中国共産党は知らなかったか


 「南京事件」論議でよく目にするのが、「中国国民党も中国共産党も当時は南京虐殺のことを知らなかった」という議論です。

  「中国国民党」については既に論じましたので、次に、「中国共産党」を取上げましょう。

 
2014.11.9追記

 念のためですが、「毛沢東は知っていた=事件があった」、あるいは「知らなかった=なかった」という単純な話ではないはずです。

 「南京事件 初歩の初歩」で触れた通り、「事件」は間違いなく存在しました。「事件」の存在と、毛沢東の認識とは、全く別の話です。もし問うのであれば、問題の立て方は、「事件が存在していたのに、なぜ毛沢東はそれに触れなかったのか」ということになるでしょう。

 以下の記述で、毛沢東が全く知らなかったとは考えられない、ということを説明しています。なぜ「触れなかった」かと言えば、戦前は「国民党支配地域の話であり十分な認識がなかった」、あるいは「知ってはいたがそんな大事件とは思っていなかった」というところでしょう。

 また戦後について言えば、中国人にとって「南京虐殺」は、日本人にとっての「東京大空襲」や「広島・長崎の原爆」と同じレベルの大事件になっています。「極東軍事裁判」で大きな問題となり、中国人も十分に認識していた「南京事件」を毛沢東が知らなかったとは考えられません。

 「触れなかった」理由としては、「知っていたがあまり関心がなかった」というのが正解だと思います。いずれにせよ、毛沢東が直接事件に言及しなかったからといって、それを事件が「なかった」根拠にしてしまうのは、暴論です。







 まずは、田中正明氏の文からです。

田中正明氏『南京事件の総括』より

 第十の論拠 中国共産党の記録にもない

 それでは当時、中国共産党および共産軍は南京事件をどのようにみていたか。もし伝えられるごとき何十万人もの大虐殺―いうところの南京アトロシティーがあったとするならば、これこそ絶好の抗日宣伝の材料であり、人民に味方し、国民党を批判する立場にある彼らが黙って見過ごすはずはない。

 ところが共産党も共産軍も、南京失陥については国民党のだらしなさを非難しているだけで、「南京虐殺事件」のことなどどの文献にも出てこない。

(同書 P209)



 実際はどうだったか。例えば、当時武漢で発行されていた中国共産党の刊行物、週刊誌『群衆』です。 

 
『群衆』民国27年1月1日

短 評

人類共棄的敵軍暴行

敵軍的暴行不自最近開始『九一八』前即已製造種種惨案屠殺我民衆 『九一八』敵軍在我東北華北残暴横行已為世所共知 而沿京滬線尤其是在南京城市的大屠殺開了人類有史以来空前未有的血腥残暴獣行紀録 這不僅是向中国全民族宣戦也是向全人類宣戦敵人的兇悪残忍血洗了人道正義引起了全世界全人類的憤怒仇恨

(『群衆』 第一巻第四期 (民国)二十七年一月一日出版)

*「民国27年」は、「1938年」または「昭和13年」。

**この中国語版の原典は、渡辺さんよりご提供いただきました。この場を借りて、お礼申し上げます。



<井上久士氏による日本語訳>

人類のともに斥けるべき敵軍の暴行

 敵軍の暴行は最近開始されたものではなく、「九・一八」以前にすでに各種の残虐事件がひきおこされ、我が民衆が虐殺された。「九・一八」に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世の共に知るところとなっている。

 しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。

(『南京大虐殺否定論13のウソ』P66)


 早くも、日本軍による南京占領の翌月には、このような記事が出てきます。同時期の中国国民党系の『大公報』には「南京虐殺」についての記事が数多く見られますので、情報源は、『大公報』と同様、南京から逃げてきた人々の話であると推定されます。

