松本重治氏の証言


 松本重治氏は、南京事件当時、同盟通信の上海支社長(1938年1月より「中南支総局長」)を務めていた大物ジャーナリストです。ティンパーリと協力して上海に「難民区」を設置したエピソードが、有名です。

 松本氏自身は、南京には、陥落後の十二月十八日から十九日にかけて滞在したにすぎず、直接の経験はほとんどありません。しかし、ティンパーリやベイツとの親交など、「南京事件」を語る上で、決して無視することのできない人物でしょう。 

 松本氏の著書「上海時代」は現在絶版になっており、ネットの世界でも読むことが困難です。ここでは、この「上海時代」に、松本氏に対する、国広正雄氏、阿羅健一氏のインタビューを併せて紹介することにします。





 
「上海時代」より(1)

「南京大虐殺」事件 

 翌十九日(「ゆう」注 1937年12月19日)私は上海に帰ってすぐ支社に出社、東京向けの発信をするとともに、英文部長の堀口(瑞典)君に、英訳してロイテル通信や各英字紙に配ってくれと頼んだ。堀口君も大賛成。その翌朝、短いながらも、その記事は、上海の『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』など各英字紙に掲載された。

しかし松井最高指揮官の態度は立派であったが、松井さんの訓戒の対象となった日本軍の南京その他における最も恥ずべき暴行、虐殺、放火、死体冒瀆等の事実は、たえず私の心を痛めたのであった。

 翌年四月になって、ジャキノ難民区でともに働いたティンパーレー君が総局事務所にやってきて、「中国における日本軍の残虐行為」(ジャパニーズ・アトロシテイーズ・イン・チャイナ)なる書物を編集、発行することになったことを報告した。

そして、「これは、よき日本人に対しては、まことに済まぬことながら、ひろく戦争が人間というものを変えてしまうという、悲しむべく、また憎むべきことを世界に周知せしめたいのです。しかし、ことに日高さんと松本さんとに対しては、南市の「難民区」を作ることにつきご両人に協力をしてもらいながら、事実上、反日的な刊行物を編集するにいたった。これは、お二人の好意に対し悪意をもって酬ゆるようなことになるもので、自分にとっても心苦しい限りである。そこで、時局がら、直接に名指しすることは差し控えたが、私の序文において、お二人に対する私の衷心からの敬意を表明しておいたわけだ。何とぞ、この本はあくまで反戦的編著書として受けとってくれ」という良心的な話であった。

 「ティンパーレー君、私も日本人の端くれである。南京の暴行、虐殺は、全く恥かしいことだと思っている。貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、致し方ない。中国人に対し、また人類に対し、われわれ日本人は深く謝するとともに、君の本をわれわれの反省の糧としたいものだ。丁寧なご挨拶で、かえって痛み入る」といったことがあった。

 それから六月ごろになって、その本を買い求め、通読しようとしたが、読むに堪えない事実の羅列なので、半分ぐらいでやめてしまった。聞けば、本書は、ロンドンでの発行と同時に、中国においても中国語に翻訳、刊行された。ティンパーレー君の戦争反対の良心的善意には敬意を表したが、私が、かねてひそかに考えていた中国からの日本軍の撤兵の問題を、より真剣に考え始めたのも、そのころからであった。この点については、後段に譲りたい。

 その後三十数年経って、私がこの回想録の執筆を準備していたころ、南京の「大虐殺」事件について、日中両国民のあいだで、いろいろ論議が始まり、ティンパーレーの著書の中国版から復刻された邦訳が『外国人の見た日本軍の暴行』と題されて竜渓書舎から発行され(一九七二年二月)、つづいて、本多勝一氏の『中国の旅』が著され、また、早大の洞富雄教授が、周到な研究に基く『南京事件』を著された。その翌年、鈴木明氏の『「南京大虐殺」のまぼろし』という著書が出たが、その結語は、「今日に至るまで、事件の真相はだれにも知らされていない」というのである。

 私は、本多氏、洞教授、鈴木氏のものを心苦しさを覚えつつも、通読したが、事件の正確な全貌は、なかなかつかめなかった。だからといって、私は反論しようとは思わない。だが、私としては、被害者の数量よりも、日本軍人がやった非人間的な行為そのものに、胸を刺された思いであった。

(「上海時代(下)」(中公新書)P249〜P251)

 


「上海時代」より(2)

 私は、最近、従軍記者として南京攻略直後に取材のため南京に数日を過したという元同僚の新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の三氏から、参考のため、直接話を聞いた。とくに深沢氏は、ずっと従軍日記をつけていたので、それも読ませてもらい、大いに参考になった。

