張作霖爆殺事件(2)

「ソ連犯行説」をめぐって−


 「ソ連犯行説」が知られるようになったのは、ユン・チアンのベストセラー、『マオ』の記述によります。ただしこの本での扱いは極めて小さく、「脚注」扱いでしかありません。

ユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』より

*張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、 実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

(同書 (上) P301)


 この記述をフォローする形での企画を組んだのが、『正論』2006年4、5月号、そして、『諸君』2006年6月号です。

 『正論』2006年4月号は、「ソ連陰謀説」のもととなる資料を発見したと主張するロシアの歴史家、プロホロフ氏へのインタビューです。 ただし氏は、ソ連情報機関の内部資料に依拠してこの記述を行ったと述べるのみで、前コンテンツで挙げた日本側資料への言及は全く見られません。

 おそらく氏は日本語が読めず、日本における研究水準を知ることができなかったのではないか、と推察されます。


 続く『正論』2006年5月号には、瀧澤一郎氏の『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』と題する論稿が掲載されました。 続いて『諸君』2006年6月号には、瀧澤一郎氏、中西輝政氏らによる『あの戦争の仕掛人は誰だったのか!?』と題する座談会で、『張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か』のテーマが取り上げられました。

 いずれも、「ソ連犯行説」を断定しないまでも、これで「事件」の真相はわからなくなった、「歴史の見直し」が必要である、と読者に印象づける内容となっています。 ここでは、主として瀧澤氏の論稿を材料に、果たして「ソ連犯行説」の成立余地があるのかを探っていくことにしましょう。



2011.10.2追記

矢吹晋氏によれば、上の「翻訳」はかなりいい加減であるようです。

矢吹晋『激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実』より

 英語の原文はどうか。

This assassination is generally attributed to the Japanese, but Russian intelligence sources have recently claimed that it was in fact organized, on Stalin's orders. by the man later responsible for the death of Trorsky, Naum Etingon, and dressed up as the work of the Japanese. (アメリカ版一七五ページ)。

「(矢吹訳)しかしロシア諜報機関の資料は、実際にはスターリンの命令で組織され、トロッキー暗殺に責任を負うナウム・エイティンゴンによって実行され、日本軍の仕業に見せかけた、 と最近主張している」。

 いま私が傍線を引いたように、邦訳は「最近明らかになった」と既定の事実として描いているが、原文は「(諜報機関が)主張している」だ。 つまり「明らかになった」と断定するのは早計であり、スパイの手柄話、自慢報告のなかに、その記述があるといった趣旨にすぎない

問題の一つは誤訳である。原文では「主張している」にすぎないものが、訳語では「明らかになった」ともはや確定的だ。(P30)







 瀧澤一郎氏の肩書きは、「国際問題評論家」となっています。見たところ、ソ連情報機関関係の情報には、かなり詳しい方であるようです。

 氏がこの問題に関わる「動機」は何か。次の文を見ると、どうも、「歴史の真実を知りたい」というよりは、単に「自虐史観」なるものへの「攻撃材料」を増やしたがっているだけのようにも見えます。
 
瀧澤一郎氏 『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』より

 そこへまた、最近の大ベストセラー・ノンフィクション『マオ』に、張作霖爆殺が「日本軍の仕業に見せかけた」ソ連情報部の謀略工作であるという衝撃的な記述が現れたのである。 これが事実なら、「日本犯行説」を当然のこととして書かれた無数の本はすべて書き直さなければならなくなる。むろん、「自虐史観」はまたもや後退を余儀なくされる。

(『正論』2006年5月号 P73)



 ただまあ、氏の「ソ連犯行説」(コルパキヂ=プロホロフ説)への評価は、とりあえずは冷静です。

瀧澤一郎氏 『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』より

 『GRU帝国 戮出版されて間もない頃、筆者はたまたまモスクワの本屋で見つけ、おもしろいので一気に読み終えた。 とりわけ張作霖爆殺の「ソ連犯行説」は興味深く読んだが、情報の出所が明示されていないのが気になり、他の裏付け情報が現れるのを待っていた。

 ところが、出版から五年以上たった今でも、なにも出てこないのである。ここが「ソ連犯行説」の最大の弱みなのだ。 この「新説」はロシアの新聞や雑誌でも紹介されてはいるが、根拠となっているのはいつもコルパキヂ=プロホロフ説なのである。

