
| 張作霖爆殺事件 −河本大佐犯行説、これだけの根拠− |
1928年6月3日、当時中国東北地区の支配者であった張作霖は、奉天への帰路、乗車していた列車の爆破により殺害されました。
この事件については関東軍河本大作大佐らの犯行であるというのが常識として語られる「通説」ですが、最近になり、「ソ連犯行説」なるものが、巷間伝えられるようになりました。このコンテンツでは、果たしてこの「異説」の成立の余地があるのかという点に絞って、各種の資料を見ていくことにしたいと思います。
| 1 | 「事件」の現場で |
「事件」の第一報は、このような形で日本に報道されました。
| 東京朝日新聞 昭和三年六月五日夕刊
張作霖氏始め負傷多数 満鉄陸橋も破壊さる
四日午前五時半頃張作霖氏の乗つた特別列車が満鉄奉天駅を距る一キロの満鉄線の陸橋下の京奉線をばく進中 突然がう然と爆弾が破裂し 満鉄の陸橋は爆破され 進行中の張氏の特別列車の貴賓室および客車三台破壊され一台は火災を起し焼滅し 陸橋も目下燃えつつあり我守備軍および警官出張中である 【奉天特派員四日発】 張作霖氏は無事危機を逃れ遭難個所から自動車にて城内の私邸に帰つたが負傷している模様である 負傷者は可なり多数に上り苦しいうめき声を立てて救ひを求めて居る 列車中の負傷者は乗込中の支那兵士が運びだしたが付近通行中の支那人で負傷したものも相当あり 自動車等辺りに飛び 付近民家の窓がらす等全部破壊されて居る
(一面トップ) |
実際には張作霖はその日のうちに死亡していましたが、その事実は、中国側によってしばらくの間秘匿されます。
たまたま現地を訪問していた民政党議員6名が、事件直後、この事件の調査に参加しました。そのうちの一人、松村謙三氏は、こんな記録を残しています。
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*「ゆう」注 実際には儀我少佐は、事件とは無関係であったようです。長男儀我壮一郎氏が語るところによれば、嶬峨少佐自身、『自分が乗っていることを知りながら爆破するとは何事だ』と激怒していた、と伝えられます。(臼井勝美氏『張学良の昭和史最後の証言』P53) なお余談ながら、複数の文献で「儀我」少佐の姓は「儀峨」と表示されていますが、これは誤りです。(儀我壮一郎『張作霖爆殺事件の真相』=専修大学社会科学研究所『社会科学年報』第42号)一、爆破の状況をみるに、上の満鉄のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしく、その証拠に客車は上から滅茶滅茶に押しつぶされているが車両は脱線していない。 一、そのとき使用した火薬が橋台にいぶりついている。それをみると黄色火薬で日本以外には使っていないものである。支那側はこんな高級な黄色火薬はこちらで使っていないと主張する。 一、その付近に南方の志士と称するものが斬奸状を懐にして自殺している。日本側はこのものが南方から潜入してその大事を決行したんだと主張する。その男の死体を裸にして調べるとまったくひどい阿片の中毒者で、いわゆるインという中毒患者である。からだ中、注射の跡だらけでそんな荒仕事のできるものではない。斬奸状を開いてみるとまったく日本流の漢文である。支那側の立会人は「これは日本流の漢文で、たとえばこの中に"南風競わず"と書いてあるが、日本では南北朝のことなどによく使いますが、わが国ではそのようなことばはあまり使いません」と主張する。 ―それでもとやかく理屈をつけて"水掛論"でおしきったのであったが、最後に至ってどうにもならない確証がでてきたので困った。それは橋台から少しはなれたところに日本兵の監視所がある。橋台の下に爆薬を埋めて、そこから監視所まで電線を引き、監視所でスイッチをひねって爆破させたのであるが、不覚にもあわててその電線を巻いてかくしておくことを忘れたのである。それで監視所まで電線がそのままあったのだから、どうにも言いくるめるわけにいかない。これで完全にまいった。 三日ほど滞在しているあいだにそういう不手際やら不始末やらがわかったので、事件の表面も裏面もすっかりわかってしまった。 (同書 P125〜P128) *松村謙三は1883年生まれ。戦後、農林大臣、郵政大臣、文部大臣等を歴任。 |
「日本兵の監視所」とは、まさに、現場の警備責任者たる東宮大尉がいたはずの場所でした。もし第三の陰謀者が「日本兵の監視所」まで電線を敷いたのであれば、東宮大尉が気がつかないはずがありません。
早くも日本側は、決定的に不利な材料を握られてしまいました。
