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平頂山事件 ー中国人住民の無差別虐殺― |
満州事変一周年を間近に控えた1932年9月16日、撫順炭鉱附近の「平頂山村」において、日本軍による中国人住民無差別殺害が行なわれました。
「南京事件」などと異なり、この事件をめぐっては、「事実関係」についての議論はほとんどありません。議論となっているのは、「殺害人数」、あとは「上官の川上大尉は事件に関与していたか」程度の、どちらかといえば副次的な論点です。
「殺害人数」については、中国側は「三千人」を主張しています。一方、右派の論客田辺敏雄氏は「四百−八百人」説を主張しています。日本側のメディアでは、概ね「両論併記」で記述されることが多いようです。
以下、事件の経緯を追っていきましょう。
この事件のきっかけとなったのは、「匪賊」による、撫順炭砿への襲撃でした。ここでは「匪賊」と書きましたが、これは日本側から見た呼称(蔑称)であり、実態としては、日本の満洲支配に抵抗する「抗日反満ゲリラ」と呼んだ方が妥当でしょうか。
当時の満鉄関係者であった、久野健太郎氏の回想を見ましょう。
| 久野健太郎氏「 朔風挑戦三十年」より
炭砿の全山が一斉放火による騒動が勃発したのである。匪族(紅槍会の略称)は中秋節の前夜、楊柏堡の部落に泊り込み、放火に必要な準備に万全を期するわけであるが、これには彼等が宿泊した工人宿舎の者達が、採炭現場より着火材料と最適の塊炭を多数用意、これを職場より持ち帰った、掃除用ポロ布に包み電線で緊縛したものを多数用意した。 炭砿は選炭場を失えば命脈は止ったも同然である。果して其の被害は甚大だった。その影響するところ想像に絶するもので、当時の 楊柏堡採炭所長だった、渡辺寛一氏(東大電気出身)は現場事務所に急行中、匪賊に惨殺された。 其の近くの日本人社宅への襲撃の報に備えて、夫々万全の警戒の人達の中で、電気のエキスパート瀧氏が痛しい犠牲者となったことも、実に恐しく且悲しい出来事だった。 (P53〜P54)
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当時の新聞には、このように報道されました。
| 満洲日報 昭和七年九月十七日
満鉄社員六名死傷す
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*ネットでは、時折、この「襲撃事件」をもって「平頂山事件」を正当化しようとする暴論を見かけます。しかし、4名ないし5人の死者発生に対する「報復」として、少なくとも数百人以上の民間人を無差別に殺害することが「正当化」できるかどうか、議論するまでもないでしょう。しかも「殺害対象」は、直接に「襲撃」に参加したわけでもない、せいぜい「ひょっとしたらゲリラに協力していたのかもしれない」程度の、部落の住民に対してのものなのです。なおこのような無茶な論は、少なくともまともな論壇で聞かれることはありません。
余談になりますが、往年の大女優「李香蘭」(山口淑子)も少女期をこの地で過ごしており、この「襲撃事件」について記述を遺しています。
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山口淑子『李香蘭 私の半生』より 真夜中にゆり起こされ、眠い目をこすりベッドに身を起こすと、母の蒼ざめた顔がのぞきこんでいて、父は身支度をととのえて出かけるところだった。真夜中だというのに外がざわついている。車が行きかい、人の呼ぶ声がする。「大変なことになるかもしれないの。キチンと仕度をして起きているんですよ。どんなことがあってもお母さんから離れるんじゃありませんよ」 私は撫順女学校一年生に進学していて十二歳だった。弟と妹が四人いたが、まだ小さい。「淑子はお姉さんだから、しっかりするんだよ」と父は言いのこしてそそくさと出ていったが、どのようにしっかりしてよいかわからない。何が起きたのか、母に聞いてもいっこうに要領を得ない。「お使いがきてお父さんは満鉄の事務所へいらっしゃったのよ」と言うだけでくわしい説明はしてくれなかった。 