「徴発」の実態


 日本軍の「徴発」は、一応の「ルール」としては、対価として金や軍票を支払い、物資を得ることになっていました。

 しかしその「ルール」がどこまで実行されていたのかは、心もとないものがあります。 実態としては「泥棒」「強奪」としか呼びようのない「徴発」が日常的に行われていたことは、「常識」レベルの、周知の話でしょう。


 そんな中にあって、東中野修道氏などは、あえて次のような見方を披露しています。


東中野修道『南京事件「証拠写真を検証する」』より

 日本軍の調達について付記しておくと、(中略)日本軍は徴発のさいに代価を支払い、支払い不能な場合は証明書を置いていた。(略)

 むろん一部に悪行があったことは否めないであろう。しかしそうした行為が発覚したら陸軍刑法にもとづいて厳しく処罰された。日本軍が掠奪を公認したことも、組織的掠奪を命じたこともなかったのである。

(同書 P116)



 いくら何でも、日本軍が正式に「掠奪を公認」したり「組織的掠奪を命じた」りするはずがありません。 しかし実態は、以下で述べる通り、実情を承知した上での明らかな「黙認」と見るのが妥当でしょう。東中野氏の論は、このあたりをすりかえているようです。

 東中野氏が依拠するのは、「極東国際軍事裁判」や「公式戦史」ものなどにおける「タテマエ証言」であると思われます。 まずはそのような「タテマエ証言」の代表例として、「極東軍事裁判」における榊原証言を紹介しましょう。


榊原主計証言(上海派遣軍参謀部員)


六、上海派遣軍も作戦要務令の規定する方式に従ひ、占領地所在の軍需品を徴発したこともあります。 部隊の行ふ徴発は主として大隊の主計官が実施に当り、其所持する金櫃から支払を実行するもので、それ以下の部隊又は各個人の勝手に為すことは出来ませぬ。 徴発したときに対価を払ふことは当然であります。


七、徴発について困ったことは、上海から南京に至る迄、占領地の多くは、其の部落には一般住民も行政上の責任者も残留して居なかったことであります。 即ち交渉の相手となすべき者が存在しなかったので、結局、不在所有者の現実の承諾のない状態の儘、之を軍需に用ひなければならなかったことが屡々とありました。

 然しその様な場合には、如何なる物を如何程徴発したかを明記し、所有者に判明する様、貼紙をして、司令部ヘ代金を取りに来る様に記して置くのを例としました。

 私が現実にその様な措置を講じであった事実を目撃したのは、無錫に於ける米の倉庫に於てでありました。


八、占領地に所有者若くは行政上の責任者が居ったときは、全て之等に交渉し、その承諾を得て代金支払の上、円満に授受した。

 私が現実にその様に行動した例は幾つもあるが、特に印象に残って居るのは、白卯江上陸作戦の際であります。 上陸点附近の小村落に行政上の責任者たる村長が残留して居て交渉の当事者となったので、その者と接(折)衝して糧秣の補給を受けました。

 是れに対して正当に代金の支払を為し、又残留住民を保護する様に取計ったので、右の村長は日本軍の秩序ある行動に感謝し、我々を歓待してくれた事実があります。

 常熟でも其の様な例がありました。


九、其他各地で制札を立て、住民の保護、掠奪の禁止等を指令しました。これは総て松井大将の意図を奉じて行ったものであります。

 南京では行政上の責任者が全く残留せず、交渉の相手方がなかったから、上述した様な便宜の方法で徴発が行はれたものと思はれる。 難民区から徴発をしたとの話は聞いていません。

(『『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P257〜P258)
 


 しかし、「榊原証言」とは裏腹に、「強奪」「泥棒」の事例は、枚挙に暇がありません。以下何点か資料を紹介しますが、ここで取り上げる資料は、数ある資料のほんの一部であることを念押ししておきます。




 まず、「日本軍の軍紀 憲兵の認識」でも紹介した、上砂勝七氏の記述です。 「徴発令に基く正当な徴発」は「実行不可能」であり、実際には「無断徴用」の形になった、とのことです。

