小林よしのり氏「戦争論2」の妄想(2)
 

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続いて小林氏は、突然「史料批判」の話を始めます。

小林よしのり氏『戦争論2』より

(解説)

歴史学の基本は「史料批判」 歴史資料の信憑性を徹底的に検証することにある

事件発生当時、発生場所で、当事者が作成したもの、これを「第一次史料」という

事件から時間が経過した後に、当事者が作成した回想などが「第二次史料」

そして「第一次史料」「第二次史料」を基に作成したものが、「第三次史料」

史料価値があるのは、ここまで。

作者、作成年代、作成場所が判明しないものは「第四次史料」

何のために作られたのかわからないものは「第五次史料」といわれ、史料価値はゼロと見なされる。

(P314)



「歴史学の基本は「史料批判」 歴史資料の信憑性を徹底的に検証することにある」・・・お前が言うな、と思わず呆れてしまいます。

それはさておき、小林氏はこの分類を、まるで歴史学の標準であるかのように書きます。 しかしこの分類法は、現代の歴史学では必ずしも一般的なものであるとは思えませんし、実際の話、私も現代の歴史学者の論稿・書籍で目にしたことがありません。



タネを明かせば、小林氏のネタ元は、東中野修道氏であったと思われます。

東中野修道氏『やはり「ラーベ日記」は三等史料―板倉由明氏の批判に答える』より

 内藤智秀『史学概論』に、坪井九馬三博士の提唱せる、時間と場所を基準にした史料分類法が出ている。

 それによれば事件発生当時、発生場所で、関係者の記した記録一等史料に当る。 時間的に遅れて同じ場所で書かれたか、別の場所で同じ時に書かれた記録二等史料となる。 以上の史料を基に作成されたもの三等史料である。

 ラーベ日記は南京事件から四年後に加筆補正されて作成された。従って三等史料となる。

(「正論」平成10年7月号)


ご覧のとおり小林氏は、元ネタの「一史料」というあまり見かけない表現を、 わざわざ「第一史料」という一般的な表現に置き換えていますので、かえって読者を混乱させることになっています。

そもそもこの「史料等級」論は、「坪井九馬三博士」という昭和初期の学者が提唱し、内藤氏が戦前発行の本で紹介した、という、大変な時代物です。 現代の歴史学に、そのまま機械的に適用できるものでないことは、言うまでもないでしょう。

例えば、さすがに小林氏はカットしていますが、内藤氏は「場所の違い」に必要以上に拘っているように思われます。 同一人が同じ時に書いても、「発生場所」で書いたら「一等資料」になり、「別の場所」で書いたら「二等資料」になるかのような書き方は、いかにも奇妙です
*これは、江戸時代以前の交通事情を前提としたものであるようです。 交通手段が発達していなかった当時には、「場所の違い」は、時間的ギャップの存在、あるいは複数の情報仲介者の存在を示す可能性が高く、それだけ情報の信頼性が落ちる、という考えでしょう。 (渡辺久志さんの示唆によります)

*内藤説の詳細、及び本テーマに関する議論の詳細は、 拙コンテンツ「ラーベ日記は「三等資料」か」をご覧ください。



参考までに、例えば秦氏の「資料分類法」を紹介しておきましょう。

秦郁彦氏『南京事件』より

1、第一次史料
 A 公文書記録 
 B 指揮官クラスの業務日誌・メモ類
 C 一般従軍者の私的日記・メモ類

2、第二次史料
 D 戦後の研究所・論文
 E 従軍者の戦後における回想録・回想談

(同書 P109-P111 ただし見出しのみ)



小林氏の分類よりも、はるかに自然なものであると思います。




さて、小林氏はなぜこのような時代遅れの史料分類法を採用したのか。これは、ラーベ日記の史料価値を貶めるための伏線であったようです。

小林よしのり氏『戦争論2』より

いいですか どれもラーベが残した史料なのですが

「ヒトラーへの上申書」は第二次史料

「ラーベ日記」のほうはリライトされている上 編者も入っているので第三次史料になります


(P316)



ただし、内藤氏の定義に戻って考えると、「ラーベ日記」を「第三次資料」(三等資料)に分類するのは、明らかに変です。内藤氏の元の文を見ましょう。

内藤智秀氏「史学概論」より

(一)根本史料

 一等史料は、史実の発生当時、同所において責任者が自ら作成した文書類で、 例えば当該責任者の日記・書簡・覚書の類の如きはこの中に入るのである。

 二等史料は、史実発生当時の同所に、最も近き場所、最も近き時、又は同じ場所で時間が幾分異なるもの、又は時が同じで、 場所が幾分異なる所で、責任者が自ら作り上げた報告とか、日記・遺言・覚書・追記類の如きもの、ないしは後日に作り上げた日記とか、随筆類の如きがこの中に入るのである。 例えば当事者が後日、暇を得て作成した文書類などがそれである。

