1.続・y1982aさんに答える(1) 「スマイス報告」編
2.続・y1982aさんに答える(2) 「スマイス報告」編・・・本稿
3.続・y1982aさんに答える(3) 捕虜殺害編
4.続・y1982aさんに答える(4) 捕虜殺害編◆)詆椹鎧件
5.続・y1982aさんに答える(5) 捕虜殺害編 安全区掃討
6.続・y1982aさんに答える(6) 捕虜殺害編ぁ,修梁召諒疥沙Τ



続:y1892aさんに答える(2)
「スマイス報告」編



5.南京陥落後の様子


【中国軍が去って、南京市民に平和が訪れた】
(リンク先省略)

【南京陥落後の様子】
(リンク先省略)
和やかで穏やかな表情をした南京市民がご覧いただけます。

日本側は一般市民を巻き添えにしないように良民証を発行するなどできる限りのことをしていたことが確認できます。


【当時の中国軍は誰のための軍であったのか?】
(リンク先省略
『ドイツ大使館のローゼン書記官の報告書にも、「中国当局には自国の民間人をできるだけ守ろうという視点が完全に欠如していた」と述べられている。』


【集まらなかった中国側証言 数少ない証言も〈反対尋問〉に耐えられない】
(リンク先省略)

【重要論点】
十数名の国際委員会が管理し20万人もの避難者が居た安全区内で、日本兵はどうやって一般市民を殺害したのでしょうか?

★せまいエリアに20万人も集まっているのに、国際委員会のメンバーはもちろん、一般市民のだれも市民虐殺を目撃していないなんてあり得るだろうか?
★良民証を発行するなど一般市民と中国兵を区別する努力をしていた。そこまでしておきながら、なぜ一般市民を虐殺しなければならなかったのか?



 「捕虜殺害」を正当化しようとする議論は、たいてい「戦闘状態」が続いていたことをその理由に持ってきます。殺害しなければ日本軍の側に危害が及ぶ可能性が高い、という論理です。

 「正当化したい方々」は、その一方で、やたらと「平和な南京」を強調したがります。 そんなに「平和」だったんだら、捕虜や捕えた敗残兵を殺す必要は全くなかったんじゃないの? ということになりますが、その突っ込みはさておきます。




日本側は一般市民を巻き添えにしないように良民証を発行するなどできる限りのことをしていたことが確認できます。


 別に「一般市民」のためにやったのではなく、「敗残兵をあぶり出す」ためにやったのですけれどね。

  十二月十四日から十六日の間にやったように乱暴な選別をして「一般市民」を広く巻き込んでしまったら、後で国際的非難は免れない。だから十二月二十六日以降の「第二次敗残兵狩り」では、「余裕」が出たこともあり、もう少しソフィストケースされた手段を使った。 それだけの話です。

 で、現実に、十六日までの「第一次敗残兵狩り」では、多くの一般市民を巻き添えにしてしまったわけです。yさん、この点はスルーですか?




★十数名の国際委員会が管理し20万人もの避難者が居た安全区内で、日本兵はどうやって一般市民を殺害したのでしょうか?

 いや、別に「20万人」全員が「避難者」であったわけではなく、元からの住民も多数いたわけで・・・なんて細かい突っ込みは省略。

 続けて読むと変な文章ですが、 たぶん彼は「十数名の国際委員会が管理した安全区内で、日本兵はどうやって一般市民を殺害したのでしょうか?」と言いたいのだろうと推察して、先に進みましょう。


 まず当り前の話ですが、被害者総数に含まれる「行方不明者」4,400人のほとんどは、「敗残兵狩り」の巻き込まれであると見られます。「国際委員会」にそれを止める力などあるわけがありませんから、 この部分についてはそんな疑問は意味がないことは、言うまでもないでしょう。

 さらに「農村調査」の「9,160人」は、明らかに「安全区外」。国際委員会が管理のしようがありません。

 「2,400人」にしても、その範囲は「南京城区とその周辺」。別に安全区内に限ったことではありません。「日本軍の暴行記録」にも、安全区外の出来事が多数登場します。

 ・・・ということを、おそらく彼はなーんにも考えていません。ひょっとすると、自分が言及した「15,760人の死者」は、全部「安全区」で発生したものと思っているのかもしれません(笑)