 この一記事をもってしても、上の田中氏の記述の誤りは明らかでしょう。


2010.11.14追記

 higetaさんのブログ「日本近現代史と戦争を研究する」にて、
1938年2月25日陝甘寧辺区政府機関紙『新中華報』
(のち中国共産党機関紙)にて、既に「屍山血海的南京 敵在南京之空然暴行」と題する記事が掲載されている、との指摘がありました。これは『大公報』からの転載であると思われますが、武漢のみならず、中国共産党の本拠地である延安でも既に「南京事件」が知られていたことがわかります。





 さて次は、東中野氏の一文です。

  
東中野修道氏『南京虐殺の徹底検証』より

  毛沢東「持久戦について」

 「南京虐殺」に触れなかったという点では、毛沢東の講演も同じであった。毛沢東の有名な「持久戦について」は、一九三八年五月二十六日から九日間にわたって延安の抗日戦争研究会で行われた。そのなかで毛沢東は、日本軍の戦略のまずい点を五点に亙って列挙して、次のように述べた。
《台児荘戦役(筆者註.昭和十三年三月)以前には、台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。この五つの点―兵力を小出しにふやしたこと、主攻方向がないこと、戦略的協同がないこと、時機を逸したこと、包囲は多いが殲滅が少ないこと、これが台児荘戦役以前、日本の指揮のまずかった点である。》
これが南京陥落から半年後の講演であった。毛沢東の総括によれば、

‘邉の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。
△修里燭瓠∋抛畄海禄かった。
F┐憶笋咾浸抛畄海郎討喟力を再結集して、日本軍に反撃することができた。
せ抛畄海鉾新發竜_颪鰺燭┐燭里蓮△修發修眛本軍が支那兵を殲滅しなかったことに起因する。
イ世ら(毛沢東から見ると)日本軍の戦略はまずかった。

と言うのである。

要するに、袋の鼠となった城内の支那兵を日本軍は皆殺しにしなかった―と毛沢東は演説したのである。毛沢東もまた、日本軍戦時国際法違反(南京虐殺)を指摘できなかったことに注意する必要がある。

(同書 P340)


 さて、特定の資料を材料に「中国共産党が南京事件の存在を知らなかった」と主張するのであれば、「もし毛沢東が「南京虐殺」を知っていたら、必ずこの資料で言及するはずである」という大前提が必要です。しかし以下見るように、この文はあくまで「抗日戦の戦略」について述べたもの に過ぎず、「南京虐殺」の話が入ってくる必然性がある文章ではありません。
*さらに言うならば、東中野氏の言う「毛沢東の総括」のうち、毛沢東が明記しているのは、せいぜい,里澆任后それも、毛沢東が言及したのは、「敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく」、またこれらの諸戦役では「包囲は多いが殲滅が少ない」という2点であり、必ずしも「南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった」と断定的に述べたわけではありません。

 そして以下は、東中野氏の、完全な「拡大解釈」です。本人が言ってもいないことを、想像の翼を広げて「総括によれば」とまとめてしまうのは、東中野氏のいい加減さ以外の何物でもないでしょう。



 さて、実際に、毛沢東の文章に当ってみましょう。

 
毛沢東『持久戦について』より

 (一九三八年五月)


 これは、毛沢東同志が一九三八年五月二十六日から六月三日にかけて、延安の抗日戦争研究会でおこなった講演である。


(略)

 敵のすきに乗ずる可能性

 (一〇五)敵にうち勝つことができる基礎は、敵の指揮の面にもある。むかしから、あやまりをおかさない将軍はない。ちょうどわれわれ自身も手落ちをさけがたいのと同様、利用される手落ちは敵にもあり、敵のすきに乗ずる可能性は存在する。戦略上戦役上からいえば、敵は十ヵ月の侵略戦争中に、すでに多くのあやまりをおかした。そのうち大きなものをあげると五つある。

 第一は、兵力を小出しにふやしたこと。これは敵の中国にたいする評価の不十分さからきたもので、またかれら自身の兵力不足という原因もある。

 敵は、従来われわれをみくびり、東北四省のことでうまい汁を吸ってから、さらに河北省東部、察恰爾(チャーハール)省北部をも占領したが、これらは敵の戦略的偵察とみることができよう。

