前田雄二氏『戦争の流れの中に』より

ー 副題 『南京大虐殺はなかった』 ―



 同盟通信社社会部記者として「南京戦」に従軍した、前田雄二氏の『戦争の流れの中に』より、「3 「南京大虐殺」とは」の部分を紹介します。

 なお、この本のうち、下記紹介部分を含む南京攻略戦前後の約70ページについては、『南京大虐殺はなかった』とのタイトルで、独立の本として発売されています。

 確かに「30万人説」を否定する内容ではあるのですが、実際にこの本を読んだ方は、タイトルから受けるイメージと実際の血なまぐさい記述との落差に戸惑ったのではないでしょうか。 皮肉なことに、「目撃談」部分に関する限り、「私は南京大虐殺を目撃した」と題名を変えても全く違和感のない内容になっています。




 この「3 「南京大虐殺」とは」の章は、まず「捕虜処刑」の目撃談から始まります。

3 「南京大虐殺」とは


"処刑"


 翌日(十二月十六日)、新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で"処刑"の現場に行きあわせる。

 校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。 悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。

 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。 壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。

 私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。 しかし今は人間ではなく物質として扱われている。

 交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。

 私は辛うじて十人目まで見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。

(『戦争の流れの中に』P117〜P118)


 場所は違うようですが、佐藤振壽氏も類似証言を行っています。 この処刑風景は、この時期の「捕虜殺害」の、ひとつのパターンであったようです。




 前田氏は、次に挹江門をくぐります。

 
死体の門

 支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口の挹江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。

「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいぶかりの声をあげた。城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。

 いったいどうしてこんな状態になったのか、いつからなのか、聞こうにも誰も知った者はいない。下関の部隊で聞いてもムダだった。私たちは帰途ふたたび、気味の悪いこの城門を抜けなければならなかった。

「今日はいやなものばかり見る日だ」

と、私は昼食時にこれらの見聞を同僚に語った。しかし、ことはまだ終わっていなかったのだ。

(『戦争の流れの中に』P118)


 前田氏は誤認しているようですが、これは、中国軍撤退時の混乱時の死者です。スミス記者によれば、その数は1000人程度と見積もられています。





 続いて記者は、もう一つの処刑風景を目撃します。


銃殺

 午後、支局を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村太郎をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも"処刑"が行われていたのだ。

 死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。午前の処刑よりは残虐性が少なく、その死もまことにはかなかった。

「記者さん、やってみないか」

 兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っこめた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と銃をすすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり、捕虜の背中に銃口を接近させると引き金を引いた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてポシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。

 死とはなんとたやすいことか。私は銃を中村の手から引ったくると下士官に渡し、急いでその場を立ち去った。

 私はまるで自分が射ったかのような錯覚を覚えた。中村のニヤリと笑った顔と、背中を丸めて落ちていった男の姿が、その後、時折眼底に蘇った。あの男にも平和な家庭があったに違いない。

 翌十七日には、軍司令部の南京入城が予定されていた。占領軍は、その時までに、すべての掃除を完了しておこうとしていたのだった。

(『戦争の流れの中に』P119〜P120)


 「ラーベ日記」にも、「二つの沼から中国人の死体百二十四体が引き上げられた」(2月7日)との記述が見られます。日本軍が、「池」や「沼」を死体処理の場のひとつとして利用していたことを伺わせます。




 さらに17日の「入城式」後、記者たちは、下関で多数の死体の山を目撃します。

 
入城式

 十七日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将兵の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。

 下関からは、長谷川清艦隊司令長官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には陸海の航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げられ、「君が代」が鳴り渡った。

 松井軍司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約百名の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本實彦改造社長などの姿もあった。

 この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという。


死んだ部隊

 私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。

「機銃でやったらしいな」

と祓川が言った。

「それにしても多いなあ」

 千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。

 城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

(『戦争の流れの中に』P120〜P121)


 下関における大量の死体目撃は、多数の資料で見ることができます。前田氏の証言も、その一つです。

 ここでは深沢記者からの聴取としてその中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという」という記述が見られ、事件後まもない時期の目撃談であったことをうかがわせます。




 次が、有名な、松井司令官の「涙の訓示」です。

 
軍司令官の怒り

 翌十八日には、故宮飛行場で、陸海軍の合同慰霊祭があった。この朝珍しく降った雪で、午後二時の式場はうっすらと白く染められていた。祭壇には戦没した将兵のほかに、従軍記者の霊も祭られていた。参列した記者団の中には、上海から到着した松本重治の長身の姿もあった。

 祭文、玉串、「国の鎮め」の演奏などで式がおわったところで、松井軍司令官が一同の前に立った。前列には軍団長、師団長、旅団長、聯隊長、艦隊司令官など、南京戦参加の全首脳が居流れている。松井大将は一同の顔を眺めまわすと、異例の訓示をはじめた。