 三人ともが十二月十六日から十七日にかけ直接に見たというのは、まず下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった多数の焼死体であった。約二千という人と二、三千ぐらいであったという人があった。おそらく、機銃掃射され、ガソリンをぶっかけられて焼け死んだものであったらしい。

 それから、元軍政部構内で若い将校や下士官が「新兵訓練」と称して新兵を使って中国人の捕虜を銃剣で突き、そこにあった防空壕にぶちこんだが、前田氏は、捕虜十二、三人目が突き殺されたのを見て、それだけで気分が悪くなり、嘔吐を催して、立ち去ったという。また、軍官学校構内で捕虜を拳銃で射殺するのを見て、二人ぐらい見ていて、もう見ていられなくなったという。

 また、三氏が話してくれた共通の点は、戦闘行為と、暴行、虐殺との区別がなかなかできないということであった。大本営発表の中国軍の損失九万というのには、捕虜の虐殺数が相当入っているのではないかとの話もあった。

 日本軍が半ば包囲陣形をとったので、下関や雨花台などで中国兵が多数殺されたが、これも戦死とみるべきかとも考えられた。その他女子に対する暴行、殺人も極端にまで行われたらしいが、軍隊として組織的にやったものとは信ぜられないという。

 三氏は、みんな相当の練達の記者であるが、何十万とかいう「大虐殺」事件はなかったようだといい、戦闘以外の虐殺被害者は、まず、一、二万というところではないかともいっていた。また、前田氏は社会ダネを拾って駈けまわったが、そのほか、占領直後、十四日、十五日には便衣隊狩りが相当行われたことも聞いているが、十二月二十日ごろを境にして、市民の生活には、街頭にも平常の雰囲気がとり戻されていたという。

 十八日の松井最高指揮官の訓戒に対し、ある師団長などはせせら笑っていたそうだが、とにかく、翌日からは、第十六師団だけが南京の警備に当り、その他の部隊は、蕪湖方面その他城外に移された。ところが、その警備のため南京に残された第十六師団の兵士たちの一部が、その後も、乱暴を続けたということは、南京難民区の委員の一人であった、M・S・ベイツ教授が、極東軍事裁判で証言したところであった。

  私は、ベイツ教授を個人的にも知っていたが、その数日後、軽井沢で会ったことがあった。彼は、口も重く、「あのときは、全くひどかった。もう何も言いたくありません」と一言、語ったばかりであった。

 「南京大虐殺」の数量も真相も、なお不明であるにしろ、われわれ日本人の心の奥底に、消そうにも、消すことのできない傷跡が残っていることは、確実である。

(「上海時代(下)」(中公新書)P251〜P253)
 


 続けて、松本氏の上記の記述を補足するものとして、国広正雄氏による「昭和史への一証言」、及び阿羅健一氏の「聞き書き 南京事件」の、ふたつのインタビューを紹介します。

 なお、阿羅健一氏は、「聞き書き 南京事件」の増補改訂版として、2002年、「南京事件 日本人48人の証言」という本を出しています。しかしなぜか、数あるインタビューのうち、この松本氏の分だけが、後の本では割愛されています。

 
「昭和史への一証言」より (聞き手 国広正雄氏)


南京虐殺はあった

(ゆう注 「上海時代」の内容との重複を避けて、途中から紹介します)

日本軍による南京虐殺について、最近、新しい資料が出ておりますね。

松本 最近、雑誌『歴史と人物』に南京攻略に参加した一六師団の指揮官、中島今朝吾中将の「中島第一六師団長日記」がのっていました。中島師団長が書き綴っていた陣中日誌のうち、南京陥落後の一二月一一日から陥落後の三一日までの分が省略なしに全文のせられていて、当時のなまなましい様子がよくわかります。

 日記には、日本軍が攻めこみそうなところに中国軍はたくさん地雷を埋めていたから、天文台付近で捕虜にした工兵少佐に、地雷を敷設した場所を尋問しようとしたが、兵隊は、この将校をすでに斬り殺していた。兵隊にはかなわん、かなわん―と書いてある。中島師団長自身の軍刀の切れ味をみるため、捕虜の試し斬りを日本からきた剣士にさせたことも書かれています。

(ゆう注 中島日記の「捕虜の試し斬り」については、こちらをご覧下さい)