*ネットを見ると、「爆薬は線路に仕掛けられていた」という誤解を、よく見かけます。写真を見ると列車の上部が破壊されていることから、「従って真犯人は河本らではない」という頓珍漢な議論に発展することもあります。実際には、爆薬は、「朝鮮軍から増援にきていた工兵隊によって橋桁の上部に取り付けられた」(『未公開写真に見る満州事変』P32)ものでした。
| 2 | 河本大佐の証言 |
さて、当の河本大佐がどのような発言を行っていたかを見ていきましょう。本人の語った発言を直接第三者が筆記したものとしては、「森記録」と「平野記録」が知られています。
「森記録」は、「満州事変関係者を一人々々虱つぷしに訪問してまわ」って聞き取り調査を行っていた森克己氏が、昭和17年、河本に対して行った聴取記録です。氏の著作、『満洲事変の裏面史』
で全文を見ることができます。
河本大作大佐談 昭和十七年十二月一日、於大連河本邸
その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた。 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。 (以下略) (森克己『満州事変の裏面史』 P269〜P270) |
次の「平野記録」は、河本の義弟である平野零児氏が、河本大作の満洲炭鉱株式会社理事長時代の秘書平田九郎氏の命を受けて、「将来河本大作伝作成の資料とするため」聴取を行った記録です。
昭和29年、そのうちの一部が『文藝春秋』に「私が張作霖を殺した」と題して掲載されました。当時は、本当に河本本人の手記であるかどうかの論争が巻き起こったようですが、今日では、井星英氏の調査などにより、記録の成立過程はほぼ明らかになっています。
河本大作『私が張作霖を殺した』より (略) さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重な奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃す憂いがある。充分の手配が要る。 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、煌古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。 では、今度はいかなる手段に出るかが、次の問題となる。 一、列車を襲撃するか、 二、爆薬を用いて列車を爆破するか、 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終った場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。 万端周到な用意は出来た。 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ、三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる惧れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみがあたっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点にさしかかった。 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。 喪は発しないで、人心を鎮めるために、張作霖は重傷だが、生命に別状なしと発表して、城内は異常な沈黙のうちにあった。そしてその当座、昨日に変って、たとえ一時ではあったが、さしもの排日行為も、ピタリと熄んでしまったのは笑止であった。 (以下略) (『文藝春秋』昭和29年12月号掲載) (『「文藝春秋」にみる昭和史(一)』 P59〜P61) *記録の全文、及びこの記録の成立過程に関する平野零児氏、井星英氏の記述を、こちらに掲載しました。なお、この記録について信頼性を疑う発言が聞かれることがありますが、 最後の成立過程を見れば、これが「河本本人の語りに基づく記録」であることまで否定するのは無理でしょう。 |
いずれの資料も、事件の真相に接近するための有力手段として、幾多の研究者に使われてきました。「事件」から10年以上も後の聴取記録であり、また関係者に累が及ぶことを恐れてか、細部にはやや事実と適合しない話も出てきますが、本人がここまで詳細に自分の「犯罪」を語っているのですから、少なくとも事件の首謀者が河本本人であることを疑うことはできないでしょう。
それ以外にも、「河本大佐から話を聞いた」という証言は、あちこちで見ることができます。河本は、公式の調査に対しては関与を否定していましたが、知人との私的な会話の中では、結構「事件」について語っていたようです。