上砂勝七「憲兵三十一年」より


 南船北馬は中国の通り言葉で、柳川軍の行動した地方はクリーク(小さい運河)が多いので有名である。

又特に、上陸地点に注ぐ銭塘江は世界で有数の潮の干満差の激しい場所とて、船団は無事杭州湾頭に碇を下し、部隊は攻撃前進に移ったものの、兵器、弾薬、糧食などの揚陸作業が順調に捗らず、 一部の輸送船は揚陸のため呉淋へ回航し、上海経由で追及したような情況であったから、第一線部隊の携行糧秣は瞬く間に無くなり、補給は続かず、 全く「糧食を敵による」戦法に出なけれはならない有様であって、勢い徴発によったのである。

 然しこの徴発たるや、徴発令に基く正当な徴発は、現地官民共に四散しているため実行不可能で、自然無断徴用の形となり、色々の弊害を伴った。

この情勢を見ていた軍経理部長は、「こんな無茶な作戦計画があるものか、こんな計画では到底経理部長としては補給担当の責任は持てないから、 離任して内地へ帰えらして貰う」といきりたった程で、参謀長田辺盛武少将の口添えでその場はおさまったが、この作戦とこれに伴う補給とは、なかく調和の困難なものであった。

 昔、宇治川の戦いに於ける、佐々木高網と梶原景季との先陣争いは有名な語り草であるが、こんな心理は、古今相通ずるものがあると痛感したことである。

 
(P175〜P176)

 



  そして現場の兵士たちは、「徴発」は、事実上「略奪」を意味するものとして認識していたと見られます。その証言を2つほど、紹介します。

 まず、あえて、否定論者から人気の高い「日本人48人の証言」から引用しましょう。

読売新聞・森博カメラマンの証言


―略奪もあったと言われていますが・・・・。

 「南京ではどうだったかわかりませんが、略奪といいますか、そういうことは兵隊だけでなく記者もやっていました。作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食糧をもらいます。 しかし、重いですから二、三日分の食糧しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。 食糧をとるのは悪いと思ってませんでしたから、そういうことは兵隊も記者もやっていました。

 記者の中には食糧以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持っていった記者もいたといいます。もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが」

(『「南京事件」日本人48人の証言」P101)


もうひとつ、「歩兵第四十三聯隊」の「部隊戦史」からの紹介です。

『歩兵第四十三聯隊 Ⅱ 支那事変編』よりM・S(原文実名)陸軍伍長の手記


十一月四日

 (略)

 僕たちの背負っている袋はぼつぼつ重味を感じて来た。汗も体中に浸んで来てあごを出し始めた。一小隊二分隊の兵は辻に捨てられてあった支部の小車を徴発した。徴発の手初めだ。

 徴発といえばなかなか言葉は良いが、人様の品物をだまって持って行くという仕儀だ。内地なれば完全な泥棒行為だ。だが戦場ではこれが自然の習わしになっているらしい。 習わしになっているかも知らないが、誰に教えられるともなしに僕等はその行為を自然にやっている。最も自然に・・・・。


 車の徴発は一里と歩まない内に五台になり八台になった。まるでぼろ車の縦隊行軍だ。内地の行軍に若しこんな隊形でも取ろうことなら大変なことだ。 だが戦場というものはぼろ車の縦隊でガラガラゴロゴロと平気の進軍行だ。

 道の両側はまるで焼野原になっている町を通ったがここで車を徴発しようにも焼けてしまって何ものもない。未だ焼け残りの煙がクスクスとあちらにもこちらにも立ち上っている。

 一里以上の道を歩んだと思うころ日本人町に到着した。戦いの始まると同時に全部にげておらなかったというに今日は早やぼつぼつ引き返して来て開店している。 中央市場みたいな形の町にしるこや、うどんやがぼつぼつと開店している。上陸以来初めて見る日本人に僕たちは、珍しそうに店に入っていろいろのものを喰った。僕もサイダー一本を立ち呑みした。 ″出発″の号令で再び隊伍は戦線へ。

(以下略)

