百人斬日本刀切味の歌


 「百人斬日本刀切味の歌」というものがあります。下記の新聞記事に登場するもので、野田毅少尉によれば、「戦友の六車部隊長」がつくってくれた、ということです。


「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1938.1.25付


二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願


 さすがの“波平”も無茶苦茶


    野田部隊長から朗信


南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶"百人斬り競争"に血しぶきとばして鎬を削つた向井俊明、 野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは一〇六-一〇五、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、

その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙"千人斬"をめざし野田部隊長は自後の敗残兵掃討に二百五十三人を斬つた、

このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島縣枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまゝの痛快さがあふれてをり、 "猛勇野田"の面目躍如たるものがある・・・
目下中支にゐます・・・約五十里の敵、金城鐵壁を木ツ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかゝつたのは五回や十回ぢやないです、 敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出來たわけです、

小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、

おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、

支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

  百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)

    一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
    二、軍刀枕に露営の夢に、飢えて血に泣く声がする
    三、嵐吹け吹け江南の地に、斬つて見せたや百人斬
    四、長刀三尺鞘をはらへば、さっと飛び散る血の吹雪
    五、ついた血糊を戎衣でふけばきづも残らぬ腕の冴え
    六、今日は面かよ昨日はお顔、明日は試さん突きの味
    七、国を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り・・・
(中略)

まだ極楽や靖国神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われわれは戦死することをかく読んでゐます)を毎日念じてゐます、

小生戦死の暁は何とぞ路傍の石を拾ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、

最後に大元帥陛下万々歳・・・(写真は野田毅部隊長)

(三面、上段四段見出し)



 この「六車部隊長」は、第九連隊第一大隊副官、六車政次郎少尉のことと見られます。野田とは士官学校の同期であり、親しい関係にありました。 また野田は「第九連隊第三大隊副官」でしたので、野田と六車は、同じ連隊の、似たようなポジションにあったわけです。

 当時の新聞記事を見ると、野田の六車に対する強いライバル意識を伺うことができます。

「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1937.12.2付

(略)

ために最近戦線から鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校に勤務してゐる實父伊勢熊氏(五○)に届けられた便りにも"御期待に副ふだけの働きはこれから十分するから安心してくれ"と書いてあった。

以下○○から○○の新戰場へ移る○に書いた野田少尉の手紙である(中略)
九月十六日○○上陸以來十月十七日まで一ヶ月のうちに百○里を追撃。まるで急行列車追撃戰でした。

そのうち小○○、中○、大孫村では私の部隊が土戰部隊になつて戰ひ、幾多の戦友、部下を失ひましたが弾丸の下の度胸は十分に出來ました。

○郷では神田部隊と一足違ひで皆と逢ふことは出來ませんでしたが、同期生の加隅少尉が悠々「城山」を吟じながら戰死したことや○○少尉が名誉の戰傷を受けたことを聞いてひとしは励まされ羨ましくも思ひました。

同僚の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。

(略)

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P146-P147)


「大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版」 1937.12.1付

百人斬り"波平"
二百本の中から選んだ銘刀
田代村出身 野田毅少尉



(略)

鹿児島県川邊郡加世田町津貫小学校長をつとめてゐる実父伊勢熊氏(五○)のもとにこの快報をもたらせば実母てるさん(四五)とともに喜んで語る
本年士官学校を出たばかりで無鉄砲盛りですからそれくらゐのことはやるでせう、 この間来た手紙にも友達は皆赫赫たる武勲を立て新聞に書かれてゐるが自分はさういふ機会がなくて残念だと書いてゐました
なほ同少尉は一人息子で妹が四人ある。

(『野田毅獄中期』P6に記事写真掲載あり。『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P146、笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』P104)


 さて六車少尉は、「百人斬り競争」についてどの程度の認識を持っていたのか。以下、探っていくことにしましょう。 




六車が「百人斬り競争」について自ら語った記録としては、以下のものがあります。

六車政次郎『野田大凱の思い出』より


 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。 聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。

 この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。 戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。

 同じ聯隊の同期生であった私にもこの程度しか事情は分からないので、事実はどうであったのか知るよしもないが、ジャーナリズムの興味本位のニュース種に乗せられて犠牲になったとしか思えない。

 十三年の三月に、彼は偵察将校要員となって内地の飛行学校に帰り我々より一足先に戦場を去って行った。彼と私の死と生の分れ目は、思えば紙一重であったような気がする。

(陸軍士官学校49期生会『鎮魂 第三集』 P185-P186)


 これだけを読むと、六車は、「百人斬り競争」についてほとんど知らなかったかのように見えます。しかし以下に見るように、六車と野田との「接触」は、別にこの時に限ったことではありません。 六車は、野田への「追悼文」という性格に配慮して、あえて曖昧な記述をしているものと考えた方が無難でしょう。


 なお、「南京攻略を目前にした一日」に何が起こったかは、秦郁彦氏のインタビューでより明確になります。

秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』


 その六車は、筆者へ「連隊本部で記者が野田をとり囲んでいるのを見た。ヒーローになってうらやましいと思った」と語り、 吉田太計司少尉(第二大隊歩兵砲小隊長)は「十日か二週間おくれて新聞で見て"やっとるな"と思った。野田はスポーツ競技じゃないぞと連隊長に叱られたらしい」と回想した。