(『正論』2006年5月号 P73)


 「直接の証明」が困難である、と判断した氏は、この後で、「工作員たちの経歴や背後関係を洗い出す」ことによって、「ソ連犯行説」の「状況証拠」を集めにかかります。

  しかしそれはせいぜい、「ソ連情報機関が当時の満州でどんな工作を行っていたのか」「ソ連が満州をいかに重視していたか」「ソ連にとって張作霖はいかに邪魔であったか」ということを説明するレベルにとどまり、 前コンテンツで挙げた日本側の資料群をくつがえすところまでは、到底いきそうにありません。

 それどころか、「事件」の経緯を知る方でしたら、次の発言には驚いてしまうでしょう。

瀧澤一郎氏 『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』より

 「《グリーシカ》機関の実行したいくつかの工作の中でも、いちばん世間を騒がせたのは一九二八年六月の張作霖爆殺であったろう。張作霖は北京政権を牛耳り、露骨な反ソ姿勢をとっていた。 特別列車が爆破されたとき、張作霖の乗っていた車両の隣の客車にはイワン・ヴィナロフが乗車しており、事件現場の写真を撮った。 謀殺は周到に計画され、日本軍特務機関がやったように見せかけた。」(プロホロフ等の記述)

(『正論』2006年5月号 P76)


 「事件」の状況を思い出してください。別に張作霖は、ゴルゴ13ばりのスパイナーに、列車の外から狙撃されたわけではありません。 犯人は、走行中の列車がちょうど通過するタイミングを狙って、線路に仕掛けた爆薬を爆発させたわけです。

 それも、「スイッチを押したが爆発せず、あわてて予備スイッチを押したらようやく爆発、 たまたまその時に張作霖の乗車車両が爆発地点の上にあった」という、ほとんど「幸運」としか言いようのない状況での、爆殺成功でした。

 そんな状況で、このイワン・ヴィナロフという方は、「隣の客車」に乗車していたというのです。ちょっとでも爆破のタイミングがずれたら、自分の方が「爆殺」されてしまうでしょう。

 だいたい、何のために乗車していたのか。携帯電話などもちろんない時代ですから、張作霖の乗車位置を「犯人」に知らせるため、ということは考えられません。 上の文を見る限りでは、「事件現場の写真を撮」るために乗車していたかのようにも読めますが、そんなことでしたら、初めから犯行現場に待機していればいいだけの話です。




 さて、「ソ連犯行の状況証拠」を述べ終わった氏は、返す刀で、「一方で、「日本犯行説」も完璧からはほど遠い」と決め付けます。 ここまではソ連情報機関についてそれなりの知識を披露してきた瀧澤氏ですが、これ以降、肝心の日本国内の研究に関してはほとんど知識を持たないことを暴露してしまいます。

瀧澤一郎氏『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』より

 一方で、「日本犯行説」も完壁からはほど遠い。

 第一に、犯行動機が薄弱である。当時の日本では、田中義一首相はじめ要路の少なからぬ人々が張作霖との関係を重視し、これを損なうことを畏れていた。 関東軍も張作霖を支援していた。張作霖を殺して得るところはなかった。

 実際、父親が殺害されると、後継の張学良は、反日一辺倒になって、日本の対中政策は袋小路に入ってしまった。 これを強引に打開しようとして、日本は「支那の泥沼」にはまりこんでいくのであり、その意味では、「張作霖爆殺の真犯人」は日本を破滅に導く大戦略の火付け役であり、とてつもない政略家であったと言える。

(同 P82〜P83)

*「ゆう」注 ここに「第一に」との文字が見えますが、最後まで読んでも「第二」の文字は出てきません。 以下、氏の論稿の検討を続けますが、私の方でわざと「第二」を省いたわけではありませんので、念のため。


 「動機」については、河本自身が明快に語っています。要約すれば、助けてやった日本の恩を忘れ、「反日」を煽り立てる張作霖を見て、このままでは居留民の安全を確保できないと思ったこと、 また、これを契機に「満州事変」を起こしてやろうと考えたこと、が「張作霖爆殺」の理由であるとのことです。

 前コンテンツで紹介した、 工藤鉄太郎から小川平吉鉄道相への報告でもほぼ同様のことが述べられており、少なくとも河本自身がこれを「動機」として周囲に語っていたことは、疑えないところでしょう。

