民間人殺害命令


 上海戦から南京戦にかけて「民間人虐殺」が行われた、という記述は、中国側資料を中心に、よく目にします。 

 これについて、何らかの「命令」があったのかどうか。参考までに、日本側資料で、「殺害命令」の存在を示唆する資料を、いくつか紹介します。

 
平松鷹史「郷土部隊奮戦史1」(大分合同新聞社)

  「悪戦苦闘」という事情であるが、これは上海戦いらい南京攻略までの上海派遣軍の戦況を見れば一目りょう然であろう、意外に強硬なシナ軍の抵抗で上海派遣軍は各所で苦闘を強いられた。その苦い体験から敵性国人にたいし異状なまでの憎悪をもやしたことは想像できる。

 この点について次のような話がある。第六師団が抗洲湾に上陸、崑山に直進中、第六師団司令部に「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け」という無茶苦茶な命令が届いた。

 当時第六師団高級副官であった中佐平岡力(のち少将、鹿児島県護国神社奉賛会常務理事)は「こんなバカな命令があるか」の一言のもとにケ飛ばしてこの命令は宙に消えたままだったが、このデタラメな命令に出所について平岡氏は「柳川兵団からそんなバカな命令が出るはずはない。出所について確認はしていないが、おそらく上海戦で苦戦中の軍司令部あたりが血迷って出した命令だろう」といっている。

 いまになってこの命令の出所を追及することは困難だが、日本軍の一部には苦戦に血迷い非人道的な殺りく(戮)行為に走ったものがあったことは事実であろう。一個師団二万人の将士の中には教育ていどの低いものもあり、またシナ軍の意外に頑強な抵抗にあい甚大な衝撃を受けたものもあった。ただ軍としてはあくまで「犯さず、殺さず」の大原則を持ちつづけたことは事実である。 (P405--P46)

*ゆう注 この本は、大分の地方紙である「大分合同新聞」に連載された「郷土部隊奮戦史」をまとめて、1962年に発行されたものです。木下郁大分県知事(当時)、長谷川正憲元47連隊長・元陸軍少将が、それぞれ「推薦の辞」「序」を寄せています。
 


朝香進一「初年兵日記」

1938年8月29日 

 夕方、私たちの宿舎に九中隊の帰還兵が三名泊まりに来た。彼等はアゴヒゲを伸した中年男で、彼等の話によると中隊は張戴港を引き揚げ、近日中に岳口へ移動して来ると言うのである。

 夜、私たちは帰還兵をかこんで体験談を聞くことにした。彼等は予備役で召集を受け上海戦、除州作戦に参加、大別山系の敵陣を突破し、二ヵ月前に漢水沿岸に展開したと言うのである。戦争とは何だろうか? 私たちは興味と関心をもって彼たちの話に耳を傾けた。

 彼等は水筒の中からチャンチュウ(支那酒)を取り出し、ちびりちびり呑みながら語り出した。

「戦争は決してかっこうの良いものではない。狂気の沙汰であり、人前で話すこともはばかれることなんだ。お前たちは初年兵だから特に話すので。他言は決してするな。ここだけの話にして聞き流してくれ・・・」と、前置きしながら、まず上海戦の模様についてこもごも話を進めた。

上海戦は苛烈なザンゴウ戦で、壕の中で敵と対峙し、鉄砲弾の弾幕のもと進むことも退くことも出来ず、二日二晩ヒザまでつかって戦闘を続けた。壕の傍らに小さな穴を掘って用便を済まし、また壕の中の汚水を飲んだので多くの戦友がコレラを患い、死亡したと言うのである。

 南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」という軍命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。婦女子は特にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を実演して見せるのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。

 夜半、帰還兵の一人、泣き上戸の彼が泣きわめきながら、

「許してくれ―おれのせいじゃないんだぞ―」と、暗いローソクのもとで半狂乱の姿をさらしていた。

 私はなかなか寝つかれなかった。それにしても妻子のある分別盛りの兵隊が、無差別に婦女子を殺害するなど信じられない気がした。もし、自分に「虐殺命令」が出された場合、どのような態度をとるべきか、私にはわからなかった。(P140)