第一六師団が南京の下流の揚子江岸に敵前上陸したあとは、敗走する中国軍を追撃するだけですから、それから南京までは戦闘らしい戦闘もせず、無傷で、手持ちぶたさ、といいますか、勇む心のやり場がないということになりますね。

松本 なにしろ、上海で防衛線を突破されてからの中国軍は逃げる一方だった。第一六師団などは戦う相手がいなかったのです。中国軍の逃げ足は速いのですが、それよりも日本軍の進撃のスピードが速く、中国軍の退路を先回りすることになる。中国軍捕虜はどんどんふえていきます。第一六師団に属する佐々木到一少将の旅団の部隊は、一〇〇〇人ほどの兵力なのに、捕虜を六〇〇〇人もかかえてしまった、という話を聞きました。ところが、中島師団長の日記には「捕虜はつくらない方針だ」と書かれています。それは、一時は捕虜として食物を与えておくが、一部を釈放し、他は遅かれ早かれ処分する、という意味しか考えられない。またそういう意味のことが文字通り日記に書いてあります。


前線部隊として、糧秣類は現地調達せざるをえない。主食や野菜などは集めるのに苦労します。そういうときに、たくさんの捕虜を連れていることは、その食べ物をどうするか一つ考えても大ごとです。中島日記には佐々木旅団の”武勇伝”がいろいろと記録されていますね。

松本 中島師団長の日記を読みますと、第一六師団の作戦区域には中国の敗残兵がたくさんいたようです。「後で知ったところによると、佐々木旅団が処理しただけで約一万五〇〇〇」と報告されています。けれども、この数字だけで、一万五〇〇〇人が虐殺された、と判断できません。戦争のとき、師団長に報告する戦果は実際より過大になるものだ、と聞いていました。また、戦闘行為によって殺されたものか、虐殺によるものかも、はっきりしません。


最近、日本のマスコミや世論の一部が、南京虐殺があったのか幻ではなかったのか、という議論を起こしています。虐殺が全くなかった、と強弁する向きもあれば、小虐殺はあったにしても大虐殺はなかった、という説もある。南京虐殺事件の有無やその人数をめぐって議論がわいています。南京虐殺はあったことははっきりしているわけですね。

松本 ”南京内外での虐殺事件がなかった”ということはない。あったことは事実です。犠牲者は大半は捕虜で、非戦闘員の中国市民男女も相当あったと思われます。


最近、南京市の軍史資料研究会の『証言・南京大虐殺』という資料が日本で翻訳されました。この資料によると、集団虐殺が約一九万人、イスラム教徒など宗教団体によって個人的に埋葬された人が一五万人以上、合わせて三十何万人となっています。他方、日本側には、数万人から一〇万人の規模という見方があります。先生ご自身、ある意味でこの論争に巻きこまれなさったいきさつがあるのですが・・・。

松本 虐殺された犠牲者が何人だったか、の議論は水かけ論のような議論になりかねないと思うのです。たとえば、南京雨花台は最後に激戦があったところです。日本軍に包囲されて、たくさんの中国兵が死んでいますが、そういう中国人の犠牲者は、戦闘中に戦死したのか、捕虜になってから虐殺されたのか、わからないでしょう。中国側の犠牲者が戦闘行為によるのか、虐殺によるのか、区別しにくいことは深沢君ら三人ともいっていました。


警視庁の広報課の係長をして退職した方が第六五連隊の伍長として南京攻略に参加され、そのときの記録やスケッチを公開されたことがあります。彼が自分の部隊だけで中国兵捕虜一万三五〇〇を虐殺した、というのです。その経緯ですが、捕虜の集団をある島に渡らせようとしたとき、その島に隠れていた中国兵が発砲してきた。そこで、捕虜が騒ぎ出した。このままでは収拾がつかなくなり護送している自分たちの身の危険も感じた。そこで、重機や、軽機を乱射して捕虜の集団を皆殺しにした。その数は一万三五〇〇人にのぼる、というのです。そういう事件が起こったことが事実だとして、それに類する事件や残虐行為がほかにあったであろうことを考えますと、その数は多数にのぼると思うのですが・・・。少なくとも何万というオーダーの虐殺は、戦時であるとはいえ、すさまじい規模ですね。

*「ゆう」注 これは「栗原証言」のことだと思われますが、国広氏の紹介は「自衛発砲説」との混同が見られ、やや不正確なものです。 「栗原証言」については、K−Kさんのサイトに全文が掲載されていますので、ご参照ください。