 もしこれらが「動機」として薄弱であると考えるのでしたら、それでは本当の動機は何か、という検討を始めるのであれば話はわからないではありません。 しかし、「動機薄弱」を元にこれだけの「証拠」に固められた「河本犯行説」を否定してしまうのには、首を傾げざるをえません。

 それにしても、「関東軍も張作霖を支援していた」と、まるで関東軍と張作霖の関係が良好であったかのような記述には、驚かされます。実際には、関東軍は、張作霖をこのように評価していました。

林久次郎『満州事変と奉天総領事』より


 其の中で我が陸軍の特務機関として秦(真次)少将が居り、又奉天省政府の軍事顧問として土肥原(賢ニ・後に大将)大佐が居り、後者は永年の知己であり、又支那通である。 此の二人とは特に(「ゆう」注 1928年4月二十六、二十七日の両夜に亘って、長い間時事問題に関し意見の交換を行なった。

 此の両人の意見は、張作霖の従来日本に対する態度は頗る不遜である。依って此の際、東三省より張を排斥して何人かを以て之に代える必要がある。

  総参議楊宇霆は、作霖の下に非常なる威力を振い、日本に対しても不逞なる態度を続けて居り、殊に昨年来の彼の排目的態度は許すべからざるものがある。 従て、楊も亦此の際、作霖と共に排斥をしなければいけない。然らば何人を以て之に代えるかと云うに、作霖の子学良を以てするのが一番良いと思うと云うのである。

(P6)



河本大作大佐自身も、考えは同じでした。事件の1か月半前、親友磯谷大佐宛の書簡で、「犯行」を予告する文言を書き送っています。

秦郁彦『張作霖爆殺事件』より

  ところが北京に進出して、全中国に号令する勢いになると張は、おいそれと日本の言いなりには動かなくなる。 陸軍や大陸浪人を中心とする強硬論者の聞には、「忘恩の徒だ」「反日政策をとるのはけしからん」という声が高まり、さらに「張政権を倒して悪政に苦しむ住民を救うべきだ」 「満州の資源は日本経済に不可欠である」という身勝手な満州占領論が台頭した。

その一人である関東軍高級参謀河本大作大佐が、満州占領の早道として張作霖の爆殺を決意したのは昭和二年末頃とされているが、決定的証拠となる在京の親友磯谷大佐宛ての書簡が、 岡田芳正によって磯谷家資料の中から発掘されたのは十数年前のことである。

 二枚の三銭切手を貼った書簡の消印は昭和三年四月十八日となっていて、「満蒙問題の解決は、理屈では誰も出来ぬ。少し位の恩恵を施す術策も駄目なり。武力の外道なし」と断定したのち、 河本は、「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死んでも差支えないじゃないか。 今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る・・・・僕は唯々満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」とテコでも動かぬ決意を告げていた。

(『昭和史の謎を追う』(上)P43)

*「ゆう」注 なお、井星英氏は、この書簡について、「かならずしも一途に張殺害をめざしたものとは思へない。 すなはち、河本大佐のねらひは、あくまでも錦州出動による武装解除であつて、張殺害は、武装解除が行はれない場合の一環にすぎなかつた、と思はれる」 (『張作霖爆殺事件の真相』(四)=『芸林』昭和57年12月 P43)と評しています。いずれにしても、この時点で河本が張作霖に対して激しい敵愾心を燃やしていたことは、間違いありません。



 関東軍と張作霖の関係の悪さは、歴史家も口を揃えて断言するところです。

井星英『張作霖爆殺事件の真相』(四)より

 当時満洲問題解決策としての張作霖の下野、殺害等に関する論議や企図は満洲・支那各地および日本の一方面で行はれ、かならずしも珍しいものではなかつた

(『芸林』昭和57年9月号 P45)


稲葉正夫『張作霖爆殺事件』より

 要するに、記述のように張作霖の下野もしくは抹殺は当時大方の希望するところであり、殊に関東軍において強いものがあったのである。

(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』所収『張作霖爆殺事件』P43)




 さて、ここでようやく氏は、「過去における日本側の研究成果」に触れ始めます。しかしその内容たるや、氏の本論稿の中でも最もいい加減な箇所、ということができるでしょう。

