続・夏淑琴さんは「ニセ証人」か?

−東中野修道氏『「南京虐殺」の徹底検証』を検証する−


 前コンテンツでは、「SAPIO」に掲載された東中野氏の論稿の批判を行いました。


 東中野氏の「夏さん批判」のスタートは、氏の著作『「南京虐殺」の徹底検証』でした。

 発表が1996年と旧いこともあり、「SAPIO」論稿(2001年)がまだしももっともらしい「論理」に仮装されているのに比べても、論理の粗雑さ、あるいは「思いつきの記述」が目につくことは免れません。ひょっとすると、氏にとってこの「夏さん証言批判」は、「もう忘れてしまいたい過去の作品」に属するのかもしれません。

 ともかくも、以下、「徹底検証」で東中野氏の提示した主要論点について、見ていきましょう。


*こちらについては、K−Kさんの包括的な批判が既にあり、本稿を作成するにあたり、参考にさせていただきました。

**繰り返しますが、私は夏淑琴さんの「名誉毀損」裁判自体には何の関わりも持っておりません。以下はあくまで私の「個人的見解」であり、「原告側の主張」とは関係ないものであることを念押ししておきます。


1 外国人に伝えられるまで

2 「安全地帯の記録」との整合性

3 「姓名の確認」を怠った?

4 消されなかった目撃者

5 「逃げなかった」理由

6 発見されなかった理由

7 生死に関わる「傷」だったか

8 城内南部は「無人地帯」か




 
外国人に伝えられるまで


『「南京虐殺」の徹底検証』より ①

 これらの記録には、不思議に思えてならない点が数多くある。

 まず第一に、事件発生年月日は昭和十二年十二月十三日であったという。それから十四日が経過した十二月二十七日、老女性が近所に戻り、二人の子供を発見した。第一発見者の老女性が発見したその時、この事件が安全地帯中の噂となり、欧米人の耳に達していて当然であった。そして、ただちに聞き取り調査がなされていて当然であった。

 ところが、マギーの東京裁判における証言によれば、それから「約六週間後」にマギーは初めて調査に出かけた。

 ラーベの日記によれば、十二月二十七日から一ヶ月以上も経過した一月二十九日に、初めてこの事件が日記に登場してくる。日記には、「ジョン・マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。その親族十一人がきわめて残虐なやり方で殺されたのである」と記された。筆者が傍点を付したように、ラーベの日記では被害者が十二人から十一人に減少している。

(同書 P243〜P244)

*東中野氏の「傍点」部分は「下線」としました。以下の引用部分も同様です。


 K−Kさんが指摘するとおり、ここでは東中野氏は、かなり無理のある「仮定」の積み重ねを行なっています。まずは、東中野氏の「論理展開の無理」を見ておきましょう。

,泙此⊃限りない「日本軍の暴行」の噂に食傷気味で、かつ最大の関心が「今日の生活の糧を得ること」にあったであろう難民たちの間で、夏さんの事件がいちいち「噂」になるとは限りません。

△修靴導姐饋佑燭舛両霾麑屬鷲ずしも密なものではありませんでしたから、「噂」が必ず「欧米人の耳に達」するとも限りません。

さらに、多数の調査すべき「事件」を抱える外国人たちが、「噂」程度の情報で「ただちに聞き取り調査」を行なうとも限りません。


 従って、外国人が夏さんの事件を「救出」から「一ヶ月以上」も後に知ったことを、「不思議」に思う必然性はありません。



 さらに言えば、そもそも東中野氏の論は、「夏さんが救出後ただちに安全地帯に出向いた」ことを大前提とします。

 実際はどうだったのか。星氏のルポを見ましょう。


星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より


 すると、近くにいた老婆が「あっ! まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。

 夏さんの血まみれの衣服は、とても臭くなっていた。それからしばらくのあいだ、夏さんと妹は、この「老人堂」で保護されていた。その日数については、夏さんは「かなりの日数があったので、数週間になると思う」と証言する。

 年が明けて三八年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。

 それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。

 そのころ、夏さんが刺された三ヵ所の傷のうち、左脇腹と左肩の傷はだいぶ良くなっていたが、背中の傷だけは腫れて悪い状態だったという。

 夏さんは叔父にかつがれ、その「老人堂」をあとにして、難民区へと向かった。もちろん、妹も一緒だった。当時、難民区で生活するには、南京市自治委員会で「登録証」の手続きをしなければならなかった。食糧などの配給を受けるためらしい。

