
| 「ピース・フィーラー」たちが知った「南京事件」 |
1938年当時、日中戦争が泥沼化する中、数々の「ピース・フィーラー」(和平工作者)たちが活動を続けていました。彼らは民間人が中心で、自ら培った中国側とのコネクションを生かしつつ、日中和平交渉の土壌作りに努力していました。
「情報」に接する機会が多かった彼らは、当時日本国内では厳重な報道規制下に置かれ秘匿されていた「南京事件」について、かなりの情報を得ています。ここでは、彼らが伝え聞いた「南京事件」に関する記述を紹介します。
必ずしも正確な記述ばかりとは言い難いのですが、少なくとも、「戦後になるまで日本人は誰も南京事件を知らなかった」というのがとんでもない誤りであることがわかります。
<目 次>
| 1 | 西義顕『悲劇の証人』 |
まずは、西義顕です。陸軍大将・西義一の弟で、日中戦争開戦時には、満鉄南京事務所長の地位にありました。のちに汪兆銘工作に関わったことで知られています。
西は、松岡洋右満鉄総裁の支援の下、早い時期から和平運動に携わっていました。しかし和平のパートナーとして頼りにしていた呉震修が、「南京事件」に大きな衝撃を受け、和平への意欲を失ってしまいます。
以下の記述は、南京事件直後、1938年1月のものです。
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西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より |
なお同じ回想録の中で、西は、新聞売り子やホテルのボーイから「広東爆撃」に対する怒りを訴えられたことを語っています。
1938年7月、蒋介石は「世界の友邦に告げる書」などで、日本軍の暴虐を語る材料として「広東爆撃」を大きく取り上げました。
今日では、「広東爆撃」はほとんど忘れられた事件です。そのため、蒋介石がなぜこんな無名の事件を重視したのか、違和感を覚える方もいるかもしれません。
しかし西の体験談を見ると、「広東爆撃」が当時の中国人たちに与えた衝撃の大きさをはっきりと伺うことができます。
| 西義顕『悲劇の証人』より 私は昭和十三年(一九三八)五〜六月、香港に滞在した。(P181) (中略) 九竜停車場の横に香港島と連絡するフェリーの発着場がある。ジョージ五世の肖像を刻んだ十セントの銀貨を投じて、ここから海峡渡船六、七分の涼を追うのが、香港・九竜の下町生活における一番の極楽であったが、私がこの渡船場へ入ると、私の口ひげを目がけて四方八方から新聞売子が蝟集して私を包囲してしまう。(P181) 新聞を買えというのではない。この写真を見よと、デリーニュースの日曜版の付録を突付けるのである。(P181-P182) 日本海軍機広東爆撃の惨憺たる破壊の場に子供の死骸が横たわり、大きく Why do you kill our children? と脚書してある。売子たちも口々に広東語で Why do you kill our children? とわめき合って、それを私の目の高さに突付ける始末。戦局の進捗とともに香港の空気は前回と一変していた。 英国式によく訓練された、訓練されたというより飼いならされたホテルのボーイさえ、ときに私の口ひげをつかまえて、 貴下は日本海軍士官にあらずや、広東爆撃は何の状ぞ! と迫ってくるありさまだった。(P182) |
| 2 | 犬養健『揚子江は今も流れている』 |
犬養健は、元首相犬養毅の三男。初めは白樺派の作家として活躍、その後政友会より衆議院に出馬、当選しました。
のちに「汪兆銘工作」に合流しましたが、日本側の汪に対する要求が過酷なまでにエスカレートしていくのに心を痛め、少しでも条件を緩和しようと努力します。
戦後は吉田内閣の下で法務大臣を務めています。余談ですが犬養氏は、当時自由党幹事長の佐藤栄作が造船疑獄で検挙されそうになった時、検事総長に対して「指揮権発動」を行い、佐藤の検挙を阻止したことでも知られています。