(『歩兵第四十三聯隊 Ⅱ 支那事変編』P346)


*この手記には、以下のような「編者注」がつけられています。

「本項の筆者・M・S氏(原文実名)は陸軍伍長として中支に転戦、その日々を克明にメモし、十二年十二月台湾屏東南方林辺に宿営待機注にノート七冊にまとめたもので、 その巻頭に"如何に貧弱な文章でもよい。一生に二度と再会し得ない貴重な体験に遭遇して、僕のせめてもの遺品とし書き残したい"と記している。 参戦の生々しさを砲煙のさ中で記された貴重な記録であるので、訂正加筆せずに原文のまま全文を登載した」



 類似の証言は、枚挙に暇がありません。この二人の感覚が、おそらくは当時において一般的なものであったのでしょう。

 次は、第十六師団第十六輜重兵連隊、斉藤忠二郎氏の、南京攻略戦途上の記述です。こちらも、同様の認識を語っています。

斉藤忠二郎『知られて居ない南京戦史』より


 焚火は後続の班があたるというようなことを繰りかえしていたが。その時、班員の内田年一が「斉藤、どぶ酒呑ましたろか」と言う。 「うん、くれ」と呑まして貰った。彼は酒が好きだったので、汚いサイダーピンにどぶ酒を徴発してもっていたのだ。

徴発も、うまい奴と、下手な奴と差があるらしい。戦場には、普通の法は存在しない。有るのは、軍律だけ。 一度作戦に出て、携帯口料を使い果たし、補給を受けられなかったら、後は現地調達となる。上級指揮者も、厳しい軍律を適用出来ない。兵隊は、目につく物を自分の物のように取り扱う。 どぶ酒呑まして貰ったのはよいが、酒が醒めてくれば前にも増して寒い。

(同書 P35-P36)



 次にたまたま当時の新聞記事から拾った事例を紹介します。 どう見ても「畑からかぼちゃを泥棒した」ということであるのに、記者も「一等兵」も「部隊長」も、全く「泥棒」を意識していなかったようです。

 
昭和十二年十二月四日付『大阪毎日新聞』

  部隊長、余裕綽々

   ”早く腐らぬ『南京』が食べたい”

     片桐大野 両部隊破竹の進撃


 丹陽にて【二日】光本本社特派員発

 今や目■(しょう)の間に迫る南京へ破竹の勢ひをもつて突進するわが軍の戦線に今第一線を承るのは南京へ最も近い(七十二㌔)○○部隊である、 片桐、大野両部隊が常州を抜いて士気ますます揚る、各部隊の将士は去る廿八日以来昼夜兼行猛撃をつづけて生米をかじりクリークの水を飲んで二日遂に敵の南京防衛重要拠点である丹陽を占領したのである、

 常州から丹陽へは四十八㌔、道路はない、たつた一本のクリークがあるだけだ、

 片桐、大野部隊はこのクリークの両側から挟撃を受けながら四つ這ひで進撃、その後から今中部隊が敵弾の中で寒風を衝き、クリークを泳ぎながら砲車の道や橋を開く、 三国部隊、小林部隊は橋の修理もまたず筏を組んでそれに砲車をのせ引つ張り廻しひた押しに対岸に出て丹陽絶壁に猛火を浴びせて粉砕した、○○部隊長は馬を捨てて第一線に向う鉢巻で竹杖で強行軍した、 丹陽の敵は五万、上海戦以来の頑強な抵抗であつた

 ○○部隊長が城壁一里に迫つた二日午後四時、部隊長の足下に迫撃砲が炸裂する 「ほう、大分来るな―、今に皆殺しだぞ」と城壁を睨みつける、

 その時「片桐部隊戸山隊が丹陽北方に突つ込んで停車場を占領した、つづいて大野部隊は南方に廻って城壁を包囲し、また大野部隊西崎隊が東門を破つて突入した」といふ報告だ、

 ○○部隊長「ほう、片桐も天晴れやつたぞ、素晴らしい」と上機嫌、無錫で手に入れた支那酒が水筒に少し残つてゐるのを自ら将校についで午後六時丹陽占領の祝杯だ、 まだ敵弾が飛んでくるクリークの川端で交されたのだ、

