
| 東中野氏の徹底検証 20 |
| 李宗仁は「焦土作戦」を提案したか? |
以下の文章で、 東中野氏は、李宗仁が「焦土作戦」の提案を行った、と主張しています。
| 『南京「虐殺」の徹底検証』より 十一月十一日、上海陥落から二日後、南京では蒋介石を中心に南京防衛の善後策が諮られた。その重大会議に出席したのは、李宗仁、白崇禧、何応欽、徐永昌、唐生智らであった。 出席者の発言内容は、支那軍第五戦区司令長官であった李宗仁の回想録に詳しい。「南京戦史資料集?」に収録された「李宗仁回想録」によれば、まず最初に意見を求められたのは、撤退論者の李宗仁であった。彼は次のように答えた。
李宗仁の反対論の根拠は南京の地理的状況にあった。さらに続けて李宗仁は主張する。 <歴史上、攻撃されて破れぬ要塞はない。いわんやわが軍は新たな敗北を喫して士気すこぶる打撃を受け、また新手の増援もないのに、敵の方は奪取目標を眼の前にして士気旺盛であるから、南京は必ず攻略されよう。>これは、日支両軍の士気の比較からする反対意見であった。必ず南京は陥落すると言う李宗仁は、そこで二つの提案を行った。 <逆に我々自ら「南京無防備都市宣言」を布告して、敵に城内での民衆に対する放火殺人の口実を与えぬようにした方がよい。わが方は大軍を以て長江の両岸に撤退し、一面で敵の津浦線に向う北進を阻止し、同時に敵兵の西進を拒止するようにし、敵をして徒に南京を得ても戦争の大局には、何ら大きな意義を得られぬようにすべきである。> 南京を「無防備都市」と宣言するという最初の提案は、重要な提案であった。李宗仁の言う無防備都市とは、国際法の定める「無防守都市」または「開放都市」のことであったろう。 国際法学会編「国際法辞典」は、「占領に対して抵抗しない地域は、たとえ、そこに守備隊がいても、防守地域ではなく、無防守地域となる。そして、無防守地域に対する砲撃は、そこにある軍事目標に対してだけ認めれらている」と説明する。 つまり、南京が「開放都市」と宣言され、南京が軍事輸送の中継地として悪用されない限り、南京は国際法の保護を受ける権利を有したであろう。しかも、南京の支那軍は日本軍に抵抗しないという前提であったから、日本軍は南京を無血開城ののち占領していたことであろう。 しかし、李宗仁のもう一つの提案には注意する必要があった。それは、日本軍が南京を得ても、南京に何ら戦略的な価値がないようにせよという提案であった。これは、我々は「中国人の一人をも、灰燼に帰せしめて、敵の手に渡さぬ決意である」という汪兆銘の焦土作戦の焼き直しであった。 この二つの提案は同時に提案された。従って李宗仁の提案は、南京を焼き払って軍事的利用価値をゼロにし、その上で南京の開放都市宣言を行うという提案であったことになる。 (同書 P40〜42) |
読み流すと、読む方には東中野氏の「李宗仁が焦土作戦の提案を行った」という「結論」しか、頭に残らないでしょう。しかし、李宗仁の「発言内容」を良く見ると、実際には李宗仁はそんな提案は行っていないことに気がつきます。
念のために、解説します。
李宗仁の提案は、こうでした。
<わが方は大軍を以て長江の両岸に撤退し、一面で敵の津浦線に向う北進を阻止し、同時に敵兵の西進を拒止するようにし、敵をして徒に南京を得ても戦争の大局には、何ら大きな意義を得られぬようにすべきである。>
この長文を何度読み返しても、これだけです。この文は、普通に読めば、大きな戦略によって「南京占領」の軍事的意味を小さくしよう、というだけの意味になります。南京を焼き払え、などとは一言も言っていません。
これが、東中野氏の長文の中で、次のように変換されていきます。
→<それは、日本軍が南京を得ても、南京に何ら戦略的な価値がないようにせよという提案であった。>(これはその通りです)
→<これは、我々は「中国人の一人をも、灰燼に帰せしめて、敵の手に渡さぬ決意である」という汪兆銘の焦土作戦の焼き直しであった。>(上の通り、「戦略的価値がないようにせよ」という発言は別に「焦土作戦」を意味するものではありません。東中野氏は、ここで強引な意味のすりかえを行っています)
→<従って李宗仁の提案は、南京を焼き払って軍事的利用価値をゼロにし、その上で南京の開放都市宣言を行うという提案であったことになる。>
李宗仁は、いつのまにか、「南京を焼き払」う提案の発唱者にされてしまいました。
| 前へ | HOME | 次へ |