 かれらのえた結論は、中国人はばらばらの砂だということであった。そこから、かれらは、中国は一撃にも値しないとおもいこみ、いわゆる「速決」の計画をたてて、わずかばかりの兵力をくりだし、われわれをおどかしてつぶそうとくわだてた。

 十ヵ月らい、中国がしめしたこれはど大きな団結とこれほど大きな抵抗力を、かれらは予想もしなかったし、中国がすでに進歩の時代にあること、中国にはすでに先進的な政党、先進的な軍隊および先進的な人民があることを念頭においていなかった。

 いよいよだめだとなると、十数コ師団からつぎつぎと小出しに三十コ師団に増兵した。さらに前進するには、もっと増兵しなければならない。しかし、ソ連との対立により、またかれらの人力、財力の先天的な不足によって、日本の最大の出兵数と最後の進攻点はどちらも一定の制約をうけざるをえない。

 第二は、主攻方向がないこと。台児荘戦役以前は、敵は華中、華北にだいたい兵力を均分しており、両者の内部でもそれぞれ兵力を均分していた。

 たとえば、華北では天津=浦口(プーコウ)鉄道、北京=漢口鉄道、大同=風陵渡鉄道の三路に兵力を均分していたが、各路とも死傷者を一部だし、占領地の駐屯守備に一部をさいたので、それ以上前進する兵力はなかった。

 台児荘の敗北後は、その教訓を総括して、主力を徐州方面に集中したので、このあやまりは、ひとまず一時的に改められた。

 第三は、戦略的協同がないこと。敵の華中、華北の両集団のうち、それぞれの集団内部にはだいたい協同があるが、両集団間には協同がきわめて少ない。

 天津=浦口鉄道の南部区間の部隊が小蛙埠(シアオパンブー)を攻撃したさいには、北部区間の部隊は動かず、北部区間の部隊が台児荘を攻撃したさいには、南部区間の部隊が動かなかった。両方面ともに苦杯をなめたのち、陸軍大臣が視察にやってきたり、参謀総長が指揮のためにやってきたりして、ひとまず一時的には協調ができた。

 日本の地主・ブルジョア階級および軍閥の内部にはかなり深刻な矛盾があって、この矛盾は発展しつつあり、戦争における協同の欠如がその具体的なあらわれの一つである。

 第四は、戦略的時機を逸したこと。この点は南京、太原両地占領後の停頓に顕著にあらわれているが、それは主として兵力が不足し、戦略的追撃隊がなかったからである。

 第五は、包囲は多いが殲滅が少ないこと。台児荘戦役以前には、敵は上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役で、撃破は多かったが、捕虜と戦利品は少なく、ここに指揮のまずさがあらわれている。

 この五つの点 ― 兵力を小出しにふやしたこと、主攻方向がないこと、戦略的協同がないこと、時機を過したこと、包囲は多いが殲滅が少ないこと、これが台児荘戦役頃日本の指揮のまずかった点である。

 台児荘戦役以来、多少は改められたが、その兵力の不足や内部矛盾の諸要素のため、あやまりをくり返すまいとしてもそれは不可能である。

 そのうえ、こちらで得れば、あちらでうしなうというありさまである。たとえば、華北の兵力を徐州に集中すると、華北の占領地には大きな空白が生じて、遊撃戦にぞんぶんに発展する機会をあたえることになった。

 以上は、敵が自分でしでかしたあやまりであって、われわれがあやまらせたのではない。

 わが方はなお、意識的に敵のあやまりをつくりだすこと、すなわら自己の聡明で効果的な行動によって、組織された民衆の掩護の もとに、敵に錯覚をおこさせ、敵をわれわれの土俵にひきいれることができる。たとえば、東を撃つとみせて西を撃つなどがそれであるが、こうしたことの可能性についてはまえに のべた。