*ゆう注 著者の朝香氏は、京都市伏見に住み、1939年5月、召集を受けて新潟県高田歩兵三十聯隊に入営しました。氏は、1939年8月13日、船で揚子江に入り、8月21日、漢口に上陸。8月27日、「補充要員」として、第十三師団第五十八連隊第三大隊第九中隊に配属されました。上の記述は、漢口に駐屯していた時の体験談です。


 
梶村止『観測小隊長の日記 大陸を戦う』

野戦重砲兵第十四聯隊所属

11月29日 晴(待機)

 早朝松林伍長を見舞ふ。元気よし。煙草を恵む。傷心しきりなり。二週間も経れば回復出来るとの診断なりしも一先ず二里半先の野戦病院に入院せしむ。午後二時出発を見送る。

 一昨日は第一中隊の兵が徴発に行きて敗残兵らしきものより撃たれ(臀部より股にかけて貫通)、昨夜は又松林と続き、観測小隊全員憤激極まりなし。思ふに国民党の徹底抗日の教育充実し、ここ江南地区がもっとも抗日思想激しき処と聞く。この附近不審の土民は射殺すべしとの内命すらありゐたり。

本夜松林伍長を入院せしめて帰る道、有吉衛生兵、使役苦力九名を伴ひ来る。皆証明書を大事に持参したるも、その証明書が面白し。

 ゴジユウニオトリハカラヒ下サイ。六人組(印)、各位殿、又ゴジユウニオコロシ下サイ、先発隊―と。この苦力は重宝なりき。かえってきてゐるのを又捕へて荷を担がせる。どこまでとなく―。(P38)

(カナカナをひらがなに修正)


*「ゆう」注 梶村氏は、終戦後の1947年11月、「在郷軍人分会長であったため教職員不適格、公職追放」を受け、その後福岡県立福岡農業高校に復職、明善高校教諭を経て、1978年、退職しています。この本は、退職後の1979年に出版されました。この本には、「梶村君おめでとう。このたび四十有年温めていた日中事変従軍の陣中日誌を上梓せらるると聞き、好個の金字塔として世に出ること必至にして、聊か蕪辞を連ねてこれを祝福しようと思う」(元野戦重砲兵第十四聯隊第一大隊長 逸見吉次)、「このたび三年有半の陣中日記を出版されると聞き、まことに喜びに堪えない」(元野戦重砲兵第十四聯隊第一大隊第二中隊長 小金丸岩三」と、元上官から好意的な序文が寄せられています。

 氏自身のスタンスは、以下の通りです。(「自序」より抜粋)
一、この時期は日本軍の最も油の乗り切ったころであり、世に多く出ている南方戦域の戦記のような悲惨さを訴える記録ではない。破竹の勢を以って直押しに連戦連勝、必勝の信念に燃え、大陸進攻作戦に従事した陣中生活のただ忠実な日日の記録であります。

一、従って、戦争の悲惨さ、引いては厭戦―反戦をにおわすような戦記ではない。もちろん戦争を肯定謳歌するものでもない。私は思想・主義を訴えるのではない。ただ平凡な当時の国民が、将兵が、誰しも持っていた考え方であり、心情にほかならないのであります。


 
太平洋戦争研究会「南京虐殺で対立する証言者たち」より


 河野公輝さん(六二)は、昭和七年に中国大陸にわたり、ハルビンで陸軍の嘱託カメラマンになっていらい、つねに最前線にあってシャッターを切り、アイモを回しつづけてきた人である。

(中略)

 昭和十二年十一月五日に開始された、有名な「抗州湾上陸作戦」にも、従軍したので、ここではそのときの体験を聞こう。

(中略)

 河野さんは駆逐艦に乗り、夜陰に乗じて上陸した。抗州湾上陸部隊は精鋭不敗といわれた十三師団(仙台)。中国軍も恐れていたらしいが、それまで北京で苦労して凱旋寸前だったところを、思いがけず前線にかりたてられたため、兵隊たちは荒れていた。残虐行為の原因が、そこにもあったのだろう。