瀧澤一郎氏『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』より


 「日本犯行説」の根拠としてよく引用されているのが、爆殺工作の「首謀者」とされる関東軍高級参謀河本大作大佐の「手記」と、作家立野信之の小説『昭和軍閥』である。

 なぜ中国の歴史家たちが学術論文の傍証に小説を引用するのか理解に苦しむ。立野はプロレタリア作家として出発し、あの党員作家小林多喜二は立野宅にかくれているところを逮捕連行された。 戦後に一定の「転向」はしたかもしれないが、こういう人物が「自虐史観」に囚われる可能性は高いと見るべきだろう。

 ついでにいえば、ロシアの歴史家が「日本軍のスターリン暗殺工作」を「実証」するために桧山良昭著『スターリン暗殺計画』という冒険活劇小説を引用しているのを見て、唖然とした経験がある。 「軍国日本の侵略性」を「証明」するためなら、塵芥でもかき集めようというのであろうか。

 河本大作大佐は、一九五三(昭和二十八)年に中国の太原収容所で悲惨な獄死をとげた。翌年『文藝春秋』(昭和二十九年十二月号)に「私が張作霖を殺した」という「手記」が出た。 「日本犯行説」を当然のものとして疑わない多くの著者がこの「手記」を引用している。

  ところが、これは河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児氏は「私が河本の口述を基にして筆録したもの」であると言っている(『特集文藝春秋』昭和三十一年十二月) 。 「基にして」というところが、どうもひっかかる。そもそも口述録音もなく、真筆でもなく、本人の死後現れたものが手記などと言えるのだろうか。

 平野氏は著書『人間改造』を見ればわかるように、中共の収容所で強烈に洗脳され、一九五六(昭和三十一)年に帰国した人である。 彼が中共で受けた「マインド・コントロール」の解けないまま、特殊目的をもった文章を書き綴ったとしても何の不思議もない。

(同 P83)


 これを読む方はおそらく、「日本犯行説」の根拠が「河本手記」と「立野氏の小説」しかない、と誤解してしまうのではないでしょうか。

 前のコンテンツを読んでいただいた方にはもう説明の要もないでしょうが、もちろんそんなことはありません。河本自身が語った記録だけでも他に「森記録」があり、さらに「河本から直接犯行の告白を受けた」とする証言も、 小川平吉鉄道相をはじめ多数あります。

 その他、事件の当事者の手記としては、「川越大尉手記」が知られています。爆破スイッチを押した東宮大尉も、奉天総領事代理・森島守人氏に対して、犯行を「内話」しています。 「国民党便衣兵の死体」の偽装工作に携わった大陸浪人たちの証言も、揃っています。

 そして当事者の証言などをもとに、「峯報告」「特別調査委員会報告」(外務省・陸軍省・関東庁により構成)という、2つの報告が、田中首相の下に届けられています。 そしてついには、天皇に対しても、河本の名を出した「上奏」が行われました。


 ところが氏がここに取り上げているのは、上の多数の資料群のうち、たったふたつだけです。 しかもそのうちのひとつ、「立野氏の小説」なるものは、数々の資料をまとめた「二次資料」であるに過ぎず、私は日本の学者がこれを自分の論文に引用しているのを見たことがありません。


 氏が疑わしいとする「河本大作手記」にしても、今日ではその成立過程はほぼ明らかになっています。

井星英『張作霖爆殺事件の真相(一)』より

 平田氏(「ゆう」注 河本大作の満洲炭鉱株式会社理事長時代の秘書、平田九郎氏。昭和55年12月8日談)によれば、 将来河本大作伝作成の資料とするため、平野氏を満炭嘱託とし、時々河本氏より聴取したことを記録させた。しかし河本氏は、平野氏がさういふ目的で聴取してゐる、とは知らなかつたし 、また知らされなかつた、といふ。この記録は、平野氏がタイプ印刷として戦後も保持してゐた。それを平田氏は筆写して、河本氏三女清子氏に渡した。その複写が防衛研修所戦史部に収めてある。

(『芸林』昭和57年6月号 P6)



 これは「文芸春秋」昭和二十九年十二月号に掲載され、河本大作氏自ら記述したやうになつてゐるが、実際は、そのころ、平野氏から提示された「平野記録」を阿部真之助氏が文芸春秋社に持ちこみ、 その中の一部を抽出掲載したものなる由、当時文芸春秋編集部にゐた小林米紀氏(現在営業本部長)が、昭和五十五年十一月十五日、電話にて筆者に述べられた。

(同 P7)