| 小磯国昭『葛山鴻瓜』より 此の事件のあった直後、筆者が年来懇意にして来た関東軍高級参謀の河本大作大佐が上京することを承知し、事件の真相等をも聴取することが出来ると思ったので、其の着京を出迎へる為、東京駅に行って見た。プラットホームで列車の到着を待ってゐると、そこへ参謀本部の荒木貞夫中将と小畑敏四郎大佐が来合はせたので挨拶すると、矢張、河本大佐を出迎へに来たといふのであった。其の中、河本大佐が予定の通り下車したが、駅では立話も出来ないので一緒に麹町平河町実亭に行き会食後、一切の事情を聴かせて貰った。 此の作霖氏爆死事件を巡つて田中首相と白川陸相との間に責任者処分権限問題が論争の種となり、田中首相は処分問題に関し天皇陛下に内奏した所と結果とに喰ひ違ひを生じた責任を執り、内閣総辞職を決行するに至ったのだと聞いてゐる。 関東軍司令官村岡長太郎中将と河本大作大佐とは此の事件に関連して共に現役を退くことになった。 (P491) |
| 井星英『張作霖爆殺事件の真相』(一)より たとへば、大川周明博士門下狩野徹氏は、昭和六年、十月事件の直後、河本氏と東北視察旅行に行く途次、車中にて事件の内容を聴いた、と昭和五十五年十二月三日、自宅にて筆者に語られた。 (『芸林』昭和57年6月号 P6) |
| 松本清張『「満洲某重大事件」』より
河本大作は、陸軍を退いてのち満鉄関係の石炭事業に関係したりしていたが、終戦時、中共軍によって捕えられ、太原の収容所で七十歳の生涯をとじている。したがって、河本の供述調書は東京裁判では見られなかったが、今ここに、河本と山西産業社時代に最も近しかった城野宏という人が河本から聞いたという話を述べることにする。 *以下、4ページにわたって「聞いたという話」の詳細が記述されていますが、内容は他の証言と大同小異ですので、省略します。 |
| 『小川平吉関係文書』より
其後昭和五年間居中河本大佐は永田大佐と共に予を平塚に訪ひ、具さに当時の事を語れり。其談によれば初め村岡司令官の発意に対し反対せしが、後に至り独自全責任を以て決行せりといふ。而して劉に対しては金円贈与の約をなしたることなしといへり。惟ふに此点は安達氏の取計らひならん乎。昭和六年十月追記。 (P627) |
| 3 | 「犯人」たちの証言 |
「自らの犯行」を語っているのは、河本大佐だけではありません。例えば協力者の川越大尉も、事件の経緯に関する詳細な記録を残しています。
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稲葉正夫『張作霖爆殺事件』より『川越守二手記』
一 六月三日午後総領事館より、張作霖の本夜皇姑屯駅着の時日本人の主な方の出迎へは中止になったと電話があった。軍は参謀長が出迎へることになっていた。 (稲葉正夫『張作霖爆殺事件』 P36 =『昭和三年支那事変出兵史』所収)
*当手記は、防衛庁防衛研修所戦史部の保管文書です。一般には閲覧が困難な文書であるようですが、戦史部の稲葉氏が、上のように自らの論稿で「手記」を部分的に紹介して
おり、内容を覗い知ることができます。また、井星英氏もこの資料を閲覧しており、『張作霖爆殺事件の真相』と題する論稿の中に何箇所か引用を行っています。 |
川越守二大尉の証言は、次の資料でも見ることができます。
相良俊輔 『赤い夕陽の満州野が原に』より 川越守二大尉の証言 (当時・関東軍司令部付参謀心得) 『― 私は河本高級参謀からはじめて計画の全貌をあかされたとき、事件に連座すれば、きみは免職になるかもしれない。私ははじめからそのつもりでいたから、いっこう構わないが、きみには奥さんや子供がいる。それでも協力するのか、後悔することはないのか、と念を押された。 「今更なにをいわれるのですか。男一匹、死所を得られるのは本懐ですよ」 私が昂然と答えると、大佐はいくども私の手を握り微笑された。 それから一年間、私はその計画のためにがむしゃらに働き通し、やっとその日を迎えた。正直いって決行の夜は、さすがに昂奮して一睡もできなかった。 列車爆破の轟然たる大音響を、私は軍司令部の一室できいた。爆発か起こって三十分ほどして銃声がやんだ。ヤマトホテル前の広場に集結を完了し出動待機していた実戦部隊が、参謀長命令で解散されたあと、あたりはやっと平静になったが、午後になると市中は再び騒乱状態におちいった。 私は軍司令部で朝食をすませて、現場視察へむかった。二輌の車輌が傾いたまま、まだプスプス燃えくすぶり、奉天軍の将校が遠巻きにしてわいわい騒いでいた。工兵隊の将校が仲間の将校に、得意気に説明しているのをみて、私はカッとし一喝くらわせた。 