 そこで夏さんは、自分がこれまで体験した惨事について、担当者(中国人)に大まかな話をした。その担当者がその話を上司に報告したところ、「これは大変なことだ」ということになり、南京安全区国際委員会にそのことが伝えられた(聞)。それでラーベ同委員長がマギー牧師にそのことを伝え、現場に派遣したのである(聞)。

 マギー牧師は夏さんと妹とその叔父を連れて、彼女たちを保護した「老人堂」の老婆にも同行してもらい、夏さん宅の惨殺現場を訪れた。そして、一六ミリフィルムで現場を撮影したのである。

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153〜P154)

*「ゆう」注 星氏は、夏さんが後に人づてに聞いたことについては、文の末尾に(聞)の符号をつけています。


 夏さんは、救出後すぐに安全地帯入りしたのではなく、しばらくは、安全区外の「老人堂」にいました。迎えに来た叔父に連れられて難民区に向かったのは、その「数週間」後のことです。そして難民区に着いて「登録証」の手続きを行う時に中国人の担当者に自分の体験を話し、それが国際委員会に伝えられた、ということです。

 以上、特に無理のない、自然な話であるように思われます。要するに、「老人堂」には、わざわざ「安全区」まで出向いて「事件」を「外国人」に報告するような方がいなかった、というだけの話でしょう。

*「老人堂」というのは、「養老院」、あるいは「孤児院」のような場所のことであるとのことです。

**笠原氏のインタビューでは、難民区に入った後、「叔父が私の家の惨事を外国人に報告した」とあり、「伝達ルート」はやや異なります(『体験者27人が語る南京事件』P137)。おそらくは、叔父と夏さん自身がそれぞれ 前後して「報告」を行った(あるいは一緒に報告を行った)、ということであると思われます。

 実際のところ、夏さんがいつ安全地帯入りしたのかは、今日となっては確認することは困難です。東中野説にとっては肝心な前提となる、こんな基本的な点もはっきりしないのに、あえて「不思議に思えてならない」とまで思う必要はないでしょう。

 なお東中野氏は、ここにわざわざ「救出日」を「十二月二十七日」と「正確に」記述していますが、当時の記録は「2週間後」としか語っていません。常識で考えてもこれは「 おおよそ」のものであり、「十二月二十七日」という「日付」を特定できるものではないでしょう。東中野氏のいい加減なところです。



 以下は余談となりますが、どうも東中野氏は、「事件が起きれば必ず即座に外国人たちに伝えられ、調査が行われるはずだ」という 「固定観念」を持っているように思われます。

 そもそも「国際委員会」は、警察でも司法組織でもありません。犯人を捜して処罰することなどできるはずもありませんし、また、被害者または遺族に対して何らかの「補償」を行うわけでもないでしょう。 被害者の立場から見れば、「訴え出る」ことにたいしたメリットがあったとも思われません。

 「現行犯」を何とかしてくれ、あるいは連行された家族を探してくれ、などと差し迫った危険を訴えるケースは別ですが、一般論として言えば、被害者は「事件の被害」をいちいち「国際委員会」に届け出るとは限りらない、と考えられます。

 「国際委員会」メンバーも同様の認識を持っていたようで、ベイツなども、「強姦や暴行の実際事例は、報告されたものよりずっと多かったのです。というわけは、自ら事実を匿していることと、報告して報復されるのを恐れていることが、大いに注意されるからである」(「日本大使館へ提出のM.S.ベイツ金陵大学難民収容所トウ案・M.S.ベイツ宣誓口供書(極東軍事裁判孚提出)より=『南京大残虐事件資料集 第2巻英文資料編』P307)との発言を残しています。




 現実に「スマイス調査」の結果などを見れば、外国人が把握していない、あるいは「噂」程度に聞いていても記録しなかった「個別事例」が多数あったであろうことは、容易に想像がつきます。

 同調査では、「市部調査」で死者・行方不明者合わせて6,600人、「農村調査」で26,780人の「民間人犠牲者」が発生した、という数字が提出されています。

 一方、国際委員会の記録、あるいは外国人が書き残した具体的な個別事例を集計しても、「スマイス報告」とはケタの違う数字しか出てきません。外国人の知ることのできた範囲の大半が「南京城内およびその周辺」であったことを考慮に入れても、この2つの数字には明らかな「ギャップ」が存在します。