 そもそもこれは、河本の秘書平田九郎氏が平野氏に記録を命じたものでした。その写しは河本の遺族にも渡っており、現在では防衛研修所戦史部が所蔵する資料となっています。

 この聴取は、終戦前に行われたものです。平野氏が「マインドコントロール」されていたかどうかはともかくとしても、まさかこの時点で既に平野氏が「強烈に洗脳」されていたわけではないでしょう。 内容的にも「森記録」と概ね一致しており、 少なくとも「河本がこのように語っていた」ことまで否定するのは、困難なことであると思われます。

 また、内容がでたらめなものであれば、当然平田氏なり遺族の方なりが抗議しそうなものですが、その気配はありません。 それどころか、「三女」の河本清子氏は、中国共産党による河本の取調べ記録『河本大作供述調書』についても、自分が聞いていた話とそんなに違わない旨の発言を行っています。



 さて氏は、こんな勇ましい文章で、この論稿を締めくくっています。

瀧澤一郎氏『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』より

 以上、張作霖爆殺事件については「ソ連犯行説」も「日本犯行説」も、現段階では決定的説得力に欠けていることがわかる。 しかし、「日本犯行説」に数々の捏造疑惑があるのに反して、「ソ連犯行説」は、もう一つ二つソ連側の資料が出てくれば決着する。これは単に時間の問題のような気がする。

 さらに言えば、歴史の大きな流れがある。すでに指摘したが、昭和戦争史のすべての重要事件を日本の「犯行」とする「東京裁判史観」が崩れつつあるのだ。 張作霖爆殺問題も解明され、この「捏造史」が完全に崩れ去り、日本人が「自虐史観」から自由になる日はそう遠くあるまい。 そのときこそ、戦後が本当の意味で終わり、新生日本が誕生するのである。

(同 P86)


 「事件」について多少なりとも知識がある方でしたら、苦笑を禁じえない文章でしょう。 犯人たちが口を揃えて自分たちの犯行であると発言しているのに、「もう一つ二つ」同じようなレベルの「ソ連側の資料」が出てくるくらいのことで、「河本大佐犯行」という「定説」をくつがえせるはずがありません。

 しかし、「そのときこそ、戦後が本当の意味で終わり、新生日本が誕生するのである」とは、何ともおおげさです。氏はすっかり、自分の文章に酔ってしまっている感があります。

 


 さて、続く『諸君』2006年6月号は、『あの戦争の仕掛人は誰だったのか!?」と題する座談会を企画しています。 「張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か」との章がその中にあるのですが、内容的には前の瀧澤氏の論稿を超えるものではありませんので、こちらでは簡単に触れるに止めます。

 瀧澤氏は、上で紹介した「河本大作手記」批判、『GRU帝国』の記述の紹介(例の、「イワン・ヴィナロフが隣の車両に乗車していた、というやつです)などを行ったあと、伊藤隆氏との間でこんなやりとりをしています。

『諸君!』座談会『張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か』より

瀧澤 一九二〇年代、三〇年代のソ連では暗殺は日常茶飯事。喜んでやるような連中がソ連諜報部にはたくさんいましたからね。ただ、ソ連犯行説も完璧ではありません。 『GRU帝国』には情報の出所が明示されていないんです。プロホロフは元軍人なので、未公開文書に触れた可能性はあるものの、それについては本の中でも何も語っていない。 私も裏付け情報が出るのを待っているのですが、出版から六年たっても出て来ません。

伊藤 私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

瀧澤 おっしゃる通り、仮にそうした文書が残っていたとしても、"偽の報告書"である可能性もあります。 ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多いですから。

(『諸君!』2006年6月号 P31)


 意外なことに、この部分、私も瀧澤氏に完全に同意できます。ここまで冷静な判断ができるのに、どうして瀧澤氏、「ソ連陰謀説」などという「トンデモ」に走ってしまうのか、不思議に思うところです。

 なお、ここの「伊藤」というのは、日本史専攻の東京大学名誉教授、伊藤隆氏のことです。過去張作霖爆殺問題で雑誌にコメントを行った実績もあるなど「事件」については熟知しており、 この座談会で、ほとんど唯一、まともな発言を行っている方です。