母は、ヒナ鳥を抱擁する親鳥のように弟や妹たちを束にして抱きかかえ、まんじりともしない様子だったが、しばらくして私だけに、そっと窓のほうを指さしてみせた。 おそるおそる窓辺にしのびより、音をたてないように気をつけながら、雨戸を細めにあけてみた。隙間に眼を押しつけてみると、夜空が真赤に染まっていた。 建物の屋根が、そしてポプラ並木が影絵のシルエットのように黒く浮かびあがっていたが、その背景はえんえんと燃えさかる紅蓮の海である。火の舌先が遠い夜の空をなめまわすかのようだ。火事だ! と思ったが言葉にならず、夏だというのに歯の根があわず震えがとまらない。 幼な心にも、火の方角が、露天掘りの採炭場であることはわかったが、単なる火災事故ではない。ただの火事なら、そんなに近くでもないのだから、母がこんなに血相をかえるはずはない。しかも、街なかには煌々と電灯がつき、騒然とした雰囲気である。 母子六人が抱きあっているうちに、火の手は次第におさまっていった。はげしかった火勢も色あせて暁の気配の中に吸いこまれていこうとしている。身ぢかには何ごとも起こらないままに夜が明けようとしていた。 (P29〜P30) |
この地を警備する日本軍の側から見れば、痛恨の事件であったことは疑いありません。翌日には、捕えた「匪賊」、あるいはそれと疑わしき者を処刑する光景が目撃されています。
| 田辺敏雄氏『追跡 平頂山事件』より
一夜明けても興奮は収まらず、炭鉱員は皆いきり立っていた。三上安美氏は早朝、他の数人と近くの村に行き、腹いせに鶏めがけてピストルを撃ったという。途中、不審な現地人を数人、殺害する炭鉱員を目撃している。この遺体は放置したままだったが、翌日 (?) 炭鉱の指示により埋めたという。 (P218) |
こちらは「殺害」にまでは至らなかったようですが、先の李香蘭も、こんな光景を目撃しています。
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山口淑子『李香蘭 私の半生』より 窓を開けると周囲がにわかに騒々しくなり、おおぜいの男たちが声高に話しながら入ってきた。一行は憲兵と私服の日本人だった。その先頭に眼かくしをされ、うしろ手に縛りあげられた中年の中国人が、縄尻をとった憲兵にこづかれ、ヨロヨロと歩いていた。 中国人はその服装から苦力頭の感じだった。苦力とは中国人の下層労働者のことである。 一行は苦力頭を広場の真中にある大きな松の木に縛りつけ、眼かくしをとった。中国人の顔は私のほうをむいている。私は、窓からおそるおそる異様な光景を見守っていたのだが、その縛られた人の眼が私を見ているような気がしてならなかった。周囲に中国人、日本人がどんどんふえてきた。 やがて鉄砲を持った憲兵が、大声で何かを問いただしはじめた。どなっているのはわかるが、その内容ははっきりしない。 苦力頭は唇をかみしめて土気色の顔をそむけたまま、一言も答えようとしない。憲兵は、さらに大きな声でひとしきりわめいたが、やはり口を聞かない。憲兵の声はますます荒くなる。が、視線をそらしたまま、返事をしない。 アッというまもなかった。憲兵は手にした鉄砲を逆さに持ちかえると、その台尻で中国人の額を力まかせに殴っていた。私が思わず眼をつむったときには、もう殴り終わっていて、鉄砲が空間に描く大きな弧の残像だけが瞼に焼きついていた。つぎの瞬間、うなだれた姿勢の男の額からおびただしい血が胸をつたって流れた。 苦力頭は、松の木に縛りつけられたまま体が崩れおち、その後は動かなかった。あの一撃で気絶したようだつた。 静まりかえっていた群衆にざわめきがもどってきて人垣の輪が松の木にまた集まった。と、男の姿はかき消されるように見えなくなった。まるでその人の波が拉致してしまったかのように―。その人の輪が、縦に、横に、伸び縮みしながら、ガヤガヤと去っていったとき、広場にはもとどおり松の木だけがポツンと立っていた。 いつも見なれた実業協会の広場、朝の低い日ざしが協会の建物の正面にあたり、白壁は白く、さえざえと輝いていた。 私はあっけにとられて、ある種の錯覚に陥ってしまった。あれは悪夢だったんだ。目の前にあるのは、いつも見る朝の景色と同じ平和なたたずまいではないか―。 (P30〜P32) |
さて、すっかり面子を失ってしまった日本軍は、「襲撃」の手引きをした「犯人」探しを始めます。満鉄関係者の手記からです。