その帰途、儀峨少佐の官舎を訪ねて、お見舞いした。 「― まったく、ひどい目にあったよ。ほれ、これをみてくれ」 儀峨少佐はボロボロになった軍服を指さし、憤懣やるかたない、といった顔をしてみせた。かぞえてみたら四十数ヵ所も穴があいていた。 「これで、よく助かったものだ」 と、私は彼の不死身ぶりに呆れるおもいがしたが、仕掛人のひとりであるだけに、内心、手を合わせてお詫びしたい気持でいっぱいだった。 少佐の話だと、破壊された列車からひきおろされた張作霖は、憲兵隊のボロトラックに乗せられて、運び去られるまで見とどけたが、生死についてはよくわからなかった、といっていた。 その日の午後、憲政会の代議士六人が北京から奉天に到着し、現場視察をしたいから便宜をはかつてほしい、といってきた。 野党の議員であるし、うるさいとおもったから、ほったらかしにしておいた。 (中略)
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一方、「自ら爆薬のスイッチを押した」と伝えられる東宮大尉も、当時奉天総領事代理を務めていた森島守人氏に対して直接「犯行
」を語っていました。
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森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より
*出典が不明でしたのでここでは省きましたが、東宮大尉自身の詳細な証言は、前掲、相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に』でも見ることができます。 |
あるいは、尾崎義春少佐の記述です。尾崎少佐は、爆破が失敗した場合に直接列車を襲撃する、という役割を担っていたとのことです。
| 尾崎義春氏『陸軍を動かした人々』より
河本大作大佐 |
上の尾崎少佐の記述にもある通り、河本大佐は、張作霖の列車がいつ現場に到着するかを確認するために、何人かの「密偵」を各駅に配置していました。
「密偵」たちが「爆破計画」まで承知していたかどうかは不明ですが、そのうちの一人、角田市朗中尉は、武田丈夫中尉とともに「密偵」を命じられた旨の手記を残しています。
| 塚本誠『ある情報将校の記録』より
張作霖の爆死によって、満州の形勢は一変した。 以下は角田の手記の要約である。手記中T中尉とあるのは武田丈夫中尉(35期)のことである。彼は陸士予科時代は有名な弥次ごろで、通称「馬車馬」といって下級生から畏れられていた。
(同書 P87〜P88) |
その他、「密偵」として有名なのが、河本大作手記にも名前が登場する、「竹下少佐」です。河本大佐は、「手記」の中で、このように述べています。
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河本大作『私が張作霖を殺した』より 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る―と考えられた。 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴く事になった。 それを察したので、自分は竹下参謀に、 『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視耽々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。俺がやろう。それより外はない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。 北京には建川美次少将が大使館付武官としておった。 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを、速報せしめる手筈をとった。 (『「文藝春秋」にみる昭和史(一)』 P58〜P59) |
ただし当の竹下少佐は、自分が直接「事件」に関与していたということは否定しているようです。
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井星英『張作霖爆殺事件の真相』(一)より (井星英『張作霖爆殺事件の真相』(一)=『芸林』昭和57年6月、P11)。 |
いずれにしても、竹下少佐が列車の正確な運行状況を調べる「密偵」の役割を担っていたことは本人も認めており、この点は間違いなく「事実」であると断定できるでしょう。
| 4 | 「南方便衣兵」の死体 |
事件の直後、関東軍は、現場で怪しい中国人を発見して追跡したところ、抵抗されたのでこれを刺殺、調べたところ懐中から国民革命軍のしるしがある手紙が出てきた、と発表しました。