  そもそもスマイス報告の数字が「ケタの違い」というレベルで大きく現実と異なるものである、という無理な解釈を採らない限りは、これは、外国人たちが 記録した事例が全体のほんの一部であることを示すものである、と理解するのが自然でしょう。
 
 ごくまれではありますが、相変わらず「民間人被害者は49人」と主張する方を見かけますので、念のために書いておきます。


*ただし「スマイス調査」は、「サンプル調査」に基づく粗い推計でした。スマイス自身、「市部調査」の数字は過少なものであると考えていました。また反対に、「どこまでが日本軍の不法殺害であるか」という議論もありますが、このあたりはとりあえず捨象します。詳しくお知りになりたい方はこちらのリンク先をご覧ください。

**「スマイス調査」について、「国民党から資金援助を受けた調査である」と主張する論者は存在します。しかしこの論自体根拠の薄いものですし、このような主張を行う論者にしても、「社会学的学術調査」であった「スマイス調査」が事実と極端に異なるとまで明確な主張を行なっているわけではありません。
 



「安全地帯の記録」との整合性


『「南京虐殺」の徹底検証』より ②

 第二に、先に紹介した、マギー自身が作成し、「日支紛争」に収録された報告書のなかに、「女たちは強姦されて手足を切断された」という話が出てこない。にもかかわらず、それから約一年後に編纂された『南京安全地帯の記録』の事例二一九(マギー報告)には、女たちは強姦されて「手足を切断された」という話が出てくる。どうして、こうも説明が違うのであろう。 

(同書 P244)


 この点については、コンテンツ『夏さんは「ニセ証人か? SAPIO論稿をめぐって』中の『「検証されていない」マギーの記録』で説明しました。

 東中野氏は「約一年後に編纂された」という表現で読者の錯覚を誘っていますが、『南京安全地帯の記録』というのは、「国際委員会」がリアルタイムで日本軍の日々の暴行を日本大使館に報告した記録です。その記録を集大成して出版されたのが「約一年後」であるというに過ぎません。

 この記録はいわば「第一報」であり、マギーの報告を誰かがタイプする際に、「不正確な記述」が混入してしまったものであると思われます。 その後のマギーの記録の中で、我々は「より正確な情報」を知ることができますので、第一報と「説明が違う」ことをことさらに問題にする必要もないでしょう。




 「姓名の確認」を怠った?


『「南京虐殺」の徹底検証』より ③

 第三に、被害者や、八歳の少女、近所の老女性、シアの弟(または兄)の名前が不明である。

 否、それは幼い子供に聞いても無理だと、あるいは思われるかも知れない。が、実は、マギーは東京裁判でもこの「事件」を語った。それによれば、マギーは自分を現場に案内したのは「母方ノ祖母」であると語った。この「母方ノ祖母」が年齢や氏名を知らないはずはない。

 年齢の確認はともかくとしても、マギーは重要な姓名の「確認」を怠った。この基本的な点が全く不明では、信憑性を疑われても仕方あるまい。

(同書 P244)


  「極東軍事裁判」の速記録には、マギーが「母方の祖母」に案内された、と証言した記録が残されています。しかし他の記録には「血縁関係」を窺わせるものはありませんので、これは、マギーの勘違い、もしくは速記ミス 、あるいは同時通訳者の翻訳ミスとみなすべきでしょう。

 実際に案内してくれたのは、「近所の老女」であった
ようです(詳しくはこちら)。なお「母方の祖母」は、実際にはこの「事件」で既に死亡しているはずです。


 それはともかくとして、そもそもなぜ東中野氏は、「姓名の確認を怠った」と断定できてしまうのでしょうか。「姓名を確認すること」と「その姓名を記録すること」とは、全く違うレベルの話であるはずです。

 記録を見ればわかる通り、マギーは少なくとも、「シア」「マア」という、被害者二家族の「姓」は確認していました。"姓"名の確認を怠った」という東中野氏の記述は、明らかにそのあたりをごまかして、読者を混乱させようとしています。

 そして唯一「姓」が記録されていない「近所の老婦人」にしても、常識的に考えれば、マギーとの初対面に当たって、「私は○○と申します」程度の「あいさつ」はするでしょう。 記録に残っていなかったとしても、それだけでは、マギーが「姓名の確認を怠った」と決め付ける材料にはなりません。