 伊藤氏の発言です。

『諸君!』座談会『張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か』より


伊藤 私はやはり日本の軍部がやったと考えています。 というのは田中義一内閣の鉄道大臣だった小川平吉氏の手記によると、現地から詳細な報告とともに事後処理に関する相談を受けていることがわかるからです。 「国民党便衣隊員の仕業に見せかけるために用意していた中国人の一人に逃げられてしまった。この用意をした中国人を逃がすための費用が必要だ」という生々しいやり取りが出てくるんですよ。

  私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

(『諸君!』2006年6月号 P32)


 「日本史」を専攻とする大学教授としては、ごく常識的な発言である、と言うべきでしょう。

 さて肝心の瀧澤氏は、ここまで冷静な発言を行いながら、結局は「かぎりなくクロに近い疑惑」との決め付けに戻ってしまいます。そして、氏の最後の発言は・・・。

『諸君!』座談会『張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か』より


瀧澤 東京裁判で検察側の証人として出廷した外交官、森島守人も(「ゆう」注 小川平吉氏と)同じようなことを著書『陰謀・暗殺・軍刀』に書いています。 しかし、これらはいずれもいわゆる伝聞証拠です。

(『諸君!』2006年6月号 P32)


 やっと「河本大作手記」「立野氏の小説」以外の資料への言及を見ることができました。しかしこれは、かなり強引な発言であると言わざるをえません。前コンテンツでも紹介していますが、再掲します。

『小川平吉関係文書』より

 既にして予が嚢きに宣統帝の許に遣はしたる工藤鉄三郎氏は急速帰京して仔細に事件の顛末を述べ、 関係支那人劉戴明の処置に関する援助を求め来れり。是れを日本政界における張氏爆死事件内容知悉の最初と為す。

 工藤の報告に曰く。

 関東軍の参謀河本大佐は慷慨果敢の国土なり。張作霖が郭松齢の乱に負へる日本の洪恩を忘却して事毎に日本に反抗するを憤り、張を排除し奉天の政局を一新することを図りしに、 忽ちにして張の北京を退きて帰奉するの報に接し、乃ち之を爆殺して国患を除くと共に、変に伴うて支那軍隊の動揺するに乗じ、機を見て奉天を占領し、意中の人物を擁立して満洲の統治を左右せんと企図し、 急逮策を按じて親交ある志士(工藤鉄三郎の親友)安達某を招きて犠牲支那人二名を物色せんことを依頼せり。

 安達は平素親交ある支那人劉某に旨を告げて之を依頼せり。劉はもと吉林孟恩遠部下の営長にして張作霖に積怨あるものなり。人と為り義侠にして市井の無頼に信望あり。

 乃ち之を諾して三人の支那人を獲て、各金五十円の支度料を与へ、日本軍の為に密偵たらんことを求めて其の承諾を得、六月三日夜半満鉄交叉点の日本兵哨所に至り命令を乞はしめたり。 期に至りて一人約に背きて至らず。二人約に従って満鉄の線路上に至り歩哨の為めに殺さる。後に死体を検して南方便衣隊に関する書翰を得たり。 蓋し河本の演ずる所にして爆撃の真相を掩はんと欲せしなり。

(中略)

 初め河本の劉を依頼するや与ふるに二万金を以てすることを約す。而して河本は我軍を以て奉天占領を策するに急にして、自己の懐中には千金の準備だも有せず。 既にして支那官憲の被銃殺二人者に対する調査漸く厳にして、劉の身辺危からんとす。安達乃ち実を工藤に告げて予の救援を求めたるなり。

(P626〜P627)


 
森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

  爆破事件の前夜、関東軍の手先が何処からか阿片中毒の浮浪人三名を拉致して、奉天の満鉄附属地内に居住していた浪人の安達隆成のところへ連れて来た。 (同人は昭和七年一月、錦州攻撃の際、大毎の茅野特派員と共に、軍に先騒けして錦州一番乗りを決行し、茅野と共に惨殺せられた。)

 三人の浮浪人は附属地内の邦人経営の浴場で一風呂浴び、 新しい着物に身なりを整えて早暁外出したが、二名は列車爆破の現場で刺殺せられ、中一名が辛うじて逃亡したのであった。

 当時青林省長の要職にあり、鉄道問題の交渉などに関連して、公私共に日本側と接触の多かった劉哲が、森岡正平領事に内話したところによると、 刺殺をまぬかれた一名は、張学良の下に駆けつけて、ことの顛末を一部始終訴えたので、学良としては、張大元帥の横死が日本人の手によったものであることは、事件直後から萬々承知していたわけである。