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久米庚子氏『平頂山事件とその終末』より
(2)楊柏堡所長の惨死 各採炭所からの避難者は市の公会堂その他に数日間収容され、炭砿の機能は停止した。匪賊としては、撫順の中央突破に成功し大損害を与え、しかも満洲事変一周年を目前に控え、満洲国承認の当日という日に敢行したことは、目的の一部を達成したというものであろう。 一方守備隊はちょうど隊長K大尉が留守で兵力も少なかったという不意を突かれ、留守をあずかるN中尉としては耐えられぬ不覚をとったことは事実であった。同中尉の判断では、撫順内部にスパイがおって匪賊に警備状況が全部通報されていたと断定し、匪賊襲来の足だまりとなった平頂山部落民が最も怪しいと睨んで一個少隊を率いて同部落を調査したところ、前夜の襲撃現場からの盗品が発見され、明かに部落民が匪賊と行動を共にした証拠だとの結論を得た。 (『撫順炭砿終戦の記』 P73〜P74) *「ゆう」注 「K大尉」は「川上大尉」、「N中尉」は「井上中尉」を指します。「川上大尉」が本当に「留守」であったかどうかについては、論争があります。 |
この「手引き」が真実であったかどうかは、今日では確認のしようがありません。ただしこの「手引き」が事実であったとしても、平頂山村の住民無差別殺害の「正当化」の材料にはならないでしょう。
なお、このような「協力」があったとしても、中国人側から見れば「極く当然のことであった」とする見方も存在します。
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小林実氏『リポート「撫順」1932』より 襲撃中の混乱にまぎれ、メリケン粉等の生活物資を会社倉庫から、ちょっと失敬、した村民もあったことは、事実であったようだ。だが、記録からも証言からも、避難でからっぽになった社宅が荒らされた形跡はない。 こうした協力者があったことや、火事場泥棒的行為は、中国人達にとっては、極く当然のことであったが、日本側は、仲間うちからの裏切りと判断した。はっきりいえば、「飼い犬に手を噛まれた」と逆上したようだ。 (P76) |
ともかくも、「平頂山事件」は、このような「協力」への「報復」として発生しました。
田辺敏雄氏の紹介する、現場を体験した兵士の証言を見ましょう。
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田辺敏雄氏『追跡 平頂山事件』より
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この「加害者」である日本軍兵士の証言は、中国側の「被害者」の証言とも、概ねのところで一致します。
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楊占有の証言 ・・・・私は家に帰って、昼食をとろうと思い準備をはじめていた。突然日本兵が現われ「おまえ達の写真を撮るから集まれ」「馬賊が又やって来る。早く避難しろ。」と大声でどなりだした。私は、馬賊と写真が何の関係があるのか、考える暇もなくあわてて飛び出した。何かよくないことが起るような気がしたが隠れようもなかった。 そばにいた、二番目の兄が「みんな行くのだから我々もいこう」と言ったので南の方へ向った。私達一家は兄弟が6人で、その家族を合わせると24人だった。四番目の兄、楊占青だけが留守であった。通りは人々の叫びと流れで大混乱であった。日本兵は、足でけったり、銃床でなぐったりして人々を追いたてていた。 隣家のお婆さんが、てん足で歩くのが遅く、銃剣で突きさされるのがみえた。ふり返ると火を付けられた家もあって、黒煙を上げて燃えだしていた。 「これはいったいどうゆうことなんだ? なぜこのような禍がふりかかって来たんだ?」 と兄に小声でたずねた。兄はただ「分らん」と表情で答えた。 私は悪い予感はしながらも、日本兵が我々に対して集団虐殺をおこなうなんて、夢にも考えなかった。 追いたてられた我々は、日本兵に取り囲まれた。私は、兄弟家族22人と一緒に草地の上にすわった。