| 東京朝日新聞 昭和三年六月五日夕刊
南軍便衣隊の所業か 怪しき支那人捕はる 【奉天特派員四日発】 特別列車爆破に先立ち三日午後十一時頃満鉄京奉線のクロス点付近を態度怪しき支那人二名が通行して居るので追跡して調べた所懐中には二通の国民革命軍のしるしある手紙を所持してゐた、 その中には張作霖氏の奉天帰着列車の時間等が記されてあつた事実あり 又爆発現場の惨たんたる事実から見て埋設してあつた爆薬を南軍便衣隊が張作霖氏の乗込んで居る列車の進行し来るを見計らつて爆破させたものらしくその破壊力偉大な所は到底投げつけた爆弾のおよぶところでない |
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上のふたつの資料だけを見ても、肝心の通行時間が「午後十一時」であったり「午前三時半」であったり、混乱が見られます。そもそも事件の前に「刺殺」されてしまった以上、この中国人が「爆破犯人」であることはありえません。
これが実は犯人たちの「偽装工作」であったことは、まず、工作に関与した大陸浪人工藤鉄太郎が小川平吉鉄道相の下に情報をもたらしたことから、明らかにされます。
| 『小川平吉関係文書』より
既にして予が嚢きに宣統帝の許に遣はしたる工藤鉄三郎氏は急速帰京して仔細に事件の顛末を述べ、関係支那人劉戴明の処置に関する援助を求め来れり。是れを日本政界における張氏爆死事件内容知悉の最初と為す。 工藤の報告に曰く。 関東軍の参謀河本大佐は慷慨果敢の国土なり。張作霖が郭松齢の乱に負へる日本の洪恩を忘却して事毎に日本に反抗するを憤り、張を排除し奉天の政局を一新することを図りしに、忽ちにして張の北京を退きて帰奉するの報に接し、乃ち之を爆殺して国患を除くと共に、変に伴うて支那軍隊の動揺するに乗じ、機を見て奉天を占領し、意中の人物を擁立して満洲の統治を左右せんと企図し、急逮策を按じて親交ある志士(工藤鉄三郎の親友)安達某を招きて犠牲支那人二名を物色せんことを依頼せり。 |
小川からこの情報を得た田中首相は、外務省・陸軍省・関東庁からなる「特別調査委員会」に調査を命じました。その結果、「伊藤謙二郎」「安達隆盛」「劉載明」という「工作」の中心にあった3名の証言も、工藤証言と「大体一致」しました。
張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録(二) 第二回会議 昭和三年十月二十三日午後二時より四時迄 於外務省小会議室 出席者 (外務省) ○森政務次官 ○植原参与官 ○有田亜細亜局長 岡崎事務官 (陸軍省) ○杉山軍務局長 (関東庁) 大場事務官 (○印:特別委員会委員) 一、午後二時森政務次官開会を宣し先つ藤岡関東庁警務局長の本委員会に提出せる報告書(右は三通作成し一通は藤岡局長保管、一通は大場事務官保管、一通は本委員会に提出し目下有田局長保管す)に付大場事務官の説明を聴取す 二、大場事務官説明要旨 (イ)爆破事件当初関東庁側にても凌印清を疑はしと思ひ調査せるか大して関係する所無かりし模様に付其の儘放置し置けるか今般藤岡局長帰任し本委員会の協議の結果に基き更に凌及伊藤謙次郎、安達隆盛等の取調へたる結果か本件報告書なるか関東庁にては爆破其のものに付ては深く調査の方法なかりし次第にて主として其準備行為たる支那人雇入の経過に付取調へ大体左の如く判明せり (ロ)第一次計画 本件の中心となりたるは伊藤謙二郎(大石橋居住、石灰販売並褐石販売業)にして彼は平常より満州問題等に口を出す男なりしか本年五月張作霖の形勢非となるや満蒙懸案解決の為にも此際張に代わるに呉俊陞辺りを以てする事可然となし五月十五日頃(正確なる日時判明せす)在奉天関東軍司令部に斉藤参謀長を訪ひ此際激烈なる方法にて局面転回を計る事可然き旨を進言せるか斉藤参謀長は単に之を聴取するのみにて相談に乗る模様なかりしに付伊藤は更に河本参謀を訪ね先つ河本に如何なる決心あるやを確めたる処河本は「国家の為ならは腹を切る覚悟もある」旨を言明したるに付ことに其計画即懸案解決の為張に代ふるに呉を以てせむ事を述べたるに(当時伊藤等は右に付ては呉も多少の諒解ありと見込なりしか如し)河本之に賛成す。 依て実行の方法として先つ呉俊陞と同じ考を有せる張景恵を説く事とし張と義弟の拘ありと云ふ新井宗治(奉天貸家業)に相談し新井より電話にて新京にありたる張に対し直に来奉方を求めたるも張は来るを得さりし為更に張の息を説き副官を赴発せしめ本計画を話さしめたるに張之に同意したる為愈々実行の事に決したるものの如し。 (ハ)第一次計画の齟齬 然るに当時張作霖は六月十四日頃帰奉の見込なりしに付其の積りにて計画を進め居たりしに六月一日に至り急に六月三日帰奉のこととなりたることを知りたる為慌てて呉俊陞を説き挙兵を促したるも呉は斯く時日切迫しては準備整はすとして承知せす 却て張作霖出迎の為山海関方面に出発し遂に当初の計画は失敗に終れり。 (ニ)第二次計画 依て伊藤は更に他の計画を以て当初の目的を達成せんとしことに張作霖列車爆破を企て河本参謀に之を打明け且実行場所としては南満京奉「クロス」地点を選ふて可然旨を進言せり 河本は其際金は出せぬ旨を述へたるも他方爆破には支那人の必要なれは四五名雇入し度しと云ひ伊藤之か周旋方を引受けたり。 而して伊藤は河本より右雇入には伊藤自身之に当るへきことを云はれたるも平常支那人に交際なかりし為新井宗治に之を話し(但し新井は第二次計画には関係なしと云ひ居れり)一応相談の上劉載明(元吉林軍馬営長、現在は奉天附属地遊郭に出資する匿名組合の一員)の手によることにしたるも劉は平常安達隆盛と往来し居ることを知りたる為安達より邪魔されぬ様同人の口の軽き男なることは知りたるも安達にも本計画を洩せる由。 劉は元部下のモルヒネ中毒患者リユウバンシヨウ及其の手を通しチヨウエイキユウ並王某の三名を雇入し当初は表面日本天津軍密偵となるものなりとて右三名に百円宛(但し右は伊藤の言、安達及劉載明は夫々百五十円宛を与へたりと申述ふ)を与へ、入湯、理髪をなし且衣服を整へしむ(彼等は乞食の如き姿なりしと) (尚彼等は六月三日午前四時頃遊郭内の福田泉なる風呂屋にて一度は断はられたるも強て頼み一人風呂に入れる由) 然るに王某は其後逃亡し結局残り二名伊藤を訪ねたるに(三日朝)伊藤は彼等に実は列車爆破の為爆弾を投するものなることを告けたるに両名共大いに狼狽し逃亡の惧もありたるを以て一旦安達の家に留め置き看視せり 而して其際安達に本任務に成功すれは一人宛二千円宛又は死亡すれは遺族に五千円を与ふへしと云ひしか伊藤は斯ることを云へは後に困ることを生すへしとて止めたるも安達は一度爆破となれは支那側は発砲し日本側も之に応射すへく結局奉天は半戦争状態となるへく其の際は五千や一万の金は如何ともなるへしと答へし由。 六月三日午前八時過き伊藤、安達及劉載明は右二名の支那人に劉載明書きたる手紙二通を携帯せしめ奉天、瀋陽館(関東軍幕僚宿舎)に伴ひ河本参謀に引渡したり 而して伊藤は更に現場に同道せむ事を望みたるも河本之を謝絶し両名の支那人のみを自動車に同乗せしめ出発せり 従て伊藤等は其の後の模様に付ては何等知る所なしと。 (以上、伊藤、安達及劉載明の言の大体一致せるところなるか唯新井のみは第二次計画に関係なしと云ひ又雇人支那人に与へたる手付金額に付ては伊藤と安達及劉の所述に相違あること前記の如し) (『アジア歴史資料センター』資料) |
余談ですが、森島氏は、このうち刺殺を免れた一名(王某)が張学良のもとに駆け込み、これが中国側が事件の真相を知るきっかけとなった、との記述を残しています。
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なお森島氏は、この中国人たちが「事件」の前日に立ち寄った風呂屋「福田泉」の主人の「通報」も、あわせて紹介しています。
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| 5 | 憲兵隊による調査 |
「事件の真犯人は河本大佐グループ」との情報は、複数のルートから、田中義一首相の下に届きました。このあたりの情報は「田中義一伝記」に詳しいので、これに沿って見ていきましょう。
まず第一報をもたらしたのは、貴志中将です。
| 『田中義一伝記』より
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この時点では、まだ「怪しい」程度の情報でしたが、次いで大陸浪人工藤鉄三郎から、小川鉄道相に詳しい情報が入ります。
| 『田中義一伝記』より
第二報は南満大石橋在住の浪人某(ゆう注.工藤鉄太郎)から小川鉄相に注進された情報であった。それに依ると某は作霖の親衛隊長荒木五郎(予備少尉、満洲に帰化)に委嘱されて、爆発失敗の場合抜刀隊を率いて作霖の列車に斬込む役割であり、荒木に頼んだのは関東軍の幹部らしいと云うのである。そうこうする裡に林権助男の帰京によって多くの情報が齎らされ、漠然ながら軍人による凶行の輪郭が次第に首相にも推測されるに至った。 (『田中義一伝記』(下) P1028) *詳細は、前掲『小川平吉関係文書』をご覧ください。 |
田中首相にとっても、この情報はショッキングなものであったようです。奉天総領事であった林久次郎氏を呼び寄せ、真偽のほどを尋ねています。