 しかし彼、外国人の日記、あるいは「日本軍の暴行記録」を読んだことがないのでしょうか。

 外国人たちは、毎日発生する膨大な事件の対応に追われていました。ヴォートリン日記などを読むと、 「金陵女子大学」に毎日のようにやってくる日本兵に必死に対応している様子がよくわかります。

 たった十数名の外国人で、二十万人以上の人口を擁する安全区全体の治安を守れるはずもありません。これで彼の初歩的な「疑問」は「終わり」となります。




せまいエリアに20万人も集まっているのに、国際委員会のメンバーはもちろん、一般市民のだれも市民虐殺を目撃していないなんてあり得るだろうか?

 こちらもまた、目が点になりました。yさん、本当に「南京」のこと、なーんにも知らないんだなあ。

 一応、「日本軍の暴行記録」からいくつかの事例を紹介しておきましょう。 ネットでも、拙サイトの「日本軍の暴行記録―「49人」か?」で読むことができます。

第一六件

 十二月十五日、銃剣で傷を負った男一名が鼓楼医院に来院して語るところによれば、下関へ弾薬を輸送するため六名の者が安全区から連行されたが、下関に着くと日本兵は彼の仲間全部を銃剣で刺殺した。 だが、彼は生き残って鼓楼病院に来たのである。(ウィルソン)

*「ゆう」注 従って、死者は五名となります。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

 明らかに、「生き残っ」た「彼」は「目撃者」です。

第一九件

 十二月十五日、一人の男が鼓楼病院に来院した。六十歳になる叔父を安全区にかついでこようとしていたところ、叔父は日本兵によって射殺され、彼も傷を負った。

*訳注 徐氏の編書は、日付を欠く。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

 こちらでは、「一人の男」が「目撃者」になります。

 どうもyさんにとっては、中国人は「一般市民」のうちに入らないようです(笑)。




良民証を発行するなど一般市民と中国兵を区別する努力をしていた。そこまでしておきながら、なぜ一般市民を虐殺しなければならなかったのか?

 よくわからない文章です。

 「良民証発行」は、十二月二十六日以降の「第二次敗残兵狩り」でのこと。十二月十六日までの「第一次敗残兵狩り」では「兵民分離」の努力は極めて不十分なもので、 多くの「一般市民」がこれに巻き込まれて「虐殺」されました。

 どうも「時間軸」が狂っています。まさかyさん、「良民証」発行を「第一次敗残兵狩り」でのことだと思っているわけじゃあ・・・。






6.スマイス報告の実態

この調査報告書は被害者数を調査したものであって、加害者は特定されていない。したがって、中国兵による殺害なども含まれている事に注意すべき。

また、信憑性について北村稔教授の以下のような研究もある。
【国民党中央宣伝部顧問 ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』】
(リンク先省略)

大量の死体が存在した証拠とされた「スマイス報告」も、国民党の外交戦略に基づいて故意に歪められた情報


【重要論点】
★南京陥落から八ヶ月後には2カ国語で出版された『WHAT WAR MEANS』は中国国民党のために作られたもの。スマイス報告も同様。





この調査報告書は被害者数を調査したものであって、加害者は特定されていない。したがって、中国兵による殺害なども含まれている事に注意すべき。

 「スマイス調査」は、別に「日本軍による」被害を調査する目的のものではありません。住民、建物、農業設備等の被害状況を正確に把握し、戦後復興に役立てよう、という趣旨の調査です。

 ですので、被害を与えた「犯人」は誰か、ということまでは「調査項目」に上がっていません。ただし調査を仕切った側は、当然の前提として、「兵士の暴行」=「日本軍兵士の暴行」と認識していました

 「スマイス調査」の「まえがき」からです。


「南京地区における戦争被害」 まえがきより

 事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである(南京においては入城から一週間すぎて十二月十九日から二月初めまで)。 調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた。そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない。