 部隊長も昨夜から飲まず食はずであるから忠実な当番兵桜井誠一一等兵は「今日の進軍途中畑でかぼちやを一つ拾つた、これを部隊長に差上げたい」と飯盒と一緒にブラ下げて来たのを見た○○部隊長はにつこりして「そのかぼちやもいいが、わしはもつと違つた大きな南京が早く食べたい、一刻も早く行かんと南京が腐つてしまふからのう」と洒落まじりで意気軒昂である、

 いよいよ敵が最後まで頑張つた丹陽を占領して鎮江の敵の退路を遮断した同部隊の殊勲は花々しい、丹陽から金壇への山脈が夕闇に暮れた

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月4日朝刊 第2面中上 4段見出し)
 



 ちなみに、1928年(昭和3年)山東出兵時の記録と比較すると、興味深いものがあります。『歩兵第六聯隊歴史』より、山東出兵当時のエピソードを引用します。


『歩兵第六聯隊歴史』より

こぼれ話(堀場庫三・38期)

 農民は乾麺包のお礼として、びく一杯の西瓜を運んで来た。丁度その折、旅団長が突然兵工廠の視察に来廠せられ、 応接間に山とつまれた西瓜を見て西瓜泥棒ではなかろうなとただされて赤面をしたことがあつた。
 
(同書 P385)

 


 当時の日本軍は、「西瓜」といえども、盗んではいけないものである、と認識していたようです。





 また、「食糧の徴発」とは別に、「焚き付けにするための家具の破壊」も行われていたようです。これは後年昭和18年頃の記録になりますが、鹿児島歩兵第45連隊所属の川崎春彦氏の記述です。

川崎春彦『日中戦争 一兵士の証言 生存率3/1000からの生還』(光人社NF文庫)より


 今度は(ゆう注 野菜を鍋で煮るための)が不足してきた。 私が捜しに行こうとすると、上等兵は土間にあった木製の食卓を倒し、脚を折ってもぎ取り、角にぶっつけて折り、板も打ちつけて割った。

「急ぐときは、これが一番早いんだ」

 たちまちのうちに、椅子まで壊してしまった。釘は一切使ってないので、危険もなく楽である。味つけは岩塩だけであった。

 まさにこれは、掠奪と破壊行為であった。後日、住民が帰宅した際に食卓と椅子がなくなったことに気づき、どんなに不便で困惑することだろう。 そのとき、戦争と日本の軍隊を恨み、東洋の鬼畜が来たと、怒り心頭に発することもやむなしと考え、慄然とした。

 本来なら、物資を徴発したときは、軍票か手形を置いていくのが常道だが、戦場地区ではやむをえず、無償で横領し使用する形となる。 私は住民の気持を考え、できる限り被害を最少限度にしたいと願っていた。だが、先輩は戦争に馴れすぎ、そんな生温い方法では納得せず、略奪、器物破損は当たり前と考え、習慣にさえなっているようであった。

(同書 P76〜P77)





 一応は「ルール通りの徴発」が行われた場合であっても、このようないい加減な事例もあったと伝えられます。

渡辺卯七『第九師団経理部将校の回想』


 
然るに後日〔中国人の〕所有者が代金の請求に持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。 例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて其品種数量も箱入丸斥とか樽詰少量と云ふものや全く何も記入していないもの、 甚だしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く熱意も誠意もない。

 ・・・・徴発した者の話では乃公(だいこう。自分のこと)石川五衛門と書いて風呂釜大一個と書いて置いたが 経理部の奴どうした事だろうかと面白半分の自慢話をして居る有様である。

(本書は入手困難であるため、吉田裕氏『天皇の軍隊と南京事件』P82より再引用しました)



 さらに、榊原氏は「占領地に所有者若くは行政上の責任者が居ったときは、全て之等に交渉し、その承諾を得て代金支払の上、円満に授受した」と証言しましたが、 実際に「代金支払」が行われたケースですら、そんな「きれいごと」では済まない場合もあったようです。