私の前のあまり遠くない所に、三脚の上に黒い布をかけたものが置いてあった。隣りにすわった人が「あれは写真機だ」と言ったので、ほんとうに写真を撮るのだと思った。 しばらくして、日本兵が写真機の黒い布を取りはらった。 誰かが、金切り声で「大変だ、これは機関銃だぞ。」と叫んだ。 "ダダダダ・・・・" 弾が一斉に飛んで来た。それからは、機銃の音と人間の叫び声とで、大きな爆発でもあったような大混乱になってしまった。 私の妻が最初に倒れた。私も左腕に焼け火箸を刺されたような痛みを感じた。私は、倒れた人の下にもぐり込むようにして、銃弾を避けた。 左腕の傷の痛みは、一層ひどくなった。それよりも苦しかったのは、私が弾よけにした死体から流れ出る血が口といわず、鼻といわず、はいり込み呼吸するのもままならなかったことであった。 家族のものがどうなったのか顧みる余裕はなかった。狂ったような機銃の掃射がつづいていた。機銃の音が止み静かになると、あちらこちらで、うめき声がしだした。しばらくすると日本兵が引き揚げて行くらしい車の音がした。 と 突然生き残ったものが、その場から逃げ出そうとした。しかし、日本兵は引き揚げてはいなかった。又、機銃がうなり出し多くの人が倒れた。再び機銃の音が止んだ時には、誰も動こうとはしなかった。 うめき声がするなかで突然「ギャッー」と叫ぶ者があった。日本兵が死体の上からまだ息のある者を、銃剣や、日本刃で刺し殺し始めたのだ。私はいつ殺されるか分らぬ恐怖と戦いながら、惨劇の終るのをじっと待った。 陽が沈もうとする頃、やっとあたりは静かになった。暗くなると平頂山村が燃え続けているのがよく分った。何時間こうしていたろう。霧雨が降り出した。私は今、その場の情況をどのように説明していいかわからない。 私のそばで2名の女の子が無傷で助かっていた。不思議なことだが、あの混乱のなかでショックのあまり失神していたのが良かったのだろうか。私は一人を抱いて近くの高粱畑まで運び、もどってもう一人を連れ出した。こうして暗閣のなかを、現場から少しずつ離れた。 1ヶ月後、私は家族のうち、姪と甥の一人ずつ助かっているのを知った。又、親戚の越樹林(注 『中国の旅』での証言者の一人)も脱出に成功していた。 この時、逃げることが出来ても途中で死んでしまった者もおり、完全に逃げることが出来たのは30〜40名であったと思う。・・・・ (小林実氏 『「平頂山事件」考』=『中国研究月報』 1985年9月号) |
そして現場指揮官であった井上中尉は、襲撃事件で死去した渡辺氏の遺族のもとに、「ご主人のあだはとりました」との報告を行っていたようです。
| 『平頂山虐殺事件と私の両親』より (略) 九月十五日は日満議定書が調印された日。中国の抗日勢力がこの日に満洲のエネルギー最大の供給源、撫順炭鉱に一撃を加えたのであろう。撫順は一個中隊の守備隊がいるだけだった。 攻撃は守備隊が最も警戒度を低く見ていた炭鉱住宅街の南側楊柏堡を中心に加えられた。ゲリラはこの方面の村に潜入集結し、夜半に行動を開始したと見られる。楊柏堡から日本人居住の市街まで二、三キロしかない。日本側は採炭所周辺居住者は坑内や公会堂に避難させ、青年団員や中学三年生以上を招集して市街地への侵入を阻止した。 小学生だった私はこのとき父寛一を失った。敵襲の中心楊柏堡採炭所長であり同方面の防備隊の司令であったため、深夜の急襲に単身かけつけ匪賊に刺されたのである。三十六カ所の槍傷を受け、火薬庫の前にアンペラの上に寝かされているのが見つかった。この戦闘で満鉄社員三人も戦死、二人負傷。家族も三人死傷している。 守備隊の井上中尉が通夜に来て「ご主人のあだはとりました」と報告した。母と女学生の姉が聞いている。しかしそれがあの平頂山の村民皆殺しだったとは思いもしなかった、と母は言っていた。「あんなむごいことを、あんなことまでしてほしくはなかった」と母が身を縮めて言ったのを覚えている。 戦闘の場にステッキ一本持って出て行った父を殺した敵。しかしウラをかかれて日本人を殺されたからといって非戦闘員の婦女子まで皆殺しにするのは、人間の良心が許さなかったのだ。 その母も七年前に死んだ。証人はなくなってゆく。 (与野市 渡辺槙夫 64 会社役員) (『朝日新聞』1987年8月19日朝刊 第4面 「戦争 テーマ談話室」より) |