 一月初旬以来、中国人市民による略奪と強盗がはじまり徐々にひろがった。その後、とくに三月以降は燃料争奪戦のために空家になっていた建物の骨組みに大きな被害が出た。 また、後には農村部において深刻な強盗行為が増加し、今では日本軍の強盗と暴行に匹敵し、時にはこれをしのぐほどになっている。 この報告の一部にはこうした原因の諸要素も見られるのである。


 調査を仕切った側がこのように認識しているにも関わらず、yさんは、 調査項目として「被害の犯人」が明示されていないことを悪用して「中国兵による殺害も含まれている」(というか、「ほぼすべて」が中国側の仕業である)などと強弁しているわけです。

 まあ、エスピー報告にも「殺人まで行った」との表現がありますので、中国軍兵士の暴行による死者が皆無である、とまでは主張しません。 しかし、実はベイツらの認識は誤りであり、実際には統計データに影響を与えるほど大規模な「中国兵による殺害」があった、と主張するのであれば、明確な裏付け資料が必要でしょう。



南京陥落から八ヶ月後には2カ国語で出版された『WHAT WAR MEANS』は中国国民党のために作られたもの。スマイス報告も同様。

 あーあ、彼、私の「初歩の初歩」、最後まで読んでくれなかったんだな、と情けなくなりました。

 今さらなんですけれどね。こちらで紹介した資料を再掲しておきます。

井上久士『南京大虐殺と中国国民党宣伝処』より


 ハロルド・ジョン・テインパリー(一八九八〜一九五四年)はオーストラリア生まれの新聞記者であり、一九三八年に南京大虐殺の資料集である『戦争とは何か』(中国語題名『外人目賭中之日軍暴行』)を出版して、 南京の惨劇を世界に知らせた人物として知られている。北村氏は、『曾虚白自伝』の次の部分を引用して、テインパリーは国際宣伝処の工作員であると主張する。


ティンパーリーは都合のいいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。 オーストラリア人である。そういうわけで彼が〔南京から-北村〕上海に到着すると、我々は直ちに彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口〔南京陥落直後の国民政府所在地-北村〕に来てもらい、直接に会って全てを相談した。

我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、 我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねはならないと決定した。テインパーリーは理想的人選であった。

かくして我々は手始めに、金を使ってテインパーリー本人とテインパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。

〔中略〕このあとテインパーリーはそのとおりにやり、〔中略〕二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。

 まず問題にしなければならないのは、この『曾虚白自伝』の内容の信憑性である。事件から半世紀以上経って出版されたこの自伝の記述は、すべて正しいのであろうか。 すでに渡辺久志氏が指摘していることであるが、テインパリーが南京から上海に来たというのは誤りである。

 この引用文の前の文に、曾虚白は「うまい具合に二人の外国人がおり、南京に留まってこの惨劇の進展を目撃していた。一人はイギリス『マンチェスター・ガーディアン」の記者ティンパーリーであり、もう一人はアメリカの教授スマイスであった」と書いている。 北村氏はそう信じているのかもしれないが、テインパリーは当時上海にいて、南京のできごとは目撃していない。南京に滞在していた外国人のリストにもあがっていない。(P248)

 最も問題なのは曾虚白が金を渡してティンパリーに本をかかせたというくだりである。ティンパリーの中国語版の訳者言には、「訳者は上海にいた当時ティンパリー氏が数多の貴重な資料を蒐集し、 本書を著述して帰国のうえ出版する計画のあることを知った。そこで彼の離滬以前にテ氏に対し図書の翻訳権譲渡方を依頼し、原稿の写本を得た。日夜打ち通して翻訳を急ぎ、原書の出版と同時期に上梓し得るよう努力した」とある。 つまり原稿を書き始めた後でそれを買い取ったと言っているのである。

 ティンパリー自身は、「本書の出版は全く余個人の意志であって、幾人かの友人が材料の整理選択に当たって余を援助されたとはいえ、その責任は余一人にある」と述べているのであるが、当然ながら金銭のことをふれてはいない。