 こちらは北支戦線の資料になりますが、「野砲兵第四聯隊」の「部隊戦史」から、事実上の「強奪」となった「徴発」事例を紹介します。

『野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史』より


 
増井中隊長も、食糧馬糧の欠乏不足について、手記で次の如く書いて居られる。

 食糧馬糧は欠乏して来た、徴発には必ず金を払ふ事にしていたが、住民の逃げて居ない所は失敬するより他に道はない、馬は段々痩せて骨が露出して来て砲車を輓曳く力も心もとなくなって来た、 仕方がない、休止の時は砲車共々高梁畑の中へ引っぱり込んだ。

 住民が血相を変えて喰べる真似をしてわめいて来る。少しの金を出すと泣くのも居る、頑強に罵る者には拳銃を向けておどすと逃げてしまった、 済まないと思ったが背に腹は代えられない、後を見ると馬は狂気のように高梁を喰っている、忽ち坊主畑になってしまった。


 尚此の辺りの豚は猪に似て野性を帯び、捕へる時に名誉の負傷を受けた者も居た。

 豚捕獲に関して愉快な話しがある、チャハルのどの村にも大概大きな空井戸が在り、中には20畳位の広さがあり、村民は20〜30頭の豚を此の中に隠していた。 第二中隊の長尾幸春一等兵とか荒金茂光一等兵は鳶職等の関係で身が軽く、麻縄を輪にして此の中に入り豚の頸と前脚に素早く輪をかけて、曳っぱり上げるのである。

 ギャーギャーバタバタ、中には牙をむいて向って来る野性の豚も居る。

 或る日兵隊達は大豚を釣り上げ、四肢をしばり戸板に乗せて運んで居ると、出しゃばりの第一大隊本部の戸谷主計少尉が、

 「其の豚待った!!」と云ったので、豚釣り指揮官の第二中隊の植木将冨少尉と口論になった、有名な「其の豚待った事件」が起った、 豚が釣れると大隊本部は大騒ぎで、白木少佐は厨房長に早変り、観測掛りの森本軍曹は料理人に早変りした。白木少佐は忽ち長州弁丸出しで、

 「此の豚はよう肥っちょるけん、ロースの処は大き目に包丁を入れんといけん」等と指図され甚だ愉快であった。

(同書 P247〜P248)



 後段は、住民から見れば、貴重な生活物資を奪う、単なる「豚泥棒」です。これを「甚だ愉快」と表現すること自体に、「徴発」に対する感覚の麻痺を感じさせます。





 さて、このような「強奪」「泥棒」の実態は、南京占領後、ますますエスカレートしていきました。そのことを示す資料は数多く存在しますが、ここでは、中島師団長の日記を紹介します。

中島今朝吾日記より(第十六師団長)


◇十二月十九日 薄曇り

一、此日中央飯店より軍民学校内校長(蒋介石)官舎に移る 警備の為の歩兵一小隊あり

 別に趣味生活の相手として天竜寺村上和尚、花岡萬舟、高山剣士、浄土宗黒谷本山派遣白崎軍僧と映画班の二名と当番及宮本副官と共にす

一、戦勝後のかっぱらい心理

 我々が入るときは支那兵が既に速くより占領したる処である 彼等には遺棄書類によつて見れば大体四、五月以降給料は払ふてない  其代りかつぱらい御免というので如何なる家屋も徹底的に引かきまわしてあるから日本軍の入るときは何ものもなく整頓しては居らぬ

一、そこに日本軍が又我先にと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して住く  此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結局ずふずふしい奴が得といふのである

 其一番好適例としては

 我ら占領せる国民政府の中にある 既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て 師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く

 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である 翌々日入て見れば其内の是はは思ふものは皆無くなりて居る 金庫の中でも入れねば駄目といふことになる

一、日本人は物好きである 国民政府といふのでわざわざ見物に来る 唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にかつぱらつて行く  兵卒の監督位では何にもならぬ 堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである

 自己の勢力範囲に於て物を探して往くといふならばせめても戦場心理の表現として背徳とも思はぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然も既に司令部と銘打ちたる建築物の中に入りて 平気でかつぱらうといふのは余程下等と見ねばならぬ

