毒ガス戦(供 中国軍の「毒ガス」使用


 日本軍が、「あか」(嘔吐性ガス)の大量使用のみならず、殺傷能力の強い「きい」(びらん性ガス)までについても一定の使用を行っていたことは、確実と言っていいでしょう。

 これに対して、「中国軍だって「毒ガス」を使用したではないか」として、日本軍の毒ガス使用を正当化しようとする議論があります。 ネットの議論で極端なものには、「中国のみが毒ガスを使用した。日本軍が使用したのは違法性のない「あか」のみで問題はない」とまで主張するものも見かけます。

 実際には「中国軍の毒ガス使用の実態」はどのようなものだったのか。以下、見ていきましょう。




 まず、この問題でよく引用される、中村粲氏の文章を見ます。

 
中村粲氏『過去の歴史を反省すべきは中国の方だ 中国の「覚書」に反論する』より

 毒ガスや細菌を軍事に使用したのは中国の方がずつと早かつたことを忘れないでいただきたい。

 中国は早くも一九二六年三月、ソ連から一万発もの毒ガス弾を購入してをり、降つて一九三七年九月、第二次上海事変ではコレラ菌やホスゲンなどの細菌・猛毒物を日本軍に対して各地で使用してをり、その結果、多数の同胞中国民衆をも死に至らしめてゐるのだ。

 また我軍はソ連製の毒ガス弾も大量に押収してゐる。

 これについては筆者が編集発行する『昭和史研究会会報』第39号、第40号に「細菌・毒ガス戦/中国が最初の違反者だった」として信夫淳平博士の論述を紹介してゐる。

(『正論』2001年7月号 P66)

 氏はここでは使用が「早かつた」事実に言及するのみで、その規模や実態には何も触れていません。そこで『昭和史研究会会報』を見ると、そちらには、信夫淳平氏『戦時国際法講義』の一節が、 そのまま転載されています。

*最初に「中国は早くも一九二六年三月、ソ連から一万発もの毒ガス弾を購入してをり」との文言が見えますが、この部分は後述の信夫氏の論説には見当たらず、根拠は不明です。


信夫淳平氏『戦時国際法講義』より

然るに支那軍自身には、却つて之を使用したる証拠があった。

即ち上海方面軍の昭和十二年十月十六日発表したる所に依れば、

『十月十四日太平橋付近に於て敵陣地を奇襲せる際、その砲兵陣地跡に於て特異の塗料を施しある数個の敵迫撃砲弾を発見せるに依り、厳密なる調査試験を為したる結果、 四塩化チタニュームとホスゲンを混合填実せる瓦斯たるの確認を得るに至れり

とあり。

(中略)

その後にありても昭和十三年六月、皇軍は講馬鎮付近及び曲沃付近に於て孰れも敵の毒瓦斯弾数十発を発見したとあり(同月二十日太原発『同盟』)、次では

『山西にある我軍の後方撹乱を企図せる敵は・・・悪性の毒瓦斯を使用しつつあり。敵はこの毒瓦斯使用に方り彼れ自ら損害を招くので、之を防止せんがため何れも優秀なる防毒面を準備し、その後にありても昭和十三年六月、 過般山西西部にて我軍に押収せられた防毒面は独逸製二四式二千、自耳義製二千五百、支那製一万、その他二万の多数に上ってゐる。』 ( 同年六月二十八日石家荘発「同盟」 )

『山西各地に於ける敵は先般来頻々と毒瓦斯を使用してゐたが、去二日には蒙城鎮(臨汾南方)の東方に於て我が猛撃に堪え兼ねた第八十三師に属する敵部隊が、又も退却に際し大々的に毒瓦斯を放射し、 翌三日には更に聞喜付近の我が部隊に対し多数の毒瓦斯弾を発射した。今回のものは従来に比しその毒性更に強烈であったが、我が防毒防備完全なるため殆ど損害を受けなかった。 我方は敵が遺棄した放射弾その他を押収したが、蘇聯製の疑ひ濃厚なるもの多数あり。』 ( 同年七月四日北京発「同盟」 )

『六日 [ 昭和十三年七月 ] 山西南部曲沃南方地区の戦闘で敵は突如毒瓦斯弾を発射し、一時同方面山嶽一帯は濛々たる毒瓦斯に鎖されたが、我部隊の神速果敢なる防御処置に依り兵九名が意識を失つたのみで、 幸ひ大なる被害はなかつた。毒瓦斯は検査の結果塩化ピクリンサンと判明、蘇聯製の疑ひ濃厚である。』 ( 同月六日曲沃発「同盟」 )

