
| 佐々木元勝『野戦郵便旗』より |
上海派遣軍野戦郵便長として従軍した、佐々木元勝の手記です。ここでは、陥落直後の南京を訪れた部分を紹介します。
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南京陥落
トラックは順調、快晴。他部隊の往来は稀である。太倉からぽつぽつ死体がある。太倉を少し出たところで、犬が支那兵の死体を大分食い荒らしている。你(ニー)が使役され道傍の乾いた溝で死体の数個に土を被せている。攻略戦の途上、戦闘司令所があった古里村(こりそん)の道路はここだけ特に悪く、一里もないが馬の死体を数えてみると、思いのほか多く百二、三十ある。 澄んだ水には支部兵の死体が冷たく浮いている。先夜月明の中をトラックで突っ走った寂しいところで、なかなかの水郷である。
常熟の叉路で昼飯。道瑞に埃にまみれた支那の死体が二つ。一つは下半身が裸であり、一つは腐ってきたのか鼻や口から血が滲み出ている。二人とも二十歳くらいである。 多数の貧民が鍋釜、衣類等さかんに徴発にきている。子供に日の丸の旗を持たせたりし、徴発物を天秤にかつぎ郊外に列なして帰ってゆく。この風景は万々で見受けるが、無錫がひどいように思われる。
私のトラックがそこに追いついた時は、皆は葱や菜や仔豚を徴発してきていた。私のトラックだけ常州に先に行き、自動車廠でガソリンを小樽二個とドラム罐一個をもらう。かく段取りを済ませて私は夕飯を食う。城門内の塹壕のような穴の中に、正規兵の死体が数名俯伏せている。一人は銃剣で横胸を突き刺されてある。
それで私は責任上夜行を中止する。初めは夜通し行く心算であったから、宿舎の用意がしてない。私は運転台で運転手といっしょに寝る。大きな食パンを入れた白行嚢を枕にしてうとうとする。夜中膝が冷え、きりきり寒い。 (「ゆう」注 以降、十二月十六日) 朝四時車の外に出、そのまま街角の警備兵の焚火にあたってしまう。火事の炎が赤い。六時ごろ月が落ちて真暗になる。 未明出発、金壇に看いたのが七時五十分。十一時二十分丹陽に着く。丘に古びた塔を望み、死んだ鳥の浮いている黄色いクリークの水を汲み飯を炊く。ここから句容へがひどい悪路である。農民が十数名道路に出て、自発的に煉瓦を敷いているところがある。やや曇り空である。風が強くなる。
打合せた通り南京の支那郵便局は占領してある。元来支那の郵便局は外国権益に関係があるので、いっさい手を触れない方針でいたが、南京、敵首都においては逆に勢を転じ、敵の大建造物を占拠し、大いに野戦郵便の存在を高揚せんと考えた。勇躍一番、トラックはめいめい突風のごとく走り出す。もうお互に連絡も何もない。一秒も速く南京に入城したいのである。
私は疾走するトラックからこの弾薬集積所に、二本の新しい墓標を見た。一本は特に憐れな抗日ジャンヌダルクのために建てられたものである。それには「支部女軍士之墓」と墨書されてある。
この郵便局の巨大な三階の建造物は、一階が郵便局の現業で二階からは江蘇郵政管理局である。ここに上海から連れて来た局員と警乗兵とを残し、私は中山門近く中島部隊附局へと引き返す。
日の丸の腕章をつけた者が多い。鼠色の毛布を巻いて背負ったり、飯の鉢を腰にぶら下げているのがある。列に遅れまいといそいそ走って行くのや、中には三人肩を並べ腕を組み、遠足にでも行くように 噪(はしゃ)いでいるのもある。歩くのが少し遅れ、何やら、ちゃあ、ちゃあいうと兵隊に パチンと殴られる。十五、六の給仕みたいのもいる。月が蒼白く昇る。 今宵一夜の俘虜の歴史的この大群よ! 亡国の悲しさよ! 中山門近くの局に帰るともう真暗である。山森事務官と梅森書記は、気の進まぬ運転兵に金一封をやり、機嫌を取って下関の局へ向かう。夜だいぶ遅くなってから、このトラックの運転兵がどかどかもどってきた。下関では大変なことがあったと話す。
