「百人斬り競争」―「アリバイ」は成立するか

(3)「副官」は戦わないか?



次の「アリバイ」は、他の任務を抱えて多忙な大隊副官や歩兵砲小隊長に、「百人斬り競争」などするヒマがあるわけがない、というものです。


まずは野田少尉の主張です。


野田少尉の民國36年(昭和22年)11月15日付け答辮書


「私は、昭和12年9月から昭和13年2月まで、冨山大隊の副官にして常に冨山大隊長の側近にあって、戦闘の間は作戦命令の作成、上下への連絡下達、上級指揮官への戦闘要報の報告等を、行軍露営の間は、行軍露営命令の作成下達、露営地の先行偵察、露営地の配宿、警戒警備線の実地踏査、弾薬、糧秣の補充及び指示、次期戦闘の準備等で忙しく、百人斬りのようなばかげたことをなし得るはずがない。」

(『「百人斬り競争」裁判資料集』P158-P159)



 この主張は、70年代初期論争の中で、山本七平氏に引き継がれました。

山本七平『私の中の日本軍』(上)


確かに二人は将校だが、少尉というのはいわば将校社会の初年兵であり、特に野田少尉は大隊副官である。副官は部隊長から特に命ぜられない限り絶対に単独行動がないといってもよい職務で、文字通り「形影相伴う」如くに部隊長と一体となって行動するのが普通である。もちろん前にのべたように、大隊副官が大隊長を放り出して、他中隊の小隊長と私的盟約を結んで兵を動かしたり戦闘行為をするなどということはありえない。(P284)


 そして「裁判」では、原告側は、この主張を補強すべく、何件かの「陳述書」を提出してきました。

百人斬り裁判 原告側最終準備書面

(二)理論的理由−日本陸軍の組織として「百人斬り競争」が可能か
(甲八九、九九、一〇〇、一〇一、一〇二、一一三)

 野田少尉は陸軍士官学校(四十九期)を卒業した大隊副官であり、向井少尉は幹部候補生から少尉になった歩兵砲の小隊長である。大隊副官と歩兵砲の小隊長がそれぞれの任務を放り出して、どちらが先に中国兵を百人斬るかなどという競争をすること自体がナンセンスであり、作り事なのである。

 元防衛研究所戦史部主任研究官の原剛氏は、両少尉の任務について次のとおり説明する(甲一一三)。



「当時の両少尉の職務は、野田少尉が第三大隊副官、向井少尉が第三歩兵砲の小隊長であった。

大隊には、参謀が置かれていないため、大隊副官が、大隊本部の業務を統括整理して大隊長を補佐するのであり、『軍隊内務書』(昭和九年軍令弟九号)の第九項および第四二項に記されているように、その主要な業務は、命令・通報・ 報告などの起案・授受・伝達である。

戦時にあっては『作戦命令』の起案・伝達、『戦闘要報』『戦闘詳報』など報告書の起案、『陣中日誌』の記録、隣接大隊や指揮下中隊間の各種の調整など、極めて重要かつ多忙なものである。さらに『日日命令』を起案・伝達して大隊の日常業務を律するのである。(中略)

 このように多忙な大隊副官は、第一線の白兵戦で戦ったり、捕虜を捕獲したりする余裕も可能性もほとんどないのである。稀に、敗残兵などが大隊本部を襲うことがあっても、大隊本部要員が応戦するのであって、大隊副官一人が戦うわけではない。従って、新聞記事が報じるように、大隊副官の野田少尉が、十数日間に百五人、一日平均八人の敵兵を斬ることは、不可能なことであると判断される。

 歩兵砲は、敵の重火器を撲滅もしくは制圧して第一線歩兵の戦闘を支援するもので(昭和十二年『歩兵操典草案』第四三項)、当時第三歩兵砲小隊長は、大隊長の指揮下にあった唯一の火力支援部隊であった。

 小隊長は、第一線歩兵中隊の戦闘を支援するため、小隊の進路・陣地・射撃目標・観測所・弾薬車の位置などを偵察し、これらを適時命令・指示し、戦闘間は一般の戦況及び射撃の効果を観察して適切な射撃指揮をし、戦況に応じて陣地を推進して歩兵の突撃を妨害する重火器などを撲滅もしくは制圧するのである。

 このように、第一線歩兵中隊に対して密接な火力支援を行う歩兵砲の小隊長が、火力支援任務を放棄して第一線の白兵戦に参加することなどはありえないことである。砲が全部破壊されるか、弾薬を使い果たしてしまわないかぎり、本来の火力支援をするのが歩兵砲の使命だからである」。