と報ぜられ、降つては昭和十五年一月の南寧方面の戦闘に於ても、支那軍は我が陣地に対し毒瓦斯弾を発射した由である ( 同月十六日南寧発『同盟』 ) 。

(『昭和史研究所会報』第40号 平成12年8月10日)




 ご覧の通り、信夫氏が頼るのは、すべて当時の新聞記事のみです。

 このソースは「軍発表」以外には考えられず、それは当時の状況からかなり「宣伝色」の強いものと見られることは、言うまでもないでしょう。 なお、ここに取り上げられている6つの記事のうち、最初の2つは「毒ガス弾を発見した」というだけで、実際に使用されたかどうかは不明です。
*なお、中国軍が毒ガスを使用したとされる「昭和13年7月6日曲沃戦」は、日本軍側が「あか」弾の大量使用を行った戦闘でもあります。 6月後半から7月初めが日本軍が「あか」弾使用のタイミングを伺っていた時期であることを考えると、上の一連の報道の背後には自軍の使用を正当化しようとする日本軍の「意図」が働いていたことは明らかであり、この真偽判断は慎重に行うべきでしょう。



 さらに三番目の記事では、「中国軍が防毒面を大量に準備していた」ことを「毒ガス使用」の傍証としているようですが、これが無茶であることは、解説の必要もないでしょう。 日本軍の資料でも、中国軍の「防毒面」は、日本軍のガス攻撃に対応するための防衛目的のものと捉えられています。


支那派遣軍化学戦教育隊 『敵瓦斯装備竝に防毒訓練の状況』より

 敵軍は化学戦特に瓦斯防護に対し多大の関心を有し最近に至りて対瓦斯訓練を重視すると共に装備の充実に努めありと雖も未だ装備訓練共に其程度劣悪にして我が軍の瓦斯攻撃を憂慮し戦々競々たる状況に在り。

*当文書は、昭和16年11月16日から20日まで、北支の太原にあった太原集合教育統監部において行った、北支那方面軍の将校と下士官を対象とした化学戦教育のテキストの一部とのことです。

(『毒ガス戦教育関係資料』 P43)





 ネットではもっぱらこのような「宣伝臭の強い新聞記事」を根拠としたページしか見かけませんが、「中国軍の毒ガス使用」について論じるのであれば、このような「新聞記事」よりも、軍の内部報告を根拠にする方がまだしも説得力があるでしょう。

 吉見義明氏・松野誠也氏が編んだ資料集、『毒ガス戦教育関連資料』には、次のようなレポートが掲載されています。

支那派遣軍化学戦教育隊 『敵軍毒瓦斯使用調査』より

一 瓦斯


年月日 場所 種類 方法 被害 概要
昭和一二
七、二八
太塘 塩素
「アルカリ」
製造密送中 ナシ 太塘の宋利化学公司は南京政府の密令に依り毒瓦斯製造の中間物たる塩素及「アルカリ」を多量に製造し之を洛陽に密送中にして之に依り毒瓦斯を製造し日本軍を悩まさんとする計画ある事実を探知す
昭和一二
八、二
揚行鎮 ホスゲン 迫撃弾 ナシ 田上部隊(直に装面)
昭和一二
八、二三
九、二二
瀕十房 クシャミ性瓦斯 迫撃弾 ナシ 同右
昭和一二
一〇、一四
太平橋 「フォスゲン」
「四塩化」
「チタニユム」
迫撃弾 ナシ 某戦車中隊に於て不発弾数箇を収得し来りしが外観は一般迫撃砲弾と大差なきも弾頭部に赤色塗料を施しあると弾尾翼の構造機能異り信管托螺を除けば盛に発煙し 「フォスゲン」の臭気甚しく製造所の標記は発見し得ざりしも弾尾牝螺底部にE①の刻印あり。
理化学実験の結果「フォスゲン」及四塩化「チタニユーム」を証明し動物(十姉妹、海めい)実験の結果「フォスゲン」特有の症状を呈せり。
昭和一三
四、一二
李庄 窒息性瓦斯 瓦斯弾 ナシ 李家庄附近に於て支那軍は毒瓦斯弾らしきものを射撃し来りしを以て日本軍は直ちに専問(ママ) 機関をして調査せしめたるに窒息性瓦斯弾なる事を証明せり。
昭和一三
四、一八
台児荘 窒息性瓦斯 瓦斯弾 ナシ 支那軍は台児荘東北方高地に於て毒瓦斯弾らしきものを発射せり。依つて日本軍に於て専問機関をして調査せしめたるに窒息性瓦斯弾なる事を証明せり。
昭和一三
四、一二
四、一六
霊石 催涙性瓦斯 瓦斯弾 ナシ 霊石附近の戦闘に於て支那軍は瓦斯弾を使用発射せり。同弾炸裂と同時に眼を刺激し流涙甚しかりしを以て我軍に於て調査の結果催涙性瓦斯(瓦斯弾)なることを判明す
昭和一三
五、一七
侯馬鎮 催涙性瓦斯 迫撃弾 ナシ 川岸部隊(直ちに装面)
昭和一三
八、三〇
六安 クシャミ性瓦斯 放射 ナシ 篠塚部隊(直ちに装面)
昭和一三
九、九
清化鎮(新郷西方) 「フォスゲン」
「ゲフォスゲン」
瓦斯弾 ナシ 払暁某部隊清化鎮(新郷西方)を襲撃したるに、敵は発煙性瓦斯弾を使用せり。依つて我が軍に於て調査したるに「ホスゲン」「ゲホスゲン」なることを判明す。
昭和一三
一〇、八
欄杆舗 クシャミ性瓦斯 迫撃弾 ナシ 篠永部隊(直ちに装面)
昭和一四
三、一八
虎山 クシャミ性瓦斯 山砲弾 ナシ 松浦部隊(直ちに装面)
昭和一四
九、二〇
大橋嶺 クシャミ性瓦斯 迫撃弾 ナシ 稲葉部隊