 三等史料は、前の一、二等史料を材料として作成した伝記とか、家譜の如きがその中に入るのである。 もちろん、この場合人物も年代も場所も違っているのであるが、編纂の方法が正確である限り、これは三等史料というべきであろう。

(P111-P113)


「ヒトラーへの上申書」は、「後日作り上げた」ものですから、「二等資料」の分類でもいいでしょう。

しかしラーベ日記は、まさに「史実の発生当時、同所において責任者が自ら作成した文書」です。 帰国後に筆者自ら「書きなおし」を行っていますが、この点を考慮しても、「一等資料」、もしくは「一等資料に近い二等資料」に分類するのが普通でしょう。

しかも内藤氏がイメージする「三等資料」は、「伝記とか、家譜の如き」ものであり、明らかに当事者以外の人物が書いたものを想定しています。 どう考えても、「ラーベ日記」を「三等資料」に分類することはできません。
*なお、ヴィッケルトによる「ラーベ日記」の「編纂」は、ヴィッケルト自身がまえがきで 「本書はこの『南京爆撃』から、最も重要と思われる部分を抜粋したものである」(『南京の真実』P17)と述べている通り、 別に原文を変えたわけではなく、膨大な分量の「日記」から、読者に読みやすいように「抜粋」を行ったに過ぎません。 「編者もはいっている」ことをもって「等級」を下げるのは、明らかにおかしなことでしょう。


なお、秦氏の定義に従えば、「ヒトラーへの上申書」「ラーベ日記」とも「一次史料」になります。 いずれにしても、「分類法」を小林氏のように恣意的に適用することで、ラーベ日記の価値を貶めることは、妥当な行為であるとは言えないでしょう。



さて、もう少し読み進むと、こんな文章が突然飛び出してきて、唖然とさせられます。

小林よしのり氏『戦争論2』より


こうしていくと「南京虐殺」があったと断定し得る証拠は全く提出されていないことが明らかになってくる

歴史学で言えば一次史料二次史料三次史料が一つもない

あるのは出所のはっきりしない四次史料五次史料


(P324)



例えばスマイス報告などは、 東中野氏ですら「二等資料」に分類しているのですが・・・。 ついでですが小林氏は、たった数ページ前に、「ヒトラーへの上申書は第二次資料」「ラーベ日記のほうは・・・第三次資料」と書いたことを、忘れてしまったようです。



なお小林氏は、「南京事件」を論ずる上で、「民間人殺害」のみに的を絞り、「南京虐殺」のもう一つの大きな構成要素である「捕虜殺害」を全く無視しています。

これについては、日本側の山のような「一次史料」「二次史料」で確認することができますので、「南京虐殺があったと断定し得る証拠は全く提出されていない」などという暴論は、間違っても口に出せないはずなのですが。





そしてこのように「ラーベ日記」の史料価値をむりやり貶めた挙句、小林氏はいよいよラーベ本人、及び国際委員会文書を攻撃のターゲットにします。

小林よしのり氏『戦争論2』より


さて先ほども申したように ラーベたち安全区委員会は日本大使館に毎日のように文書を送っていますが・・・

これ実は食糧支援要請よりも「日本軍の犯罪」に対する「被害届」のほうがずっと多い 連日出ています

ではこれを集計すると被害者は何万人になると思いますか?


実は殺人事件は25件! 被害者は49人! 「民間人大量殺人」の告発は全くありません!

しかもこの「被害届」はそのほとんどが裏付けの一切ない伝聞情報で ラーベ本人はただの一件も目撃していません!

ラーベは「大虐殺」の間も自由に歩き回っていたにもかかわらず 「ラーベ日記」の中で直接殺人を見た記述は一度もありません!