*被害者二家族の姓は、夏(シア)と哈(ハア)であったと伝えられます。マギーの記録した「マア」は、正確には「ハア」と書くべきだったでしょう。


 さらに言えば、例え「名前」なり「年齢」なりがはっきりわからなかったとしても、それで一体何が否定されるというのでしょうか。

 十人以上の中国人が殺された、という事実ははっきりしています。夏さんや叔父さんの話から、これが、長屋に同居していた2つの家族のメンバーであることもはっきりしています。その「姓」も、「音」表示ではありますが、記録されています。「証言者」のうち2人と被害者たちとの「血縁関係」もわかっています。

 「2つの家族の個々のメンバーの下の名、年齢」なんて細かなデータが不確実であっても、それで事件の「信憑性」が揺らぐはずもないでしょう。


 マギーの「苦労」は、察するに余りあります。

 「聞き取り」の相手は、決して教育がある人物ではなかったであろう「叔父」と、小学校にも行けなかった8歳の幼い少女、あとはほとんど無関係の「近所の老女性」です。「聞き取り調査」を行なった経験がある方でしたら、このメンバーから、事件の経緯、家族構成などを正確に再構成することがどれだけ根気のいる作業であるか、容易に想像がつくことでしょう。

 それでもマギーは、「概ね正確な家族関係」、「概ね合理的な事件経緯」を再現することに成功しました。例え東中野氏の主張通りに、「事件内容」に関係の薄い「年齢」や「個人個人の名前」にまで手が回っていなかったとしても、それは非難するにはあたらないことであると思います。

  警察が「取調べ調書」を作成しているわけでもないでしょうに、「証言者」「被害者」の「氏名」「年齢」をずらずら並べることまでマギーに求める必要はないでしょう。

*なお、日本大使館に報告された「日本軍の暴行記録」事例を見ると、「被害者の姓名」までは明記されていないケースが大半を占めます。しかし日本大使館がそれを理由に「信憑性」を否定した、あるいは「信憑性」を確認するために「姓名の明記」を求めた、という事実は伝えられておらず、当時においても「被害者の姓名の明記」は必ずしも重要視されていなかったことが伺えます。(タラリさんのご教示によります)


<2006.9.23追記>  

 ブログ「不条理日記」によれば、「笠原先生によると、当時の中国の貧しい人々は娘の年をいちいち数えることはしない、だいたい名前すら付けない場合も多かったという」とのことです。そうであれば、そもそも「名前を確認したかどうか」などということを問題にする意味はありません。



消されなかった目撃者


『「南京虐殺」の徹底検証』より ④

  第四に、日本兵が玄関を開けさせ、突然入ってきた。そして、いきなり家主を撃ち殺したという。これは問答無用の計画的殺害であったことを窺わせる。ところが、どうしたことか、八歳と四歳の姉妹だけは殺されなかった。目撃者は消されるのが常であるにもかかわらず、なぜか二人は見逃された。それはなぜなのか。

(同書 P244)


 別に、運がよかっただけでしょう、で終わってしまいそうな「疑問」です。

 「運よく助かった人の話」は、世間にいくらでもあります。南京事件でも、例えば多数の捕虜が銃殺もしくは刺殺された中で、死体の中に潜んで辛うじて助かった人の話は、何件か見かけます。

 「皆殺し」自体を明確な目的とした「捕虜殺害」に比べれば、夏さんの場合は、はるかに「生き残る」条件は大きかったはずです。なんでこんなことまで「疑問」に思うのか、読んでいるこちらの方が不思議になります。

 夏さん自身の説明を見ましょう。


早乙女勝元氏『南京からの手紙』より

 私はまだ七歳でしたので、なんとか生きのびることができましたが、それでも銃剣で刺されてぐったりし、これで静かになったとかれらは思ったのでしょう。妹は私のかけぶとんの下にいましたので、かろうじて、難を逃れました。

(同書 P80)


 ・・・とまあ、それだけの話です。

 「二人が殺されなかった理由」など、いくらでも思いつきます。夏さんの言う通り、もう死んでいる、と誤認したのかもしれません。子供にまで止めを刺す気がなかったのかもしれません。あるいは、他の部隊がやってくるのを怖れて、 急いで逃げ出したのかもしれません。

 少なくとも、夏さんと妹は生き残りました。「どうして生き残ることができたのか」という疑問からスタートするのであればともかく、「彼女たちが見逃されたはずがない。だからこの証言はウソだ」という 悪意に満ちた「決め付け」から出発するのでは、発想があべこべなのではないか、と感じます。