 しかし上記の訳者言と符合するように、「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」(中国第二歴史トウ案館所蔵)には、 「われわれはティンパリー本人および彼を通じてスマイスの書いた二冊の日本軍の南京大虐殺目撃実録を買い取り、印刷出版した。 その後彼が書いた『日軍暴行紀実』とスマイスの『南京戦禍写真』の二冊は、大いにはやりベストセラーになって宣伝目的を達成した」とある。

 つまり国際宣伝処が金を渡して本を書かせたのではなく、ティンパリーが「正義感に燃え」て編集した原稿を国際宣伝処は買い取ったのである

(『歴史学と南京事件』P247-P250)

 ここではティンパリーに重点を置いた記述になっていますが、スマイス調査についても同様でしょう。つまり、「中央宣伝部国際宣伝処二十七年度工作報告」によれば、 国民党は事前に資金を渡したのではなく、出来上がった調査結果の版権を買い取った、ということです。







7.結論〜南京で日本軍による市民虐殺はあったのか?


中国軍による焼き払いの狂宴【清野作戦】もあり、一般市民は城外には住むところが無くなった。唐生智司令長官は城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告した。城外は勿論、 城内にも空き巣・コソ泥以外の一般市民はほとんど居なかったはずである。軍服を脱ぎ捨て安全区に潜り込む中国兵がいたのに、どうして一般市民が安全区の外に居たというのであろうか?

当時南京で安全区国際委員をつとめていたアメリカのマギー牧師は東京裁判で、「それでは只今のお話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」と尋問され、 「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」とマギーは回答した。日本兵に後ろから誰何されて驚いて逃げ出した中国人が、 竹垣があって行詰りになったために逃げられなくなったところを、日本兵が追い詰めて殺した件のみが自身が目撃したものと証言したのである。


【ラーベの証言はどれほど信頼が置けるのだろうか?】
何よりもラーベら国際委員会は69通にも及ぶ日本当局への手紙の中で、ただの一度も「日本軍による民間人大量殺人をやめて欲しい」とは書いていないのだ。日本兵による非合法殺人を、 国際委員会のメンバーが全く目撃していないことは、東京裁判における彼等の証言からも明らかである。



日本軍による大量市民虐殺はなかったのである。


日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
『ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、 仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか』
(「再審『南京大虐殺』世界に訴える日本の冤罪」 より)


【結論】日本軍による一般市民殺害は「国際委員会の日本軍犯罪統計」の49人が上限である。
(リンク先省略)

南京陥落の12月13日から翌年の2月9日まで、その間ありとあらゆる事件を、伝聞や噂話や憶測までまじえて報告した公文書。
当時日本側に抗議されたもので当時現場で調査・反論が可能な実数であり、日本敗戦後の勝者による形だけの裁判(東京裁判等)で初めて公になった「作られた虐殺数」とは違う。



日本兵に数件の非行があったことは事実ですが、それらは犯人が明らかになった件についてはすべて処罰されています。
松井石根大将が嘆いておられたのは、これらの数件の非行について「お恥ずかしい限りです」と述べられたのが実態であって、けっして数百もの一般市民虐殺があったという事では無いのです。


結局、
『俺たち中国共産党が中国人民を何千万人殺そうとも、おまえら日本人に言われる筋合いは無い。しかし、たとえ戦闘中の混乱の中であってもおまえら日本人が中国人民を巻き添えにしたことは絶対に許さない。七〇年経っても七〇〇年経っても許さない。』
てことですかね?




まず、

中国軍による焼き払いの狂宴【清野作戦】もあり、一般市民は城外には住むところが無くなった。唐生智司令長官は城内のすべての非戦闘員に対し「難民区」に集結するよう布告した。 城外は勿論、城内にも空き巣・コソ泥以外の一般市民はほとんど居なかったはずである。軍服を脱ぎ捨て安全区に潜り込む中国兵がいたのに、どうして一般市民が安全区の外に居たというのであろうか?