(P316)


まず、単純な事実誤認から。

「日本軍の暴行記録」に登場する「殺人事例」は、私が数え直したところ、「58人」になりました(「資料:日本軍の暴行記録 「49人」か?」)。

また、「日本軍の暴行記録」は「安全区国際委員会文書」の一部であるに過ぎません。 他の記録には「警察官135人連行事件」「「敗残兵狩り」に伴う民間人犠牲」などの事例を見ることができます。 (「資料:国際安全委員会文書の告発」

間違っても、国際委員会文書全体を「集計すると」「49人」になることは、ありえません。



さて読者によっては、「国際委員会文書」の報告が民間人犠牲者のすべてであるかのように錯覚してしまうかもしれません。 実際には、「文書」に挙げられたのは、外国人たちがたまたま知ることができた「サンプル」であったに過ぎませんでした。

「民間人被害者数」は一体何人だったのか。それを推定させるほとんど唯一の統計資料が、「スマイス報告」ですが、 小林氏はこのレポートを全く無視してみせます。

「スマイス報告」によれば、「城内及び城壁周辺」地区(市部調査)で、「兵士の暴行」による死者2;400人、「連行」4,200人、合計6,600人の「民間人犠牲者」の存在が推定されています。 農村部の調査を合わせれば、その数は3万人を超えます。
*「スマイス報告」は「サンプル調査」であり、また農村調査については治安悪化という悪条件もありましたので、調査の精度は必ずしも高いものとは言えません。 スマイス自身、「市部調査」の犠牲者数を過少と考えていて、「一万二千人」という独自の推計を行っています。 また論壇には逆に「過大説」も存在しますが、いずれにしても、民間人犠牲者の総数がたった「49人」、ということはありえません。

**「スマイス報告」の詳細については、拙コンテンツ「スマイス報告をめぐる議論」、 及び「南京事件 初歩の初歩」中の「民間人殺害 スマイス報告」をご覧ください。



なお、安全区国際委員会は、伝わってくるさまざまな情報を、すべてノーチェックで「報告対象」としたわけではありません。一定の取捨選択があった、と伝えられます。

「戦争とは何か」

  もともと作成された報告は一七〇件あったが(引用者注 12月13日から年末まで)、これらにしても、南京安全区国際委員会の目に留まった事件の中から選び出したものに過ぎない。 報告の大半はいずれもおそらく真実であろうが、その大部分のものは即座に証明することができないために保留された。

(中略)

こうした事件のかなりの数は外国人が目撃して実情を明らかにしたものであるが、中国人の協力者がこれらの目撃者に報告した事件もある。これも、その陳述の正しさに疑いをいれる余地はない。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P103)


それでも、取り上げられた多数の事例の中には、不正確なものが混入していた可能性もないとは言えません。 しかしそれにしても、「スマイス報告」、その他の資料のデータを考慮すれば、民間人だけで、数千人、あるいは万人単位の犠牲者が出ていたことは確実でしょう。
*小林氏は、「ラーベ本人はただの一件も目撃していません!」と「直接目撃」の事例がなかったことを問題視します。 しかし別にラーベは「殺人事件」を発見するために街をパトロールしていたわけではありませんし、実際問題として、 例えば犯罪が多発する都市であっても「目の前で」犯罪のシーンを目撃する機会などそうあるものではないでしょう。 ましてや、外国人の「目の前で」堂々と「不法殺害」を行う日本軍兵士は、そんなに多いものとは思われません。

ラーベは、外国人や中国人たちから、多数の情報を得ました。なかには、自ら現場に出かけ、詳細な調査を行った「殺人事件」事例もあります。 ことさらに「直接」目撃しなかったことを論う必要はないでしょう。





以下、小林氏の見当違いのラーベ批判が続きます。

小林よしのり氏『戦争論2』より

さらにラーベは 1938年1月14日付で上海のドイツ大使館に宛てた手紙には被害者を「数千人」としている

かと思うとその2週間後1月28日付の南京イギリス大使館に宛てた手紙では「数百人」になっている!

一度も殺人を目撃せず報告相手によって49人から6万人まで数をコロコロ変える!

陪審員のみなさん! こんな人の証言が信じられますか?


(P317)


「コロコロ変える」という表現がいかにも印象的だったせいか、これはネットでの「ラーベ攻撃」の定型のひとつになっています。しかしこれは、明確に事実に反します。

簡単に書けば、

1.「数千人」は1月14日時点での認識、「5、6万人」はその5か月後の6月8日時点の認識。「南京事件」の実態がわかってくるに従い、ラーベは認識を変えたにすぎない。

2.「数百人」というのは「一家の働き手が連行されたり殺されたりして、赤貧に陥っている家族」の数。「民間人犠牲者」の数ではない。

3.ラーベが「49人」と報告した事実はない。これは、板倉由明氏が「日本人の暴行記録」に登場する「殺人事例」を数えたものであるに過ぎず、かつ板倉氏はカウントを間違えている。


ということになるでしょう。


*詳しくは拙コンテンツ「ラーベが報告する犠牲者数」をご覧ください。




そしてこのような「事実誤認」をベースにして、小林氏の「想像」は、どんどんエスカレートしていきます。

小林よしのり氏『戦争論2』より


ここからわかることはラーベは意図的に情報操作をしているということです

南京にいる日本大使館員には反論されるおそれがあるからあまり大袈裟なことは書けなかった

だが南京の情報が乏しい欧米人殊にヒトラーには・・・

日本軍がとてつもない残虐行為をしているというニセ情報を何としても伝えたかった!


