「百人斬り競争」―「アリバイ」は成立するか

(2)向井少尉の「負傷」


 次のアリバイは、「当時向井は負傷して部隊を離脱しており、そもそも「百人斬り競争」などできるわけもなかった」とするものです。この「アリバイ」は、向井自身が、南京軍事法廷で主張しました。

向井少尉の答弁書(民国三十六年(昭和二十二年)十一月六日の検察庭における審問後に提出されたもの。)

 丹陽の戦闘では、冨山大隊長の指揮から離れて、私は、別個に第十二中隊長の指揮に入り、丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。
すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け 昭和12年11月末ころ)、その後、第十二中隊とも離別し、看護班に収容された。

 新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い、かつ、百人斬りを続行したかのような記載があるが、事実においては、句容や常州においては全く戦闘がなく、丹陽以後、私は看護班において受傷部の治療中であった。

 昭和十二年十二月中旬頃、湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は、引き続き砲兵学校に駐留していたが、昭和十三年一月八日、北支警備のため移動した。その間、私は、臥床し、治療に専念していた。

(『「百人斬り競争」裁判資料集』P159)


 従って向井少尉にインタビューをしたかのような「第四報」は記者の「創作」である、というわけです。この「アリバイ」につき、冨山大隊長は、南京軍事法廷に「証明書」を提出、向井を支援しました。

冨山大隊長の「証明書」

)萋新聞紙上記載ノ如キ『百人斬競争』ノ事実ナシ 

大隊ハ昭和十二年十二月十二日 麒麟門東方二於テ行動ヲ中止シ 南京ニ入ル事ナク 湯水東方砲兵学校二集結ス 

B臑眈兵ハ昭和十二年十二月十三日カラ翌年一月八日マデ外出ヲ禁止セラレ 特ニ南京方面ニ外出セシメタルコトナシ 

じ井少尉ハ昭和十二年十二月二日丹陽郊外二於テ左膝頭部盲貫ヲ受ケ離隊 救護班二収容セラレ 昭和十二年十二月十五日湯水ニ於テ部隊ニ帰隊シ治療ス

(鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』P91)


 裁判の原告側も、この主張を忠実になぞります。

百人斬り裁判 原告側最終準備書面

 向井少尉は丹陽で負傷して冨山大隊から離脱し、野田少尉は句容に入らず、また紫金山山頂にも行っておらず、東京日日新聞が報道した両少尉の経路は事実に反している。(P31)

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』)


 しかしその後の情報も考え合わせると、このアリバイは、到底成立しない、と見るべきでしょう。以下、見ていきます。




 まず、「第四報」記者会見の現場に立ち会った、鈴木記者の証言です。

『週刊新潮』1972.7.29号記事

 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。(P35)

 「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」

(P36)


 『週刊新潮』はこれに続けて、「十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない」とコメントしています。


 秦郁彦氏も、鈴木証言は「確度が高い」と評価しています。

秦郁彦「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


 一方、記者側から眺めると何度も二人の少尉に会っているという浅海はともかく、一度しか会っていない鈴木二郎が紫金山麓で二人に会ったと強調しているのは確度が高い。

 しかも『週刊斬潮』への証言だと、鈴木は以前から浅海に百人斬り競争の話を聞かされ、「もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」と頼まれたあと「紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり・・・」と語っていた。(P91)

 それに第四報で主役として発言していたのは向井のほうで、野田は「おいおれは百五だが貴様は?」の片言だけである。もし向井が不在ならば、主役を野田に振りあてるのが自然だろう。

 (『政経研究』2006年2月 P91-P92)
  




 この問題に関して裁判で取り上げられたのが、向井少尉の直属の部下であった田中金平氏の手記です。

田中金平『第三歩兵砲小隊は斯く戦う」  


連隊長片桐大佐
大隊長冨山少佐
小隊長向井少尉

(中略)

十一月二十一日−二十六日 無錫附近の戦斗に参加

常熟よりクリークを利用して 大発にて進む。敵の迎撃を受け展開。人力で舟を曳行前進する。射撃開始直後 第一分隊砲側に迫撃砲弾炸裂し 砲は破損 分隊長山田金治郎伍長、四番砲手山添銀治郎上等兵、五番砲手橋本徳太郎上等兵 戦死。爾後南京入城まで第二分隊の砲一門で戦う。


十一月二十七日−三十日 常州附近の戦斗


十二月一日−三日 丹陽附近の戦闘

無錫駅を出て 鉄路沿いに人力搬送で急進する。


十二月四日 句容附近の戦斗

丹陽を占領して 初めて予備隊となり 旅団長の指揮する草場挺身隊に編入され 句容より左第一線を 湯水鎮西方より南京に向い迂回前進する。


十二月六日 湯水鎮附近の戦斗

至る所に 要害堅固なトーチカ陣地があり、湯水鎮前面の戦斗に於て師団長自ら野砲を指揮し 負傷されたとか 吾が前面にも各所にトーチカ陣地が張り回らされていたが 吾々の目的は 南京に向って錐揉み突入するにあり、冨山大隊長も 強い所は避けて通るのが戦法と迂回して進む。

