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山西省曲沃における毒ガス戦 −昭和13年7月− |
昭和13年7月頃の山西省の戦闘をめぐる日本側の報道に、「中国軍の毒ガス」に関する記事が目につきます。以下、その例として、信夫淳平氏が著作に引用する「同盟記事」と
、当時の「大阪毎日新聞」の記事を見てみましょう。
<同盟記事1〜4>
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信夫淳平氏『戦時国際法講義』より <同盟記事1>
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<大阪毎日記事1>
| 『大阪毎日新聞』 昭和十三年六月二十九日(夕刊)
敗敵、毒ガス作戦 山西省で防毒面多数押収 石家荘【二十八日】後藤(基)本社特派員発
徐州、帰徳、開封を逐はれ朧海線上を西へ西へと遁走した敵は今や西安を拠点として山西省内に大軍を潜入せしめ、小癪にもわが占領地区の攪乱、同蒲線の奪還を企図しつつあるが如く、○○部隊発表によれば最近山西西方地区でベルギー製二百五十、支那製一万その他約二万の防毒面をわが方にて押収せるが、支那軍がかかる大量の防毒面を備へてゐることは卑劣にも毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、さきにわが進撃を阻むため黄河を決潰せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪つた敵はここにまた毒ガス使用の戦術を用ふるに至つたことを示し、断末魔の支那群は明瞭に人道と国際道義を踏みにじつてゐる。 |
<大阪毎日記事2>
| 『大阪毎日新聞』 昭和十三年七月七日
ソ連製毒ガス弾 敵、山西で使用 わが将士極度に憤激 【曲沃六日発同盟】 六日山西省曲沃南方地区の戦闘で敵は突如毒ガス弾を発射し一時同方面の山嶽地帯は濛々たる毒瓦斯煙にとざされたが、わが部隊の神速果敢なる防御処置により兵若干が意識を失つたのみで幸ひ大なる被害はなかつた |
<大阪毎日記事3>
| 『大阪毎日新聞』 昭和十三年七月八日
敵、またも毒ガス弾 風向逆転、天罰立ち所 北京本社特電【七日発】 山西省曲沃南方南吉村、東かん村附近において六日払暁から敵はまたまた盛んに毒ガス弾をわれに向つて発射し来つたが、しかも天はよく彼の卑劣を知り風向が忽ち変り風下にあつた皇軍は天佑にも風上となつて敵は天に唾したるが如き結果を招き自ら放ちたる毒ガスで苦しむといふ天罰をうけた、 |
このうち<同盟記事1>は、「毒瓦斯弾十数発を発見した」というだけの、単なる「保有」の情報です。
<大阪毎日記事1>と<同盟記事2>は、内容の類似から、同じソースからのものであると推定されます。内容は、単に「中国軍が防毒面を持っている」というだけのもの。いずれの記事も、これを「中国軍の毒ガス使用準備の証拠」とこじつけているようですが、日本軍側の使用に備えたもの、と見るのが普通の感覚でしょう。
なお<同盟記事2>には「山西にある我軍の後方撹乱を企図せる敵は・・・悪性の毒瓦斯を使用しつつあり」との文が見えますが、<大阪毎日記事>には実際に使用したとの文がなく、ここは、ニュースソースからの直接の情報を離れた、同盟記者の個人としての付け加えかもしれません。
実際の「使用」の情報が、<同盟記事3><同盟記事4>と<大阪毎日記事2><大阪毎日記事3>で
す。このうち<同盟時期3>を除く3つは、いずれも「曲沃南方における7月6日の毒ガス弾使用」の記事です。
このうち<大阪毎日記事2>は、「同盟」の配信記事であり、<同盟記事4>とほぼ同一のものです。
「北京本社特電」<大阪毎日記事3>もこの二つと同じく内容であり、おそらくこれと同一のソースからのものでしょう。
以上をまとめると、日本側の報道からは、このようなストーリーが読み取れます。
6月20日頃、中国軍の毒ガス弾が発見された。さらに6月末には、中国軍が大量の防毒面を持っていることがわかった。そして7月に入り、中国軍は「毒ガス」の使用を開始した。
しかし、実際の日本軍の動きと重ね合わせると、この「ストーリー」は随分と違って見えてきます。
実は同じこの戦闘で、日本軍は大量の「あか」弾を使用していました。「支那事変における化学戦例証集」から、事例11です。
| 陸軍習志野学校「支那事変に於ける化学戦例証集」より 一一 あか筒の大規模放射に於て成功したるも局部に毒煙の逆流及滞留を生じたる例
○○Dは曲沃附近噲河河畔の敵陣地に対し六月下旬以来攻撃準備中にして七月六日払暁攻撃を開始する予定なり
戦闘経過の概要 一、気象 場所 風向 風速 二、放射距離 三〇〇−四〇〇米 三、使用資材 中あか筒一八、〇〇〇を準備したるも気象の関係にて約七、〇〇〇を使用せり 四、効果及成果利用