(『野戦郵便旗』(上) P211〜P217)
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入 城 式 十二月十七日、快晴、暖かい。今日は南京入城式である。式の次第は極秘であり印刷したものなどくれない。国民政府附近一帯粛然として警戒厳重である。街角で一人怪しい奴が撃ち殺され、公共防空壕に蹴落される。山森事務官、藤田事務官とともに、私は午後一時半、国民政府の門廓を潜り内庭に入る。 杭州湾上陸の柳川兵団や海軍の将校もきている。飛行機が晴れて霞んだ上空を飛ぶ。六十一機だとか。 将校たちが緊張して整列していると松井大将、朝香中将宮殿下、柳川中将、海軍の長谷川中将、ほか幕僚の一群が入城せられる。内庭の壇上 宮殿下のほか松井大将、柳川中将、長谷川中将が起立せられる。
表門廓の頂上の柱に大きな日の丸の旗が、君が代吹奏裡に掲揚され、一同東方遥拝。松井大将の発声で 祝宴場は爆弾の当たっておる建物のある奥の広い部屋で、四司令官は上壇、軍楽隊の吹奏、御賜の冷酒と煙草、歓喜の渦である。勝粟、するめ、昆布、蜜柑が少し、質素な立食であるが、各将校の今日のご機嫌はまた格別である。式は二時から一時間半くらいで終わる。
兵隊が甕を抱え出してくる。店の中の大甕は口を開けられ、兵隊が思い思いにしゃくっている。小さい酒甕が転がされ、破られてある。局が近いので私はトラックと兵隊を廻させ、小甕とはいっても一斗近く入るのを五個運ばせる。床の褒の問に糞がしてある。 カウンターに立ち上って指揮する私の長靴は、糞がつき洒で濡れている。壁際に積まれてある古い小甕はまだ三、四個残っているが、とても飲み切れるものではない。甕を持ち運んだので兵隊の胸は赤煉瓦の埃みたいなのがついて汚れる。
敗残兵が一人後手を縛られ綱で曳かれてきたので私は驚いた。ガソリン罐は陵墓の階段途中にある附属建物にあったものらしい。敗残兵は近くの松林か、どこかからひょろひょろと現われたのである。背が高く痩せ、眼がぎょろつき軍鶏みたいである。 負傷しているらしく、飢え疲れているのであろう、階段横の芝地から道路へ下る時のめる。まったく情ないくらい、胸を道路に打ちつけて、二、三度のめる。連れて行かれるのが嫌らしくもある。中山陵の前、松林の中の枯れた芝生でこの敗残兵の青年は白刃一閃、頸を打ち斬られてしまう。亡国の悲哀がひしひしと私の胸に迫る。
中山陵は門も殿堂も、竹矢来で仮普請のごとくおおっていて、空襲のカムフラージュがしてある。石段は幅広く立派である。中程に青銅の大きな鼎が置かれ、それに小さい砲弾や銃弾の痕がある。白大理石の雄渾な高麗犬もある。 絶頂の殿堂の中には孫中山の白い大理石の半座像がある。鼻柱が撃ちぬかれている。鍵がかかって開かぬ一室は扉が叩き壊され、中には絨氈その他が燃え燻ぶっている。 中山陵からは夕靄(もや)に烟ぶる南京の街が展望され、近くには砲兵陣地の気球が二つ空に繋留している。数百の石段を一歩一歩降りてくる時、兵隊の一人が銅銭を放り投げると、ころころとどこかへ転がっていってしまう。 トラックの帰り、中山門の前のところから、また武装解除の支那兵の大群に会う。七千二百名とか。おびただしい乞食の大行列である。だれ一人可憐なのがいない。
夜の飯は本場の南京米でぼろぼろで箸に掛らない。 日暮れ、局に兵隊が連れて来た小輩がいた。十三になる黒服のおとなしい少年である。兵隊にとてもなついている。句容の寺の息子でよく字が読め、苦力が畏服している。母親は殺された。句容を去る時は大変泣き悲しんだとかである。夜、遠近に火事が止まぬ。