お陰で犠牲は少ないものの 道程は三倍以上ともなり吾々砲部隊の苦労は並大抵のものではなく 徴発使役した水牛が 分解した砲や弾丸を 脊にしばって よく急坂難路を登り 大いに助かった。

紫金山山頂より 馬群高地正面へ展開する。


十二月九日−十二日 紫金山附近の戦斗。

馬群警官学校前台地に陣地侵入し、鉄条網で幾重にも守られた トーチカ陣地の台地に突入せんとする小銃部隊の支援射撃に砲門を開く。後方一千米の道路上に展開した野砲四十八門の一勢斉射と 敵の大口経砲の反撃は 将に壮絶。

この間 紫金山山頂より掃射と敵台地よりの十字砲火に五番砲手 安福三郎上等兵 腹部貫通銃創にて戦死。

警官学校台地の陥落により前進、忠霊廟 五重の塔と陣地を進め 夜に入り林森邸 の陣地攻撃 壮絶の夜戦に谷口重蔵一等兵戦死す。


十二月十三日 南京城内の掃蕩戦

中山門より砲兵営、玄武湖 玄武門へと掃蕩 引続き城外掃蕩


十二月十五日 南京入城式

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P141-P142)


 ここには「向井小隊長の負傷」の記述は存在しません。

 「直属上官の負傷、離脱」という大事件が書かれていないのは不自然ではないか。これに対して、原告側は一応は次のように反論してみせますが・・・。


百人斬り裁判 原告側控訴理由書

ヅ鎮羔睚燭旅垠概録(丁一三、原判決は行軍記録といっているが、厳密な意味でこれは行軍記録ではない。田中の何らかのメモをもとに、手を加えて編集して、昭和五十四年十一月に発行されたものである。正確には田中メモとでもいうべきである。以後「田中メモ」という)に、向井小隊長負傷の記載がないから、他に向井少尉が負傷したというような記録があったとしても、それらの記録と田中メモとを比較すると、負傷したという事実を認めるに足りないというが、そもそも田中メモには、戦死者の記録は多いが、戦傷者の記録は無いに等しい。

たとえば、昭和十二年十一月三日の記述に、「我が隊にも遂に犠牲者が出た。戦死 関田君 戦傷 中井七郎君佐橋君」とあるのみで、あとは戦死者の記録ばかりが続き、負傷者の記録は全く記述されていない。

昭和十三年五月十七日になって(このころは北支に転戦)はじめてまた戦傷者の記録が出る。その間(半年以上の期間)、戦死者がいるのに負傷者がいないということは考えられないのであるから負傷者が出ても田中メモに記述されなかったということである。

一般的に、戦死者と戦傷者との比率は一対三であるといわれている。つまり、一人の戦死者が出れば、三人の戦傷者が出るのである。

 同記録に負傷者の記載がなかったとしても、負傷の事実を否定する根拠にはなり得ないのである。

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P204)


 この説明は、一見して説得力を欠きます。

 向井少尉は、部隊の指揮官でした。その負傷は、もし事実であれば、部隊にとって「大事件」でしょう。「戦傷者の記録は無いに等しい」から「向井負傷」記載がなくても不自然ではない、ということとは、次元の異なる話です。

 笠原氏による反論です。

笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』

向井少尉のアリバイ崩れる

 では、この向井少尉の「負傷入院」の信憑性について検討していこう。

南京軍事裁判において、冨山第三大隊長の「受傷証明書」まで提出した丹陽郊外における向井少尉の負傷入院が事実であったかどうかは、
田中金平「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」(前出)にまったくその記述がないことからきわめて疑わしい。(P150)

同歩兵砲小隊はすでに無錫の手前の戦闘で第一分隊砲を失っており(本書、一一二頁)、もしも丹陽郊外で向井歩兵砲小隊長が負傷して丹陽臨時野戦病院に入院したとすれば、もはや歩兵砲小隊は戦闘部隊の体裁をなさなくなったはずである。にもかかわらず、田中の手記は小隊長の戦線離脱に一言も触れていない。(P150-P151)

これは、はなはだ奇異であるといわざるを得ない。事実、田中の手記には、一九三九年九月に同歩兵砲小隊が日本に帰還するまでの期間にわたり、同隊下士官クラスにいたるまで負傷、入院や指揮者の負傷による交代の事実などが丁寧に記録されている。

田中金平の記録はつづけて


「十二月四日 句容付近の戦斗

丹陽を占領して、初めて予備隊となり、旅団長の指揮する草場挺身隊に編入され、句容より左第一線を、湯水鎮西方より南京に向かい迂回前進する」

と書いており、記事にあるように、一二月三日午後には、追撃先発隊に編入され、句容にむけて丹陽を出発している。向井小隊長が負傷入院したのであれば、誰かが小隊長代理に就任しなければ戦闘行動はできないから、そのことが記録されたはずである。

 さらに本当に負傷入院したのであれば、病院の軍医が負傷・入院・治療証明書を発行し、本人も軍歴にかかわる重要なことなのでそれを大切に保管していたにちがいない。(P151)