 これらすペては、わが方の戦争の勝利が敵の指揮の面にもある種の根源を見いだせることを説明している。

 もちろん、われわれはこの点をわが方の戦略計画の 重要な基礎とすべきではなく、反対に、わが方の計画はむしろ敵があまりあやまりをおかさないという仮定のうえに立てるべきであり、これこそたしかなやり方である。

 しかも、わが方が敵のすきに乗ずるとすれば、敵もわが方のすきに乗ずること ができるわけで、敵に利用されるようなすきをできるだけあたえないことが、われわれの指揮の面での任務でもある。

 しかし、敵の指揮のあやまりは、事実上あったし、また今後もおこるであろうし、そのうえ、わが方の努力によってつくりだすこともできる。これらはいずれもわが 方に利用できるもので、抗日の将軍たちは極力それをとらえるようにしなければならない。敵の戦略上戦役上の指揮にはまずいところが多いが、その戦闘の指揮、すなわち部隊の戦術や小兵団の戦術には、かなりすぐれたところがあり、この点についてはわれわれはかれらに学ぶべきである。

(『毛沢東選集 第二巻』P235〜P238)

2010.11.14追記 毛沢東のこの講演は既に電子化されており、こちらで全文を読むことができます。

  一見してわかる通り、この文を「南京虐殺がなかった証拠」として取りあげるのは、かなりひねくれた読み方である、と言えると思います。

 ここでは「南京」は、「上海、南京、滄州、保定、南口、忻口、臨汾の諸戦役」のひとつとして言及されているに過ぎません。「包囲は多いが殲滅が少ない」例のひとつとして「南京戦」をとりあげたことはやや事実に適合しないように思われますが、それは、毛沢東が「南京戦」の実態について十分な知識を持たなかっただけの話である、と理解するべきでしょう。

※「毛沢東が言及していなかったから南京虐殺はなかった」という論理展開は、あまりに短絡的すぎます。そのような「断言」を行う以上、「毛沢東が何に関心を持ち、どのような傾向の発言を行ってきたのか」を把握・分析し、その中で「南京虐殺に触れない不自然性」を説く、というのが普通の論法であると思われますが、ネット否定派でそこまで突っ込む発言を行う方を私は見かけたことがありません。

 例えば上の「毛沢東選集」を見ると、毛沢東の関心が、「抗日戦争」をいかに戦い抜くか、あるいは「新中国」をいかにつくっていくか、中国共産党はどのように活動していくべきか、といった「戦略論」に集中していたことがわかります。「日本軍の蛮行」はほとんど関心の外にあった、と言ってよいでしょう。




 以下は余談になりますが、田中正明氏は、先の文章に続けて、一九三八年当時の認識について、このように書いています。

田中正明氏『南京事件の総括』より 

  南京事件について、日本人が知らなかったのと同様、中国人も―中国共産党も国民党も―知らなかった。知らなかったのではない、このことはそうした大事件などなかった何よりの証拠である。

 『中国の歌ごゑ』を著した著名な米人作家アグネス・スメドレー女史―彼女は日本の進路を変えたとまでいわれるソ連のスパイ、リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀美を上海で合せた(ママ)コミンテルンのメンバーである―が毛沢東、朱徳、周恩来ら共産党幹部と起居を共にし、延安から漢口へ移るまでのくわしい日記を書いている(邦訳『中国は抵抗する』=岩波書店)。

 それには南京陥落という記述があり、その感想については述べているが、日本軍の暴虐や大量殺害にかんしてはこれまた全然ふれていない。


(P210)


 

 これは、不思議な記述です。

 まず、私が見る限り、『中国は抵抗する』には、そもそも「南京陥落の感想」に関する記述は存在しません。また、この本の記述のほとんどは「八路軍」の華北での戦いに関するものであり、「南京」についての記述が存在しなくても、それを怪しむ必要はないでしょう。