「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった」

 松井の痩せた顔は苦痛で歪められていた。

「何ということを君たちはしてくれたのか。君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった」

 私は驚いた。これは叱貨の言葉だった。

「諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」

 会場の五百人の将兵の聞には、しわぶきの声一つなかった。式場を出ると、松本が、

「松井はよく言ったね」

と感にたえたように言った。

「虐殺、暴行の噂は聞いていたが、やはり事実だったんだな。しかし、松井大将の言葉はせめてもの救いだった」

※「ゆう」注 前田はこの「訓示」を十二月十八日のものとして記憶していますが、実際に「訓示」が行われたのは翌年二月七日のことであった、とするのが通説です。なお前田は、この二月にも南京に滞在していました。


あるまじき行為

 「皇軍としてあるまじき行為」という松井の言葉が、何を指したのかは明らかでない。

 しかし、前日来私が見た"処刑"や長江河畔の死体群などが含まれていたのかも知れない。あるいはまた、南京に至るまでの各戦線での行動に対するものであったかも知れない。さらには南京城占領の乱戦の中でおこった一部住民区での残敵掃討の渦中で発生した破壊や暴行をさすのかも知れなかった。

 南京落城の時、英国や米国の新聞記者や伝道師などが残留しており、彼らから種々の情報が上海に流れた。また司令部には憲兵隊その他からの報告が集められていた。

 松井はかねてから人道上の配慮にきびしく、とくに南京は首都であり、外国公館も多いところから、軍規の厳正を求めていた。しかしその指令は、末端までは伝わらなかった。

 上海戦で日本軍は幾度か潰滅的な打撃を蒙り、同時に民服のゲリラに苦しめられた。その恐怖の体験が敵軍と住民を区別することを困難にした。激戦はしばしば、殲滅と焦土の形をとった。その累積が南京に持ちこまれた。

 しかし、その時の松井大将の"叱責"の内容は、のちに海外へ伝えられたいわゆる「南京大虐殺」などのようなものではなかった。「大虐殺」の被害者は、十数万とも三十万ともいわれる。当時の南京防衛軍は十万といわれ、市民は二十万とされていた。軍民全滅しなければ三十万という数字にはならない

(『戦争の流れの中に』P122〜P124)


 松井大将の「涙の訓示」は、通常は、南京戦以降の「日本軍の乱暴狼藉」について憲兵隊から報告を受け、それを嘆いたのものである、と見られています。

 前田記者は、後述のように「日本軍の乱暴狼藉」についての十分な認識がなく、そのために「"処刑"や長江河畔の死体」のことかもしれない、という解釈を行っているようです。しかしこれは、日本軍の立場から見れば「軍事行動」の一環であり、当時の軍幹部の日記等を見ても、これを松井大将が「嘆く」ことはまずありえないように思います。

 

 さて、副題の『南京大虐殺はなかった』に対応するのは、次の記述であると思われます。

流説の拡幅

 もとより南京攻城戦では、多数の日本将兵も死んだが、中国軍の戦死者ははるかにそれを上まわった。とくに脱出部隊に対する殲滅戦があった。これに南京までの交戦による死亡者を加えれば、万の単位で数える数字になったろう。しかし、これらは戦闘の範囲に入るものであった。

 すなわち、「大虐殺」というのは、長江沿いや挹江門、それに"処刑"、私自身が見た事実、これらの中には戦闘につながるものがあるかも知れないが、これらの事実が核になって噂が拡幅され、戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字にふくれあがったのではないか。

 一部の兵の暴行に良心を傷つけられ、指令の不徹底を怒り、異例の叱責をした松井石根は、戦後、この拡幅された「大虐殺」の責任者として処刑されることになったのである。

(『戦争の流れの中に』P125)


 前田記者は「戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字にふくれあがったのではないか」と書いていますが、「南京軍事法廷判決」を見れば判るように、中国側の「30万人説」は明らかに「戦争被害」をも含んだ数字であり、ここに認識の微妙なズレが見られます。

 それはともかくとして、こちらには明記がありませんが、松本重治氏の証言によれば、前田記者を含む3名の同盟記者は「戦闘以外の虐殺被害者は、まず、一、二万というところではないか」という認識を持っていたようです。

*ただしこの認識は、あくまで、狭い取材活動範囲内における限られた情報を元にしたものであり、より多くの情報があれば、彼らはこの数字を上方修正する可能性があると考えられます。例えば「幕府山事件」については、当時の記者は全く認識を持っていませんでした。

 以上を総合すると、要するに氏は、「三十万」は否定するものの、一定の虐殺の存在は認識していた、と考えていいでしょう。





 最後に前田記者は、「日本軍の乱暴狼藉」の否定を匂わせます。


乱暴狼籍の噂

 また占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした。

 というのは、難民区は入城早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入城式のころから難民区内でも区外でも商店が店を開けはじめ、同盟班も十八日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである。

 支局には、戦前働いていた料理人や下働きが戻ってきた。これと入れ違いに、これまで忠実に仕えてきた李杏泉が多額の軍票と身分証明書を与えられて住民の中に去った。

 難民区内での日本兵の"乱暴狼籍"説が上海から伝えられたのは、その直後のことだったのだ。すなわち、私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常活動をはじめた矢先のことである。