一、中央飯店内に古器物の展覧会跡あり 相当のものがあつて之を監視したが矢張りやられた とうとう師団長が一度点検した上錠をかけて漸く喰止めた位である

一、軍官学校校長官舎は蒋介石が居たとのことで予が占拠する筈にしてあつた  第九聯隊を出してまで取りて置いたのに自己の宿営区域にもあらざる内山旅団〔野戦重砲兵第五旅団〕司令部が侵入して之も亦遺憾なく荒して仕舞つた

 とうとう中央飯店の家具を持ち運びやつと住へる様にしたのである

一、戦場には所有権否定案が如実に表現して居る 我々も支那人に対しては怖られて居るが日本人仲間の間所有権否認は之れ亦功利主義利己主義個人主義の発達した一大現象を見ることが出来るだろう

一、軍隊で自動車を捕獲して検査小修理を兵卒がやつて居る

 通りかかりたる将校が一寸見せろとのぞき込む つづくつて其儘乗り逃げして往く

一、最も悪質のものは貨幣略奪である 中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがある  そしてそれは弗に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する 此仲介者は新聞記者と自動車の運転手に多い 上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある

 第九師団と内山旅団に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い そして金が出来た為逃亡するものが続出するといふことになる  内山旅団の兵隊で四口、計三、〇〇〇円送金したもの其他三〇〇、四〇〇、五〇〇円宛送りたるものは四五十名もある 誠に不吉なことである

 (「南京戦史資料集」旧版P331〜P333)

*「ゆう」注 編者による誤字修正・補足は、そのまま文中に押し込めました。



 榊原氏は、「難民区から徴発をしたとの話は聞いていません」と証言しましたが、このような実態について無知であったとは考えにくく、 これは被告側を少しでも有利にするための「タテマエ証言」であったと見るのが自然でしょう。

 同様の記述は、「幕府山事件」で知られる山田栴二少将の日記にも見られます。

山田栴二日記より(第十三師団第歩兵第百三旅団長・陸軍少将)


◇十二月二十四日 午後より晴

(略)

○徴発の不士鱈は、結局与ふべきのもを与へざりし悪習慣なり

○徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食ふに食なしの状を呈す
 先に処女地に行く隊のみ、うまきことをすることとなる

○兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか
 師団司令部にてもぼやぼやし居れば何んでも無くなる、持つて行かる、馬まで奪られたり

(『南京戦史資料集供截丕械械供



 
 現場での「証言」も、紹介しておきましょう。

『前田吉彦少尉日誌』より 

歩兵第四十五聯隊第七中隊小隊長・歩兵少尉

 一二月十六日

 朝に比べて帰りは街上また大変な人出で無統制に徴発を許した為かそれとも勝手にやっているのかその辺の窓や扉を勝手にやぶって食糧や衣服、 こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった。

 まさか南京突入の殊勲部隊第二十三聯隊の兵隊じゃあるまい。こんな悪いことをするのは決して第一線の歩兵達ではなく後方部隊(輜重電信部隊その他兵站部隊)の非戦闘員に相違ない。 憲兵は何をしているのだ。速に彼等を取締って軍紀を確立せにゃなるまい。

(『南京戦史資料集』P466〜P467)

*前田少尉の記述は、 日高信三郎氏の『街に出てごらん。手に何か持っていない兵隊がいたら、わたしは敬礼するよ』との証言を想起させます。



新聞記者も、同じようなものでした。

佐藤振壽氏『従軍とは歩くこと』より


 中山門から中山東路には、敗残兵の姿も見えない。中山門を降りて、中山東路の左側を進んで行くと、顔見知りの朝日新聞の連絡員に会った。 彼は上海に住んでいて中国人の生活を、筆者よりよく知っているはずだ。筆者独りでは危険かもしれぬが、彼を同行者としたら安心だと思った。