さて続いて、「事件」の事後処理、またその影響に話を移します。「事件」直後の「現場」は、こんな感じであったと伝えられます。
| 『リポート「撫順」1932』より 事件後、現場に入った炭砿職員の山下貞は手記にその模様を次のように記している。 |
日本軍の放火により部落は焼き尽くされ、近くの現場には死体が充満している。そして次には、この現場の「死体処理」が問題となります。死体処理に関わった当時の満鉄社員の証言を、ふたつ紹介しましょう。
| 久野健太郎氏「 朔風挑戦三十年」より
この時銃殺された屍体を覆い隠すために、守備隊の命により時の在郷軍人が多数召集され、ショベルを振って土砂による隠蔽作業に黙々と従事せざるを得なかったのが、井上中尉の独断専行による平頂山皆殺し事件の全貌である。 自分は渡辺所長の殉職の現場を知って居り、この土砂による隠蔽作業終了後山頂を取り巻く、高圧鉄条網構築作業の施工責任者の一員だったので、現場の実体を知る者の一人ということが出来る。 (P55)*「ゆう」注 「井上中尉の独断専行」との語が見えますが、「独断専行」なのか、あるいは「川上大尉」等の上官が関与していたのか、ということをめぐり、今日でも「論争」が続いています。 |
| 久米庚子氏『平頂山事件とその終末』より
当時私ども日本人社員もこの事件については「軍も困ったことをしてくれたものだ」と密かにこぼしながら、防護隊員の手で死体に重油をかけて火葬にし崖の上に火薬をしかけて土砂を崩しこれを葬ったのであった。 (『撫順炭砿終戦の記』 P74) |
最終的には「ダイナマイト」による死体隠滅が行なわれたようです。そしてこの「現場」が戦後掘り返されて、その場所に「平頂山殉難同胞遺骨館」が建設されたのは、皆さんご承知の事実でしょう。
さて、「事件」が炭鉱労働者などの中国人に与えたショックは、大変なものでした。戦後、最初に「事件」を日本国内に伝えた森島守人氏は、「職場を捨てて集団的に引き揚げている」苦力たちの存在を報告しています。
| 森島守人氏 『陰謀・暗殺・軍刀』より 新聞掲載を禁止していたため公にはならなかったが、昭和七年の十月撫順でも目にあまる満人婦女子の大虐殺事件があった。撫順警察から炭砿の苦力が職場を捨てて集団的に引き揚げている、徒歩で線路づたいに華北へ向かっているとの報告に接したので、真相を取調べると、同地守備隊の一大尉が、匪賊を匿うたとの廉で、部落の婦女子を集めて機関銃で掃討射殺したとのことであった。 (P84〜P85) |
小林実氏も、森島氏の記述を検証しています。
| 『リポート「撫順」1932』より しかし、調べてみると、撫順では想像をこえた混乱が起こっていた。それほど、平頂山の惨殺事件は在撫中国人に大きな衝撃を与えた。 九月末から十月にかけて、撫順を逃れ華北に向かった中国人は、一万を越したものと推定される。 事件の報道を禁止されていた新聞でさえ、「撫順を離れた中国人老工は全体の三分の一以上」と報じている。 (P95〜P96) |
ここにいたら、いつ殺されるかわからない。この事件は、一時、炭鉱の操業に影響を与えるほどの恐怖心を、中国人従業員に与えたのでした。
この「事件」は中国国内の新聞などに報道され、一時は国連の場でも問題にされかけますが、日本側は「事件」を否定し、とりあえずはうやむやになります。「事件」が蒸し返されたのは、終戦後の「戦犯裁判」でのことでした。
| 原勢二『炎は消えず』より
日本人に対する報復の火の手 |
彼らの「処刑」が冤罪であったことは、今日では「定説」となっています。
最後に、秦郁彦氏らの編纂になる「世界戦争犯罪史事典」の記述を紹介します。コンパクトなまとめであり、また最もスタンダードな「視点」からの記述である、と見ることができるでしょう。
| 「世界戦争犯罪史事典」より
平頂山事件 満州事変勃発の一周年、満州国建国から半年後にあたる一九三二(昭和七)年九月、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が、近くの平頂山集落の中国人住民を大量殺害した事件。 二〇〇二年六月二八日、東京地裁は、事件の生残り(当時は四−八歳)三人の国家賠償請求を棄却した。(小池聖一) |