 (『政経研究』2006年2月 P95)

  

 六車は、記者会見の現場に出くわしたようです。これは「句容」、正確には「丹陽戦後」の記者会見であると思われ、六車の手記と照合するとこれは「12月4日」の出来事であると推察されます。



この六車少尉、実は1月1日に、野田少尉と二人で30キロ離れた南京まで遊びに行っています。


六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


陣中迎春

 昭和十三年の元旦を敵国の首都南京の郊外で迎えた。午前九時営庭に整列して四方拝の遥拝式を実施する。大隊本部陣中日誌には、

 「この日は晴天、瑞雲の中に旭光を拝し、故国に響けと万歳を三唱した。」

と記している。青春の多感な胸中に万感が去来して、感懐ひとしおであった。

 遥拝式が済んだ後初めての休日となったが、酒の特配もなく勿論将校団の祝宴もなく、気分の晴らしようがない。 同期生の野田少尉と二人で、今から南京の上海派遣軍参謀長の飯沼閣下(陸軍少将、飯沼守、二十一期)を訪問しようと一決した。 閣下は我々の士官学校本科時代、生徒がおやじのように敬愛した名生徒隊長である。

 南京までは片道三十キロ、靴の底が抜ける程戦場を歩いて来た我々には何ほどのこと事もない。若さにまかせて強行軍をして何とか本日中には帰るつもりであった。

 午前十時早速出発した。二時間も歩いた頃、幸いにも通り掛かった兵站トラックに便乗させて貰い、午後一時頃南京城内に在る軍司令部に着いた。 残念ながら閣下は不在であったので、来意を記したメモを副官にことづけて辞去した。せっかく楽しみにして来た南京城内ではあるが街の見物もせず、副官の世話で兵站トラックに便乗させて貨って帰還した。

 数日後閣下からの返信が届いた。表に「片桐部隊 六車、野田少尉殿」と書かれた名刺の裏に次のように書かれていた。(P408)


 『元旦十里(一里は三・七五キロ)の道を遠しとせず徒歩にて来たりし事、青年将校の意気見るべきものありとして、殿下(上海派遣軍司令官、朝香宮鳩彦王中将)も御満足にて候。 生憎要務にて他出、諸君の手柄話を聞くを楽しみに致し居りしに実に残念致候。若し今後序あらば是非に出て被下度待居り侯。 元旦』


全行程を歩いたと受け取られたことには、いささか気が答めた。(P409)






 余談ですが、この事実から、野田少尉の以下の弁明がウソであることがわかります。

野田少尉の民國36年(昭和22年)11月15日付け答辮書


「冨山大隊は昭和12年12月12日ころ、麟麟門東方において、行動を中止し、警備のため、湯水東方砲兵学校跡に集結し、同月13日ころから昭和13年1月7、8日ころまで駐留し、その後北支へ移動した。

 その駐留の間、将兵は外出禁止で私はもちろん外出したこともない。

 当時、私は、副官の職にあったので、陣中日誌及び戦闘詳報の作成、功績調査、日々の命令会報の伝達、北支移動の準備等のため、激務多忙であり、 到底外出不能で南京に行く余裕は全くなかった。

(『「百人斬り競争」裁判資料集』P158)

 しかし実際には、六車の手記を読む限り、別に「外出禁止」ではなく、また「南京に行く余裕」もあったようです。





 さて六車は、「記者会見」の現場に出くわして、野田が「百人斬り競争」なるものを行っているらしい、との認識を持っていたはずです。 二人だけの時に、その話題が出た可能性は高いものと考えられます。

 その結果、六車は同期のライバルの「健闘」を称えるべく、野田のために「百人斬りの歌」をつくってみせた。そう考えて、特段の無理はないでしょう。



 なお六車に「歌心」があるらしいことは、回想録の中でもいくつかの「歌」を披露していることから、推察することができます。


六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


 孝陵衛(馬群西南四キロ)辺りから北にそれて丘陵に入ると、機関銃の銃声が聞こえて来る。大隊の戦友たちが苦戦しているのかと思うと知らず知らず足早になった。 入院中休眠していた闘志がふたたび復活して血潮が騒ぐ。期せずして次ぎの句が順に浮かんだ。

 『懐かしき 弾丸の音に勇みつつ 我は帰る弾雨の中へ』


句にはなっていないが、修正はいつでも出来る。とにかく生の感じをそのままメモに書き留めた。(P401)




 激戦の後のこのわびしさは一体何にたとえることができようか。この時に次の句が浮かんだ。

 『亡き友を しのびてねむりもあえず 火のまわり』


(P403)


 既に書いたように、野田にとって六車は、「同期のライバル」でした。六車が新聞に載るような活躍をしている。自分も名を上げたい。その気持ちが、「百人斬り競争」という形に顕れた、と考えられます。

 上の流れを見ると、野田が六車に「自慢話」をし、六車がそれに応えて「百人斬日本刀切味の歌」を作ってあげた、と推察することが十分に可能です 。もしそうであれば、六車は「追悼文」の中では曖昧にしてみせましたが、少なくとも二人の間では「百人斬り競争」は「事実」として認識されていた、ということになるでしょう。



(2009.12.20)


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