については既に触れましたのでコメント省略。これでも足りなければ、「二十万都市で三十万虐殺?」  「安全区外の残留住民」  「マギー牧師の解説書」より ー 続・安全区外の残留住民」あたりをご覧ください。




当時南京で安全区国際委員をつとめていたアメリカのマギー牧師は東京裁判で、「それでは只今のお話になった不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身いくらくらいご覧になりましたか」と尋問され、 「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」とマギーは回答した。日本兵に後ろから誰何されて驚いて逃げ出した中国人が、 竹垣があって行詰りになったために逃げられなくなったところを、日本兵が追い詰めて殺した件のみが自身が目撃したものと証言したのである。

 だから一体何だというのでしょうか?

 マギーは被害者などを通して多数の事例を知りました。ただし「殺人事件」を目の前で見る機会などそう多いはずがない。 だから正直に「一件だけは自分で目撃した」と答えただけの話です(私はもう5年も前にこの点にコメントしています。 詳しくは「「マギー証言」への評価 ―続・マギーが証言したこと―」参照)

 戸田由麻氏の、マギー証言へのコメントです。

戸谷由麻「東京裁判における戦争犯罪訴追と判決」より


 しかし、ブルックスの尋問技術を駆使してもマギーの証言の一貫性と真実性を崩すことはできなかった。そのことはブルックス自身も法廷で実感し、またウェッブ裁判長にも次第に明白になっていった。
というのは、ブルックスの反対尋問がある程度進んだところでウェッブ裁判長は次のように評したのだった。

 「あなたの姿勢から察するに、あなたは証人の信憑性を実際攻撃しているわけではないのですね」と。これに対してブルックスは「証人はたいへん公平だと思います」と答え、裁判長の所見の正しさを認めたのだった。

 しばらく経った後、裁判長はブルックスの反対尋問を再びさえぎり、「あなたはこの証人の信憑性をすでに認めた以上、すればするほど被告にとってより不利になります。 ブルックス大尉、この反対尋問を続けるのが果たして有益かどうか決断しなければなりません」とわざわざ忠告した。

 裁判長の忠告に対し、ブルックスはあらためて「この証人は公平を務めていると信じます」と答え、ニ、三追加の質問をしたあと裁判長の勧告に従い反対尋問を終了したのだった。

(「現代歴史学と南京事件」所収 P139)

 まあこれが、普通の評価でしょう。




【ラーベの証言はどれほど信頼が置けるのだろうか?】
何よりもラーベら国際委員会は69通にも及ぶ日本当局への手紙の中で、ただの一度も「日本軍による民間人大量殺人をやめて欲しい」とは書いていないのだ。 日本兵による非合法殺人を、国際委員会のメンバーが全く目撃していないことは、東京裁判における彼等の証言からも明らかである。

 実際に、「国際安全委員会文書」を見ましょう。

第六号文書(Z9) 

一九三七年十二月十七日

 
当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。 昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。

(これらの志願警察官は当委員会によって十二月十三日に組織されたもので、安全区でおこなわれる仕事は正規の警官―昼夜兼行で部署についていた―よりも大きいように見えました。) これらの「志願警察官」は制服を着用してもおらずいかなる武器も携行しておりませんでした。ただ当方の腕章をつけていただけです。

彼らは群集整理の手助けとか、清掃とか、救急処置を施すなどの雑用をする西洋のボーイ・スカートといったようなものでした。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P126)

第七号文書(Z10 11 12)

一九三七年十二月十八日

掘]行された警官について

 昨日、五〇名の制服警官が司法部から連行された事実と、四十五名の「志願警官」も連行された事実に対し、われわれはあなた方の注意を喚起しました。

 われわれは今また、高等法院に駐留していた四〇名の制服警官が連行されたという事実をお知らせしなければなりません。 彼らの唯一の罪状として日本軍将校が申し立てたことは、司法部の建物が一度捜索された後に、中国兵をそこへ引き入れたということで、そのため銃殺すべきだというのです。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P131)

