板倉由明「東中野論文「ラーベ日記の徹底検証」を批判する」より


 本稿は、板倉由明「東中野論文「ラーベ日記の徹底検証」を批判する」 (「正論」平成10年6月号)の抄録です。

 東中野論稿への批判として興味深い論文ですのでここに紹介しますが、私個人としては、必ずしも氏の見解に同意できないところもありますので、これはあくまで「資料」としての紹介にとどまります。

 従って、もし以下の文を議論で使用する時は、引用される方の自己責任でお願いしたいと思います。


一、南京暴行報告と「感謝状」 

 「論文」の初めは、クレーガー、ハッツの目撃証言(暴行報告一八五)の報告者注から、 「ラーベの言う『死刑』は『日本軍の行う合法的処刑』であると明記された」と記していることである。

 この部分を、洞富雄『日中戦争史資料』から引用(以下同)してみよう。
 《われわれは、日本軍による合法的な死刑執行にたいして何ら抗議する権利はないが、これがあまりにも非効率で残虐なやり方で行われていることは確かである。・・・》 

 この処刑が、合法的な死刑執行かどうかは実は分からない。 引用部分は、もしそうなら、という仮定の前文で、主文は「そうだとしても・・・」池の中での射殺は困るという抗議で、処刑を合法と認めたものではない。

 なお、池に追い込んで射殺するのは、たとえ合法的処刑でも常識的には虐殺だろう。

 「論文」に言う「安全区尊重への感謝」は第一号文書の冒頭にあるが、この文書は「感謝状」ではない。 日本軍司令官に照会して状況を説明し、要望するための書簡の冒頭の挨拶部分で、感謝したのは事実だが、厳密にいえば「感謝状」ではなく、後の議論は言葉遊びになる。(P285)


二、上海路のたくさんの市民の死体 

 紅卍字会の埋葬記録には、死体収容場所と埋葬場所が別で、数が合わない場合がある。

 メインストリート即ち中山北路(安全区の境界)から、上海路に曲がるのは、左折して安全区の中に入ることになる。論文には「中山北路と上海路の交差する戦場」とあるが、境界だからこの付近に市民がいても不思議ではない。この死体が市民ではなく、兵士の死体だと断定できる根拠はないのである。(P285)



四、安全区での問題 

 中国軍が安全区を都合よく利用したことは、陥落以前の中国当局の民衆保護措置の不十分さと共に、「日記」の公開で初めて資料的に明らかになったことで、その意味で「日記」には相応の価値がある。 東中野氏は「日記」を全く出鱈目な、創作であると極め付けているが、そのような全面否定では、歴史の真実は追求できない。 私は十二月十四日の項などは、東京裁判での許伝音の偽証(ラーベ、フィッチ、許三者立ち会いの敗残兵捜索拒否)の可能性を示す重要な記述であると思う。 

 十二日夜の、龍大佐と周大佐の避難申し入れに対し、ラーベが匿ったことを論文は、「良心の呵責を覚えることなく」と評しているが、逆にラーベの良心とも言える。

 米英仏伊など各国大使館、公使館には大勢の中国軍人が逃げ込んだ。蒋公穀のアメリカ大使館、郭岐のイタリヤ大使館などが有名だが、日本だって中国やアジアの独立運動などで「志士」たちを大勢匿っている。 汪兆銘は蒋介石の暗殺を逃れて、ハノイから日本側の護衛の下に上海を経て東京へ脱出した。 「窮鳥懐に入れば殺さず」と言うが、これは一般に当然の措置で、匿われた側から見れば、ラーベは「南京のシンドラー」になる。

  「論文」には重症兵が安全区に入ってきたのは協定違反だとラーベが息巻いた、とあるが、この九四頁は、「本来ならこれは協定違反だ」としながらトリマー医師を訪ねさせた、と書いているので、 ラーベは別に息巻いたり理性が麻痺していたのではない。

  また「論文」は、ラーベがドイツへの帰国の際、空軍将校を使用人と偽って香港への逃亡を援助した、と避難する。

  しかし日本だって、松本重治は、高宗武を同盟記者と偽って自動車に同乗させ、共同租界の境界を突破している。 ラーベの場合も国際間の政治的な陰の部分では常識的(しかし決死的)出来事だが、乗船時にバレて逮捕・射殺されても、文句は言えない。

  ドイツ人を含め、残留外国人たちは中国軍人を匿い脱出を援助した。スパーリングは蒋公穀の報告書を漢口へ送っている。スパーリングは青島で捕虜になって以来、徹底的に日本が嫌いになった。 松山収容所などでのドイツ捕虜の厚遇はしばしば「友好」の話題になるが、ドイツ人捕虜一般が日本に好意を抱いた、などと考えるのは甘い。(P286-P287)


