、 『ほかに誰もおらんのか?』 といって去ったが、残敵掃討、家宅捜索の日本兵も必死の形相で、われらを突かんとするときの顔は、"殺人鬼の顔"というものだったろう。(P97) 土気色のヒゲ面は引きつり、奥の目は異様に光り、飛びかかるシェパードのすさまじい殺意があった。ぎゃくに彼らは死の恐怖におののく死相を、われらから感じたかどうか。われらは軍服ではない。その見さかいもなく、刺殺しようとした兵たちだった。(P97-P98) その夜、南京城内外各所に、"戦勝"のカガリ火が暗黒の空をこがし、そのカガリ日のたけり狂うように、すでに『虐殺』の火の手があがっていたようだ。(P98) |
もし二人が日本語で叫ばなければ、間違いなくそのまま殺されていたでしょう。怪しければとりあえず殺してしまえ。当時の日本軍にそんなムードが蔓延していたことがわかります。
(2008.9.6)
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