 さらに言えば、この本の記述は「一九三八年一月九日」で終わっており、スメドレーの行動経緯を見ると、この時点で「南京虐殺」の情報がスメドレーの元に伝わっていなかったとしても、別に不思議はありません。 さて田中氏は、『中国の歌ごえ』をスメドレーの代表作として認識しているようですので、こちらの記述を見てみましょう。1938年の項です。


アグネス・スメドレー『中国の歌ごえ』より 

 二 紅十字の先駆者たち
 
 漢口の町は、私を中国紅十字軍医部と、その有名な創設者で、しかも部長である林(リン)博士にひきあわせてくれた。それ以後、私の生活の大半は、戦傷者のための仕事で占められることになった。そういうことになったのは、こんなわけだった……

 漢口ついてから、私は友だちのB・ボーシック博士をさがしに出かけた。博士は、国際連盟から中国政府に派遣されて、ここ数年間、衛生顧問をやっている有名なユーゴスラヴィア人の公衆衛生専門家である。多くの科学者がそうであるように、彼はなみなみならぬ知識と、自分の職業をはるかに超えた社会的、芸術的関心をもっていた。彼は、社会主義的な傾向のひとで、音楽や舞台にふかい関心をもち、オペラ歌手と結婚して、奥さんに首ったけであった。私が戦前のテロル時代の生活にも堪えることができたのは、彼の友情のおかげだった。

 私は、ボーシック博士が、終着駅ホテル(ゆう注 おそらく原文は、「ターミナル・ホテル」であろうと推察されます)に住んでいるのを見つけだした。博士は、中国人の二人の医者、金宝善(キン・パオシェン)博士と林可勝(リン・コーセン)博士がやってくるのを、いまかいまかと待っているところだった。金博士は、のちに国府衛生署署長となったひとであり、林博士は、北平と上海・南京地域に紅十字事業を組織しようとして、栄達とノーベル賞を棒に振った中国で最も有名な科学者である。

 ポーシック博士の話によると、林博士は、南京が敵の手に陥ちてしまったので、紅十字軍医部を全然あたらしい方針で組織しようとしているところだった。陸軍医務部には、資格のある医者がほとんどいないので、十五人前後の人間からなる移動医療班をつくって、それを方々の野戦病院や、基地の陸軍病院に所属させようというのだった。

 私はボーシック博士に、南京にあった大きな紅十字病院はどうなったんです、ときいた。博士はしばらくのあいだ白壁をじつと見つめていたが、やがて静かに「跡形もなくなりました。」と、言った。

 中国人も外国人も、まだ日本軍が国際法とジュネーヴの赤十字条約だけは尊重するだろうと信じていたので、ひきあげることのできない何百人という重傷者を、中国人の医師と看覆婦にまかして、南京に残してきた。

 ところが、日本軍が南京を占領すると、彼らはおよそ二十万の市民と非武装兵を殺戮したばかりでなく、病院にまで襲いかかって、戦傷兵、医者、看覆婦などを虐殺した。ぞっとするような南京虐殺の話は、すでに常識になっている。

 南京には多数の外交官や外国人の宣教師たちが残留していて、行動中の日本軍をよく観察し、その写真さえもとったからである。

 約七百名の中国紅十字の医者、看護婦、外科手術の助手、運転手、機械工などが漢口に到着したが、そのほかの者は途中で虐殺された。南京を出発した傷病兵運搬車やトラックのうち、漢口に到着したのはわずかに十七台だけで、しかもその半分は医療品を積んだ車だった。

 南京からの大量引揚は、類例のないような惨事におわった。日本軍だけではなく、中国軍とも命がけのたたかいをしなければならない場合があった。

 医療品を積みこんだトラックの、ある紅十字の運転手は、退却中の中国軍にとめられて、トラックをよこせと命令された。運転手は、あくたいをついたり、怒鳴ったりした。

 その衝突の途中に、日本の飛行擦が彼らを爆撃しはじめた。軍は退避し、運転手はうまいことに西にむかって走りだした。 ― ところが、二、三時間後に、トラックは下から爆破されてしまった。