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犬養健『揚子江は今も流れている』より ○東京の「イギリス」大使館付武官の「ビゴット」少将が、上海の初期の戦況を視察に行って、或る日本兵の掠奪の話を聞いた時、「そんな筈はない。日本の兵隊は義和団事件の昔から、掠奪というものはした事がない」と頑張り、証拠を見せられて非常に悲しんだ由。 |
これは、犬養が「開戦以来折にふれて書き留めておいたメモ」の一部です(原文カタカナ)。犬養が、ほぼリアルタイムで「南京事件」を知っていたことを窺わせます。
| 3 | 神尾茂『香港日記』 |
神尾茂は、朝日新聞の記者。主筆・緒方竹虎の意を受けて、1938年7月から12月まで、特派員として香港に滞在しました。
香港赴任当時は、宇垣一成外相が、さまざまなルートから中国との和平交渉を行おうとしていた時期でした。香港で神尾は、情報収集を中心として和平工作に加わります。
この時期、神尾は、『大公報』主筆・張季鸞らと接触しています。張ら中国側は、こんなことを語りました。
| 神尾茂『香港日記』より 八月九日(火) 八時十五分頃、張・胡君入り来る。 |
現代の目から見ると「数」は過大なものになっている嫌いがありますが、当時の中国側の認識がうかがえて、興味深いものがあります。
| 4 | 田尻愛義『田尻愛義回想録』より |
田尻愛義は、終戦時に大東亜次官の地位にあった、外交官です。戦後は、岩谷産業取締役顧問などを務めています。
1938年11月、汪兆銘の重慶脱出が目前に迫った時期、田尻は、汪兆銘側の高宗武の要望により、香港総領事に任命されます。しかし田尻は実際には、「汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合して自分がその長になろうというのは一体何と解釈していいのか」と、汪に対して強い批判を持っていました。
南京事件の時期、田尻は大使館一等書記官として、上海にいました。
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田尻愛義『田尻愛義回想録』より |
参考までに、上に登場する岡崎勝男は、極東国際軍事裁判に際しての「宣誓口供書」において、次のような証言を残しています。(検察側書証、不提出)
| 岡崎勝男宣誓口供書(検証二一七一)より 私が最初同地に到着した時は、事態はひどく悪化してゐました。軍隊は全く無統制でありました。 「ジョン・エイチ・レブ」(「ゆう」注 ジョン・H・ラーベ)氏を委員長とし、「ルイス・エス・シ・スミズ」(「ゆう」注 ルイス・S・C・スマイス)博士を書記としていた南京安全地帯国際委員会は、同市内において行はれたと主張せられて居る暴行に関する報告を南京駐在の日本領事に行ひ、そして私が南京滞在中、同市内の事態について殆んど毎日私の所へ話しに来ました。 福田トクヤス(福田篤泰)氏は当時、大使館付の外交官補でありました。又その当時の南京における総領事代理はゼ・福井(福井淳)氏でありました。 大使館参事官エス・日高(日高信六郎)も亦屡々そこにゐました。彼はその後、伊太利駐剳大使となりました。 南京安全地帯国際委員会の報告書を南京の日本領事館で受取りました時、その報告書の概要は電報で東京に送られ、報告書其物も亦郵便で東京の外務省に送られました。 昭和十二年(一九三七)十二月の後半に私が南京逗留中、毎日、又は殆んど毎日、これらの報告書を受取りました。南京の日本領事館は、受取る度に此等報告書に松井大将或はその麾下将校の注意を促した。 私が南京に居た間、松井大将も亦そこにゐました。南京に起りつつあつた事について、その後、松井大将と会話した時、同大将は、「何等弁解の辞もない」と言はれました。 この日本語の語句は此等兵隊のためなさるべき何等の弁解も辞さないと言ふ事かの意味になるのでせう。 (『南京大残虐事件資料集 第1巻 極東国際軍事裁判関係資料編』 P383) |
(2008.2.21)
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