「百人斬り競争」―「アリバイ」は成立するか

(1)「記者会見」は何回か?
 

 

まず最初に念押ししておきますが、「百人斬り競争」は、「南京事件」全体を考えた場合、ほとんど重要性を付与されていない、一エピソードであるに過ぎません。例え「百人斬り競争」の実在が否定されたとしても、大量の捕虜殺害・各所での民間人殺害を骨子とする「南京虐殺」の存在自体がゆらぐことはないでしょう。

にもかかわらず、「百人斬り競争」は、しばしば「南京事件」論議のひとつのハイライトであるかのように語られます。それには1970年代前半、「否定派」側にとってここが容易な「突破口」であるかのように映り、山本七平氏、鈴木明氏らがここに論議を集中させた、という事情が影響しているものと思われます。



*70年代初期、本多勝一氏が連載記事「中国の旅」の中でこのエピソードを取り上げたことが、「百人斬り競争」が再びスポットを浴びるきっかけにはなりました。しかし本多氏記事での扱いはせいぜい20数行と小さく、それも中国人が語る「伝聞情報」としての扱いでした。人名も「A」「B」とイニシャルのみです。(実を言えば、「実名を出す」ことを求めたのは、記事の信憑性を疑う山本七平氏の側でした。その後の展開を考えると何とも皮肉です)

本多氏記事に対する山本七平氏・鈴木明氏らの「反応」はいささか過剰とも言えるもので、「百人斬り競争」がスポットライトを浴びる大きな原因となりました。逆に言えば、この過剰反応がなければ、「百人斬り競争」が「国民的議論」にまで発展してしまうことはなかったのかもしれません。なおその後、本多氏らは、鈴木・山本両氏に対する再反論を「ペンの陰謀」にまとめ、第一期論争はとりあえず収束することになります。




「議論」は、2003年、「百人斬り競争」の主役であった野田毅・向井両少尉の遺族が、本多氏らを「名誉毀損」の廉で訴えたことにより再燃します。その背後では阿羅健一氏ら多数の「否定派」が原告側支援に動き、あたかも「否定派」陣営による「総力戦」の様相を呈しました。この事件で注目を受けた稲田朋美弁護士は、のち、衆議院議員(自民党)に転身しています。

訴訟自体は、朝日新聞側がいくつかの「新資料」を発見したこともあり、原告側の敗訴に終わりました。ここでは以下の通り、三回に分けて、裁判の大きな争点となった野田・向井両少尉の「アリバイ」問題に着目してみましょう。


(1)「記者会見」は何回か?(本稿)
(2)向井少尉の「負傷」
(3)「副官」は戦わないか?


私は「百人斬り競争」の存否については判断を保留しています。以下のコンテンツは、あくまで「原告側が提起したアリバイ」をめぐるものに限定していることを、お断りしておきます。言うまでもありませんが、私は「裁判」には全く関与しておりませんので、以下は別に被告側主張を代弁するものではありません。

*よく見かける誤解ですが、「百人斬り競争」論議の争点は、「百人斬り競争と呼ぶにふさわしい競争が行われたかどうか」であり、「実際に百人斬ったか」ではありません。本多氏側においても、「実際に百人斬った」ことを主張しているわけではありません。なお東京高等裁判所判決では、「両少尉が、・・・・当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」との事実認定が行われています。

*また、当時の報道記事をそのまま真に受けて「白兵戦で百人を斬った」と主張している論者も存在しません。本多氏側は、「百人斬り競争」の実態は「捕虜殺害競争」であったと思われる、との主張です。ネットではよく、「白兵戦で百人も斬れるわけがない」などと、争点を理解しない書き込みを見かけることがありますので、念のため。


まずは、問題の新聞記事を確認します。ここでは、「大阪毎日新聞」版を採用しました。

*通常は「東京日日新聞」版が採りあげられます。しかし当時の新聞記事は、上海−大阪−東京と電送され、その過程で微妙に語句が修正されることがありましたので、大阪版の方がよりオリジナルに近いものです。両版の微妙な相違については、タラリさんによる分析があります。

昭和十二年十二月一日付

  南京めざし 快絶・百人斬り競争

   『関の孫六』五十六人を屠り 伝家の宝刀廿五名を仆す

     片桐部隊の二少尉


 常州にて【廿九日】光本本社特派員発

  常熟、無錫間の四十舛鯱仔間で破つた○○部隊の快速はこれと同一距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまつた、