 支那事変当時、すでに陸軍は大組織であり、南京攻略戦は近代組織戦であり、大隊副官と歩兵砲の小隊長にはそれぞれの重要な任務があり、大隊副官が大隊長のそばを離れて突撃し、歩兵砲の小隊長が火力支援の指揮官としての任務を放擲して、軍刀で中国兵を斬る競争をするいうことは考えられないことなのである。
 
 このことは、支那事変(日中戦争)あるいは大東亜戦争(太平洋戦争)に参戦した元陸軍の軍人で、「百人斬り競争」があり得ると考えている将兵がいないことからも明らかである(甲一四二)。

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』 P50-P51)


桑原真一『陳述書』(甲第六八号証)


 そもそも歩兵砲の兵隊の場合、小銃で戦闘することは殆どないので、弾薬を運ぶ時などは原則として小銃などは後方の馬の所におきます。歩兵砲の将校は、戦闘が始まると双眼鏡で弾着を確認しなければならないので、軍刀を抜刀する必要もありませんし、機会もありません。また歩兵砲の小隊長は第一線歩兵部隊よりかなり後方に位置するものですから、歩兵砲の小隊長の向井少尉が軍刀で、任務を離れて「百人斬り」をするなどということはありえないことなのです。

 次に、野田少尉は大隊副官ですが、大隊副官というのは大隊長のそばにいて、常に大隊長の率いる各中隊の戦闘の状況を把握して適時大隊長に報告し、状況の変化に応じ、大隊長の手足となって行動しなければなりません。

 したがって、戦闘中大隊副官は、絶えず戦闘全般をつぶさに承知し、時には大隊長に意見具申等をなし、命令の原案の作成や伝達の仕事を行うのです。さらに戦闘後は、各隊より報告を受け、戦闘詳報の記載など副官として繁雑な業務があります。副官が大隊長をないがしろにして「百人斬り」に興ずるような閑な時間は全くありえないと思います。

(中支那派遣軍第一五師団歩兵第六〇連隊第二機関銃中隊歩兵砲小隊)

(笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』P52)


中山隆志『陳述書』(甲第八九号証)


歩兵砲小隊長
 主要任務は、敵の重火器を撲滅あるいは制圧し、第一線歩兵の戦闘に協力することである。小隊長は通常二門をもって同一目標を射撃し、第一線歩兵の攻撃前進、突撃、陣内の攻撃を通じ、射撃のための陣地を推進して敵重火器を射撃する。(中略)射撃はすべて小隊長の号令により実施する(「歩兵操典草案」昭和一二年五月五日)。このような歩兵砲小隊長が小隊の射撃指揮をせずに、白兵戦に加入するのは敵が突入してきたなど、真に危急の場合のみである。

大隊副官 当時の歩兵大隊には、副大隊長も幕僚もなく、大隊本部にいる将校は、大隊長と一名の副官だけであった。副官の任務は大隊本部の事務整理及び取締りに任ずる。主たる日常業務としては命令、諸達、通報、報告その他文書の起案、発送、受領伝達であり、戦闘間も陣中日誌や戦闘詳報の作成責任がある(「軍隊内務書」昭和九年一〇月八日)。

大隊長の唯一身近にいる将校として、大隊長を補佐、補助することが当然求められる。そのような職分にあり、部下を持たない副官が、白兵戦に加入するのは、大隊本部が敵に襲われ、あるいは隊長以下敵に突入するような真に危急の場合だけである。

(笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』P53)


 要約すれば、「副官」や「歩兵砲小隊長」の任務は「軍隊内務書」や「歩兵操典」で定められており、その定められた範囲だけで多忙を極めたはずである。従って特殊な場合を除き、白兵戦に参加できるわけがない、従って記事のような「百人斬り」はありえない、ということになるでしょう。



 ただし原剛氏や中山隆志氏は、それぞれの分野で業績を挙げている本職の研究者だけあって、言い回しは慎重です。

 原剛氏は、「このように多忙な大隊副官は、第一線の白兵戦で戦ったり、捕虜を捕獲したりする余裕も可能性もほとんどないのである。・・・従って、新聞記事が報じるように、大隊副官の野田少尉が、十数日間に百五人、一日平均八人の敵兵を新ることは、不可能なことであると判断される」と、「白兵戦」や「捕虜を捕獲」する可能性の否定に、議論を限定しています。

 また中山隆志氏も、「副官が、白兵戦に加入するのは、大隊本部が敵に襲われ、あるいは隊長以下敵に突入するような真に危急の場合だけ」と、「白兵戦」の可能性を否定するのみです。

 いずれも、「捕らえた捕虜を殺害」することまで否定するものではありません。


 本多氏側の主張は、記事のように白兵戦で「百人」を斬るというのは「常識的には無理な話」というものでした。そして志々目氏の証言などをもとに、実態は「捕虜殺害競争」であったのであろう、と推察しています。