(「中国の歌ごえ」高杉一郎訳 みすず書房 P179〜P180)
 

 スメドレーの得た情報が正確かどうかには議論の余地があるかもしれませんが、スメドレーは1938年の段階で、間違いなく「南京虐殺」を「常識」として認識しています。



 あるいは田中氏は、元の本を読まずに、次の鈴木明氏の記述をそのまま受け入れてしまったのかもしれません。

鈴木明氏 『「南京大虐殺」のまぼろし』より 

  アグネス・スメドレーの『中国の歌ごえ』(一九四三年刊)の一九三八年一月の項目を読むと、漢口に出かけたスメドレーが、南京から来た医師から、南京に於て二十万人の市民と非武装兵を殺戮した話が出ており、「ぞっとするような南京虐殺の話は、すでに常識になっている」と書かれている。

 一九三八年、つまり、その事件の翌年の暮に発行した、同じくスメドレーの『第八路軍従軍記』ゆう注 邦訳『中国は抵抗する』)を読むと、一九三八年一月一日から一月九日までの日記が連続して記述されており、その中に「漢口からの新聞も一週間遅れてくるのです」「ラジオは重大な事件を伝えてくる」というくだりもあり、朱徳との会話の中にも、南京攻略戦で日本軍が揚子江でアメリカ軍艦ペネー号を誤って撃沈した事件について、甚大な興味をもって耳を傾けるなど、この前後の事件についてはいろいろ書かれているのだが、どういうわけか「南京虐殺」についての記述は一行もない。

 一九四三年版に出ていることが、一九三八年版にないということが、偶然が故意か、僕の読み落しか、僕には、どれとも自信はない。

(P29〜P30)

*「ゆう」注 鈴木明氏は「一九三八年一月の項」との記述を行っていますが、実際には、何月か、ということは、この本には明記されていません。
 

  田中氏が、この中段の記述を、「それには南京陥落という記述があり、その感想については述べている」というように頭の中で「翻訳」してしまった、と考えると、先の不思議な記述の理由が納得できます。

 念のためですが、当時の研究水準から考えてやむえないことではありますが、鈴木氏の記述も的外れです。スメドレーの、この部分の記述を紹介しましょう。

アグネス・スメドレー『中国は抵抗する』より 

八路軍総司令部で

 一九三八年一月一日

 あたらしい年がやってきました。―中国にとっては苦難の多い年が。私たちのところへは、各地の戦線からの ニュースがとどきます。

 済南は数日まえに敵の手におち、杭州もおち、日本軍は広東、広東−漢口鉄道、漢口、漢口−北平鉄道を占領しようとして、三ヵ月から四ヵ月間の戦闘を準備しています。

 私たちは 漢口から英字新聞を手にいれることができましたし、上海やアメリカから古い新聞雑誌もいくらかとどきました。漢口の新聞でさえも、一過問おくれなのです。ただ、ラジオがあるので、 若干のきわめて重要なニュースのこく大ざっぱな輪郭だけは、私たちもつかんではいますが。

 昨夜、私は漢口と上海の新聞、それにニューヨークからでている「今日の中国」という小さな雑誌の十月号をもって司令部を訪れ、朱徳とその幕僚たちに最もあたらしい ニュースを提供しました。朱徳は、いつもとおなじように、黒い色の厚いノートをとりだしてきました。このノートのなかに、内外の最も重要な事件を書きこんであるのです 。

 私と私の通訳が新聞を読みあげると、朱徳は重要な項目を書きこみます。彼がどんなことを書きこむのかということが、私には興味があります。彼は、中国の防衛に関係のある国際的な運動のニュースなら、たった一行だって書き おとしたりしません。

