生きながら焼かれた記録
東中野氏の徹底検証 11
生きながら焼かれた記録



 当時の支那に、火葬の風習はなかった。
「土饅頭」が象徴するように、支那では土葬が中心であった。 日本軍が木を組み、そこに遺体を積み上げ、少量のガソリンをかけて埋葬している光景は、支那人の眼にも、とまったであろう。それを垣間見た支那人が、日本軍は人を生きながら焼き殺したと噂したのであろう。

 その種の風聞が飛び交ったと仮定して、初めて、ラーベのヒットラー宛て上申書も理解できる。それは、人々が「死体と同じように生きながら火をつけられた」と訴えていた。 しかし、日本軍が生きながら人々を焼き殺したという記録は皆無なのである。 もちろん、ラーベ日記の本文にもその記載はない。

 
日本軍が敵の遺棄死体を焼く光景を見て、火葬を知らない支那人が、「死体と同じように生きながら人々に火をつけた」と噂しあったのであろう。

(「徹底検証」P301〜P302)


 読んでいると、「積み上げ」た「遺体」に「ガソリンをかけ」てまとめて焼くことが「火葬」である、と錯覚しそうです。 通常これは、「火葬」ではなく、単なる「死体処理」という言葉で表現されるべきものでしょう。 氏は、これを「火葬」のイメージに近付けるためか、わざわざ「ガソリン」の前に、「少量の」という何の根拠もない形容詞を挿入しています。

 「それを垣間見た支那人が、日本軍は人を生きながら焼き殺したと噂したのであろう」。 例によって、ここにも、東中野氏特有の何の根拠もないフレーズ、「・・・であろう」が使われています。



さて、ラーベの「ヒットラー宛て上申書」は、次のような内容でした。


ジョン・ラーベ「ヒットラーへの上申書」より

 残念なことに、この処刑もまた、およそ粗雑なやりかたで行われました。死刑の判決を受けた人のなかにはただ負傷して気を失っただけの人もいたのですが、死体と同じようにガソリンをかけられ、生きながら火をつけられたのです。

  このなかの数人が鼓楼病院へ運ばれ、息を引き取るまぎわにその残酷な処刑の模様を語りました。私もいくどかこの耳でそれを聞きました。

(「南京の真実」文庫版P359)



 これは、安全区内の「敗残兵狩り」で捕らえられた人々の、虐殺についての記述です。東中野氏は、「ラーベ日記の本文にもその記載はない」と書きますが・・・。

ジョン・ラーベ日記 十二月二十八日

 今日、ほうぼうから新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。

 難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。

 何人か進み出た。ある所では、五十人くらいだったという。彼らはただちに連れ去られた。

 生きのびた人の話によると、空き家に連れていかれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、五人ずつ縛られた。それから日本兵は中庭で薪に火をつけ、一組ずつひきずり出して銃剣で刺したあと、 生きたまま火の中に投げこんだというのだ。そのうちの十人が逃げのびて塀を飛び越え、群集の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服をくれたという。

(「南京の真実」文庫版P171。英文をみると上記訳文には若干怪しい部分もあるようですが、大意は合っているようですので、このまま引用します)


 ちゃんと、存在しました。




 さらに、東中野氏が「皆無」と主張する、「日本軍が生きながら人々を焼き殺したという記録」を、ふたつばかり挙げておきます。

井家又一日記(歩兵第七聯隊第二中隊・上等兵) 十二月二十二日

   夕闇迫る午後五時大体本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。 ・・・百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺附近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。

 日はすで西山に没してすでに人の変動が分るのみである。家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。

  ・・突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。 火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す。

 家屋から暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しバンバンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。 終りて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。

(「南京戦史資料集1」P373)


 
藤井慎一氏(映画『南京』の録音技師)

ゆう門附近は物凄い死体で、死骸の上に板を渡し、その上を自動車が通っているほどだった。空襲のあとが生々しかった。小さな川の傍の門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た。 白井氏と一緒だった。いくつかの死体に石油をまき、火をつけた。中に生きている兵隊がいて”早く射て”と胸を指さし”蒋介石万歳”といったので、大変驚いたのを憶えている。

(「南京大虐殺のまぼろし」P228)


 


2003.3.29 追記

 以上、東中野氏は、当時の中国人がそもそも「火葬」というものを知らなかったかのような文章を書き、それを「火葬を生きながら焼き殺したと誤認した」ことの根拠としています。

 確かに当時の中国では「土葬」が中心でしたが、「火葬」が皆無かというと、そうも言い切れないようです。少なくとも1938年(民国27年)時点では、「火葬」が行われたケースもあったと思われます。以下、資料を紹介します。

「南京市政概況 民国27年」 P149

  
火葬場  当防疫緊張之中凡有疫死者 均応火葬 以免伝染 査香○(木へんに緑)樹地方 火葬場業巳毀壊無存 特絵具団様 勘定中華門外空場 筋工承造 巳於九月中成功 焚去病屍六具。


(日本語訳)
 防疫が緊迫する中、あらゆる疫病による死亡者は全て火葬して伝染を防がなければならないが、査香○(木へんに緑)樹の火葬場は既に破壊されて無くなっていた。 特絵具団は中華門外の空き地の測量を行い、建物(火葬場)の鉄製の骨組みの建築を請け負い9月(新暦10月)には完成させ、6体の病死体を焼いた。

(翻訳は、熊猫さんにお願いしました)


日本南京商工会議所編『南京』(昭和十六年発行) P.237
 
第二目 結婚及葬儀
 

 支那の結婚及葬儀には相当莫大な費用をかけてゐるが、市政府にては冗費節約、新生活運動促進の見地から結婚については集団結婚を奨励し、次に三、六、九、十二月の四期に之を挙行した。

 (途中省略)

 又葬儀に関しては市政府で共同墓地及火葬場を経営して(都市計画参照)葬儀費節約並に墓地整理を計つた。事変後に於ける火葬場及埋葬に関しては衛生欄にて説明する。

(資料は、渡辺さんにご提供いただきました)


 
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