*本資料の出自は、『敵瓦斯装備竝に防毒訓練の状況』に同じく、太原集合教育統監部における化学戦教育のテキストとのことです。

**「田上部隊」(歩兵第三十四連隊)の中国上陸は昭和12年9月5日でしたので、「田上部隊」に関する二事例は、日時あるいは部隊名が不正確であるものと思われます。

(『毒ガス戦教育関係資料』 P13〜P16)


 昭和12年から14年9月にかけて、12の事例が報告されています。ただしこのうち2つは単なる「保有」の記録であり、使用事例としては10事例です。いずれも散発的な使用であり、また、日本軍の被害はすべて「ナシ」となっています。


 参考までに、日付は若干異なりますが、このうちの「田上部隊」(静岡歩兵第三十四連隊)における証言記録を挙げておきます。

 
『ああ、静岡三十四連隊』より

 また中国軍は、(昭和十二年九月)二十九日の深夜、毒ガスを使用した。海野定治上等兵らは「ガス」と連呼する佐藤己三男隊長らの声であわてて死体うかぶクリークに顔をつけた。 白煙は地表をおおい魔物のように低く流れた。

(同書 P193)



2013.2.3追記

 家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』によれば、「蒋介石日誌」の中に「毒瓦斯をもっていく」との記述があるとのことです。

家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』より

 八月六日には国際宣伝組織を結成するため、蒋介石はCC団の陳立夫を上海に派遣しているが、この日の予定項目の「五」には「毒瓦斯をもっていく」とある。(P119)


 

 また、ネットでしばしば見かけるものに、「南京戦光華門における中国軍の毒ガス使用事例」があります。たいていソースとしているのは、『支那事変戦跡の栞』と題する、陸軍恤兵部発行の小冊子です。

 
『支那事変戦跡の栞』(中)より

 敵毒ガスで逆襲

 十日夜半より早暁にかけて、光華の伊藤部隊正面に大逆襲し来つた敵は、城壁を奪回せんと、必死の勢ひ物凄く手榴弾、機関銃の外、催涙弾を雨注し来り、 我が将兵は直ちに防毒面をつけて応戦、一時は非常な苦戦に陥ったが、肉弾戦を以て之を撃退したのである。

(同書 P74)

 しかし根拠資料が陸軍発行の観光案内的パンフでは、心もとありません。戦闘参加者が記録を残していないか調べたところ、以下の証言を発見することができました。

脇坂次郎氏『南京城攻撃手記』より

 十日夜十二時頃敵は催涙性瓦斯を城門内に投じ、又戦車一輌を以て前後数回に亘り至つて近距離に肉迫し、門内を猛射し、 又午前一時頃よりは城門上より材木を投下し之に石油を注ぎ火を放ち終夜焔を以て我が兵を苦しめたるも守兵は克く之に耐へ光華門を確保す

(『偕行社記事』 昭和十四年一月 第七百七十二号 P138)