(P317)


念のためですが、小林氏が説明するラーベの「動機」には、何の史料的裏付けもありません。単なる小林氏の空想です。

しかしまあ、よくもこんなひねくれたことを考えつくものだ、とあきれます。小林氏は、本当にラーベ日記「南京の真実」を読んでいるのでしょうか?



さらに小林氏は、ラーベが「ニセ情報」なるものを「何としても伝えたかった」とする理由として、こんなことを言い出します。

小林よしのり氏『戦争論2』より

それはなぜか? 簡単な話です

まず「当時日本と同盟国だったドイツのナチス党員」という告発側の表現にトリックがある

ジョン・ラーベという人物は中国の蒋介石政権に武器を売り莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンスの南京支社長でした

(P317-P318)


まず、「軍需産業ジーメンス」という表現からして、小林氏の「偏見」です。

おそらく読者の方は、「ジーメンス」という言葉からは、街角でよく見かける看板、「ジーメンスの補聴器」をまず思い浮かべるのではないでしょうか。 実際には当時においても、ジーメンス社は、「総合電機メーカー」であるに過ぎませんでした。

まあ、「総合電機メーカー」である以上、例えば「戦闘機の電子計器の製造」という形で、全く「兵器」とは無縁、というわけにはいきません。 しかしそれは、ジーメンス社の事業の一部にとどまるもので、少なくとも主力事業ではありえませんでした。


そして、「中国の蒋介石政権に武器を売り莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンス」という表現に至っては、小林氏の完全な事実誤認です。 当時において、ドイツ−中国間の「武器貿易」を行っていたのは、総合電機メーカーのジーメンス社などではなく、ハプロ社でした。



さらに小林氏は、「中国の蒋介石政権に武器を売り莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンスの南京支社長」という書き方で、 ラーベ自身が直接武器販売に携わっていたかのような錯覚を誘っています。

しかし、ラーベが書き遺した記録からも、ラーベ自身が「武器販売」に携わっていた形跡は見受けられません。例えば「ラーベ報告書」(ヒトラーへの上申書)には、こんな記述が見られます。

『ラーベ報告書』より

 南京電力会社のタービンはジーメンス社が供給していました。すべての省庁にはわが社の電話と時計の設備があったし、中央病院は大きなレントゲン設備をもち、 また警察とすべての銀行の警報装置は当社のものでした。

これらの設備はわが社の中国人組立工によって管理されていましたが、かれらはさっさと南京を立ち去ることはできませんでした。 これらの人々と、私のオフィスの使用人、それと何十年も私のもとで働いていた家の奉公人、さらには中国人マネージャーたちが、いまや多くの家族と共に私の回りに集まっていたのでした。

(『季刊 戦争責任研究 第16号』(1997年夏季号)より「南京事件・ラーベ報告書」(片岡哲史訳)P41)



ラーベの取扱いは「民需」中心であり、少なくとも「南京事件」当時にラーベが武器販売に携わっていた記録は現在のところ存在しない、と言っていいでしょう。


*このあたりの詳しい議論については、拙サイト「ラーベは武器商人か?」をご覧ください。




さて小林氏は、このような誤った事実認識に基づいて、「ヒトラーが中国に武器輸出を控えたことに、ラーベが抵抗したのだ」という珍説を披露します。

小林よしのり氏『戦争論2』より

日中戦争勃発後日本はドイツに中国への武器輸出をやめるよう再三要求した

ヒトラーは武器輸出による莫大な利益を手放すことに躊躇したが 結局ソ連を牽制するため日本と組むことを選び武器輸出を控えた

ラーベにしてみればただじゃ済まなかったでしょう

なにしろ30年間も中国に住み培ってきた商売が水の泡なんですから

精一杯の抵抗として日本を残酷無比な存在に仕立てこんなやつとの同盟はやめてくれとヒトラーに上申したわけです


(P317-P318)


ラーベが「南京事件」をきっかけに強い「日本批判」感情を持ち始めたのは事実でしょう。 しかし、「商売の邪魔をされたから逆恨みした」と言わんばかりの書き方は、あまりの偏見です。

ラーベ自身は、自分が戦禍の南京に残った動機を、次のように語っています。

『ラーベ報告書』より

「私はここ中国に三〇年住んでいます。ここで私の子供と孫たちが生まれました。私はここで仕事を平和的に行い成功してきました。私はいつも、世界大戦の間も、中国人に親切に扱われてきました!