上海局から森田書記が飛行機で航空便を持ってくる。軍用機で上海南京間三時間である。藤田部隊の局長渡辺書記もやってくる。下釜と築地運転手のトラックがきたので、私は城外から二里余の藤田部隊の本部のある土山鎮に行く。 要談の後、帰りに城壁外の道を違え、汚ない家混みに出る。五、六個死体が転がっている。でっぷり肥った白髪の老婆が横たわっている。私の母親に似ており不快さが私の胸に突きあげてくる。 夜、局舎内の焚火を囲みいろいろな話が飛び出る。いい気になってしゃべるから口が滑る。南京が陥落した大動揺の波涛が無錫や常州等の廃墟の街で何を演じさせたか。軍夫の運転手が同僚に分別らしくいう。「あまり妙なことをしゃべるなよ」
「南京陥落記念スタンプ押捺します」
かようなのは、局を閉ざしてから局員が蝋燭の灯で一枚一枚夜遅くまでかかって押す。二十一日、スタンプ二個のうち一個盗まれたのでますます混雑する。
(『野戦郵便旗』(上) P218〜P222)
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ト ラ ッ ク
生命を奪った銃弾と銃剣とがこれをものすごくしている。半裸になっているのがある。石油をかけて焼かれ焦げたのがある。傍に陸揚げされた菰被りの酒樽が戦捷を祝うもののごとく山積され、上に兵隊が歩哨に立っている。戦勝国と亡国とのあまりにも深刻な場面である。
それで十二月十六日、栗鼠のごとく俊敏にここを占拠し野戦局の貼紙をしたのであるが、この建物は工兵隊の小池部隊が進撃してきて占領したので一悶着起る。彼らは命がけでここを占領したのだからやれぬという。
結局貼紙の「野戦郵便局佐々木」とは主任参謀が佐々木大尉であるので、その姓であることになり、郵政局は完全に私たちの占有となった。屋上の柱から緑の支那郵政旗が降され、野戦郵便旗が翻翻と翻える。 この局舎の入口には砂嚢が積んで土塁になっており、局舎の内外には敵の機関銃や抗日の腕章付の被服が遭棄されてあったが、それは大したものではない。 局内に大型ダッヂ(DODGE)の緑色のトラックが八台あった。これは優秀車であるが、敵が逃げる時、部分品を取りはずしたので動かない。工兵隊は乗り潰した一台の支那の乗用車だけを置いて、ダツヂのトラックは全部牽引して城外の工兵学校に移動してしまった。トラックは野戦の足であり体である。三台のトラックが中山門攻撃の際砲弾運びをしたのでも、いかにそれが重要であるかがわかる。
帰りは光華門に出る。ここは脇坂部隊一番乗りの有名な新戦場である。高い頑丈な城門は二重になっており、血痕と硝煙が生々しい。
門のところで部隊長人見大佐に会う。部隊長は松井部隊本部が大場鎮周宅にあった当時、高級副官から前線に転出され、今は部隊長として奮戦しておられるのである。宮殿下がご通行遊ばされるので、トラックを横道に片寄せ私は下車する。 局に帰ると森山運転手のトラックで中村書記がきている。朝七時半上海を出発、自動車競争のような速力でふっ飛ばし、夕方四時半南京に着いたのである。森山運転手に頼んでも動かない。無理もないことである。
それで下釜運転手と私とで再び工兵学校に出かけ、青塗りのトラック二輌を引いて帰る。後のトラックにもそれぞれハンドルを握る者を乗せ、なかなかの苦心である。もう暗くなりかけている。 やっとの事で局に帰る。大成功と歓んだのも束の間、翌朝起きて見ると前夜引いて来たトラック一輌がまんまと盗まれている。ロープでゆわえてあるトラックを盗む! なんということであろう。この紛失はその後すペてのものに関して私を充分警戒させた。 この苦心惨憺して野戦局のものにしたトラック三台は、一台は盗まれ、あと二台は自動車廠へ持って行ったが、部分品が無いのでなかなか直らぬ。徴発の自動車は兵器部の登録がないから埒があかず、結局あとの二台も自動車廠に入っている間に紛失してしまった。