 しかし、「計画的殺害」という表現には、違和感を覚えざるを得ません。「計画的殺害」というからには、被害者・殺害方法・逃走方法などを特定した「殺害計画」が存在するはずですが、「犯人」は別に初めから夏さんの家を狙っていたわけではないでしょう。「女がいる家を発見したら、家人を皆殺しにし、女をレイプして殺そう」。普通の感覚では、こんなものは「計画的殺害」とは言いません。



 「逃げなかった」理由


『「南京虐殺」の徹底検証』より ⑤

 第五に、「このような恐ろしいことが起り始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた」と言われるにもかかわらず、この二人の幼児だけは、無残な恐るべき十二人の死体と一緒に、二週間も寝起きを共にした。いったい、なぜ逃げ出さなかったのか。

(同書 P244〜P245)


 こちらもまた、「どうして逃げなかったの?」 「だって、外に出るの、怖かったから」の会話で終わってしまいそうな「疑問」です。8歳の子供に、そんな「合理的判断」を求めても仕方がありません。大人でしたら「安全を求めて難民区に避難する」という発想が持てるかもしれませんが、幼い子供たちに、そもそも「難民区に行けば安全だ」という認識自体あったかどうか、疑問です。

 一応、資料で確認しておきましょう。

夏淑琴さんの証言より 
  
本多勝一氏『南京への道』より

 昼間は怖いので机の下からほとんど出なかった

(文庫版 P202)

『南京大虐殺と原爆』より夏さんの講演

 私と妹は、恐怖のあまり外にも出られず、死体と同じ部屋でそのまま一週間過しました。

(同書 P17)

落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より

 昼間は日本兵がうろうろしているので怖くて机の下に隠れてじっとしていました。そばには哈さんの奥さんと子供ふたりの死体がありました。

 十日ぐらいしてから紅卍字会の人々が死体探しに来たんですが、そのとき私と妹を見てまだ生きていることに気づいたんです。それで助けられて孤児院に入れられました。もちろん私は歩けなかったので背負ってもらいました。

(同書 P116)


星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 夏さんと妹は、それからずっとこの長屋の敷地内にとどまった。 夏さんが重傷を負っていることに加えて、周辺にはまだ日本軍がいることもあって、身動きできなかったためだ。 実際、この惨劇の直後から、門のすぐ向かい側の建物に日本軍が宿営し、昼間にときどき夏さんらのいる中庭を近道として通る日本兵がいたのである。そういった日本兵の靴音が聞こえると、夏さんと妹はあわてて「避難所」の下に隠れて死んだふりをしていた。

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P152)

 

 本人の言う通り、怖くて外に出ることができなかったのだろうと解釈して、何の問題もありません。あるいは、救出時に「歩けなかったので背負って」もらった、とありますので、体力的にも「逃げる」のが困難な状況だったのかもしれません。

 ここまでくると、東中野氏はむりやり「疑問」をつくり上げている感があります。



 発見されなかった理由


『「南京虐殺」の徹底検証』より ⑥

  第六に、事件後、二人は古い敷布(シーツ)の下に隠れていたという。三十人近い日本兵が毎日盗みにやってきたという。人の気配は常に感知されるのだが、それにもかかわらず二人の幼児は十四日間も発見を免れた。それはなぜなのか。

(同書 P244〜P245)


  まずK−Kさんの指摘するとおり「三十人近い日本兵」が「毎日盗みにやってきた」というのは、東中野氏の明らかな誤認です。東中野氏は資料も読み返さずにこの部分を書き飛ばし、最初に家に侵入した人数と伝えられる「三十人」をそのままこちらに書いてしまったものであると思われます。

 だいたい夏さんの家は、金目のものが溢れていた大豪邸でも、食料倉庫でもありません。そんなところに、「三十人近い日本兵」が「毎日盗みにやって」くるはずがありません。ちょっと考えれば、東中野氏も自分の「勘違い」に気がつくはずです。

 一応、記録を確認しておきましょう。

マギーの記録より

『マギー牧師の解説書』より

 この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P177)

フォースター文書』より

その後も日本兵は時々部屋に入ってきたので、二人は古い布団の中に隠れていた。

(笠原十九司氏『南京難民区の百日』P25×)



 「三十人」などという語句は、どこにも見えません。

 なお、夏さんの家が経済的に必ずしも豊かでなかったことを考えれば、「毎日家から物を持って行った」というのは、ちょっとオーバーかもしれません。「毎日」なのか「時々」なのかははっきりしませんが、マギーとしても、あまりこだわる部分ではなかったと思われます。