神速といはうか、何んといはうか仮令(たとへ)ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある、しかもこの競争が無錫出発の際初められたといふのに、一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は廿五人斬りを果たしたといふ。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である、

この二人は無錫入城と同時に直に追撃戦に移つた際どちらからともなく「南京に着くまで百人斬りの競争をしようぢやないか」といふ相談がまとまり、柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといつた風で互いに競争するところあり、

無錫進発後向井少尉は部下を率ゐて鉄道線路北六、七舛寮を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分れ分れになったが、

出発の翌朝野田少尉は無錫をさる八舛量橘症落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたがこのことを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍りこみ、五十二名の敵兵を斬り捨ててしまつた、

その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行つたとき、この二人は駅頭で会見してゐる光景にぶつかった、

両少尉は語る

向井少尉=この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉=僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせる

記者らが「この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどつと来ますよ」と水を向けると何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月1日夕刊 第2面右上 5段見出し 「野田少尉」顔丸写真あり)

 

昭和十二年十二月四日付

  百人斬り競争 後日物語

   八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦!

    片桐部隊の向井、野田両少尉  痛快・阿修羅の大奮戦


 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発  

 既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、

即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、

何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、

記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月4日朝刊 第11面中上 5段見出し)

 
昭和十二年十二月七日付

  百人斬り競争の二少尉

   相変らず接戦の猛勇ぶり


 句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発  

 南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた


(両少尉の写真あり)

 敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左) (常州にて−佐藤本社特派員撮影)

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月7日朝刊 第2面左中 3段囲み記事)

 
昭和十二年十二月十三日付

  106對105

   百人斬り競争の向井、野田両少尉

    血染の秋水輝かに南京入り


 紫金山麓【十二日】浅海、鈴木両特派員発  

 南京入りまで ”百人斬り競争”といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田毅両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した、
 
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」・・・・両少尉は ”アハハハ” ・・・・結局いつまでにいづれが先きに百人斬つたかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さうだが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩り真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つたのち

知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ 十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えい、ままよ」と刀をかついで棒立になつてゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した 

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月13日朝刊 第11面左中上 4段見出し)



まとめると、次の表のようなことになるでしょう。両少尉の進行方向は、右から左。それぞれの区間の「戦果」も合わせて掲載しました。

                                                 ← ← ← ← ← ← ← ← ← ←

   南京 紫金山麓   句容  丹陽 常州  無錫 
 新聞記事による会見地点       ○     
野田少尉の「戦果」     27人 13人  36人  25人   
 向井少尉の「戦果」    17人  3人 30人   56人  
*厳密に言えば、これは「会見地点」ではなく、「記事が発信された場所」です。従って実際の会見場所とは、ずれが生じている場合があります。
*「戦果」は、その直前地点と当該地点の間でのものです。例えば野田少尉の「常州 25人」は、「無錫−常州間で25人の戦果があった」、ということです。



これに対して、野田少尉は「南京軍事裁判」にてこう語っています。


野田少尉の民国36年(昭和22年)11月15日付け答弁書

昭和12年11月、無錫付近において、向井少尉とともに浅海記者に会い、たばこをもらい互いに笑談戯言した。これが浅海記者と会った第1回目である。浅海記者は、当時、特別記事がなくて困っており、『あなた方を英雄として新聞に記載すれば、日本女性の憧れの的になり多数の花嫁候補も殺到するでしょう。もし新聞に記載されれば郷士に部隊の消息をも知らせることになり、父母兄弟親戚知人を安心させることになるでしょう。記事の内容については記者に任せてください。』と言った。」

「私は、まさかそのような戯言が新聞に載るとは思ってもおらず、かつ笑談戯言であるために意に止めずにほとんど忘れていた。その後、同年12月ころ、麒麟門東方で戦車に搭乗した浅海記者と行き違ったが、これは浅海記者と会った第2回目である。そのとき、浅海記者は、早口で、『百人斬競争の創作的記事は日本国内で評判になっていますし、最後の記事も既に送りました。いずれあなたも新聞記事を御覧になるでしょう。』と言い、戦車の轟音とともに別れた。このとき向井少尉は不在であった。」

「私は、翌年の昭和13年2月、北支でその記事を見たが、余りにも誇大妄想狂的であって、恥ずかしく思った。」(P157)

「『百人斬り競争』の記事は、誇大妄想狂的で日本国民の志気を鼓舞しようとするための偽作であることは浅海記者を召喚して尋問すれば明瞭であり、これが事実無根の第一の理由である。」