 原告側は著名な研究者の名を並べて「演出」を試みましたが、実際には、原氏、中山氏の陳述のように、「白兵戦による百人斬り」の可能性のみを否定してみせても、本多氏側は何の痛痒も感じません。




 これに対して笠原氏は、「軍隊内務書」が適用される場面は「常時に兵営で訓練や演習などそれぞれの勤務」への従事であり、「したがってこれは、陣中勤務すなわち戦場における職務を規定したものではない」と主張します。

 そして、戦時において適用されるのは「作戦要務令」であり、これは「全編を通じ、全軍の諸隊がこぞって積極的に行動すべきことを要求し、状況判断によっては積極的に任務を達成すべき方策を定めるよう要求している」と指摘しています。(『「百人斬り競争」と南京事件』P55)




 しかし最もわかりやすいのは、「副官」が戦場において実際にどのように行動していたかを確認することでしょう。

 ここで登場するのが、歩兵第九連隊第一大隊副官であった六車政次郎少尉です。

 六車氏は、『惜春賦:わが青春の思い出』と題する回想録を残しています。そして野田少尉らが「百人斬り競争」を行っていたと伝えられる「南京追撃戦」の時期に、数々の「白兵戦」を経験しています。

六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


3.江渓鎮の攻撃


激烈な市街戦 十一月二十四日から三日間にわたって激闘が続いた無錫の主陣地帯に対する大隊の攻撃について、大隊の陣中日誌には次のように記されている。

 『自十一月二十四日−至十一月二十六日、別冊無錫付近戦闘詳報による 』(P357)
 
この戦闘詳報がないので究明な記述は出来ないが、鮮明な記憶をスポット的につづることにする。

 大隊は二十四日夜明けと共に東部江渓橋鎮の攻撃を開始した。師団砲兵は行動困難なこの方面に進出していなかったので大隊の独力攻撃となった。敵は必死の抵抗をしたが、幸いに部落前にクリークがなかったことも幸いして、午後まだ日の高い内に第一線の両中隊が部落に突入し、大隊本部も第一中隊と共に突入した。

従来の戦闘では、通常日本軍が突撃すると敵は素早く退却し、敵陣内で白兵戦を交えることは希であったが、この敵は大隊が突入しても部落を放棄せず、部落内で執拗な市街戦が続いた。突撃の中でも市街戦はフラッシュが連発するように、突発的、瞬間的な格闘場面の連続であるので、幾つかの個々の場面は鮮明に覚えているのに、この日の戦闘経過の流れを詳しくは思い出せない。

 軍刀や銃剣を振りかざしてあたかも忠臣蔵の討ち入りのように、「居るか!」「居らんぞ!」など声を掛けながら村内を進む。 出合い頭に銃剣を構えた敵兵とぶつかる。中には軍服を脱ぎ捨てて逃げようとする敵兵や、降伏のそぶりをしながら隙をみて反撃してくる敵兵もある。そんな時には頭で考える前に軍刀を振り降ろしていた。
(P358)


六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


隘路出口高地の争奪 

 九日未明から前進を再開した。日が昇ると両側に聳える空山や湯山の石灰岩の青白い岩肌が朝日に映えてきらきらと輝き、神経をビリビリと刺激した。追撃隊主力のいる南方の山中や、聯隊主力が進出中の北方の山地では激しい砲声が聞こえていた。

 両側の高地から見下ろしのこの谷間の街道を、姿の見えない敵からいつ集中砲火を受けるかも知れない状況下で、まるで実弾射撃の標的になったような気持ちで前進した。

 日の出後間もない午前八時頃湯山の西端に出た途端、進路をふさぐように横たわっている小丘陵(地図上の歩兵学校)から突然一斉射撃を受けた。地形的に見て凹地の真ん中に在るこのような小丘陵に本格的な防禦陣地のある筈がない。付近の陣地帯から逃げ出した敵が退却の時間を稼ぐために急遽占領した即席の陣地であろうと判断した青柳大隊長は直ちに攻撃命令を下した。

 私は一瞬、豊臣秀吉の山崎合戦の天王山の遭遇戦を想起し、拙速でよい早く上に登った方が勝ちだと感じた。とっさに馬から飛び下りて、雨あられのように飛んで来る敵弾に構わず、第一線の中隊と競うように一目散に走り、息もつかずに斜面を駆け上がった。(P379)

気が付くと、後から本道上を突進して来たらしい十数台の戦車が右下の道路から山頂の敵に対して一斉射撃を始めていた。たまたま湯水鎮から突進してきた戦車隊が、独力攻撃中のわが大隊を発見して自発的に協力してくれたのである(注記二参照)。(P379-P380)