 岡少佐、もし私が二〇年日本に滞在し、日本人に中国人と同じ位親切に遇されれば、私は、〔いま中国人が味わっているような〕苦難の時代に、日本人を見捨てるようなことはしないでしょう。 そう信じて下さってよいのです」。

(『季刊 戦争責任研究 第16号』(1997年夏季号)より「南京事件・ラーベ報告書」(片岡哲史訳))



実際、素直にラーベ日記を読めば、ラーベを動かしたものが「中国民衆に対するヒューマニズム」であることは明らかでしょう。

 
秦郁彦氏『南京大虐殺「ラーベ効果」を測定する』より

それはラーベとともに残留した二十五人の委員たち―主力は米国人宣教師だが―にもあてはまる。あえて言えば、中国の風土と人々への愛着と同情、宗教的信念、反骨精神などがミックスしたものだろう。 しかし、無償の人道的支援が主軸だっことを、われわれはこのラーベ日記を読むことで否応なしに納得させられたと思う。

シンドラーとは比較にならぬほどの義人―それが私の率直な感想だが、その当否は別として行間から伝わってくる存在感と迫力に圧倒される思いを抱いた人は少なくないはずだ。

(秦郁彦氏『現代史の争点』P10)



またラーベの人道的活動ぶりは、当時の外国人たちからも、高い評価を受けていました。ラーベが南京を離れる時に、南京の外国人たちが発した「声明」です。

ジョン・H・ラーベ氏に関する声明

一九三八年二月二一日付

作成者 南京国際救済委員会常任委員



 南京安全区国際委員会(現在は南京国際救済委員会)の常任委員は、ここ三か月の危機の間に当委員会委員長を務めたジョン・H・ラーベ氏の功労に心から敬意を表明する。

困難な慈善活動で発揮されたラーベ氏のリーダーシップは大胆かつ穏やかなものであった。そのことは南京の全市民、そしてかれらと血縁や利益の絆でつながる多くの人々に末永く記憶されるであろう。

われわれの委員長は、大きな事業をなしとげるその実行力を、窮地にたたされた人間にたいする細やかな思いやりと実に見事に結びつけたのである。

中国人の間では、ラーベ氏の私欲なき貢献に心からの敬意が表されている。 在留外国人の間では、商売上の義務と国益を越えて人間の幸福に尽くす永遠の模範が示された。

ラーベ氏が南京で代表したシーメンス中国支社は、ラーベ委員長の偉大な社会的奉仕ゆえにいっそうの尊敬を集めている。 同様に、中国のドイツ企業とドイツ人コミュニティにも、ラーベ氏の名声を通して新たな名誉がもたらされたのである。

南京にて、一九三八年二月二一日


個人として、敬愛の念をもって署名する。

W・P・ミルズ   J・G・マギー   エドァルト・シュペアリンク   M・S・ベイツ   ルイス・S・C・スマイス   チャールズ・H・リッグズ   C・S・トリマー


われわれ南京残留の民間外国人は、ラーベ氏とかれの功労についての国際委員会の声明文に賛同の意を表する。

C・ポドシボロフ   ミニー・ヴォートリン   ヒューバート・L・ソーン   A・ジアル   アーネスト・H・フォースター    グレイス・バウアー   ジェームズ・H・マッカラム   R・ルパート・ハッツ   アイヴァ・ハインズ   ロバート・O・ウィルソン   R・ヘンペル

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P191)  



日中和平交渉の「トラウトマン工作」で有名な、駐華ドイツ大使トラウトマンも、同様の評価を下しています。

トラウトマンの書簡


ラーベ(帰国途上)宛、発信者 トラウトマン(漢口)
一九三八年三月二二日付


シーメンス中国支社気付

ラーベ様

貴方は、一九三七年一一月から一九三八年二月にかけて、「南京安全区国際委員会」の委員長、後には「南京国際救済委員会」の委員長として名誉ある職務につかれ、 隣人愛のために命を懸けて実り多い献身的な活動をおこなわれました。私はこのことを認め、高く評価します。

さらに、この間、南京におけるドイツ人財産保護のために尽力して下さったことにたいしても、心より感謝いたします。

貴方の行動は我が祖国に名誉をもたらしました。

南京での貴方の行動を称え、ドイツ赤十字社が貴方を表彰するように私の方から外務省にお願いしたことを、ここにお知らせいたします。

ハイル・ヒトラー

トラウトマン ドイツ大使

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P237)  






