資料:「国際委員会文書」の告発


 前コンテンツでは、「日本軍の暴行記録」を取り上げました。ただしもちろん、「国際委員会」のメンバーが認識していた「日本軍の暴行」は、これだけではありません。

そもそも「国際委員会」文書は、「事例」をあげて日本側に事態の改善を求めることを目的とした文書であり、日本軍の引き起こした「暴行事件」のすべての網羅を意図したものではありません。

例えば、外国人の日記などに繰り返し登場する「発電所職員四十三人殺害事件」など、「国際委員会文書」には見られない「事件」も数多くあります。

  また、「国際委員会」のメンバーが把握できた事例は概ね「安全区」とその周辺に限られ、「虐殺」の主な舞台となったと伝えられる「城壁周辺、揚子江岸、農村部」についての情報が乏しかったことにも、注意しておく必要があります。
※従って、「南京事件」における民間人殺害数が、「日本軍の暴行記録」に収録されている「49人」(正確には「57人」)しかない、ということはありえませんし、またそのような主張を行っている論者も存在しません。 以上当たり前の話ですが、掲示板では、被害者総数があたかも「日本軍の暴行記録」に出てくる「49人」(あるいは57人)しかないかのような記述を行う方をよく見かけますので、あえて触れました。


 このコンテンツでは、「国際委員会文書」より、「日本軍の暴行記録」の枠をはみ出した3つの事例を紹介します。


<目次>

1.司法部事件(警察官殺害)

2.日本軍による連行

3.棲霞山寺の難民避難所




1.司法部事件(警察官連行)


第六号文書(Z9) 

一九三七年十二月十七日

 
当方の警官にも干渉がなされ、責任者である日本人将校の言によれば、司法部に駐在中の五〇人の警官を「銃殺するために」連行したとのことです。昨日午後にはわれわれの「志願警察官」のうち四六人が同様に連行されました。

(これらの志願警察官は当委員会によって十二月十三日に組織されたもので、安全区でおこなわれる仕事は正規の警官―昼夜兼行で部署についていた―よりも大きいように見えました。)

 これらの「志願警察官」は制服を着用してもおらずいかなる武器も携行しておりませんでした。ただ当方の腕章をつけていただけです。 彼らは群集整理の手助けとか、清掃とか、救急処置を施すなどの雑用をする西洋のボーイ・スカートといったようなものでした。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P126)


 
第七号文書(Z10 11 12)

一九三七年十二月十八日

掘]行された警官について


 昨日、五〇名の制服警官が司法部から連行された事実と、四十五名の「志願警官」も連行された事実に対し、われわれはあなた方の注意を喚起しました。

 われわれは今また、高等法院に駐留していた四〇名の制服警官が連行されたという事実をお知らせしなければなりません。 彼らの唯一の罪状として日本軍将校が申し立てたことは、司法部の建物が一度捜索された後に、中国兵をそこへ引き入れたということで、そのため銃殺すべきだというのです。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P131)

 「連行された警官」の数は、合計135人にも上っています。彼らが連行後に帰還したとの記録はなく、当時の状況を鑑みて、ほぼ全員が「銃殺」されたのは確実と見られます。



2.日本軍による連行


 
第四九号文書 

救済状況にかんする覚書
   

一九三八年一月二十二日

 
いま一つの復興問題は未亡人と孤児の問題である。金陵女子文理学院においてこの問題につき調査を始めたところ、四二〇人の婦人が生活の助けをうけていた男性を日本軍によって殺されていたことがわかった。

 
市内の一般市民の男性が「便衣兵」の疑いをうけてこのような目にあったのである。彼らのあるものは、女性たちや家族の保証にもかかわらず、登録のさい隊を組んで連れ去られた。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P185)


 この記録は、ヴォートリン女史からの情報であるようです。

ヴォートリン「南京事件の日々」 一月二十一日 

 ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、一二月一三日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は五六八件(?)にものぼる。彼女たちは、夫は日本軍のための労務要員として連行されたのだと、いまもそう信じている。