 ただし戦後の証言を見ると、「家の中に日本兵が入ってきた」という表現は姿を消します。本人の直接談であることを考えると、こちらの方が、正確なものであるのかもしれません。

夏淑琴さんの証言より

   
落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より

 昼間は日本兵がうろうろしているので怖くて机の下に隠れてじっとしていました。

(同書 P116)

星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 夏さんと妹は、それからずっとこの長屋の敷地内にとどまった。夏さんが重傷を負っていることに加えて、周辺にはまだ日本軍がいることもあって、身動きできなかったためだ。実際、この惨劇の直後から、 門のすぐ向かい側の建物に日本軍が宿営し、昼間にときどき夏さんらのいる中庭を近道として通る日本兵がいたのである。そういった日本兵の靴音が聞こえると、夏さんと妹はあわてて「避難所」の下に隠れて死んだふりをしていた。

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P152)



 これらの証言の通り、日本兵が家の中まで入ってこなかったのであれば、二人が「発見」されなかったとしても、何の不思議もありません。



 仮にマギーの記録通り、日本兵が家の中まで入ってきていたとしても、別に日本兵は「家宅捜索」にやってきたわけではありません。

 隠れている子供をいちいち熱心に捜すはずもありませんし、「略奪」目的であってみれば、例え幼い子供が二人いるのに気がついても、何の関心も示さない可能性が高いと思われます。 むしろ、幼い子供に同情して、助けてやろう、と考えるかもしれません。

 ひょっとして東中野氏は、当時の日本軍兵士というのは、中国人の顔を見ると老若男女を問わず無差別に殺して回るものだと思っているのでしょうか?



 しかし、「人の気配は常に感知される」というのも、何とも奇妙な表現です。布団の下に隠れていてもすぐに「気配」を「感知」できるのであれば、例えば「かくれんぼ」という遊びはそもそも成立しえない、と思うのですが。



 生死に関わる「傷」だったか


『「南京虐殺」の徹底検証』より

 第七に、銃剣で「重傷」を負った八歳の少女が何とかショック死を免れた。しかし、傷を負った身で、十四日間も生き永らえることができた。それはなぜか。

(同書 P245)


 「重傷」を負ったのであれば、傷の手当ても受けられない状況で十四日間も生き残れるはずがない、と東中野氏は主張したいようです。まずは、関係資料を並べてみましょう。


 
マギーの記録より

『マギー牧師の解説書』より

 傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。
(『ドイツ外交官の見た南京事件』P177)

『夫人への手紙 マギー』より

8歳の子は背中と脇とに三ヶ所刺されたが、死ななかった。

(『この事実を・・・』② P328)

フォースター文書』より

この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。

(笠原十九司氏『南京難民区の百日』P255)

 
『極東国際軍事裁判』におけるマギー証言

 其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、 さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95)



 まずこちらには、「重傷」の文字は見えません。三ヶ所を刺されたが、マギーが調査した時には「傷はもう大体治つて」いた。その程度の傷であったようです。記録を見る限りでは、「ショック死」するほどの傷であったとは思われません。

 「重傷」の文字が見えるのは、戦後の記録です。


夏淑琴さんの証言より


本多勝一氏『南京への道』より

 恐怖のあまり夏さんは叫び声をあげた。とたんに銃剣で刺された。気絶した。このときは分からなかったが、夏さんは左肩と左脇と背中の三カ所を刺されたのである。そのあとで起こったことは、気絶していたため直接見ることができなかった。 どれほど時間がたったか、四歳の妹の泣く声で気付いた。夕方になっていたが、外はまだ明るかった。壁ぎわにつくねられたふとんの下で妹は泣いていた。

(文庫版 P200)



 夏さんは妹をつれて中庭に這いだした。銃剣で刺されて重傷を負っていながら、あまりのことに動転していて痛みなどほとんど感ずる余裕さえなかった。

(文庫版 P201)

『この事実を・・・』より

 わたしは背中を二太刀突っつかれ、左腕を一太刀突っつかれて、今になっても傷痕が残っています。

(同書 P115)

 
『南京大虐殺と原爆』より夏さんの講演

 当時八歳だった私は、あまりのおそろしさに泣き叫びました。するといきなり、私は銃剣で刺されました。脇を一カ所、それから背中を二カ所です。 (夏さんは上衣をめくって傷を示された。)私は三ヵ所も刺されたために気絶してしまい、何もわからなくなりました。
 