さてそんな中で、たった一人、ラーベに対して批判的な見方をしていた外国人がいます。ドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長です。

小林氏は、このネタを最大限に利用しようと試みます。

小林よしのり氏『戦争論2』より

だがその話はあまりにも不自然で同胞のドイツ人にもあまり信じてもらえなかった

ラーベの話を聞いたドイツ大使館のシャルフェンベルク事務局長はこう記しています


暴行事件といってもすべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか


結局策略は実らずドイツに呼び戻されたラーベは二度と中国の地を踏むことはなかった


(P318)


「南京の真実」中の、シャルフェンベルク事務長の記録を確認しておきましょう。

「在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録」より

一九三八年二月十日

日本軍にとって、国際委員会はかねてから目の上のこぶだった。二月四日以降は難民が大挙して収容所をひきはらい、どうにかもぐりこむ先を見つけた。

ラーベ氏は委員会代表として、並外れた貢献を果たしたが、私のみるところ、アメリカ人にうまく手なずけられ、アメリカ人の利害、そして信徒獲得に懸命の伝道団に肩入れしすぎている。

氏は二月四日、安全区の立ちのき期日に役目を放棄して南京を去ることもできたのだ。そのときに、氏の偉業はピークに達した。 ラーベ氏にはこのうえない輝けるラストシーンが用意されていたのだから。さあ、ラーベよ、君の栄光に満ちた物語もいよいよ幕を閉じるのだ!

ラーベも同じことを感じ、南京から出るための許可を取ろうとしてはいるが、最近またぶり返した日本兵による血なまぐさい事件を阻止すべく、あいかわらず奔走している。

だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ。ほかに頼る相手がいなくなった暁には、中国人は手のひらを返すように日本人と兄弟のような交わりをするのは目に見えているのだから。

第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。

(P245-P246)



「さあ、ラーベよ、君の栄光に満ちた物語もいよいよ幕を閉じるのだ!」という言葉からは、ラーベに対する明確な悪意を伺わせます。 ドイツ人、シャルフェンベルクの「アメリカ人嫌い」も、はっきりとうかがえます。

このような人物であってみれば、シャルヘンベルクのラーベ批判は、割り引いて受け止める必要があるでしょう



なぜシャルフェンベルクが「反ラーベ」に回ったか。それには、ヒトラーの極東外交政策が、「親中」から「親日」に大きく舵をとりつつあった、という政治的背景がありました。

シャルフェンベルクは、このような情勢の中で、「親日」のスタンスを強く打ち出し、 「自己保身のために(「ゆう」注 南京事件を告発した)同僚のローゼンを批判、 告発して一線を画する立場を上級に表明」(笠原十九司氏、後掲「解説機廖することになります。

笠原十九司氏 「『ドイツ外交官の見た南京事件』解説機廚茲

一九三八年一月三〇日にヒトラー全権掌握五周年記念祝賀会が中国大使館員によって開かれたとき、 ローゼン(「ゆう」注 ユダヤ人の祖母を持つ、親中派のドイツ大使館員)は招かれなかった。 同年二月四日、ヒトラーにより親中国派のノイラートが解任され、親日派のリッベントロップが外相に就任し、ナチス外交政策転換の趨勢が明らかになると、ローゼンの身分も危ういものになり、 それだけでなく、親中国派のトラウトマン駐華大使も解任される可能性があった。

こうしたドイツ外務省の急変に即応して、シャルフェンベルクは、資料47、48のように漢口のドイツ大使館ラウテンシュラーガー氏宛てに、ローゼンを批判、 告発して決別を望むような手紙を送付したのである。

前掲『南京の真実』に収録された、シャルフェンベルクの文書(同年二月一〇日付)では、ラーベの難民救済活動をも批判し、 「アメリカ人にうまく手なずけられ」「日本兵による血なまぐさい事件を阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ・・・ 第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」とまで述べ、逆に日本軍にたいしては理解を示す姿勢を記している。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P292)


なお笠原氏によれば、小林氏の引用部分には「誤訳」がある、ということです。

笠原十九司氏 「『ドイツ外交官の見た南京事件』解説機廚茲

ただし傍点(上では太線)を付したくだりは、昨今の否定派が常套的に用いる論拠となっているが、 『南京の真実』の原著John Rabe、Der gute Deutsche von Nanking、hrsg. v.Erwin Wickert,Stuttgart 1997の該当箇所を確かめると、 Und bei all den Ausschreitungen wird ja immer nur eine Seite gehort(下線、引用者)とある。