  しかし、わたしたちの多くは、彼らは黒焦げになった死体に混じって、古林寺からそう遠くない池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門外に堆く積まれた半焦げ死体に紛れ込んでいるのではないかと思っている。

 一二月十六日の一日だけで四二二人が連行されたが、この数は、主としてここのキャンパスにいる女性の報告によるものだ。 一六歳か一七歳の若者多数が連行された。また、一二歳の少年が行方不明であるとの報告もあった。ほとんどの場合、連行された者は一家の唯一の稼ぎ手であった。

(P128)


 この「連行」は、「十二月十六日」について言えば、そのほとんどが「敗残兵狩り」の巻き添えである、と思われます。ほぼ全員が、そのまま殺害されたことは確実です。 

 参考までに、「日本軍による連行の訴え」は、最終的に千人を超えたことを付け加えておきます。

うちつづく悲劇 ―南京安全区解消までの日記から― 

 一九三八年四月

 その日の午後、たいへん美しい若い婦人が三人の子どもをつれて嘆願署名に訪れ、夫が拉致されて不明のまま、助けてくれる人もいないと悲しそうに話していった。この日で署名数は一〇三五名になった。 その数字の一つ一つに夫や息子を失った女性の悲劇がこめられていた。数日後には、三ヵ月前に三人の息子を拉致されたという初老の母親が、ヴォートリンたちに会えば、なんとかして息子たちを返してもらえる方法を知っているのでないだろうかと訪ねてきた。

(「南京事件の日々」P128)


*「ゆう」注 「ヴォートリン日記」の四月以降については全文の翻訳はなく、上記のような、翻訳者によるダイジェストのみ掲載されています。

 上記「嘆願署名」は、連行された夫や息子が「模範刑務所」に収容されているのではないか、というわずかな希望にすがり、その「釈放」を嘆願するものです。ただし結果的には、「模範刑務所」への収容が確認され釈放されたのはわずか三○名に過ぎず(P244)、残りはほぼ全員が殺害されたものと推定されます。

 なおこの数字は、ヴォートリンの下へ訴えがあった数です。「スマイス調査」では、「消息不明」の「拉致されたもの」の総数について、四二〇〇人という数字が挙げられています。

 




3.棲霞山寺の難民避難所

 南京城北東約20キロにある棲霞山には、二万人規模の難民の避難所が存在しました。国際委員会の文書には、その避難所からの訴えの記録が残っています。

第六十号文書 

棲霞山寺よりの覚書


 以下は中国語からの翻訳であるから、正確には原文通りではないかもしれない。この手紙は私のすまいから五マイル離れたところにある棲霞山寺から受けとったもので、高僧の一人によって書かれ、二〇人の地元の有力者が署名している。

B.A.シンドバーグ(B.A.Sindberg) 一九三八年二月三日

人道のために関係各位に訴える

 拝啓

 以下は本寺院の現状とわれわれの悩みを簡単に要約したものであります。南京陥落後、難民が毎日のように何百人と避難所と援助をもとめてやってきています。 これを書いている時に、われわれはすでにこの寺の屋根の下の二万四〇〇〇人の難民をかかえていますが、大半は女子供であります。男は射殺されたか、捕らえられて日本軍のために労役をするかしたのであります。