第四九号文書 

救済状況にかんする覚書
   

一九三八年一月二十二日

 
いま一つの復興問題は未亡人と孤児の問題である。金陵女子文理学院においてこの問題につき調査を始めたところ、 四二〇人の婦人が生活の助けをうけていた男性を日本軍によって殺されていたことがわかった。市内の一般市民の男性が「便衣兵」の疑いをうけてこのような目にあったのである。

 彼らのあるものは、女性たちや家族の保証にもかかわらず、登録のさい隊を組んで連れ去られた。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P185)


第六十号文書  棲霞山寺よりの覚書

B.A.シンドバーグ(B.A.Sindberg) 一九三八年二月三日


 人道のために関係各位に訴える

 拝啓

 以下は本寺院の現状とわれわれの悩みを簡単に要約したものであります。南京陥落後、難民が毎日のように何百人と避難所と援助をもとめてやってきています。 これを書いている時に、われわれはすでにこの寺の屋根の下の二万四〇〇〇人の難民をかかえていますが、大半は女子供であります。男は射殺されたか、捕らえられて日本軍のために労役をするかしたのであります。


(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P194)

 ええとこれ、まさしく「日本軍による民間人大量殺人をやめて欲しい」と訴えている文書だと思うのですが・・・。yさん、どこからこんなデタラメを引っ張ってきたんでしょうね。

※ついでですが、yさん、どこかで、「警察官」については「連行」されたという記録であり「殺害」された記録ではない、という趣旨のことを書いていました。 「銃殺するために」連行された、というのにどうして「殺害」ではない、と言い切れるのか不思議です。わざわざ現場までついていって実際に「殺害」を見なければ「殺害」と断定できない、とでも言いたいのでしょうか。




日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。

『ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、 仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか』

(「再審『南京大虐殺』世界に訴える日本の冤罪」 より)

 おおい、シャルフェンベルク発言を引用するなら、「再審『南京大虐殺』 世界に訴える日本の冤罪」 なんて怪しげな本など使わずに(この本は彼の「バイブル」の一つであるようで 、私がこの本を「ブックガイド」に取り上げなかったことをどこかで怒っていました(笑))、ちゃんと「ラーベ日記 南京の真実」から持ってこいよ。

 これで、彼がラーベ日記すら読まずにラーベを批判していることがバレてしまいました(笑)。


 シャルフェンベルク事務長云々については、「小林よしのり氏「戦争論2」の妄想(2)」で触れていますのでこちらでは省略。 要するに、ラーベと対立する側である人物が、ラーベの悪口を言っているだけの話であるようです。

 ついでですが、「一方的に」というのは「一方の側から」の誤訳。「加害者」がそう簡単に特定できない以上、被害者である「一方の側」の話しか聞くことができないのは、ある程度やむえないことでしょう。

 なおこのシャルフェンベルク事務長ですら、「日本兵による血なまぐさい事件」が「最近ぶりかえした」という認識を持っていたことは、確認しておきます。





 そしてここについに、「結論」が登場します。

【結論】日本軍による一般市民殺害は「国際委員会の日本軍犯罪統計」の49人が上限である。 (リンク先省略)

南京陥落の12月13日から翌年の2月9日まで、その間ありとあらゆる事件を、伝聞や噂話や憶測までまじえて報告した公文書。

当時日本側に抗議されたもので当時現場で調査・反論が可能な実数であり、日本敗戦後の勝者による形だけの裁判(東京裁判等)で初めて公になった「作られた虐殺数」とは違う。

 一瞬、「国際委員会文書」の中に「国際委員会の日本軍犯罪統計」なんて文書が存在すると錯覚します(^^ゞ 念のためですが、田中正明が自分の文章に勝手にそんなタイトルをつけているだけの話です。

 要するにyさん、「日本軍の暴行記録」は「当時現場で調査・反論が可能な実数」ですのである程度は信頼できる。しかしその中には「伝聞・噂話・憶測」がまじっているので「49人」は上限である、と言いたいようです。

 「49人」じゃないよ、という突っ込みはさておき、「国際委員会文書」では「日本軍の暴行記録」以外にも「一般市民殺害」の報告があるのですが、これは無視でしょうか?