ここには「すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」とは記されていない。原文の文脈から判断しても、この部分の訳は翻訳者の恣意的な挿入といわざるをえない。 「どんな暴行事件でも、いつもただ一方の側(の話)を聞いているだけではないか」と訳すべきであろう。(指摘ならびに訳は石田勇治氏)

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P85-P86)


シャルフェンベルクの批判の趣旨がわかりにくいのですが、「加害者」がそう簡単に特定できない以上、被害者である「一方の側」の話しか聞くことができないのは、ある程度やむえないことでしょう。

さらに翻訳では、「一方的に」と、あたかもラーベが被害者側の話を無批判に信じこんでいるかのようなニュアンスが加わっているわけです。




さて、小林氏は以下で「写真検証」を始めてしまいます。氏は例えば「村瀬守保氏の写真」の事例を取り上げていますが、これについては、 タラリさんのサイト「南京事件の真実」中の 「写真判定の杜撰−村瀬守保撮影写真編」に詳しいので省略します。


ひとつだけ、コメントしておきましょう。

小林よしのり氏『戦争論2』より

東宝文化映画部製作の記録映画『南京』の一コマです

日本軍の保護を求めて殺到する中国人!

日本兵のすぐ脇で遊んでいる子供!

のどかなのどかな南京の風景!

1937年暮れから翌年正月にかけての南京城内の風景であることは間違いありません

撮影者 時 場所の特定された第一次史料です


(P322-P323)



小林氏、こんな露骨な「やらせ」も見抜けないとは情けない限りです。 小林氏には、当時厳しい「報道規制」が行われていた、という「常識」もなかったのでしょうか。


映画撮影の現場は、実際にはこんな風景でした。

マッカラム「一九三七−三八年冬季の日本軍の南京虐殺に関する報告」より

一月九日
 難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。 こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P266)


映画「南京」のカメラマン、白井茂氏の手記も残っています。

白井茂氏『カメラと人生』より

 中山路を揚子江へ向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々とならんでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、 小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。

 延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。 だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。


 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が 真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。

 とにかく家財道具から何から町の真中にみんな置きっぱなし。

 まだ城内ではどっか隅の方で兵隊は戦っていた。音がしたり、なにか気配があった。ぼくらは司令部の命令で南京銀行の三階へ陣取った。みんな、見当つけてピストル一挺持って探索に出かける訳だ。 いつやられるか分からない。銃殺しているところだとか、いろんなところを見た。

 翌日から少し撮影を始め、飛行機の落ちていくのを撮影したり何かしている内に、松井石根の入城式になった。向うの住民も手を振って迎えている。しょうがないから手を振りまわす。 メイファーズ(没法子=どうしょうもない)というわけだ。



 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。

 さきの延々と並んでいる人たちに対し、兵隊が一人ぐらいしか付いてない。逃げ出したらいいだろうと思った。そうかと思うと、町の真中で、向うが川の所に、こっちへ機関銃一挺据えてある。 兵隊一人で。で、向うに百人ぐらい群集がいる。

 あんなものは、一人か二人犠牲になったならば、みんな逃げ出せたと思う。それでも逃げないのはやっぱり、機関銃の前で怖いのか、逃げないのである。

 よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当ってるのに死なないのだ、なかなか。 そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをボンと殺る。 揚子江に流れていく。そういうやりかただった。


 戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。 私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。 これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。

(同書 P137-P138)

 


映画を撮影したカメラマン自身が、「南京大虐殺事件の私の眼にした一駒」について証言しているわけです。 この映画を「虐殺はなかった」という材料に使おうとするのは、無茶以外の何物でもないでしょう。






さて、何ページかめくると、ラーベの名が再登場します。最後に、この部分を取り上げておきましょう。

小林よしのり氏『戦争論2』より

ラーベは日本兵が見境なく略奪の限りを尽くしていると日記に書いた

「とくに好まれたのは壁掛け時計だった」という

この先も作戦行動がある兵隊が壁掛け時計をどこに持って行って何に使うのか?