浅海記者と会見したのは無錫付近と麟麟門東方との二回である。それにもかかわらず、新聞記載の回数は四回か五回であって、会見の回数より多いのは何を意味するか。記者が勝手に創作打電したことは余りにも明瞭であり、これが事実無根の第二の理由である。」

「私と浅海記者が麟麟門で会合したとき、向井少尉は不在であったにもかかわらず、新聞記事には二人で会見談話したように記載しており、これが事実無根の第三の理由である。」(P158)

(『「百人斬り競争」裁判資料集』より)


さきほどの表に、野田少尉の主張を追加しておきましょう。

 南京 紫金山麓  麒麟門  句容  丹陽 常州  無錫 
 新聞記事による会見地点       ○     
野田少尉の「戦果」     27人 13人  36人  25人   
 向井少尉の「戦果」    17人  3人 30人   56人  
野田少尉による会見地点    ○        ○ 


新聞記事によれば、両少尉は「無錫」から競争を始めており、第一回会見の「常州」において既に「戦果」を報告しています。

しかし野田少尉によれば、「競争」が始まる前の「無錫」が第一回目、そして二回目の「麒麟門」では、一方的に「記事」が既に掲載されていることを告げられただけだ、ということになります。実際の「戦果」を知る由もない浅海記者が、勝手に「戦果」を創作して記事を送ったのだ、という主張です。




なお裁判の原告側は、最初の会見地点が「無錫」ではなく「常州」であることまでは認めましたが、会見の回数については野田とほぼ同様の主張を行っています。

 

百人斬り裁判 原告側最終準備書面


したがって 十一月二十九日に常州において、浅海記者と両少尉が会い、佐藤カメラマンが両少尉の写真を撮影したことは大野日記に照らしてもほぼ間違いがないと考えられる。 (P27)

 佐藤振壽カメラマンは、浅海記者に呼ばれて常州で両少尉を撮影したが、そのとき、ここ(常州)から二人が「百人斬り競争」を始めると聞いた。そのときどうやって斬った数を数えるのかと聞くと、両少尉は当番兵を取替えっこして数えると答えたが佐藤カメラマンは信じなかった。佐藤カメラマンは取替えっこしただけでは結論はでないだろうというと両少尉は答えなかった。

 向井少尉が浅海記者に会ったのはこのとき一度きりであり、野田少尉が浅海記者に会ったのはこのときと麒麟門の二回である。 (P28)

(『「百人斬り競争」裁判資料集』より)



さて、記事を書いたのは、主として浅海一男記者であったと思われます。浅海記者は、次のように主張しています。

 

浅海一男『新型の進軍ラッパはあまり鳴らない』


両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変っていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。

その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。

両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙がしいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもかく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。

(『ペンの陰謀』P347)


双方の主張が真っ向からぶつかる形です。以下、浅見氏の証言がどこまで第三者の証言によって裏づけされるか、という観点から、見ていきましょう。





常州での会見

 
これについては、裁判の原告側も、最初の記者会見の場は「無錫」ではなく「常州」であることを認めていますので、今日ではこの点についての「争い」はありません。

念のために、取材に立会い、カメラ撮影を行った佐藤振壽氏の証言を見ましょう。


佐藤振壽『従軍とは歩くこと』

"百人斬り"の二将校を撮る

 社会部の浅海一男記者が、無錫から同行していた。その浅海記者が常州城門の側の旅館へ筆者を呼びに来た。

 「将校さん二人の写真を撮ってくれないか。彼らはタバコを切らしているので、タバコもあげてくれないか」というのである。
 
上海を出発する時、フィルムや食糧などの入ったリュックのすき問へ「ルビー・クイーン」の紙包を約百個入れておいた。タバコを喫いたい時、リュックをさぐると、すぐ一個や二個の紙包が見つかった。このことを浅海記者は知っていたので、二人の将校から取材するとき、筆者のタバコを当てにしたらしい。(P573-P574)

 タバコを進呈して、将校から何を聞き出すのか。私は浅海記者と将校の話に聞き耳を立てた。将校の一人は大隊副官の野田毅少尉、もう一人は歩兵砲小隊長の向井敏明少尉。なんとここから南京入城までに、どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である。(P574)

(『南京戦史資料集供拏録)


『週刊新潮』1972.7.29号記事


 佐藤振寿カメラマン(五八)は、現在、写真評論家としてフリーの生活を送っている。(P34)