 どのくらい時間が経ったのかわかりませんが、私は四歳になる妹の泣き声で意識をとりもどしました。妹は布団の中にいて、無事だったのです。

(同書 P16)

 
早乙女勝元氏『南京からの手紙』より

 私は銃剣の先で乱暴にこずかれ、三、四ヵ所刺されて、気を失ってしまいました。まだ、そのときの傷跡が残っています。背中と、左肩と、左の脇腹と。

 気がついた時、四歳の妹と私と、たった二人だけになっていました。私は妹の張りさけるような泣声で、意識を取り戻したのです。

(同書 P79)

 
落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より

 私はそのとき必死になって叫んでいたんです。それがうるさかったのか日本兵は銃剣で私を三度刺しました。今もそのときの傷跡が腰と肩に残っています。刺された痛みとショックで私はその場で気を失ってしまいました。

 目が覚めたとき四歳の妹がふとんの中に隠れて泣いていました。

(同書 P115〜P116)

星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 このような突然の蛮行を自の前にして、夏さんは気が動転して「キャーッ!」と悲鳴を上げたり、「ワーッ!」と叫んだりした。すると、近くの日本兵に「うるさい!」などと怒鳴りつけられ、銃剣で左脇腹・背中・左肩の三カ所を刺され、夏さんは気を失った。

 どれほど時間が過ぎたのか分からなかったが、四歳の妹の泣き声で夏さんの意識は戻った。妹は寝台の壁際につくね(無秩序に放り重ね)られたふとんの下で、「お母さん! お母さん!・・・・・」と泣き叫んでいた。

 「妹が無傷だったのは、小さくて、ふとんのいちばん奥にいて、日本兵に見つからなかったからではないか」と夏さんは推測する。その時はもう日本兵の姿はなかった。夏さんの身体中には激痛が走り、全身は血まみれだった。

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P151)



  年が明けて三八年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。

 それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。

 そのころ、夏さんが刺された三ヵ所の傷のうち、左脇腹と左肩の傷はだいぶ良くなっていたが、背中の傷だけは腫れて悪い状態だったという。

(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153)

笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より

 私の傷は、当時は薬などはなかったので、綿着の綿を引き出して火であぶって消毒して傷口に貼り付けました。

(同書 P137)



 以上を総合すると、「傷の程度」については、概ね次のことが言えると思います。

1.刺された場所は3箇所程度。

2.刺された瞬間、夏さんは気を失った。気を失った原因は、本人の弁によれば、「出血多量」のためではなく、「痛みとショック」のためである。

3.妹の泣き声で意識を回復した。意識を失っていた時間については、本多氏への証言では「夕方」とあるが、曖昧。(比較的短時間であった可能性もあるように思われます)。この時点でも、ある程度動き回ることはできた。

4.最終的には、十分な手当てを受けられなかったにもかかわらず、傷跡を残す程度で概ね治癒した。



 東中野氏は、「重症」という言葉から、「生死に関わる傷である」というイメージを受けてしまったようですが、どうやらそこまでの傷ではなかったようです。



<2006.9.23追記>

 
ネットでよく見かける「論」に、「満足な食糧もないのに、気絶するような重い傷を受けて、8歳の少女が2週間も生きていられたはずがない」というものがあります。ちょっと資料を確認して考えればこの「論」の馬鹿馬鹿しさはすぐにわかるはずなのですが、一応解説しておきます。

1.そもそも、「満足な食糧がない」という断定はできません。夏さんは、「家の鉄鍋で作られた厚い層の焦げ飯を取りにいっては、妹と二人で「避難所」の下で飲み食いをしていた」と証言しています(星徹氏への証言)。これは避難用の保存食であったと思われますが、2家族13人の非常食であったのですから、2人の幼い子供が食べ継ぐには、少なくとも「量」はそれなりのものがあった、と考えるのが自然でしょう。

2.「気絶」と「重症度」は、必ずしも相関するものではありません。夏さん自身、「痛みとショック」で気絶した、と証言しています。傷の程度がたいしたものでなくても、「痛み」で気絶する、というのはよくある話です。私自身、喫茶店で会食している時に、うっかり肘を強く打ち、そのまま気絶してしまった体験があります(電流が2、3秒で肘から脳に達したような感覚で、そのまま気が遠くなりました)。また、精神的ショックで気絶する、というのも、結構聞く話です。夏さんの「気絶」に、特に不審な点はないでしょう。