 「上陸すると、手当たりしだいにぶっ殺す。銃剣で刺すなんて生やさしいものではなく、棍棒でやるんだな。男も女も、バリッとなぐられ、ブワッと血を噴き出して死ぬんだよ」

みんな殺せという命令が、抗州湾上陸の直後に出された。河野さんは、たしかに命令伝達書を見た。そこには、つぎのようなことが書かれていた。

 ―共産主義の暴虐を許さず、共匪の跳梁を粉砕するため、農夫、工夫はもとより、女子どもにいたるまで、全員殺戮すべし。

(猪瀬直樹監修「目撃者が語る日中戦争」P60〜P62)


 
石井清太郎「いのちの戦記」P41〜P42


 飯盒を枕に横になっていると、その兵士が話しかけてきた。戦争はひどいものですね、と言われて私はその顔を暫らく瞶めていた。現役兵のように若い兵士で柔和な顔をしている。病院は兵団を異にした傷病兵の雑居集団である。

 この兵は抗州湾に上陸して、上海戦線の腹背を衝いた柳川兵団の兵士であった。私はその兵士から、兵団長の命令なるものを聞いて暫らく信じられなかった。それは、生ある者は皆殺せ、家は悉く焼け、と言うのである。

 兵には命令は常に至上命令である。上官の命令は天皇陛下の御命令である。と耳に胝が出来る程教えこまれている我々である。始めの内は半信半疑だったが、事例を聞いている内に、疑う余地のない事を知った。

 私は今聞いた残忍な行いは到底言い得ないと思った。私は今聞いたような命令は受けていない。そればかりか、旅団長は、住民に対しては非情は避けたい、と言われた事を側に居て直にきいている。将軍にこれ程相違ある事を知って驚いた。そして、昨日共に戦った新鋭と言われている部隊の兵が、やたらに難民を刺殺したり銃殺したりするのを見ている私は、同じような命令を受けているのではないかと思った。

 ついに私は聞くに耐えられなくなって、眠らせてくれと言うて言葉をさえぎった。眠ろうとしても眠れなくて、戦争というものの実態を思った。人間は、古代から気狂い沙汰をくり返してきた事を思って息がつまる思いであった。


*「ゆう」注

 巻末の筆者紹介を引用します。
戦歴 昭和十二年九月応召
 中支那派遣軍、荻洲兵団所属
 十月二日上海に上陸、上海戦、南京追撃戦より江北各地に転戦、
 徐州戦より転じて霍山、大別山の戦斗に参加、発病して戦争の役にたたなくなる。
 師団、部隊名は明記されていませんが、出身が新潟県であること、またその行動ルートから、荻洲兵団(第十三師団)のうち「幕府山事件」に参加していない方の、「歩兵第二十六旅団」の所属であったと思われます。

**この記述は、部隊が謝家橋鎮を攻撃した際に負傷し、部隊から離れて病院に入った時のものです。

***この本は、東京都八王子市の「イデア株式会社」という出版社から、平成三年四月に発行されています。執筆の動機については、以下のような著者のあとがきが掲載されています。
戦場から生きのびて還った私は、戦争というものの空しさに苛まれて生きて来た。晩年に至り、その影深くなるを覚える時、児童文学者で作家であられる佐藤州男先生に巡り遇った。先生の何気ない一言が啓示して、私にいのちの戦記を書かせてくれた。


 また、秦郁彦氏「南京事件」P70に、以下のように、宮下光盛手記の紹介があります。原典は非売品でもとの記述を確認することはできませんが、これまで紹介してきた資料と通じるものがありますので、読者の参考のために掲載します。
 また国崎支隊の歩四十一連隊に従軍した宮下光盛一等兵は、抗州湾上陸時に、「我が柳川兵団は上陸後 (1)民家を発見したら全部焼却すること、(2)老若男女とわず人間を見たら射殺せよ」(宮下手記『徒桜』)との命令を受けたという。
 

