
| 「百人斬り競争」論議の開幕 1972年、本多−山本論争 |
今や「国民的論議」にまで発展してしまった感のある「百人斬り競争」ですが、そもそもこの論争はどのように始まったのか。
例えば秦郁彦氏はこんなふうに書きますが・・・
| 秦郁彦『南京事件 増補版』より 七一年、本多勝一記者は中国旅行中に南京で聞きこんだ百人斬り伝説を『朝日新聞』の連載でむし返し、ひきつづく論争の過程で、それが捕虜の「据え物斬り」だったと主張する。 (P307) |
秦氏の意図はわかりませんが、おそらくこの文を読んだ方は、誰もが忘れていた「百人斬り競争」事件を、本多記者が大々的に宣伝して無理やり復活させたかのように誤解するのではないでしょうか。そんなイメージが、一般にもすっかり定着しているように思われます。
実態としては、本多氏の記事というのは、この程度のものでした。同じく秦氏が、別のメディアに発表した一文です。
| 秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より ところで本稿の主題である百人斬りに限れば、本多の記述は七一年十一月五日夕刊の一回だけ、それも二十数行にすぎない。見だしも「競う二人の少尉」と地味で、二人の実名もイニシァルも控え、AとBの仮名で通している(単行本では実名に)。
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この程度の記述が、どうして今日の「国民的論争」にまで発展してしまったのか。以下、見ていきましょう。
議論の発端は、1970年代初めに行われた、本多勝一氏と山本七平氏の、『諸君!』誌上での論争でした。その全文は、本多勝一氏『殺す側の論理』で見ることができますので、これに沿って見ていきましょう。
*なお論争時点では、山本七平氏は「イザヤ・ペンダサン」なる偽名を使っていました。しかしのちに、「イザヤ・ペンダサン」というのは実は山本七平氏のことであったことが明らかになりますので、こちらでは混乱を避けるべく、「本多氏対山本氏」という形に統一します。
| イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏『本多勝一様への返書』 まず第一の不審点でありますが、和英辞典によりますと、公開状とはオープン・レターの意味とあります。従ってこの言葉は公開書簡(オープン・レター)と同義と存じますが、私は未だかって本多様から、公開非公開を問わず一通の書簡も拝受した記憶がございません。元来「公開書簡」と申すものは、「公開書簡」と明記した手紙を相手に送り、然る後に公開すべきものであります。 (本多勝一『殺す側の論理』文庫版P136-P137) |
「公開状」ということは「手紙」だろう。しかし私のところには「手紙」なんぞ来ていない。一体どうなっているんだ。・・・こんな文章を見ていると、どうも山本氏の目的は、実はどうでもいい「揚げ足取り」にあるのではないか、と思えてきます。
さて本多氏の「南京への道」レポを読み返すうちに、山本氏は、絶好の「揚げ足取り」の材料を発見しました。中国人が本多氏に語ったという、「百人斬り競争」なるものの話です。
山本氏は、これを「第五の不審点」とします。
| イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏『本多勝一様への返書』 「読まないで批評している」といわれて、「いや、おれは読んだ」などと反論を致すのは余りにユーモアがございますまい。ではここで、本多様の一文を「読まないで」引用させていただきます。
(本多勝一『殺す側の論理』P147-P148) |
これだけを見ると、いかにも怪しげなエピソードです。山本氏は、これは、本多氏が中国側証人が垂れ流す「伝説」を無批判に紹介したものだ、と即断したのでしょう。こんな風に攻撃してみせました。
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イザヤ・ベンダサン『本多勝一様への返書』
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たぶん氏としては、本多氏を完全に追い詰めたつもりだったのでしょう。氏の得意満面の顔が、眼に浮かぶようです。
しかし氏は、次の本多氏の反論、「雑音でいじめられる側の眼」(『諸君!』1972年4月号)で愕然とすることになります。
本多氏は、「まず事実を列挙しますから、じっくりお読みください」と述べて、四つの資料を呈示しました。『東京日日新聞』の記事2本、鈴木二郎「私はあの南京の悲劇の虐殺を目撃した」、志々目影氏「日中戦争の追憶―"百人斬り競争″」です。