 一月四日以降の毎日の暴行を記せば、次のとおりです。

 一月四日。日本兵をのせたトラックが一台やってきた。彼らは牝牛を九頭盗み、輸送の便のために中国人にそれを屠殺させた。一方ひまつぶしに近所で数軒の家を焼いた。

 一月六日。河岸から多くの日本兵が来て、難民からロバを一頭と寝具十八枚を盗んだ。

 一月七日。日本兵がやってきて、一人の婦人と十四歳の少女を強姦し、寝具を五枚奪い去った。

 一月八日・九日。全部で六人の婦人が日本兵に強姦された。いつものように彼らは寺を家探しして若い女を探し出し、銃剣で脅して意に従わせた。

 一月十一日。あらたに四人の婦人が強姦され、酔っぱらった兵隊が寺をかけまわって、小銃を乱射し、多くの者を負傷させ、建物に被害をおよぼした。

 一月十三日。多くの兵隊がやってきて食糧を探し、かなりの量を没収した。帰りぎわに母とその娘を強姦した。

 一月十五日。多くの日本兵がやってきて若い女をつかまえ、一〇人を選び出して寺の一室で強姦した。その後、一人の泥酔した日本兵がきて、一室に入り、酒と女を出せと要求した。酒は出したが、女は出さなかった。 彼は立腹して銃を乱射しはじめ、少年二人を殺してひきあげた。持場へ帰る途中、彼は道ばたの一軒の家に入り、七十歳の老農婦を殺し、ロバを一頭盗み、家に火をつけた。

 一月十六日。強姦と略奪がくりかえされた。

 一月十八日。ロバが三頭盗まれた。

 一月十九日。日本兵が寺中を暴れまわり、戸や窓や家具をこわし、ロバを七頭盗んでひきあげた。

 一月二十日頃、別の分遣隊が到着して棲霞山鉄道駅の警備を交替しました。新手の兵隊を統率している中尉はよい人です。この人がきてから事態はずっとよくなりました。彼は寺にも警備兵を一人つけましたので、女や略奪品をもとめて他のところからここへやってくる日本兵を締め出すのに大いに役立ちました。

 しかし、彼が別の部署にむけて去ると、また面倒なことが起こるのではないかと心配しています。ですから、われわれの心からの希望は、誰かわれわれを助けることのできる人がこのように非人道的な暴行を止めるために何かをすることであります。

 ここに避難している難民の八〇パーセントは所持品を一切失い、家をこわされ、家畜を殺され、貴重品を盗まれたものであるます。多くの婦人は夫を失い、子供たちは父親を失いました。成年の大半は日本軍によって殺されたのであります。

 多くのものが負傷者・病人であり、医療はまったくおこなわれておらず、射殺されるのをおそれて街道を歩くものもありません。米の残りもきわめて乏しくなっております。水牛もなく、種籾もないのに、どうして農民が春になって農作業をすることができるでしょうか?

 われわれ、以下に署名した者は、わが住民を助けて頂くよう、貴下にお願いする次第であります。

一九三八年一月二十五日               棲霞寺


(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P194〜P195)


 なお「棲霞山」については、マギーの「視察旅行の報告」が残されていますので、合わせて紹介します。

 
「棲霞山視察旅行の報告」より

 一九三八年二月十六― 十七日
J・G・マギー           


 二月十六日の晩に私は、セメント工場キャンプの指導者たちと会った。全部で二五人であったろうか。私は彼らから話を聞き、また質問する機会がもてた。

 この時の会合の中身について、診療所の中やシンバーグ氏に同行しての村々のドライブで私自身が見たことと合わせて、ここに報告したい。


暴虐

 出席者の一人は、向こう一〇里と二○里の範囲で七〇〇から八〇〇人の民間人が殺されているのを計算できると言った。この数については、他の者も同意のようだった。 換算すれば、五マイル四方、すなわち二五平方マイルとなる。

 彼らは三十歳から四〇歳の婦人の強姦の事例については、あまりにも膨大すぎて計算できないと言った。さらに一〇歳の少女が犯された例も知られていると言った。

(中略)

 別の男が次のように報告した。二月十五日に日本兵が、キャンプから五マイル離れたところにある華樹泉(音訳)という彼の村にやって来て、七人を殺し、他の者を傷つけた。 これらの農民たちは、最近、天然痘の予防接種をしたために傷痕があったのを、日本兵はそれは銃創だから彼らは中国兵だと公言した。

 二月十七日に診療所において、私は手を撃たれた一人の農夫を見た。彼は十五日に、少女を連れて来るように要求した二人の日本兵にやられたのである。それは見るも痛ましい傷であった。

(以下略)

(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 P316〜P317)

*「ゆう」注 「華樹泉(音訳)」という地名が見えますが、熊猫さんの指摘によれば、これは「樺墅村」が正しいようです。

 