 十一月一日に、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで中国防衛のためにひらかれた大衆集会の詳細や、そこで中国におくる医療品、被服、基金などを募集したというニュースなどは、すべて記録していました。

 ニューヨークのラジオで放送された中国問題の講演、アメリカ、フランス、イギリス、インドなどでおこなわれている日本商品のボイコット運動など、朱徳はことごとくノートに書きこみ、あとで八路軍の出版物に掲載したり、兵士たちや民衆にむかって演説するときの材料として利用したりするのです。

 重要な情報のふくまれているもっと長い論文は、中国語に翻訳して、軍隊の学習のときに完全な形で利用します。

 朱徳はまた、日本の軍事、政治、社会、経済などの状況をつたえている重要な情報は、どんな小さな断片でも記録していて、日本の天皇が軍部と国民にたいして、中国との 戦争は長期にわたるだろうと警告したという演説も書きつけていました。

 日本が中国から獲得する経済的な利益について具体的な資料を提供している「今日の中国」所載の長論文は、完全な形で中国語に訳してくれるようにと、たのんでいました。

 彼はあたらしく出た本の批評にも興味を示して、それらの本のことをいろいろきくのですが、私たち自身がまだそれらの本を読んでいないのですから、答えることができません。

 彼は「ニュー・レパブリック」誌に連載されていた、むかしの中国ソヴェトのことを書いた論文と、「パシフィック・アフェーアズ」誌にのっていたいろいろな論文のことを、こまかい点についてまで質問しました。

 日本軍が揚子江上で米英の砲艦を撃沈した事件にたいするイギリスとアメリカの反応については、つよい関心を示しました。

 
上海からでているイギリス系の日刊新聞が、ムッソリーニの勧告にしたがって日本と和を講じてはどうかと南京政府にすすめている論文を読んでやると、朱徳の顔は軽蔑の表情をうかべました。

 その新聞は、「中国人はすでに英雄的な抵抗を示したわけだから、もうすこしもはずかしがったりせずに、和をもとめてもいいではないか」と論じていたのです。

 ルーズヴェルト大統領の演説にかんするニュースがあると、どんな断片的なものでも、朱徳は中国語に訳させました。アメリカの国会議員たちの演説は、日本に反対か賛成かの別なく、熱心に耳をかたむけ、あとで幕僚たちとその演説の言おうとしている意味を話しあっていました。

 大みそかの晩を、私はそんなふうにして司令部ですこしました。

(P249〜P250)


 情報源は、「漢口からの一週間遅れの英字新聞」と「ラジオ」のみ。『南京事件資料集』(青木書店)などを見ると、この「大みそかの晩」の時点では、ニューヨークタイムズや『大公報』などの報道を除けば、南京からの情報はまだ極めて乏しい段階であった、と考えられます。

 先に見た『群衆』記事を見ると武漢ではある程度情報が広がっていたようですが、はるか華北にいたスメドレーの記述に「南京虐殺」が存在しないことを、特段不審に思う必要はないでしょう。

 これはもう蛇足になりますが、田中氏の言うような「南京陥落の感想」の記述など、どこにも出てきません。




 最後に、井上久士氏の田中氏らに対する批判を紹介しておきましょう。 

井上久士氏 『戦争当時中国でも問題にされていた』より

 まったく恐れ入った議論である。声明や報告や論文にはそれぞれその対象と目的がある。南京の情報がどれほど伝わっていたのかも重要である。それらを無視して拾い集めた当時の文章のなかに、直接南京虐殺がふれられていなかったからといって、南京虐殺がなかったことの証明に全然ならないことは、小学生にもわかる道理である。

(略)

 こうしたやり方が有効であるならば、虐殺にふれていない当時の文献などいくらでもあげられる。そもそも抗日戦争に関する当時の中国側文献のすべてに、南京の虐殺が書かれているはずがないではないか。

(『南京大虐殺否定論13のウソ』P61、P62)

(2005.1.9記)


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