
| 東中野氏の徹底検証 7 |
| 被害者の「出産ラッシュ」? |
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東中野修道氏『南京虐殺の徹底検証』より しかし南京では、『南京安全地帯の記録』に見られるように、被害者の出産ラッシュという記録がない。言われるような二万人強姦事件がなかったことを、それがまた暗示しているのではないか。 (同書 P273) |
この論法は、小林よりのり氏の「戦争論」にも取り上げられたためか、掲示板等でもこの種の書き込みをたびたび見かけます。しかし冷静に考えれば、この論法は、明らかに無理なものです。
そもそも、「大規模な強姦事件」があると、必然的に「被害者の出産ラッシュ」という現象が生じ、続いて必然的にその「記録」が残る、というものではないと考えられます。
「記録」として残るためには、いくつかの「関門」が必要です。
1.「大規模な強姦事件」が生じた結果として、女性が「妊娠」すること。「強姦」が、必ずしも「妊娠」という結果を生むとは限りません。
2.そのように「妊娠」した被害者が「堕胎」もせず、そのまま子供を生むことを決心すること。常識で考えれば、「強姦」の結果出来た子供を「出産」しようとする女性は、「堕胎」ができない、何らかの特殊事情を持っていると考えられます。
3.子供を「出産」し、かつその子供が「日本軍に強姦された」結果であるという情報が、対外的に明らかになること。常識的には、被害者はそのことを隠そうとするでしょう。子供の将来を考えても、少なくとも自分からそのことを吹聴するとは考えにくいことです。
4.さらに、そのような「子供」が誕生した、ということを取材・報道するマスメディア関係者が存在すること。当時日本軍の占領下にあった「南京」で、かつ世間の関心が今なお継続する「戦争」そのものにあった時点で、そのようなことに関心を持つジャーナリストが存在するとも思えませんし、また、実際問題として、「調査」は不可能に近いでしょう。
「大量の強姦」が「出産ラッシュ」につながり、そのことが具体的にマスメディアに「報道」されるためには、これだけの「関門」を突破することが必要であると考えられます。「出産ラッシュの報道」がないことをもって「大量の強姦」を否定しようとするのは、現実を無視した、強引極まりない論法である、と言えるでしょう。
余談になりますが、上の文について言えば、東中野氏は、何と「南京安全地帯の記録」に「被害者の出産ラッシュがない」ことを、「否定」の一つの根拠としているようです。
「南京安全地帯の記録」の最後の文書は一九三八年二月十九日付。日本軍の南京占領は一九三七年一二月一三日。その間、三ヵ月しかありませんから、そもそも「南京安全地帯の記録」に「出産ラッシュという記録」など出てくるはずもありません。東中野氏は、「出産に必要な妊娠期間」すら、意識しなかったのでしょうか。
実際には、3か月目には、もう「堕胎」という問題が生じていました。
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「南京における救済状況」(ベイツ) 1938.2.14 強姦された女性に感染した性病の問題は、いまや深刻になっている。われわれは直ちに医療サービスを広げて、それらの世話や自由な治療ができるようにしてやることが求められている。強姦された未婚の娘を連れて、堕胎してもらいにやってくる母親の問題はさらに痛恨事である。大学病院は現在まで、そのようなサービスは拒否せざるをえないできた。しかしその結果、家族は若い女性の健康を取り返しのつかないものにしてしまう手段にうったえることになる。 (「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 P181)
ベイツより妻リリアへの手紙 1938.2.13 |
しかし現実には、当時の南京の医療状況を考えると、「堕胎」は必ずしも一般的な方法ではなかったのかもしれません。悲しい現実ですが、このようにして「望まない子供」が生まれてしまった場合、出産直後に「間引き」が行わてしまった可能性も、決して否定できるものではありません。
現代の中国でも、農村部には「間引き」の習慣が残されているとのレポートも存在します。OECDのサイトから引用します。
中国の両親は1人しか子どもをもたない場合がますます増えており,しかも両親の大多数はそれが男の子であることを望んでいる。
実際,中国の家庭では,男の子を求める社会的な,実体は身内からの強力な圧力がある。選別的な堕胎や女の子の「間引き」が一般的である。
実際の話として、「堕胎」が多かったのか、それとも「間引き」が多かったのか、あるいはそのまま育てられた子供が多かったのかは、今となっては誰にもわかりません。もっとも、先に述べたように、このような事実が、報道記録、あるいは公式の記録に残されるかどうかは、また別の問題です。
日本軍の占領下、誰がそのような「調査」を行い、どのような形で「記録」に残すのか。当然、被害者はその事実を隠そうとするでしょうし、またこのような「日本軍の恥部」の調査・記録が許されるとも考えられません。
戦後にしても、中国という国の言論状況を考えれば、この種の情報が外部に漏れることは、まずありえないことだと思います。
参考までに、笠原氏の見方を紹介します。
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笠原十九司氏「南京難民区の百日」より そしてさらなる別の不幸は、長期にわたって何回も犯されたため、妊娠してしまった女性も多かったことである。女性にとって強姦を拒否して抵抗することは、殺されることを意味する状況下にあった。スマイスは調査結果もふまえ南京では数万人の女性が強姦の犠牲になったとみている。そして後日になっての観測であるが、強姦された女性のうち一〇人に一人の割合で妊娠したとみる。 母親が強姦された未婚の娘をつれて、堕胎をしてもらうために鼓楼病院にやってきたが、それを拒否せざるをえなかった病院の側も痛恨の思いであった。しかし、その結果、家族は無理な堕胎をこころみて娘の健康を取り返しのつかないものにしてしまう悲劇もおこった。また、妊娠を知った未婚の女性にはショックのあまり、自殺してしまうものもでた。 さらに後日のスマイスの観察によれば、この時の妊娠で生まれた子どもは例外なく溺死や窒息死、あるいは捨て子にされ、ハーフが育てられることはなかった。日本軍の婦女凌辱は、あとあとまでも残酷な悲劇を残したのである。 (「南京難民区の百日」P315) *「ゆう」注 中の段落は前述のベイツの記述を元にしたものと思われます。「スマイスの観察」については元となった資料を確認できませんでしたが、十分にありうる話であると考えられます。 |