松本 南京占領当時、大本営が発表した中国軍の損失は九万人ですが、深沢君らは、このなかには捕虜の虐殺数が相当含まれているのではないかといっていました。占領直後の一四、一五日には便衣隊狩りや敗残兵狩りがおこなわれたと聞いていますが、先にお話ししたように、占領して五日目に私が南京に入ったときはもうすでに平静でした。それまでに三〇万とか四〇万人といった中国人が虐殺されていたとは考えられない。

 深沢君らはしっかりした記者でしたが、何十万という大虐殺事件はなかったようだ、といっていました。私は南京内外で虐殺された中国人は捕虜と一般中国市民たちを総計して三万人ぐらいと推定しています。しかし、これも自分で情報を総合して考えた揚げ句であって、必ずしも正確な数字だとはいえません。


(松本重治「昭和史への一証言」 P74〜P78)



 
「聞き書き 南京事件」より

(略)

昭和五十九年十二月二十日、松本氏を六本木の国際文化会館に訪れた。

(略)

十二月十八日の慰霊祭出席のため南京にいらしてますね。

「十八日の朝、南京に着きました。南京の街は人通りが少く、静まりかえっていました。それが印象的です。

 支社に行きましたが、記者は取材にでかけていて誰もいませんでした」


『上海時代』によりますと、慰霊祭の松井大将の訓示に、ある師団長はせせら笑った、とありますが、その師団長とは中島今朝吾中将のことですか。

「慰霊祭の時ではありません。

 慰霊祭はせせら笑うというようなものではありませんでした。非常に厳粛でした。そこで松井大将は居並ぶ将兵をきびしく叱っていました。誰も黙ったままでした。宮様をも叱っていました。それは凄いもので、誰も口をはさめませんでした。その時、松井大将は皇后陛下からいただいたという襟巻をしていたと思います。

 中島師団長が笑ったというのは、第十六師団だけの慰霊祭の時といわれています」


松井大将が叱ったのは、なにかを見たからなのでしょうか。

「部下から報告をうけたのでしょう。それで叱ったのだと思います」


中島師団長は陸大も出た教養のある人ですが、どうしたのでしょう?

 「私も疑問に思っていました。当時の中島師団長の日記が発見されて、その時のやり方に、『捕虜とはせぬ方針』とあります。今まで中島師団長がそう考えていたとは思ってもみませんでした」


「捕虜はせぬ方針」とは、抽象的で、いろいろな解釈ができると思います。敵を撃退しろというのか、つかまえた捕虜は処刑しろというのか、捕虜の一部は釈放しろというのか、いったいどうなのでしょう?

 「追っ払ったこともずいぶんあったでしょう。捕虜にして殺したことが若干あったことを前田(雄二同盟記者)君や深沢(幹蔵同盟記者)君が目撃してます。十六師団は捕えた数千人の捕虜をその後解放した、とも聞いてます。どの様にもとれるのではないでしょうか」


「捕虜はせぬ方針」を、捕虜は殺す、ととるなら、松井大将の言動からみて、それは中島師団長の考え、命令となりますね。

「松井大将や宮様から出た命令ではありません。中島師団長の命令になるでしょう」


同盟通信は慰霊祭の松井大将の訓示を海外に流していますね。

「東京にも流しました。中国や海外の新聞には載りました」


松本さん自身、南京で日本軍の残虐行為を見てますか。

「私は、なにも見ていません。南京の様子は『上海時代』に書いてあるとおり、南京を取材していた前田、深沢、新井(正義)の三人の同盟通信の記者に聞いて確かめたことを書いたのです。書いてある以上のことはわかりません」


ここで、しばらく南京の様子の話となるが、その話は『上海時代』に書いてあることの繰り返しである。

万を単位とする虐殺はありえないということです。慰霊祭が終わったあと、十九日か二十日に十六師団が南京の残留師団となり残敵掃蕩をやったが、この時、民家から略奪したり、女の子まで強姦したりした、という。この時、数十人か数百人かのそういうことがあったと聞いています。

 難民区には便衣の者の他、中国の将校が軍服のまま逃げ込んで、協定違反で難民区委員会が困っているという話を聞きました。兵士はいくら便衣となってもわかるということです」


難民区委員会で活躍していたベイツ氏はどんな人ですか。

「金陵大学の教授をやっていましたが、普通の大学教授です。
金陵女子大学に日本の将校が来て、収容されている女の子を出せといった、それを学長の呉貽芳が断ったら彼女が殴られた、とベイツ教授がいってました。呉貽芳は私もよく知っている人です」