| 林久次郎『満州事変と奉天総領事』より 九月六日東京着、七日田中首相に会見した。首相は、君を呼び返せるは他の儀でない。六月四日、クロスに於て張作霖搭乗の列車爆破せる者は、関東軍所属の者なりと伝うる者がある。本件に関係せりと称する満州浪人安達隆成なるものより、東京の工藤鉄太郎に来信あり。工藤より小川(平吉)鉄相に其の書信を示したが、総領事は其の事実を知って居るかと尋ねたから、 事実は知らない。固より幾多の噂有るも信頼する訳に行かない。只、警察の報告等に依りて見るに、事変の当時射殺せられたこ人の便衣隊員は事実は乞食で、或る浪人が金銭を与え利用したものであるとの情報がある。又五日朝、総領事館の打合せ会に於ける守備中隊長の言に疑わしき点無きに非ざるも、爆破が関東軍所属の者に依り成されたという何等の証拠も発見せられて居らぬと答えた。 (P43) |
これらの情報を得た田中首相は、前記の「特別調査委員会」に「共同調査」を命じるとともに、峯憲兵司令官にも軍ルートへの調査を命じました。そして峯は、当事者を直接訊問して、決定的な情報を持ち帰ります。(「峯憲兵司令官」の名は、資料によっては「峰」となっている場合もあります。ここでは、基本的には「峯」の字を使っていますが、資料が「峰」と表記している場合にはそれに従っています)
| 『田中義一伝記』より
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余談ですが、峯による朝鮮軍への調査については、『河本大作供述調書』中に、以下のような供述が見られます。中国側による「戦犯」としての取調べ資料で
はありますが、少なくともこの部分に関しては、特に他の資料との矛盾もなく、十分にありうる話であると考えられます。
| 『河本大作供述調書』 折も折、朝鮮憲兵司令官から「満州では調査のしようがなかったが、手元に材料を入手した」という報告が〔峰のところに〕入った。この時の行動に朝鮮から参加した桐野工兵中尉が、平壌で難波隊長(中佐)に招かれた宴会の席上、「今回の皇姑屯でのお手並みは全くお見事でした。一体どんな具合になさったのですか」とある人に尋ねられ、すでに一杯機嫌だった桐野は、酒の勢いで一切合切を吐き出してしまったのだった。 峰はこれらの材料を手に日本に戻り、中央に報告した。 (『This is 読売』1997年11月号 P56) |
なお、この峯憲兵司令官の報告書の具体的な内容は、今日では確認することができません。東京裁判で田中隆吉が「見た」との証言を行っていますが、裁判所の提出命令にも関わらず提出は行われませんでした。
しかし、この「峯報告」が当時広く知られていたことは、次の建川中将の談話でも伺い知ることができます。森克己氏による、建川中将への聴取記録です。
| 建川美次中将談 昭和十八年七月十八日午前十時〜午後一時 於東北沢同中将邸 彼の時の峰憲兵司令官も馬鹿な奴だった。調査に行ったのは、そんな事実なしということを調べにやった筈なのだ。現地へ行って河本らを呼び出し、「帝国軍人はそんなことはせぬ。お前ら何を馬鹿げたことをいうか、そんなことは捏造だろう」と叱り飛ばして帰って来ればよいのに、態々調べ上げて来て、あの結果になった。 (森克己『満洲事変の裏面史』 P326) |
| 6 | そして、「上奏」へ |
かくして、「事件」が実は軍部によって行われたこと、その首謀者が河本大佐であったことは、決定的になりました。日本の正規の軍隊が、
中央の指示に基づくものではなかったとはいえ、一国の要人を暗殺してしまった。これは、国際的問題への発展を免れない、大変な「犯罪」です。
田中首相は、この対応に苦慮します。結局は、元老西園寺公のアドバイスもあり、田中は、「事件」に関する天皇への「上奏」を行
いました。この時の「上奏」の内容には諸説ありますが、とりあえずは、『田中義一伝記』を引用します。
| 『田中義一伝記』より
かくて十二月二十四日午後二時首相は宮中に参内して拝謁の上『作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるを以て若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行なうべく、詳細は調査終了次第陸相より奏上する』旨を申上げて退下し、二十五日各閣僚を個別に二十六日閣議に於ても総理大臣として決意を告げ併せて意見を徴したのであった。 |
ここでは明言はありませんが、実際には、天皇の下に、「河本の犯行である」旨は伝えられていたようです。粟屋氏が発見した『鳩山一郎文書』に収められていた、『極秘 内奏写』という文書 に、その旨の記述があります。