(P325)



まず小林氏の根本的な勘違いですが、「壁掛け時計」云々を書いたのは、ラーベではありません。 この文言は、ヴィッケルトが編纂した「南京の真実」に挟み込まれた、ロイター通信のスミス記者の講演に見られるものです。

スミス氏(ロイター通信社)講演

私は十二月十五日に南京を後にしましたが、それまでに私をはじめ、ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、日本兵によって略奪しつくされていました。 屋根にはためくヨーロッパの国旗も引きずりおろされました。

日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです。

(『南京の真実』P117)


従って小林氏のラーベ攻撃は、完全な的外れ、ということになります。 そもそも、仮にこのエピソードだけを否定できたとしても、 日本軍による大規模な「徴発」の実態を否定できるはずもないのですが。


話はこれでお終いですが、さらに言えば、スミス講演の内容を誤りとする根拠もありません。 小林氏は、大勢の日本兵が、一人一人、体よりも大きな、ばかでかい「壁掛け時計」を背負ったり抱えたりする絵を書いていますが、 「壁掛け時計」すべてがそんな大サイズのものであった、と考える必要はないでしょう。



また実際問題として、「壁掛け時計」よりもはるかに大きくて運搬しにくい「ピアノ」ですら、略奪の対象となった、という記録が残されています。

「日本軍の暴行記録」より

第一六五件 


 峨嵋路七号のC・Y・徐博士宅は十二月二十五日午後三時に日本兵に押入られ、ピアノと若干の衣類を盗まれた。(フィッチ)

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P178)



さらに、盗まれたピアノを取り戻すことができた、という事例も存在します。

『飯沼守日記』より 

◇一月二十一日  曇晴れ気味


 <中島師団長お別れに来る>

 次長より次の電報来る。

 在南京領事の報告に依れは、一月十五日〜十八日に米権下より日本兵が婦女八名をつれ出し、 金陵大学より「ピアノ」を壁を破りて持出したり。在南京外交官は無力、軍は其統制取れすと、在東京米大使より抗議ありと。

 今日尚如此兵ありとは実に残念、然し現に本日も米国旗の在る家に兵が掠奪に入り込み居る処を米書記官と同行の憲兵取り押へたりと言えり。米の抗議も真実らし。

 然しなから当方としては領事に如此電報を中央に打つは最初の約束と異りけしからぬ旨抗議し、彼は絶対的に打電を否定せり。

(『南京戦史資料集』 P240)

 


「日本軍の暴行記録」より

第二一八件 


 一月三十一日、マッカラム氏の報告によれば、日本憲兵が彼に一九台のピアノを見せたところ、中華女子中学校(キリスト教女学校)から盗まれた三台のピアノのうち二台と 、中華路(南市)のキリスト教布教団の二台を、それぞれ確認することができた。マッカラム氏は自身でも一台捜しだし、自分が指摘した一台をとりもどした。(マッカラム)

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P188)



金陵大学から、ピアノが強奪されました。マギーは、日本憲兵の手を借りて、それを取り戻しました。経緯は自然であり、信憑性の高いエピソードであると考えられます。


またヴォートリンは、「絨毯やベッド」の略奪を記録に残しています。

ミニー・ヴォートリン『南京事件の日々』より

一二月二十七日(月)

城内では、依然として破壊が続いている。火災の煙が濠々と立ち昇っているところを見ると、現在は北里門橋の方角が破壊されているようだ。 南門から北里門橋までの間にある商店は軒並み掠奪され、焼き払われてしまったのではないかと思う。掠奪はいまやトラックを使っておこなわれ、 絨毯やベッドといった大きな備品が持ち去られている。それらは句容に運ばれているらしい。(P82)

ピアノ、あるいはベッドですら「強奪」の対象になるのに、より小さな「壁掛け時計」が略奪の対象になるのはおかしい、と考える根拠はないでしょう。



ついでに、小林氏は「壁掛け時計」を兵士がそのままどこかに持っていって自分で使うというとんでもない誤解をしているようですが、 当然ながら、これは「売り飛ばすため」の略奪だった、と見るべきでしょう。飯沼日記にも、例えば「自動車」「タイヤ」を売り飛ばそうとする事件についての記述がみられます。

『飯沼守日記』より 

◇一月二十九日  正午前より雪、南京は再ひ銀世界となる


伊太利武官来り拝謁、例の如く愛嬌を振りまく、伊太利大使館の自動車も一台紛失し居る筈なるを以て、代品を与へんとしても紛失し居らす、或は支那兵が一台位持て行つたかも知れぬと言ひ居れる由。

(中略)


 法務部長より其後の事件の報告を聞く。

 強姦、傷害の外特に甚しきは横領せる自動車及「タイヤ」を通訳に売りたる一団あり。殿下も之には呆れて何とか注意の実行を監督する手段を講せよと命ぜらる。 小山憲兵隊長の申出もあり、補助憲兵を増加し憲兵の分遣所を城内に増加することとせり。

(『南京戦史資料集』 P243)
 

(終わり)

(2008.10.13記)


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