私が第一線の中隊と共に山頂に駆け上がった時には、敵兵はまだ散兵壕で射撃をしていた。ほんの今掘り始めたばかりの浅い壕である。立ち上がって刃向かう者もあり、慌てて逃げ出す者もあり、逃げ遅れて死んだ振りをする者もあったが、武器を捨てて哀れみを乞う者はいなかった。さすが蒋介石ひざ元である。

私は向かって来る者は袈裟斬りに、伏せている者は刺突しながら山頂を走り回った。大隊は午前九時頃この高地を占領した。 (P380)




六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より

2.馬群西北高地の攻撃


中腹の機関銃陣地の奪取

(「ゆう」注 十二月十日)

 この時、我々斥候の真上の斜面中腹に隠れていた機関銃が突然火ぶたを切って、草に埋もれながら斜面をよじ登って来る大隊の側面に猛射を浴びせた。大隊のいる谷間から悲鳴のような叫び声が聞こえ、混乱している様子が手に取るように分かった。この機関銃は下から草に埋まって前進している大隊からは見えない。仮に見えても草深い登り斜面では射撃することも出来ない。(P386-P387)

 私は大隊本部に引き返すのを止めて先ずこの機関銃陣地を撲滅する決心をした。こちらは四人でしかも小銃は二丁しか無いので、隠密に接近して一挙に突入する外はない。目で部下に合図をし、無言で草の根を掻き分けて機関銃座の後ろに出た。興奮してわめき散らしている敵指揮官の声や、銃を操作する敵兵の荒い息使いまで手に取るように生々しく聞こえる。突入しようと思うがなかなか踏ん切りが付かない。

私は既に何回も突撃の経験があったが、集団の勢いに乗って突撃することが多かった。小人数でしかも独自の意志で、大勢の敵中に突入する決心がいかに難しいかということを痛感した。

 三人の部下が無言で私の顔を見ている。躊躇する私を、もう一人の私が「やれ!やれ!」とそそのかす。後は無我夢中で飛び出した。何人斬ったのか、何がどうなったのか夢中で分からない。側射機関銃が沈黙したので大隊は再び前進を起こし、我々は大隊本部に復帰した。(P387-P388)



六車少尉の活躍ぶりは、この時期にとどまりません。「戦闘詳報」などに、他の時期の記録も残されているようです。

笠原十九司『「百人斬り競争と」と南京事件』より


 「歩兵第九連隊第一大隊陣中日日誌」の「小範鎮付近戦闘詳報(自昭和一二年一〇月一日至昭和一二年一〇月二日)」に「本戦闘における武功特に抜群なる者 大隊副官陸軍少尉 六車政次郎」と記されており、大隊副官の六車が回想録のごとく活躍したことを裏付けている。

 さらに、『歩兵第九聯隊第一大隊 杞県附近戦闘詳報 昭和十三年自六月二日至六月三日於杞県』が残されており、その付録として「本戦闘において武功抜群なる者」として「大隊副官 陸軍歩兵中尉 六車政次郎」とあり、つぎのように記してある。



 東部林庄の敵頑強にして我が右第一戦中隊の戦闘進捗せざるにいたるや馬を馳せ、敵前百メートルの我が第一線に至り、敵情、地形、友軍の態勢を偵察して、薄暮攻撃を献策し、かつ自ら第一線に至りて戦場を馳駆して態勢を整理し、石川小隊、外村小隊を区処して配備につけ、かつ機関銃歩兵砲の射撃と突撃の関係を律して両小隊の突撃を指導す。突撃に当たりては両小隊とともに敵陣地に突入し、爾後の部落内掃蕩を区処せり。



 このとき六車は中尉に昇進しているが、ここに描かれた戦闘における奮闘ぶりからも、『惜春賦』に書かれたことが必ずしもいいかげんな手柄話やホラ話ではないことがわかる。最後の部落内掃蕩では、敗残兵や投降兵を日本刀で処刑した可能性もある。(P78)



このような記録を見ると、「軍隊内務書」などに書かれた「副官の任務」をもとに「副官が白兵戦に参加するはずはない」と主張することは、「実態」を見ない机上の空論であることがわかります。



秦郁彦氏もこのように指摘します。

秦郁彦『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


 野田と陸士同期生の六車政次郎少尉(第一大隊副官)は野田の第三大隊と雁行しつつ南京へ向ったが、十二月八日の突撃では「向かって来る者は袈裟斬りに、伏せている者は刺突しながら山頂をかけまわった」とか「敵を斬った数も(野田よりも)俺の方が多い筈だとひそかに思った」と書いている。

 大隊副官という任務は大隊長につききりで白兵戦に出る機会は乏しいはずと説く人は多いが、六車の戦記には、この種の白兵戦体験が頻出する。 (P95)

(『政経研究』2006年2月掲載)


「副官」だから戦うはずがない、というアリバイも、また成立しえません。



(2009.12.13)


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