五、信用できないNYタイムズ記事

 「論文」は、NYタイムズ昭和十三年一月四日記事を引用して、元支那軍将校が避難民のなかに隠れ、暴行を行い、それを日本軍のせいにしていたことを、逮捕されて白状した、 と記している。

 「論文」は、この暴行が「日記」に指摘されていない、と非難しているが、この記事は日本側記録や報道にもない。 日本軍に逮捕されて白状したとあれば、日本軍の悪評を消すための絶好の宣伝記事だから、大々的に公表し、新聞に書かせるだろう。 捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第十六師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言に全く見当たらず、『東京日日』や『朝日』にも出ていない。

  よく見るとこの記事は、上海からの無電だが発信者の名もない。当時はまだ外国人記者は南京へ出入り出来ないのだから、誰がこのような情報を上海へ伝えたのであろうか。

  結局どうもこの記事は、噂を埋め草記事にしたガセネタのような気がする。 NYタイムズにも続報はなく、このような裏付けのない記事を、都合が良いからといって検証もせずに歴史の資料に使ってはいけない。 (P287)

*ゆう注 板倉氏は触れていませんが(気が付かなかった?)、この事件は、外国人には「王新倫事件」として知られていました。 詳しくはこちらをご覧ください。


六、部分引用の誤り

 「論文」は、掠奪、放火、強姦は支那軍の犯行という者が現れた、と記している。驚いて、どんな資料か、と見たところ、「マッカラム日記」の一節なので、また驚いた。

  マッカラム日記は東京裁判に提出された詳細な記録で非常に有用である。 この日記の、「論文」に引用(傍線部)(ゆう注 ここでは下線にしました)された前後を含めて関係部分を次に引用する。 
《彼等は貧賤な支那人を脅迫して、我々が言ったことを否認させようとします。支那人の或者は容易に掠奪・強姦及焼打等は支那軍がやったので、日本軍がやったのでは無いと立証すら致します。 我々は狂人や馬鹿者を相手にしているのだと時々考へます。・・・》(P287-P288)

 ここに書かれたことが真実か否かは問題にしない。私の言いたいのは、この文章からこの傍線部だけを取り出して、全般の文脈を正反対に解釈することが、如何に無責任で危険なことであるか、 という問題である。(P288)


七、放火と「外出禁止」問題

 放火はラーベ宅周辺だけの問題ではない。日本兵の日記にも放火を目撃して嘆く記述がある(前田吉彦日記)。もちろん、中国ゲリラの放火と見られる場合もあって、こういう時、日本側は中国兵の仕業、中国側や同情者は日本兵の仕業と噂するのが人情である。

 日本兵が特に「外出禁止」だったことはない。ただ危険な場所(たとえば貧民街の狭い路地)などには入らぬよう注意があったらしいが、ロシア大使館が不審火で焼けた後、笹沢部隊(独立機関銃第二大隊)の伍長以下三名が捕まっている。飯沼日記は「今に至り尚食料に窮するのも不思議、同大使館に入り込むも全く不可解」とノンキなことを記している。

 外務省への報告のほか、上海派遣軍報道部長・木村松治郎大佐の「嘆げかわしき乱脈ぶり」との報告、飯沼参謀長の「実に慨嘆に耐えず」との日記、朝香宮司令官も呆れて何とかせよと仰せられたなど、相当な「乱脈ぶり」だったことは間違いない。

 安全区との境界には、歩哨が立って他部隊の出入りが禁止されていた、というが、その「番犬」が中でやったのである。第七聯隊の兵士の日記には、難民からメリケン粉を奪ってきて団子を作って食った話や、南京退去に際して他のそばで百六十余名を刺殺し、家屋を焼いて引き揚げる話が出てくる。「全く悪いことの出来得るかぎり働くのである」というのがその兵士の感想である。

 金陵大学の壁を破ってピアノを持ち出したのには、飯沼参謀長もビックリ。憲兵隊長が女性を拉致しようとして更迭される。中隊長が女を監禁暴行して、参謀と救出に行ったアリソン領事をブン殴る・・・。

 南京事件の実態は、このような事実をも直視した上で究明されなければならない。(P288)



*ゆう注 この板倉論文に対しては、一応、東中野氏の再反論「やはり「ラーベ日記」は三等資料 板倉由明氏の批判に答える」(「正論」平成10年7月号)が存在します。 しかし、私の目で見ると、ほとんどまともな「反論」になっていないように思えましたので、紹介は割愛しました。


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