(中略)

 「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。

 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」(P35)




佐藤氏が撮影した写真にも、「常州にて」というキャプションが入っています。

「無錫」は、野田の記憶違い、あるいは「会見は競争を始める前であった」と主張するための作為的なウソである、と言えるでしょう。

*ただし佐藤カメラマンは、裁判の中で、この会見の時点では二人はまだ「百人斬り競争」を始めていなかった、という趣旨の証言を行っています。しかし同時に、「例えば野田さんが、おれが斬ったときは向井君の当番兵が勘定してるんだと。反対に向井君が斬ったときはおれの当番兵が勘定してるんだと」と、競争が「現在進行形」であると受け止めることができる証言も行っており、佐藤カメラマンの証言には混乱が見られます。(『南京大虐殺と「百人斬り競争」』P24-P26)

**私見ですが、佐藤カメラマンが言う「当番兵をとりかえっこした」というエピソードは、信憑性が低いもののように思われます。実際の話、「白兵戦の現場」においてこの「当番兵」は何をしているのか、という疑問が生じます。まさか目の前の「戦闘」に参加もせず、のんびりと「一人、二人」と数えているはずもないでしょう。



句容での会見


六車政次郎は、歩兵第九連隊第一大隊副官。野田少尉は歩兵第九連隊第三大隊副官でしたから、ほぼ似たようなポジションにあった、と言っていいでしょう。

六車と野田は陸軍士官学校の同期生であり、同じ連隊に所属していましたので、お互いにライバル意識を持ちつつも戦場では親しい関係にあったようです。六車は、同期生会の文集『鎮魂 第三集』に、次のような文章を寄せています。


六車政次郎『野田大凱の思い出』より


 北支に上陸してからは、別々の戦場で戦うことが多くほとんど顔を合わせることはなかったが、中支に転じて南京攻略を目前にした一日、南京東部の句容鎮付近で珍しく一日だけ進撃の止まった日があった。聯隊本部へ命令受領に行くと野田君も来ていて、出征以来三ヶ月振りに会った。(P185-P186)

この時まで私はいつも聯隊本部から離れた第一線にいたので、新聞など見たこともなく、野田少尉と向井少尉との百人斬り競争の噂は知らなかった。戦斗の数は俺の方が多く、敵を斬った数も俺の方が多い筈だがとひそかに思ったものであった。

同じ聯隊の同期生であった私にもこの程度しか事情は分からないので、事実はどうであったのか知るよしもないが、ジャーナリズムの興味本位のニュース種に乗せられて犠牲になったとしか思えない。

十三年の三月に、彼は偵察将校要員となって内地の飛行学校に帰り我々より一足先に戦場を去って行った。彼と私の死と生の分れ目は、思えば紙一重であったような気がする。(P186)

(陸軍士官学校49期生会『鎮魂 第三集』)

*「ゆう」注 のちのコンテンツで触れる予定ですが、六車氏は、「戦犯」となった野田に配慮して、わざと曖昧な証言を行ったものと思われます。実際には六車は、野田のために「百人斬りの歌」をつくった、と伝えられます。また昭和13年1月1日には野田とともに30キロ離れた南京まで遊びに行っており、この時に「百人斬り競争」に関する何らかの会話を交わした可能性が高いものと考えられます。


これだけでは「この時」に六車がどのように「百人斬り競争」の話を聞いたのかよくわかりませんが、のちの秦郁彦インタビューとあわせると、状況がはっきりします。


秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より


 その六車は、筆者へ「連隊本部で記者が野田をとり囲んでいるのを見た。ヒーローになってうらやましいと思った」と語り、吉田太計司少尉(第二大隊歩兵砲小隊長)は「十日か二週間おくれて新聞で見て"やっとるな"と思った。野田はスポーツ競技じゃないぞと連隊長に叱られたらしい」と回想した。

 (『政経研究』2006年2月P95)
  


どうやら六車は、「句容鎮付近」で「連隊本部へ命令受領」に行った際に、野田の記者会見の現場に出くわしたようです。これがおそらくは、第三報「句容にて」の取材現場だったものと思われます。