 さらに向井自身、次のように語っていたと伝えられます。

「東京日日新聞」 1939.5.19付

戦死した競争相手に 「孫六」手向けの斬れ味

向井中尉 漢水戰線にあり

【漢水東方地区にて十八日西本特派員発】

実は向井中尉の念願は千人斬りださうで記者が「孫六は斬れますか」とはなしかけると朴訥な中尉は次の如く語った

「よく斬れます、ちよつと剣先がひつかゝりますが自信を持つてゐるから大丈夫です、出征以来病気もせずいつも第一線に立つて負傷せず不思議なやうです、長期戦に耐へ得るやうに体が出来てゐるのでせう、たゞ部下を死なして申訳ないと思つてゐます、それだけが残念です、

遺族の方々には悔みの手紙を出したのみで千人斬りがやれないので残念だ私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果すため一生懸命やつてゐます、今日まで三百五人斬りました、部隊長が槍をもつてをられるので負けないやうに奮闘する決心です」


(七面、中下四段見出し)


 「五百人斬り」云々の信憑性はともかく、「出征以来病気もせずいつも第一線に立つて負傷せず不思議なやうです」と語っていることが注目されます。記者の「作文」である可能性も完全には否定しきれませんが、ともかくも「向井負傷説」にとっては不利な材料であることは間違いありません。



 「裁判」で語られたのはここまでですが、さらにその後秦郁彦により行なわれたるインタビューが、決定打となるでしょう。

秦郁彦「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

歩兵砲小隊の部下(第二分隊長)だった田中金平伍長は向井が負傷せず、南京占領まで戦ったと筆者に語り、分隊員の辻岩松、松田清治郎の両氏や松田利春中尉(第八中隊長)も同様の記憶である。

 (『政経研究』2006年2月 P91)
  

 当の田中金平は、「向井が負傷せず」とはっきりと語っています。また他の隊員も、同じ証言を行っているようです。



 となると、「冨山大隊長の証明書」は、週刊新潮の記事通り、「偽造アリバイ」と見るべきでしょう。

 原告側は、このように主張しますが・・・。

百人斬り裁判 原告側控訴理由書


 むしろ、一従軍者にすぎない私的な田中メモとは別に、軍事裁判所に提出された公的文書ないしそれに準ずる性格を有する冨山大隊長作成の証明文書(甲三三の一ないし三)によって(当時の事情を考えれば、偽物の証明書を提出すればなんらかの処罰や報復を覚悟しなければならない)、同少尉の負傷の事実は証明されているのである。

(『「百人斬り訴訟」裁判記録集』P204)


 これは、誰が見てももはや「強弁」の域でしょう。冨山大隊長が「向井を救いたい」という強い動機を持っているのであれば、その真偽は、他の資料と照らし合わせつつ慎重に判定されなければなりません。



 秦郁彦氏、笠原十九司氏の「判定」です。

秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

 元上官の富山が送ってきた証明書には、十二月二日丹陽で「左膝頭部及右手下ゼン部に(迫撃砲弾の)盲貫弾片創」を受け負傷して野戦病院に入院、十五日に部隊復帰となっていた。だが、証明書が届く前の答弁書(十一月六日付)で向井は「十一月末頃」に負傷、十二月中旬に復帰と陳述していた。しかし判決は富山の証明書を信用できないと判断したのか、無視している。

 たしかに本人がウロ覚えなのに、元上官が十年前の日付を正確に記憶しているのは不自然だ。戦闘詳報なり類似の公文書(たとえば兵籍)に記入されていれば、富山はその写しを添付して届けたはずである。現在でも向井が所属した連隊と大隊の戦闘詳報は未発見だが、死傷者の氏名と日付を記載している歩兵第九連隊歩兵砲隊の戦闘日誌にも向井の名は見当らない。兵籍にも記入がない。

 かれこれ考え合わせると、富山の証明書は旧部下を枚うために作った偽証の可能性が高いと思われる。

 (『政経研究』2006年2月 P91)
  


笠原十九司氏『「百人斬り競争」と南京事件』より


 このように丹陽での負傷入院、戦線離脱のアリバイ説はほとんど根拠を持たない粗末なものと断ぜざるを得ない。冨山第三大隊長の「受傷証明書」が南京軍事裁判で向井少尉のアリバイの主張を援護するための「創りごと」であったことは見え見えである。(P151-P152)

 




 結論としては、次の秦郁彦氏の「結び」が妥当なものでしょう。

秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


こうして見てくると、負傷入院を口実とする向井のアリバイは崩れたと結論してもよさそうだ。

 (『政経研究』2006年2月 P92)
  

*なお裁判では、旅団司令部の通信班長だった犬飼聡一郎氏の、「犬飼は、このとき、冨山大隊から無線で戦況を聞いており、向井少尉が負傷したことも聞いた」という趣旨の証言が提示されました(『百人斬り裁判資料集』P143、東京地裁判決より)。真偽は不明ですが、事実だとすれば、入院しない程度の負傷をしていたことは考えられます。


(2009.12.13)



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