 余談になりますが、東中野氏は、この「棲霞山」に関連して明らかに誤った記述を行っています。

「『ザ・レイプオブ・南京』の研究」より 

 次の三例は、ドイツ大使館のゲオルグ・ローゼン書記官が記録した話である。

 嵜知れぬ」多くの女性が強姦されたあと揚子江に投身自殺したという話。

日本兵はうまく強姦する目的で一〇歳未満の少女たちの陰部を切り開いたという話(このようにチャンは記すが、ローゼン書記官の記録では、一〇歳になったばかりの一人の少女となっている)。

B子が日本兵に母を犯すよう強要されたが、それを拒否したため刺殺され、母は日本兵に強姦されたあと自殺したという話。

 この三例はいずれも、揚子江岸の棲霞山における出来事であった。

(中略)

 ところが、『南京安全地帯の記録』に「棲霞山寺のメモランダム」が六十号文書として取録されていて、シンドバーク自身のまとめた付記(二月三日付)が添付されている。

 それによれば、二万四千人(?)もが避難していたという棲霞山寺で、一月七日から一月十六日までの間に、六回の強姦事件と二回の殺人があったというが、 四人の農民の主張する先の三つの事件は記録されていない。

 したがって右の三件をシンドバークは知らなかったのである。それは四人の農民の創作と考えてよいであろう。


(P163〜P164)


 ローゼン書記官が記録した話が、シンドバークの報告には載っていない。従ってこれは「四人の農民の創作」である、というわけです。

 複数の記録のうち一つに「事件」が掲載されていないから「事件」はウソだ、というのも東中野氏一流の強引極まりない論法ですが、そもそも、「この三例はいずれも、揚子江岸の棲霞山における出来事であった」というのが間違いです。

 資料を確認します。

資料66

添付書類 一九三八年二月二六日付南京分館報告第二一号に添付

内容ー農民の王耀山七五歳、梅友三七九歳、王云貴六三歳、夏明分五四歳が、南京近郊江南セメント工場に滞在中のドイツ人男性(ギュンター)とデンマーク人男性(シンベァ)に宛てた一九三八年一月二十六日付陳情書

 翻訳(ドイツ語訳)

 中国と日本の戦争が勃発してすでに半年が経過した。江蘇地方は日本軍の手に落ちた。江寧と句容地方の住民はそれによって最も不幸な状況に陥った

 町にも村にも人はほとんどいない。藁の家々は何のためらいもなく焼かれた。煉瓦づくりの家のなかに日本兵はまず長持ち、箱、家具、農耕具などを集め、それらに火をつけ、すべてが一度で燃えるようにした。土地はすべて荒廃した。

 日本兵は村で若者を見かけると、国民政府中央軍兵士にちがいないと思い込んでただちに射殺した。老人もしばしば日本語がわからないために殺された。女性と少女は老若の区別なく、肉体的欲望を満たすために強姦された。数え切れない女性が川で溺れ死ぬか、自殺した。

 蘇郷村の方という名の、まだ一〇歳の幼い少女が、日本兵に膣を切り裂かれて殺された。さらに野蛮な出来事を報告しなければならない。

 数人の日本兵が母親と息子からなる難民家族に遭遇した。日本兵は息子を軍刀で脅し、母親と猥褻な行為をするよう息子に強いた。息子が拒むと、かれは軍刀で打たれ殺された。母親は日本兵に強姦され、その後自殺を遂げた。

(以下略)

(「ドイツ外交官の見た南京事件」 P196〜P197)

 この「三例」は、「棲霞山」ではなく、「江蘇地方」全体の中の事例でした。訴えの相手が、たまたま「棲霞山」にいた外国人2名だった、というだけの話です。

 一方、「第六○号文書」で触れられているのは、「棲霞山」の避難所で生じた事件のみでした。

 従って、四人の農民の主張する先の三つの事件」が「第六○号文書」に記録されていないからと言って、この三件を「シンドバークは知らなかった」、さらには「それは四人の農民の創作」と主張することはできません。


(2003.4.5)


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