さて、東中野氏が「例証」として取り上げる、「ニューズウィーク」の「レイプで生まれた子供たち」の記事を見ていくことにしましょう。
まずこの記事には、そもそも「出産ラッシュ」という表現がありません。「ボスニア」について言えば、出産に至った確実な事例として紹介されているのは、次の事件1件です。
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「レイプで生まれた子どもたち」より(1) アレンの実母はイスラム教徒で、ボスニア頭部ミリェビナ村の出身。九二年四月、セルビア人勢力がこの村を制圧した後、隣人のセビリア人男性にレイプされ、しゃべったら殺すと脅された。レイプと殴打はその後もずっと続いたという。 同年一〇月、彼女はゴラジュデに逃げたが、もう中絶するには遅過ぎた。途方に暮れ、川に飛び込んで死ぬことも考えたという。そんな彼女が生きていけるのは、いつかレイプ犯に復讐できる日が来ると信じているからだ。 (「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P36) |
なぜ「中絶」を行わなかったのか必ずしも明確ではありませんが、加害者が「隣人」であり、日常的に接触していた、という特殊事情があったようです。
以下、このような記述が続きます。
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「レイプで生まれた子どもたち」より(2) EU(欧州連合)によると、ボスニア紛争中にレイプにあった女性は推定二万人。ボスニア内務省の発表では五万人に近い。 こうしたレイプによって生まれた子の数は誰にもわからない。みんな、この話題には口を閉ざしているからだ。 (中略) だが、沈黙は必ずしも子供たちのためにならない。親に見捨てられた子供の多くは、官僚主義に阻まれて行き場を失っている。 たとえば、イスラム系の援助団体ヒューマン・リリーフ・インターナショナルが面倒を見ていた九人の孤児には、外国から養子の申し出が相次いだ。だが、ボスニア政府は孤児たちを国の管理化におくと主張、今年五月に子供たちを工業都市ゼニファに移してしまった。 同孤児院の院長アイサ・クリツオ(57)は、子供たちの出生の秘密を明かすのを拒否している。子供たちにも名前と誕生日、国籍しか教えないという。 (「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P36) |
ある程度オープンな取材が許され、自由に発表できるケースですら、「生まれた子の数は誰にもわからない」のです。実際この記事を見ると、確実に「レイプで生まれた子供」と認定できるのはごく少数で、決して「出産ラッシュ」と言える数ではない、との印象を受けます。
東中野氏は、もう一つ、ルワンダの事例を取り上げますが、こちらには「中絶は非合法」という特殊事情もあったようです。
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「レイプで生まれた子どもたち」より(3) 人権擁護団体とルワンダ政府によれば、レイプされたツチ族の女性が産んだ子供は、二〇〇〇〜五〇〇〇人にのぼる。ほとんどは、生まれてすぐに孤児院の前に捨てられた。夫や家族を殺した男にはらまされた子を、みずから育てようという女性は少ない。 内戦で荒れたキガリ中央病院でもたくさんの赤ん坊が生まれた。九四年八月からの四ヵ月だけで、レイプされて妊娠したツチ族女性は三〇〇〜四〇〇人。その六割が性器を切除されていた。 みんな中絶を望んだが、ルワンダでは中絶は非合法だ。「子供に罪はないのだから」と、産婦人科局長のグラッドストーン・ハビマナは諭したという。「それでも彼女たちは『家族を殺した男の子を育てる気にはなれない』と言い張る。そして出産した翌朝にはたいてい姿を消してしまう」。九五年一月から四月までに、この病院だけで八〇人近い赤ん坊が置き去りにされた。 (「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P37) |
さらにこの記事には、こんな記述も見られます。
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「レイプで生まれた子どもたち」より(4) アレンの実母をレイプしたとされる男は、今もミリェビナに住んでいる。だが、彼はレイプの事実を否定。「なぜ彼女をレイプしなくちゃいけないんだ。そんなに魅力的な女じゃない」と、彼は笑う。「なぜそんなことを言うのか、おれの目を見て説明してほしい」 それこそ彼女の望むところ。旧ユーゴ戦争犯罪法廷(オランダ・ハーグ)で彼と対決したいと、彼女は言う。 (中略) だが、この男が罰せられる日は来そうにない。戦犯法廷はもっと大物の犯罪者を告発するのに忙しく、それさえも立件に手間取っているのが現状だ。戦犯第一号として起訴されていたドゥシャン・タディッチの場合も、レイプ容疑は取り下げられた。被害者が証言台に立つのを拒んだからだ。 (以下略) (「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P36) |
「被害」を「確実な証拠」として残すことがどれだけ難しいか。考えさせられる事例です。
(2003.5.6記。 2003.5.31、笠原氏「南京難民区の百日」の記述を追加。2004.11.20、一部修正)
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