 私たちは顔を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、十四日には終わっていたのだ。

 もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった。

 警備司令部の記者会見でも、「例の白髪三千丈」だろうと、まともに取りあげる空気にはなかった。もしそれが事実だったとすれば、私たち新聞記者は明きめくらだったということになる。

(『戦争の流れの中に』P117〜P125)


*差別表現が見られますが、原文を尊重して、そのまま掲載しています。

**「中国兵の摘発も十四日には終わっていた」との記述が見られますが、「安全区掃蕩」は十四日から十六日にかけてのことであり、ここは前田記者の記憶違いであると思われます。


 もし前田記者が自分の認識を偽りなく語っているのだとすれば、その認識の甘さには唖然とせざるをえません。前田記者は、軍部の間ですら「常識」であった、「大規模な軍紀の乱れ」を、その気配すら感じることができなかったのでしょうか。 (なお、後述の「新井記者」の証言と組み合わせる時、この証言の正確性には疑問が生じます)



 まず、当HPのあちこちに紹介しているところではありますが、念のため、高級軍人や外交官の認識を、掲示しておきましょう。

 
松井大将「支那事変日誌抜粋」より

五、我軍の暴行、奪掠事件

 
上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三留意を促せしこと前記の如し。図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行奪掠事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。

 是思ふに

一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。

二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。

等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能す。

因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能わさりし実情は已むなきことなり。

(『南京戦史資料集供截丕隠牽機
 


 
中島今朝吾日記(第十六師団長)

◇十二月十九日 薄曇り

(略)

一、戦勝後のかっぱらい心理

 我々が入るときは支那兵が既に速くより占領したる処である 彼等には遺棄書類によつて見れば大体四、五月以降給料は払ふてない 其代りかつぱらい御免というので如何なる家屋も徹底的に引かきまわしてあるから日本軍の入るときは何ものもなく整頓しては居らぬ

一、そこに日本軍が又我先にと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して住く 此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結局ずふずふしい奴が得といふのである

 其一番好適例としては

 我ら占領せる国民政府の中にある 既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く

 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である 翌々日入て見れば其内の是はは思ふものは皆無くなりて居る 金庫の中でも入れねば駄目といふことになる

一、日本人は物好きである 国民政府といふのでわざわざ見物に来る 唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にかつぱらつて行く 兵卒の監督位では何にもならぬ 堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである (略)


(「南京戦史資料集」旧版P331〜P332)

*省略部分は、次の「徴発の実態」で紹介しています。


 
日高信三郎氏(大使館参事官)の証言

「はげしかった。そこら辺にたくさん死んでいる。歩いていると、ポンポンと音がする。鉄砲が人に当たっている音だ。こりゃいかんと思い、憲兵隊長のところへ行った。

『街に出てごらん。手に何か持っていない兵隊がいたら、わたしは敬礼するよ』

といったが、隊長は、憲兵は十四名しかいないし、明日(十七日)の入城式に備えて忙しいからという。しかし、わたしがあまりいったので、風呂上がりであったが、軍服を着、部下を連れてトラックで出て行った。そして、掠奪している兵隊、強姦している兵隊を、サーベルの曲がるくらいひっぱたいたといった」

(城山三郎「南京事件と広田弘毅」(上)=「潮」1972年10月号より )


 これら、指揮官や外交官の証言・手記と読み比べれば、前田記者らがいかに「情報不足」の状況にあったか、はっきりとわかります。

 しかし実は、「私たちは顔を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、 市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかったという前田記者の記述には、多分に誇張があるようです。 ここに名前の出てきた、新井記者の証言です。 


同盟通信・新井正義記者の証言


十五日に旧支局に入った。旧支局は街の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。旧支局に入ってから、女子大学の校長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容しているが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。そこでわれわれは軍司令部にそのことを伝えに行った。

(『「南京事件」日本人48人の証言』P107)



 これが事実だとすれば、前田記者らには、少なくとも「金陵女子大学」における「日本兵の乱暴狼藉」の情報が伝わっていたことになります。 ひょっとすると「外電」が伝えるほど大規模だとは考えていなかった、と言いたいのかもしれませんが、少なくとも、全く何も知らなかった、ということはないでしょう。

 もし前田記者が「日本軍の乱暴狼藉」に関心を持ったのであれば、それを調査する手段は、十分にあったはずです。国際委員会に出向いて話を聞く、そこで「情報」を得た上で、被害者、あるいはその関係者に取材する、等です。 現代のジャーナリストであれば、おそらく、そのような取材活動を行ったことでしょう。

 しかしもちろん、当時の環境では、そのようなことは記事にできるはずもなかったし、また新聞記者たちの関心事にもなりえませんでした。 前田記者の記述のこの部分は、彼らの取材活動の限界が伺えて、興味深いところです。

(2005.7.9)


HOME 次へ