  ただ親の仇とは倶に天を戴かないという東洋道徳の観念から、一度学良自身の口から日本人による殺害の事実が洩れると、学良自ら日本側との接触に当り得ないので、 万事を胸中の奥深く秘めていたに過ぎないとのことであった。

 中国では阿片やヘロイン、モルヒネを常用する悪習があり、中毒者は恥も外聞もなく、麻薬の入手に狂奔するので、私たちの中国勤務中には、中毒者が金銭的誘惑に弱い点につけ込んで、 よく情報集めなどに利用したものだったが、三名の浮浪人の如きは、利用すペく恰好の囮だったわけだ。

 私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。

 満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、 右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐 (当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。


 (P22〜P23)


 まず、小川平吉鉄道相は、「偽装工作」の中心人物であった工藤鉄太郎から、直接「告白」を聞いています。工藤は、中国側の捜査が犯人一味にまで及ぼうとしているのに危機感を抱き、 身の安全を確保するために小川の救援を求めたわけです。

 これは普通の感覚では「伝聞」とは言わないと思いますし、その後の「特別調査委員会」で同じ内容が報告されたことからも、信頼性は高いと考えられます。

 そして森島守人は、「劉哲が、森岡正平領事に内話した」話を伝えています。この真相は確認のしようがありませんが、他の情報との矛盾はなく、十分にありうる話、と考えてよいと思います。 いずれにしても、森島氏のこの情報が「伝聞」であるからと言って、小川手記の内容まで否定してしまうことはできないでしょう。

 何よりも森島氏は、犯人の一人である東宮大尉から直接事件の真相を聴取しています。これも、瀧澤氏にとっては、信頼に値しない「いわゆる伝聞証拠」に過ぎないのでしょうか。



 さて、普通であれば伊藤氏の発言がこの座談会の「結論」となるところですが、ここに中西輝政氏が割り込んできて、何とも強引な「まとめ」を行ってしまいます。

『諸君!』座談会『張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か』より


中西 しかし、日本側の史料として特に重要なのは、田中隆吉証言です。彼は東京裁判で「河本大佐の計画で実行された」などと検察側証人として証言していますが、その根拠はすべて伝聞で、 特にこの人物の背景をもう一度掘り下げて調べる必要があります。またそれ以降に出た数々の「河本大佐供述書」も、二十数年後に中共が作成したもので信憑性はずいぶん低い。

 こうしたことを考え合わせれば、現在のところ「(張作霖爆殺を)日本側がやったという確かな歴史的根拠はない」ということを当面の結論としておくべきだと思いますよ。

(『諸君!』2006年6月号 P32)


 このテーマについてはこれで終わってしまい、結局のところ、「確かな歴史的根拠はない」ということが「座談会」の結論になった形になっています。 結果として、読者に「やっぱり怪しい」という印象を残す、何とも巧みな構成になっている、と言えるかもしれません。

 なお中西氏は「田中隆吉証言」を「特に重要」と評価していますが、実際には、学術論文で「田中証言」を重要視しているものは、ほとんど見かけません。念のために付け加えておきます。



2008.11.23追記

「ソ連犯行説」なるものの出現から2年以上経過しました。その後アカデミズム界からの反応はほとんどなく、結局のところ、この「珍説」はまともな研究者からは相手にされなかった形です。

その間、秦郁彦氏が、『張作霖爆殺事件の再考察』(日本大学法友会『政経研究』2007年5月号)と題する論稿を発表しました。 氏はこの論稿で「ソ連犯行説」を批判し、「(河本犯行説は)定説と言うより確定した史実と考えたいた私にとって、 ソ連犯行説は西郷隆盛が西南戦争で死なず生き延びたたぐいの妄想に見える」(P104)との評価を行っています。


さらに秦氏は、『週刊朝日』2008年11月28号で軍事ジャーナリスト田岡俊次氏との対談を行っていますが、その中に、次のような発言がみられます。

『対談 田母神論文は「上杉謙信が女だった」という珍説と同じだ』より

 そうです。このソ連情報機関の資料というのは、元KGB職員だったプロホルフという若い作家が書いた本を指しているのだと思いますが、 彼は文書資料によって書いたわけではない。メディアの取材にも「そういう話を聞いたことがある、というだけだ」と語っています。泡みたいな話ですよ。

(『週刊朝日』2008年11月28日号 P35)


(2006.6.18)


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