なお、六車の手記『惜春賦』を読むと、丹陽占領後の十二月四日に「聯隊長に呼び出されて」命令を受領した、との記述があります。

六車政次郎『惜春賦:わが青春の思い出』より


師団は丹陽付近に兵力を集結して尓後の攻撃を準備することになり、この夜聯隊は全州鎮(丹陽西七キロ)付近に、大隊は全州鎮西郊外の全州村に露営した。

 珍しいことに聯隊から、「兵力の集結と尓後の作戦準備のため、数日間の滞在を予測して宿泊設備を整えよ」という指示があったので、大隊は宿舎の準備・警戒部隊の配置・食糧徴発隊の派遣などの滞在準備にかかった。まだ具体的に南京攻略命令が出たわけではないが、ここで全軍が周到な準備を整えた上で、いよいよ最後の南京総攻撃を開始するものと推測された。(P370)

(中略)

十二月四日、朝から滞在準備や情報収集に奔走していた私は、正午過ぎに急遽聯隊長に呼び出されて、「緊急に兵力を集結せよ」と命ぜられた。警戒勤務部隊や食糧徴発隊など各所に派遣している部隊を慌てて呼び戻したり、弾薬・食糧の補給もそこそこに打ち切って部隊の集結を図っている最中の午後四時、次ぎのような聯隊要旨命令を受けた。

 「師団は南京に向い敵を追撃する。聯隊(第三大隊を欠く)は、前方に進出している師団追撃隊の指揮下に入るために行郷鎮に急行する。」(P371)

この十二月四日は「珍しく一日だけ進撃が止まった日」でもあり、六車が「野田の記者会見」を目撃したのはこの日である可能性があります。実際の記事は「五日」に「句容」から発信されていますので、その後の丹陽−句容戦の状況を加味して、第三報の
「句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発 南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた 」

という記事になったとも考えられます。

*なお実際には、大隊は、「一二月五日に冨山部隊は句容付近で中国軍と戦闘、しかし本隊は句容城に入城せずに直前で右折し」湯水鎮へ向かった、ということです。笠原十九司氏は、「賈崗里鎮から五日のうちに記事を「句容発」として発信した可能性が一番高い。無線技師がいて送信機をもった新聞社の車があれば、可能であった」との推察を行っています。

また記事中「両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦」の部分は、私見では記事の「粉飾」部分のようにも思われますが、笠原氏は、「「入城直前までの戦績」という書き方をしているのは、両少尉が句容に入城していれば実行したであろう城内掃蕩戦、残敵掃蕩戦には加わらなかったからである。「句容入城にも最前線に立って奮戦」という記述も、第一六師団の追撃隊として句容攻撃の最前線にいたと解せば、根拠のないことではない」との解釈を行っています。(以上、笠原十九司氏「「百人斬り競争」と南京事件」P155)


3 紫金山麓での会見



これについては、同席した鈴木記者が、「結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな」という、明確な証言を行っています。


『週刊新潮』1972.7.29号記事


 南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。(P35)

 「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」

 ということは、〔紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると、「十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。

 鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。「本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです」

(P36)



鈴木記者はさらに、「記事はデッチ上げである」という主張に対しては、強い言葉で反発しています。


鈴木二郎『当時の従軍記者として』


 一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中に"ゴール″迫った二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。

(『ペンの陰謀』P356)


原告側は、「鈴木記者の同席」に対しては、鈴木証言のうち「赤筒の使用」などの明らかな記憶違いを持ち出して、証言自体が信じられない、と印象づける戦術をとりました。しかし鈴木記者が「野田、向井と会った」こと自体を「記憶違い」しているとは考えにくく、これはほとんど「強弁」の世界でしょう。

秦郁彦氏の「判定」が妥当なものであると思われます。

秦郁彦氏「『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)』より

一方、記者側から眺めると何度も二人の少尉に会っているという浅海はともかく、一度しか会っていない鈴木二郎が紫金山麓で二人に会ったと強調しているのは確度が高い。


 (『政経研究』2006年2月P91)
  




ここまでのところを、改めて表にまとめておきましょう。

   南京 紫金山麓  麒麟門  句容  丹陽 常州  無錫 
 新聞記事による会見地点       ○     
野田少尉の「戦果」     27人 13人  36人  25人   
 向井少尉の「戦果」    17人  3人 30人   56人  
野田少尉による会見地点    ○        ○ 
佐藤カメラマンの同席            ○   
六車少尉の目撃        ○       
鈴木記者の同席    ○           


野田は「無錫と麒麟門の二回だけ」と主張しましたが、実際には、「常州」「句容」「紫金山麓」の三回には、浅海記者以外に、少なくとも一人の「第三の証言者」が存在します。

野田、及び原告側の主張は崩れた、と考えていいでしょう。



(2009.12.13)


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