 それはともかく、外国人たちは、起った事件のすべてをカバーできたわけではありません。記録に残ったものは氷山の一角と見ていいでしょう。 

『日本大使館へ提出のM.S.ベイツ金陵大学難民収容所トウ案

M.S.ベイツ宣誓口供書(極東軍事裁判不提出)

 疑いもなく、強姦や暴行の実際事例は、報告されたものよりずっと多かったのです。というわけは、自ら事実を匿していることと、報告して報復されるのを恐れていることが、大いに注意されるからである。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻英文資料編』P307)


 つまり、スマイス報告をまるごと無視しない限り、このような結論は不可能です。彼の「スマイス報告」批判がいかに的外れなものであるかは、ここまで見てきた通り

 ・・・ということを、私の側の「結論」ということにしておきましょう。





 あとは、「おまけ」ですね。


日本兵に数件の非行があったことは事実ですが、それらは犯人が明らかになった件についてはすべて処罰されています。


 ウソです。上級から圧力がかかり、「不起訴」になった例も多数ありました。第十軍法務部長、小川関次郎の日記からです。


小川関治郎『ある軍法務官の日記』

12月25日


○上砂中佐事務打合せに来部

中佐曰く近頃強姦事件不起訴に付せらるるもの多く 憲兵が折角検挙せしものに斯く致さるることとなると努力の甲斐なし

(P127)

 それはともかくとして、そもそも南京では「憲兵」の数が著しく少なく、まともな取調べを行える状況にありませんでした。「犯人が明らかになった件」など、氷山の一角だったでしょう。


秦郁彦『南京事件』増補版

 次に軍紀取締りに当るべき憲兵の数が不相応に少なかった

 やはり東京裁判の日高信六部証言によると、十二月十七日現在の城内憲兵はわずか一四人で、数日中に四○名の補助憲兵を得られるはず、とある。

 この一四人は上海派遣軍所属の憲兵(長、横田昌隆少佐)と推定されるが、第十軍の方も憲兵長上砂勝七中佐が「二十万の大軍に憲兵百人足らず」(上砂『憲兵三十一年』)と書いているぐらいだから、 南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍あわせても三〇名を越えなかったと思われる。

 その不足を補うために一般兵から臨時の補助憲兵を集める予定にしていたが、実際の配置は一週間近くおくれた。これでは効果的な取締りを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。(P102)

 






松井石根大将が嘆いておられたのは、これらの数件の非行について「お恥ずかしい限りです」と述べられたのが実態であって、けっして数百もの一般市民虐殺があったという事では無いのです

 松井大将発言のシチュエーションを考えてみてください。

 松井大将は、「南京事件」で死刑判決を受けました。この「感慨」は、刑確定後、死刑になる前の発言です。

 法廷は、十万規模の「虐殺」を認定しました。そして松井大将は、しっかりとこう言い切っているのです。


南京事件ではお恥しい限りです。

 法廷では十万規模の虐殺が認定されたというのに、松井大将は「数件の非行」だけを頭に置いてこんな発言をした、とでも主張したいのでしょうか。どうしたらこんな発想ができるのか、不思議です。

※yさん、2月6日慰霊祭での松井大将訓示と、勘違いしているのかもしれませんね。





結局、『俺たち中国共産党が中国人民を何千万人殺そうとも、おまえら日本人に言われる筋合いは無い。しかし、たとえ戦闘中の混乱の中であってもおまえら日本人が中国人民を巻き添えにしたことは絶対に許さない。 七〇年経っても七〇〇年経っても許さない。』てことですかね?

 どうして「戦闘中の混乱の中であっても」なんて言葉が出てくるのは不思議ですが(yさんの認識では、南京はすっかり平和になっていたはずではなかったでしょうか(笑))。それはともかく、彼はこう言いたいのでしょうか。


『俺たち日本軍が中国人民を何人殺そうとも、中国人民を何千万人(かどうか私は知りません) 殺したおまえら中国共産党に言われる筋合いは無い。』

 思い切り「身勝手」としか言いようのない発言です。少なくともこれ、政治家が公式の場で言ったら、大変なことになりそうです。


(2013.3.3)


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