 そこで彼の後を、左側の民家の軒先づたいに進んでいった。しばらく行くと彼が一軒の民家の前に足を止めた。

「東日さん、良いものがありましたよ」
というのでその家の前へ行ってみた。すると開け放しになっている入口から、芳醇な香りが外へ流れている。中へ入って見ると、労酒(紹興酒)のカメが、壁に二段に積み重ねられている。 下にあったカメの蓋をあけて、近くにあったひしゃくで汲み上げて飲んでみた。甘味のある薄黄色の液は、するりとのど越しもよく流れ込んだ。

筆者は七合入りの水筒を持っていたので、紹興酒をいっぱいつめこんだのだった。

(『南京戦史資料集供P604-P605)




 さらに、軍人や従軍記者のみならず、日本大使館員まで、この悪習に染まっていたとの報告もあります。日本の大使館員による、「人力車二台」分の「泥棒」の記録です。

マッカラムの手記より


一月十一日 一昨日アメリカ大使館員を招き、きょうはイギリス、ドイツ館員を夕食に招いた。随分豪勢にした。ひと月以上外部の人には会っていなかったし、話したいことは山ほどあるしで、 本当に話の饗宴だった。彼らの話す一語一語に注意深く耳を傾けたが、まだ聞き足りない気がする。

 病院関係も緊急事態は脱することができた。電気も入ったのでラジオの受信も可能となり、外部のことが身近に感じられるようになった。 医療品などがもっと手に入るようになれば、ふだんの時と変わりないように感じられるだろう。

 強姦も強奪もなくなってはいないが、繰り返し述べたところで何の意味もなく、陳腐な繰り言となってしまう。 脅し、賄賂が横行し、この救済機関にゆさぶりをかけようとしている。燃料や食糧供給に従事する者もいる。委員会では一袋一〇ドルで販売しているものを、彼らは日本軍から一袋四ドルで購入。 それもそのはず、日本軍にとっては元手のかかっていない戦利品なのだから。

 今日、牛をあと四頭いらないか、と聞かれた。乳がとれるので場所さえあれば喜んで引き受けたいところだ。これまでに助けた牛の餌さえ問題になってきている。

 きょう、領事館警察官、田中に関する面白い情報が耳に入った。田中は私たちを連れまわって、盗まれた品物を探すのを手伝ってくれたのに、 その当の本人が、あちこちから細かいものを盗み取っているところを目撃されていた。

 きのう彼が瀟洒なドイツ人邸宅から出てくるのを、スベルリングが目撃。 彼があれほど賞賛していた素晴らしい珍品を人力車二台に満載していたそうだ。


 
(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P266〜P267)


 


 余談になりますが、よく、「安全区に避難していた中国の民衆も空家からの「略奪」を行っていた」として、南京占領後の日本側の掠奪行為を正当化しようとする論を見かけます。

 しかしそもそも、戦禍により「生活手段」を奪われた民衆の生き延びるための行動(一部に必ずしもそう言いきれない例があったとしても)と、「中島日記」で紹介されているような、 日本側のほとんど火事場泥棒的な「泥棒行為」を同列視することはできないでしょう。

 何よりも日本軍には、「秩序」を維持する責任があったはずです。このような「無秩序状態」を改善するどころか、進んで「泥棒勝手放題」の雰囲気をつくってしまった責任は免れません。



 中国の民衆の「略奪」については「ヴォートリン日記」がよく引用されますが、そのヴォートリン女史も、一方で日本側の責任に言及することを忘れていません。

ヴォートリン日記『南京事件の日々』より 

 一月二五日 火曜日

(略)

 また、「傀儡政府」 ― 陳さんが南京自治政府につけた名称だが ― の当局者のところにも行き、盗品を売る店を安全区から締め出せないかどうか打診した。寧海路や上海路の沿道に何百という小さな店がにわかに出現しているのは、 貧窮者たちによる掠奪が毎日増えていることを意味する。日本兵が率先して掠奪をしなかったら、彼らはあえて店開きはしなかっただろう。

(『南京事件の日々』P135)


 

(2005.8.6記。2006.1.3川崎春彦氏の証言を追加。2006.3.18前田吉彦氏の証言を追加.)


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