2004.5.15 追記

 以上、資料をならべてみると、これらは「正式命令」ではなく、指揮命令系統の混乱の中での出所不明の「命令」が独り歩きしてしまったようにも思えます。

 類似ケースとして、太平洋戦争時、辻正信参謀独断の「捕虜殺害命令」が末端に伝えられてしまった、という事例があります。参考までに、ここに紹介します。

 筆者今井武夫氏は、フィリピンなど南方の戦闘に参加した一時期を除けば、陸軍軍人として、日中戦争のほとんどの期間、中国問題に関与する立場にありました。終戦時には「支那派遣軍総参謀副長」の地位にあり、また、「盧溝橋事件」に「北平大使館附陸軍武官輔佐官」として関わったことでも知られています。

 
今井武夫「支那事変の回想」より


 午前十一時頃私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。

 特に聯隊長を指名した電話である以上、何か重要問題に違いない。

 私は新しい作戦命令を予想し、緊張して受話器を取った。附近に居合わせた副官や主計、其の他本部付将校は勿論、兵隊一同もそれとなく私の応答に聞き耳を立てて、注意している気配であった。

 電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った.
 
 それは

 「パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊を挙げて降伏を申し出たが、日本軍はまだ之れを全面的に承諾を争えていない。

 其の結果米此軍の投降者は、まだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手許にいる米此軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。

 貴部隊も之れを実行せよ。」

と、いうものである。

 戦闘間の命令は其の事の如何を問わず、絶対服従せねばならぬことは、厳しい軍律である。しかしこの兵団命令は人間として、何としても聴従しかね、又常識としても普通の正義感では考えられぬことである。

 この時

  閫外の任を承けては勅命と雖も聴かざることあり

と、いう古い言葉が、頭をかすめた。


 私は自己の責任上避けられない立場に困惑したが、心を決めて直ちに応答した。

 「本命令は事重大で、普通では考えられない。従て口答命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達せられ度い。」

と、述べて受話器をおいた。
 

 私は直ちに命令して、部隊の手許に居った捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するように指示して、一斉に釈放して仕舞った。

 私の周囲に居った渡辺中尉や杉田主計中尉其の他若い将校は、私の意外な指示に仰天してあっけに取られ、棒を呑んだように息を語めたまま私を見詰めていた。

 戦後彼等の告白によれば、聯隊長の突飛な命令に吃驚りして、実際頭がどうかしたのではないかと、疑ったと述べている。

 私はこの時、兵団は恐らくこの非常識な筆記命令を、交付しないであろうが、たとえ万一斯かる命令が交付されても、其の時部隊には一兵も捕虜を管理していない状態にしておけば、多数捕虜の生命を擁護することが出来ると、思案した結果であるが、果して筆記命令は遂に入手しなかった。

 戦後明かにされた所に依れば、かかる不合理で惨酷な命令が、大本営から下達されるわけがなく、松永参謀の談によればたまたま大本営から戦闘指導に派遣された、辻参謀が口答で伝達して歩いたものらしく、某部隊では従軍中の台湾高砂族を指揮して、米此軍将校多数を殺戮した者が居り、アブノーマルな戦場とはいいながら、なお其の異常に興奮した心理を生む行動に、慄然とした。

 勿論戦後マニラの米軍戦犯軍事法廷では、本問題も審理の対象とされ、軍司令官本間中将の罪行に加えられたと聞き、側隠の情に堪えかねたが、同時に斯かる命令を流布した越権行為が、有耶無耶に葬られていることに対し、深い憤りを禁じ得ない。

(P178〜P179)


  これによれば、「捕虜殺害」という非常識な「独断命令」が、一部現場で実行されてしまったようです。

 「上海−南京戦」における「民間人殺害命令」を「発生源」まで遡って突き止めることは今日では不可能でしょう。しかし、少なからぬ数の下級兵士がこのような命令が存在していると認識していたことは事実であり、あるいは、このフィリピンの事例のような命令系統の混乱が、「上海−南京戦」でもあったのかもしれません。

(2002.12.1記 2003.3.23 各資料の筆者紹介追記 2003.11.26 「いのちの戦記」追加  2004.5.15「支那事変の回想」追加)


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