 城内南部は「無人地帯」か


『「南京虐殺」の徹底検証』より

 第八に、この事件は十二月十三日、南京城内の東南部(southeastern part)で発生したと説明されている。その「東南部」で激戦となることは、南京戦の前から、衆目の一致するところであった。

 しかも十二月八日、南京市民には避難命令が出ていた。十二月八日の『東京朝日新聞』は、城内の危険区域の住民が雪崩をうって安全地帯に避難中と報じた。付近の人々が追い立てられるように避難し、すでに光華門(東南の門)や中華門(南門)付近は無人地帯となっていた。

 従って、犯行時間と言われる十二月十三日の数日前に、ほとんどの人が避難していたのである。ところが、この一家(二家族)だけは、日本軍猛攻の砲音を聞きながら、なぜか留まり続けた。そこから日本軍が侵攻して来るのは眼に見えていたが、その危険区域に、この二家族だけは留まった。そんなことがあるだろうか。

(同書 P245〜P246)


 さて、どういう状況だったのか。まず、星氏のルポからです。

星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 一家の住居は、一つの塀で囲まれた長屋のなかにあった。共通の門を入ると、T字型の中庭の両側にそれぞれの間借り住居があり、六〜七世帯分が並んでいた。

 しかしながら、日本軍が南京城に到着したころ(一二月上旬)には、 六〜七家族のうち夏さん一家と「家主」一家(夫婦と二人の子)以外は、難民区(安全区)へすでに避難していた。

 夏さんの家には叔父(母の弟)夫婦と二人の子も一緒に住んでいたが、事件の二日ほど前にここを出て難民区へと向かった。


(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P148)


 長屋の中の六〜七家族のうち二家族が、「危険」を甘く見て避難せず、現場にとどまり続けた。そして、被害にあった。

 このパターンは、あちこちで耳にする「比較的ありふれた話」であり、別に怪しむには足りません。「済南事件」という例もありますし、現在でも、2005年のニューオーリンズの水害 で、避難勧告を無視して家にとどまり結果として被害にあった、という事例が思い出されます。


 夏淑琴さん自身の説明を見ましょう。

本多勝一氏『南京への道』より

 夏さん一家がなぜ避難しないでいたのかも、七歳だった夏さんには事情がよくわからないが、老人と子供が多いので動きがとれなかったのだろうと想像している。

(文庫版 P198)

落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より

 その頃私の家族九人と哈さんの家族四人は同じ屋根の下で生活していたのです。近所の人々はみな難民地区に逃げてしまったのですが、われわれは子供が多いし、老人もいるから逃げにくかったのです。

(同書 P114)

 当時夏さんの隣の部屋に住んでいた哈夢鶴さんは、このように証言しています。

 
『南京大虐殺と原爆』より哈夢鶴さんの証言

 三番目の叔父は、「家にいろいろ物があるし、家から離れるのは困る」と言い、しばらく難民区に留まり様子を見ようというので、三番目の叔父の一家族だけが避難しませんでした。

(同書 P21)


 避難勧告は出されてはいたが、そのまま留まってもたいしたことはあるまい、とたかをくくって逃げなかった。その程度の話でしょう。「安全区」に避難せずに家にとどまっていた人が他にも多数存在したと見られることは、既に『資料:「安全区外の残留住民』で述べました。

 マギーの記録にも、同じように「城内南部」に留まって被害にあった人々の話がいくつか登場します。

 普通の発想であれば、これらのデータから「安全地帯外は無人地帯」という「仮説」が否定されるのではないか、と考えるところなのですが、東中野氏は逆に、「無人地帯なのだから人がいたはずがない。従ってそこにいたというのは嘘だ」と言わんばかりの、何とも乱暴な議論を展開しています。


 なお東中野氏は、「その「東南部」で激戦となることは、南京戦の前から、衆目の一致するところであった。」と書きますが、その「衆目の一致」を示す資料は提示されていませんし、特に「東南部」(正確には、中華門の内側ですので「南部」になります)の住民に特に強く「避難」が勧告された、という事実もありません。

 現実に、戦闘は「城壁」までにとどまっており、「城内」では目立った戦闘は生じませんでした。ここでは東中野氏は、自分の「論拠」らしきものを補強するために、根拠のない記述を並べています。

(2006.8.9)



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