ベイツ教授は極東軍事裁判で、南京事件について証言をしていますが、証言の信憑性はどうでしょうか。

「ベイツ教授が自分で見た、といってることは本当でしょう」


ティンパーレーの『戦争とは何か』を読むと、反日的で、非常に意図的なものを感じますが・・・。

「ティンパーレーは、年令は私より少し上ですが、本当に良心的な人です。学者肌の人でした」


例えば南京の難民委員会に参加できず、腹いせにああいう本を出したとか・・・。

「そういうことはないと思います。
ベイツ教授は普通の大学教授ですが、ティンパーレーはまれにみる良心的な新聞記者です


ティンパーレーは南京のデータを集めていますが、当時、どこにいましたか

「上海の記者でしたから、上海にいたと思います」


「ニューヨークタイムズ」のアーベント記者をごぞんじですか。

「アーベント君も私の友達です。仲良しで、よくゴルフをしました。最初はそうでもありませんでしたが、一九三三年頃から反日的になり、宋美齢とは特に親しくなりました。いつかもゴルフをやろうとしていましたら、宋美齢からお茶の会によばれているといってゴルフをやらずにいったこともありました」


南京には何日いました?

「一日泊ったような気もします。一九日には上海に帰りました」

(阿羅健一氏「聞き書き 南京事件 P231〜P235)


 


 以上、ふたつのインタビューを紹介しました。国広氏のインタビューはジャーナリストとしての力量を感じさせるものですが、私の見る限り、阿羅氏のインタビューにはどうも「誘導尋問」的要素が目立ちます。

 特に後半の、「ティンパーレーの『戦争とは何か』を読むと、反日的で、非常に意図的なものを感じますが・・・」 という質問など、逆に質問者の阿羅氏の方に「非常に意図的なもの」を感じざるをえませんし、それに続く「例えば南京の難民委員会に参加できず、腹いせにああいう本を出したとか・・・」 も、全く的外れなものです。

 これは想像になりますが、阿羅氏自身このインタビューをあまり出来の良くないものと感じており、そのために「日本人 48人の証言」に再収録しなかった、という可能性もあるのかもしれません。




 また読み比べると、「中島日記」の「捕虜はせぬ方針」の解釈に、微妙な差があることが伺えます。

 阿羅氏のインタビューでは「十六師団は捕えた数千人の捕虜をその後解放した、とも聞いてます。どの様にもとれるのではないでしょうか」と「釈放」に重点を置いた発言を行っているのに対し、国広氏インタビューでは「それは、一時は捕虜として食物を与えておくが、一部を釈放し、他は遅かれ早かれ処分する、という意味しか考えられない」と、「処分」に重点を置いた表現となっています。

 この「中島日記」をめぐる論議は有名ですのでご存知の方も多いと思いますが、実際の日記の記述は「処分」に重点を置いたもの と読むのが自然でしょう。

 
中島今朝吾日記 (第十六師団長・陸軍中将)

十二月十三日 天気晴朗

一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり

  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底始末に堪えざるなり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除すること すら出来ず 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので

  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ
  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし

 之が整理の為には爾後数日を要するならん

(「南京戦史資料集1」P219〜P220 または「南京戦史資料集」(旧版)P325〜P326)
 


 念のためですが、「釈放」するのであれば、「片付くる」ための「大きな壕」など、必要ありません。

*一部には、東中野氏など、「濠」を「捕虜選別の場」として解釈する見方も存在するようですが、前後の文脈、中島師団長の言動、実際の第十六師団の行動などから見て、私には強引で無茶な解釈である、としか思えません。このあたりの議論については、別項で論じています。

**「中島日記」十二月十三日の全文については、こちらに掲載しました。このあたりの記述には「捕虜掃蕩」という見出しがつけられています。




 「犠牲者数」の認識でも、「一、二万」(上海時代)、「三万人くらい」(昭和史への一証言)、「万を単位とする虐殺はありえない」(聞き書き 南京事件)と、微妙な違いがあります。

 阿羅氏は、「『上海時代』に書いてあることの繰り返し」という表現に続けて「万を単位とする虐殺はありえない」という記述を行っていますが、これでは「上海時代」にそのような表現があるかのような「誤解」が生じます。

 なお松本氏自身も、「犠牲者数」については確固たる見解は持っていないと思われることから、「質問」によって「答え」が微妙に変化する可能性も、否定できません。阿羅氏は、この「答え」に対する「質問」を省略していますが、どのような「質問」だったのか、興味を引かれるところです。

(2003.7.9)


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