教訓 一、大規模放射に方りては特に綿密に気象を調査し放射の好機を把握すること緊要なり 二、敵陣内に於ては気象の変化により毒煙滞留することあるを以て後方陣地に対しては砲、迫等を以て之を制圧し縦深突破を可能ならしむるの著意必要なり (『毒ガス戦資料』P444)
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新聞報道では中国軍の毒ガスにより「一時同方面の山嶽地帯は濛々たる毒瓦斯煙にとざされた」ことになっていましたが、実際には、日本軍の毒ガスが「敵の第一線陣地を完全に包蔽」するような煙を発生させていたようです。
また報道では、「風向」が変わって中国軍が「自ら放ちたる毒ガスで苦し」んだとされていますが、「例証集」ではそれとは丁度反対に、日本軍側に、「毒煙逆流し成果の利用十分ならざりし部隊」があった 、ということになっています。
『機密作戦日誌』でも、この戦闘での「毒ガス使用」の記録を見ることができます。
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第一軍参謀部 『機密作戦日誌』 巻十九 七月六日
敵は六日払暁より曲沃南方東韓村及南吉村にある我部隊に対し熾烈なる瓦斯弾の射撃を行ひたるも適宜適切なる防護処置に依り我は大なる被害なし 蘇連製(塩化ピクリン)なるものの如し
二○師参電第一一七四号 第二十師団は七月六日払暁よりの攻撃に当り其の部隊正面に於て儀門村及北楽村各南方高地の線に四・五千米に亘り六・七千筒の特種発煙筒を使用せり 尚時風は北々東、一米七十 煙は克く低迷す 最初敵は発煙開始の信号弾を見て盛んに射撃を開始するも煙の到達と共に射撃を全く中止す 歩兵部隊は直に南下環及南樊鎮の線を奪取し更に其の南方地区に向ひ前進しつつあり 但し煙の一部(一割以下ならん)は風向及風速の動揺に依り我か方にも流来し一部防毒面を装着するを要せり 詳細は後報す 方面軍にも伝へられ度
七月七日 二○師参電第一一七五号 一、第二十師団主力方面の情況有利に進展中にて、左翼隊左第一線は西喬村(曲沃東南山地中)に向ひ追撃中、七日七時三十分東陽村南方二千米の高地上に同右第一線は同時頃西明徳景明村の線にあり 二、曲沃南方地区に於ては七日未明東韓村より南吉村に亘り約三粁の正面に亘り約三千箇の特種発煙筒を使用し煙は澮河に沿ふ地区の西方に流動し次て風向の変化に依り曲沃西方高地脚を東流せる 若干の煙は澮河北岸にも流来せり (『毒ガス戦関係資料Ⅱ』P297〜P298) |
ここにも「六日払暁」の中国軍の毒ガス使用が顔を出しますが、その直後に日本軍は「六・七千筒の特種発煙筒(あか)」を使用、さらに翌七日には「三千筒」を使用しています。
閑院宮参謀総長が北支那方面軍に対して「山西省」における「あか剤」使用許可を出したのは4月11日。現地軍では、「万一発覚の際の責任」等から実際に使用を行うことへの反対もあったようですが、最終的には6月15日に、第一軍より第二十師団に対して「あか筒」使用許可命令が出されます(吉見義明氏『毒ガス戦と日本軍』P55〜P66参照)。
その直後の6月20日 頃から、「中国軍の毒ガス使用準備」を非難する報道が始まっているわけです。
日本側の状況と重ね合わせると、「ストーリー」はこのように膨らみます。
1.日本軍が「あか」の使用を決定し、実戦投入のタイミングを測っている時期(6月下旬)に、日本側のメディアに「中国軍の毒ガス弾保有」「防毒面の大量押収」の記事が掲載された。
2.報道によれば、中国軍は7月2日〜3日および7月6日に「毒ガス」を使用した、という。日本軍はその直後、7月6日から7日にかけて、総計10000発近くの「あか」の「大規模放射」を行い、大きな 戦果を挙げた。
現地軍が、自軍の使用を正当化すべく「中国軍の毒ガス」情報を積極的にリークしている様子が、上の経緯から伺えます。
現地軍の発表がどこまで事実であるのかは、今日では確認することは困難でしょう。しかしこのような事情を考えれば、報道内容に多分に「誇張」が含まれている であろうことは、容易に推察できます。
これらの記事を、ストレートに「中国軍の毒ガス使用」の証拠とみなしていいのかどうかには、議論の余地があるかもしれません。
*『機密作戦日誌』から、参謀部が現地軍から「中国軍使用」の報告を受けていた、という事実までは確認することができます。しかしこれが「使用」を焦る現地軍からの報告であ ることを考えれば、どこまで事実であるのかは、慎重に判断する必要があるでしょう。
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支那事変関係国際法律問題(第三巻)(条約局第二課、1938年3月) |
この事例はまさに、ここで言う「多少の権謀を用い」た例であったのかもしれません。
(2005.11.10)
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