| 本多勝一『雑音でいじめられる側の眼』 べンダサンサン、以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして「伝説」だと主張いたしますか。それでは最後の手段として、この二人の少尉白身に、直接証言してもらうよりほかはありませんね。 でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年十二月八日、また向井は一九四八年一月二十八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています。 惜しいことをしました。ともうしますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢束の人民解放軍によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢束主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく・ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもおしらせできたでしょうに。 もちろん、自称ユダヤ人としてのあなたは、ここまで自分の論理が粉砕され、轟沈してしまっても、ぜったいに日本式に「ゴメンナサイ」なんていってはいけないハズです。たとえば、アメリカ合州国が南ベトナムの解放区を無差別爆撃したり、北爆で病院でも小学校でもかたはしから爆撃しているときなど、よくつかう論理ですが、このように当人たちがもう死刑になったあとでは、なんとでも憶測や説弁をろうすることもできますよ。 いくら銘刀で、いくら剣道の大達人でも、百人もの人間を切れるものかどうかとか。実験してみますか、ナチスや日本軍のように人間をつかって? かりに、百人は無理だが五十人なら可能、とかいった「実験結果」がでたとしましょう。もうこんな愚劣な議論はヘドがでそうだけれども、それでこの話が「だから伝説だ」 「だから本多のルポは全部信用できない」ということにでもなるのでしょうか。ついでに「だから日本軍は正しかった」と、いいたいのでなければさいわいです。 (『諸君!』 1972年4月号) (本多勝一『殺す側の論理』P222-P223) |
山本氏は、これらの資料を全く知らなかったに違いありません。「中国のよくわからない人物が語る怪しげな伝説」だったはずなのに、あっというまに「日本でも有名だった話」ということになってしまいました。
揚げ足をとって「完勝」したつもりだったのに、逆に見事に引っくり返されてしまった。山本氏の心境は、察するに余りあります。
そして山本氏と『諸君!』編集部は、苦し紛れに、こんなことをやってみせます。本多氏の文を借ります。
| 本多勝一「『諸君!』の読者"諸君"への追伸」 原稿というものは、発表以前に編集部以外の第三者には見せないことが、ちゃんとしたジャーナリズムの世界では原則とされている。
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かくして第一期論議の「序幕」は、山本氏が大恥をかいた、という形で決着しました。
そして「序幕」に続く「第二幕」。山本氏はおさまりがつかなかったのでしょう。「私の中の日本軍」で、長大かつ難解な、「百人斬り競争批判」を展開します。そしてサポート役で登場したのが、鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」です。
対抗する本多氏側は、「ペンの陰謀」を出版します。「百人斬り競争」を報道した、鈴木、浅海両記者の手記、洞武夫「南京大虐殺はまぼろしか」と題する山本氏への徹底的な反批判あたりが、大変面白く読めます。
*念のためですが、本コンテンツは、「百人斬り競争」論議がどのように始まったのかをふりかえることを目的としていますので、「第二幕」以降の「評価」までは行っておりません。
さて、「序幕」を見ればわかりますが、本多氏にとっては「百人斬り競争」はさして重要なエピソードではありませんでした。読者から見ても、山本氏の「論難」がつかなければ、そんな話もあったなあ、程度で終わってしまったに違いありません。
この小さなエピソードを「国民的大論争」に発展させた「功績」は、皮肉なことに、間違いなく山本氏・鈴木氏の側にあった。そう言って、差し支えないでしょう。
さらに言えば、「百人斬り競争」の話を最初に「蒸し返した」のは本多氏ではなく、本多ルポに先立つこと5年の、大森実氏「天安門炎上す」(1966年)でした。参考までに、その部分を紹介しておきます。
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大森実「天安門炎上す」(1966年) |
こちらは本多氏の記事とは異なり、ちゃんと、「実名」が入っています。
しかしこちらの方は、誰にも注目されることなく終わってしまいました。山本氏・鈴木氏の熱心な「宣伝」がなかったら、本多ルポの方も、これと同じように、そのまま埋もれてしまった可能性が高い、と考えます。
(2010.1.1)
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