城外飛行場には吉住部隊がおり、私たちが上海から輸送した郵便物の中から、数通の手紙を局長の新谷書記が部隊長にじきじき届けると、閣下は喜ばれ、局長は面目をほどこした。ここの局も部隊が蘇州に移動するので引揚げねばならぬ。局長の新谷書記ほか配属兵を乗せたのでトラックはいっぱいになる。かような際、ひとり置いてけぼりなどされたらたまったものではない。 (以下略) (『野戦郵便旗』(上) P222〜P224) |
<佐々木元勝日記>(「証言による『南京戦史』(9))
上の手記の元になったと思われる、佐々木元勝日記です。『偕行』1984年12月号に掲載されました。
なお青字の(注)は、すべて『偕行』によるものです。私とは見解を異にする部分もありますが、原文のまま、掲載しています。
▲佐々木元勝氏の野戦郵便長日記 (上海派遣軍司令部郵便長) 〈注〉佐々木元勝氏は軍の野線郵便長として従軍し、12月15日上海出発、書記以下兵十六名がトラック三台に乗り、太倉- 常熟- 無錫- 常州 - 丹陽-匂容- 南京道を前進し、16日南京に入城した。この間の戦闘の情景を日記に誌している。既に若干引用したが、16日、17日の日記をまとめて引用する。 12月16日、快晴、風 湯水鎮の軍司令部に立ち寄り、中川君と会い、敗残兵との一戦の危ない話を聞き、勇躍トラック四台、先を争って南京に向う。麒麟門から少し先の工○試験所の広場に、苦力みたいな青服の群が蹲っている。武装解除された四千の兵である。 (注 第六師団参謀長中沢光夫氏の証言の俘虜と同一のものであろうが、この俘虜は南京に護送収容された。)瞬く間に南京の大城壁に到り、中山門を入る。・・・・・軍政部の前通りから数丁の間、真に驚くべき兵の殲滅が行われたらしく、死体は殆んど片付けられているが、鉄兜や衣服が狼藉を極めている。ここでニ、三万の兵が、一時に掃射されたものであろう。火災の炎が未だ燃えている家がある。 (注 この目撃記が「大虐殺」の根拠とされているが、狼藉の跡を見ての想像である。13日、真っ先に入城した歩兵第二十連隊、第七連隊の証言をみても、否定的である。中国軍が狼狽して敗走した跡である。)夕日が沈まんとする頃、トラックを走らせて揚子江河岸停車場近傍の郵政局に向う。ここは上海の閘北の如く荒れている。揚子江河にも支那兵の殺された無数の跡があり、駆逐艦が浮んでいる。新局舎の前には、軍帽を被った支那兵(士官)が脚から腹の方を焼かれ、まだ燃えている。壊れた煉瓦の上では、少し前殺されたらしい中老の死体が、口と鼻から血を出して倒れている。・・・・・ 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した五百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した。・・・・・夕方頃、自分で通った時は二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。 南京で俘虜は四万二千とか。揚子江河岸からの帰り、続々と夥しい行列をなして兵に連れられて行く。苦力の大群(俘虜)は三組あり、警戒の兵にトラックの窓から聞くと、皆殺してしまうのだと答えた。便衣に変装して避難しているのを一網打尽にされたので、日の丸の腕章をつけたのが多く、十五、六歳の給仕みたいのもいた。月が蒼白くのぼり、此宵一夜の命の俘虜の群れは、歴史的悲劇に違いない。 碼頭の局に行った運転手の兵等が、大分遅くなってからドヤドヤ帰ってきたが、碼頭で二千名の俘虜を銃殺したという話。手を縛り、河に追い込み銃で射ち殺す。逃げようとするのは機関銃でやる。三人四人づつ追い立て、刺しても斬っても御自由というわけで、運転手の兵も十五名は撃ったという。 (注 16日夜、下関碼頭で俘虜二千名を銃殺したという話=これは、第三艦隊従軍画家住谷盤根氏(後掲)の証言、15日夜大量に銃殺されたという今井正剛氏の証言あるいは梁廷芳大尉の五千人殺害談と、何らかの関係があるように思う。(P10) ―馬群で女俘虜殺害の話― これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を降り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。 殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。 12月17日 快晴 朝方、上海兵站部の兵が、年寄りの支那人を射殺した。この支那人は、どこをどう間違えたのか、入場式のある街近くに来て、警備の兵に捕えられ、ウオーウオーと盛んに弁明する。一旦釈放され帰りかけたが、引き戻されて防空壕に連れ込まれ、銃声一発、二発、射殺された。返くの宿舎の歩哨に補助憲兵が二人立っていたが、何とも去わない。殺された支那人が馬鹿で、不運なのである。 トラックを走らせて、揚子江河岸に行く。昨夕、軍政部前の通りに散乱していた青色の軍服等は、一斉掃射を浴びた跡と思ったが、血が流れていないから、ここで一、二万の兵が集合し、便衣に着換えるため、算を乱したとも思われる。(注 この目撃記が「大虐殺」の証拠とされている。実は中国兵があわてて便衣に着換えて放棄した軍服散乱の跡である。) 野戦郵便局の前を素通りして、揚子江岸に出ると、ここで人類最大の悲劇に直面した。昨夜銃殺した俘虜は二千名余で、道路の一方の空地に縛しておき、四人づつ石畳の河岸に追い出し、支那銃で射ちまくり、逃げるのは機関銃でやり、江上には駆逐艦が居て照明をした。二箇所で、どしどし大量虐殺が行われたのである。(注・昨夜の事件を想像しての記載であろう。) 道銘近くでは石油をかけられたのであろう。黒焦げになり燻っている。波打際には血を流し、屍体が累々と横たわっている。波打際の死体と並んでいる一人が、こちらを向き眼を開け、睨んでいる。兵站部の兵が道路の欄から撃つ。一発命中したが死なぬ。次の一発は水にあたる。目を開いて呪わしげにこちらを晃る。さらに一発。両手をぐうっと伸ばして絶命。抗日は呪日であったろう。 兵站部の兵二名と他の兵一名が、河岸に下り立って余喘のあるらしいのを撃つ。向うの箇所でも他部隊の兵が、道から拳銃で撃っていた。・・・・・トラックで引返し、入城式に向う。(入城式の状況記述、省略) 式は二時から一時間半ぐらいで終り、トラックで中山陵に向う。・・・・・中山陵近くの松林で青竜刀を持った一人の兵士が、敗残兵一名を後手に縛り(斬首の光景が述べられているが省略)。 タ靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遇う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。七千二百名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか・・・・。 (注)佐々木氏が16日、麒麟門近で見た約四千の俘虜が、17日の入城式後に南京に護送されたものか、あるいは別の捕虜であるか不明である。人数の七千二百名は仙鶴門(堯化門)の歩三八の俘虜数と一致するが、澄田氏の証言によると約二、三千人といい、どうも人数が一致しない。
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(2010.10.2)
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