*なお、発見者の粟屋氏はこの「上奏」は田中首相によって行われたものと思われる旨を述べましたが、実際には、この「上奏」を行ったのは、田中首相ではなく白川陸相であった、との有力説がありま
す(永井和『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』=『日本歴史』1990年11月)。
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鳩山一郎文書『極秘 内奏写』
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しかし、陸軍内の雰囲気は、河本への同情・共感から、圧倒的に「処罰反対」でした。この流れに抗しきれず、田中首相は改めて「上奏」をやりなおし、天皇に対して、今度は「事件の真相は不明だった」
と前言を翻した報告を行いました。
天皇は、これに対して、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか
」と激しい怒りを示しました。
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『昭和天皇独白録』より 張作霧爆死の件 |
天皇の怒りを買った結果、田中内閣は、ただちに総辞職を余儀なくされました。田中自身も、総辞職から3か月後の9月29日に、心臓発作によりこの世を去ることになります。一部では、「自殺」説も囁かれました。(中島亀次郎『田中義一大将の切腹』=『文藝春秋臨時増刊 昭和の35大事件』所収)
| 7 | 余禄 みんなが知っていた |
以上のような経緯を経て、軍部・政府関係者などの間では、「事件は実は河本らの犯行であった」ことは、公然の秘密とな
りました。関係者は別に、東京裁判での田中隆吉証言により突然「真相」を知ったわけではありません。
ここでは、前掲の森克己『満洲事変の裏面史』より、当時の軍有力者などが「事件」について承知していた証言を、いくつか紹介しておきましょう。いずれも、太平洋戦争中の聴取記録です。
| 二宮治重中将談
張作霖爆死事件の時、田中内閣で、私は英国より帰り、旅団長をしていた。事件調査に、現地までやってきた憲兵司令官は峰だ。三年十月には此方に来て見た。やったのは東宮の中隊だ。北支から中支を歩いてゐる留守に峰がやったのだ。白川が事件をカンカンに怒って手が付けられなかった。 (森克己『満洲事変の裏面史』 P343〜P344) |
| 三谷清氏談
石原(莞爾)は張作霖爆死の八月関東軍に赴任してきた。 石原は河本大佐の企てを評して、時の利を得なかった。もう三年待てばよいのにといってゐた。 (森克己『満洲事変の裏面史』 P367) |
| 建川美次中将談
自分は赴任の途中、関東軍に立ち寄って挨拶したが、ちょうどその時は高級参謀の斉藤が旅行中で留守で、代って参謀の河本大佐が応待に出て来た。その時の河本の話では、張作霖が関外に逃げ込んだ場合は、張作霖を捕えて監禁し、学良を立て、多くの日本人顧問を入れてやって行くという話だった。豈にはからんや、二月後には殺してしまった。 (森克己『満洲事変の裏面史』 P317) |
2010.2.11追記
田中首相に対しては「事実は知らない」と報告した林久次郎・奉天総領事も、実際には「犯人は河本」との認識を持っていたようです。石射猪太郎氏、1929年の記述です。
| 石射猪太郎『外交官の一生』より 例によって(「ゆう」注 吉林総領事への)単独赴任である。京城経由奉天に立ち寄った。 奉天総領事はシャム公使から転じた林久治郎氏で、その下に領事として森島、森岡、藤村等の旧知の面々がいた。当時奉天総領事は、名は一総領事とはいえ、実は東三省政権への全権公使であり、在満十数個所の外務公館の、総元締の格であった。さればこそ、林氏がシャム公使から技かれて、総領事に還元したのであった。 私は林総領事の内輪話で、張作霖爆死事件の真相を知った。陰謀の張本人として、関東軍参謀河本大佐の名前が語られた。そのほか易幟問題の経緯、楊宇霆、常蔭槐暗殺事件の真相も、林総領事の語るところだった。満州は大きな伏魔殿、この次に何が起こるかとの不気味さを深くした。 (P187) |
以上、当事者たちは口を揃えて自分たちの犯行であることを認め、当時の関係機関も政府へその旨の正式報告を上げ、最後には事件の真相は天皇にまで伝わっていたわけです。
「ソ連犯行説」は、いかにして以上のような「事実群」をくつがえそうとするのか。次のコンテンツで、見ていきましょう。
(2006.6.13)
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