*脇坂次郎氏は、南京戦当時、歩兵第三十六連隊長、陸軍大佐。
 
山際喜一氏『戦場より帰りて』より

十二月十日

 午後十一時頃毒瓦斯攻撃を受く、直ちに装面之に備ふ。

(『偕行社記事』 昭和十四年一月 第七百七十二号 P155)

*山際喜一氏は、南京戦当時、歩兵第三十六連隊第一大隊第一小隊長、陸軍少尉。戦後、福井信金理事長。

 ネットではよく「催涙弾を雨注し来り」という部分のみが紹介されますが、上の資料を見る限りでは、催涙性ガス攻撃が「雨注」と表現するほど大規模なものであったとは思われません。

もとの文は「手榴弾、機関銃の外、催涙弾を雨注し来り」というものであり、ここから後半部分のみを取り出して引用することは、悪くとれば「トリミング」に近いものでしょう。



 なお、「光華門」の西隣の「中華門」攻略戦では、逆に日本軍側が「みどり」(催涙ガス)を使用した、との証言があります。

 
藤田実彦氏『戦車戦記』より

 事実宮川隊は単独でその方向にゐた敵を或は射撃を以て、或はミドリ筒を以て、追つぱらつたのであつた。後で聞いたのだが、ミドリ筒を発煙筒にまぜて投じたら、 敵は毒瓦斯と間違へてあわてて逃げたといふことである。

(同書 P237)
 



 ただし、以上すべてが事実だとしても、中国軍の毒ガス使用は散発的なものあり、また日本軍に被害を与えることもほとんどなかったことを考えると、 少なくとも、日本軍の大規模な使用を正当化できるような規模には達していなかったことは、間違いないでしょう。、

 「中国軍の毒ガス使用」についての日本軍の見方を、いくつか紹介します。


支那軍化学戦に関する観察


丁集一野化報第四号

昭和十二年十一月十六日 於揚子江呉淞沖

第一野戦化学実験部情報第七号

支那軍化学戦に関する観察

 
本情報は九月下旬より十月下旬に至る約一ヶ月間北支那に於て当部主として第一及第二支部の前線に於て獲たる資料を基礎として支那軍化学戦の攻防に関し観察せるものにして 中支方面に在りても殆と大差なきものと推定し取敢す報告す

 概ね京漢線に沿ひて保定−石家荘方面に在りて又第二支部は第十師団と行動を共にし津浦線滄州−徳州方面に在りて共に化学戦に関する情報及試料の蒐集に任せしものなり

 <第一 概要>其一 支那軍の瓦斯使用

 支那軍は従来瓦斯使用の企図及化学戦舞台を有し瓦斯使用に関し研究演練しあること情報第五号既報の如くなるも京漢線及津浦線の両方面共に未た敵の瓦斯を使用せし形跡なし 惟ふに今後支那軍が瓦斯を使用する場合に於ても小規模且分散的のものに過きさるへし(中略)

 <第二 細部>其一 支那軍の瓦斯使用

一、京漢線方面の支那軍は少くも石家荘、フ(さんずいに釜)陽河の会戦終了迄の瓦斯兵器は固より発煙筒の類に至る迄装備せられあらす

 遺棄弾薬の中にも此種のものを発見せす
津浦線方面に於ても右と同様なり

 但滄州附近の戦闘中歩兵第四十聯隊の正面に於て薄暮敵か退却に際し局地的に発煙を行ひし疑あり 又徳州城西北角の砲撃間には城壁に特別の持続煙あるを目撃し尚夕刻同城に突入せし和仁部隊は風上よりする敵の逆襲と共に異臭を嗅き瓦斯にあらさるやを疑はしめたるも、 我に傷害なく瓦斯の真否不明なりき

二、支那軍は仮令瓦斯を使用する場合に於ても概ね分散的且小規模のものと判断せらる第一支部の取得せし敵迫撃砲の射表は粗雑なるものにして多数迫撃砲の集中射撃を行ふに敵せす  火砲の総数亦僅少にして急襲的なる瓦斯弾集中射撃を実施すること至難なり其他方式による瓦斯使用即ち撒毒及放射等も概ね右に準するものと推定せらる

(『毒ガス戦関係資料Ⅱ』 P194〜P195)


化学戦に関する調査報告

方軍三野化報第一四号

昭和十三年二月二十五日

(「陸軍省 13.3.2 114 軍事課」等、回覧のスタンプあり)

化学戦に関する調査報告

第三野戦化学実験部

第二 支那軍の化学戦能力に関する考察

其一 総括

一、支那軍の化学戦能力は未た頗る低劣にして有効なる瓦斯攻撃の実施し得へき能力を有せさるのみならす防護能力も尚頗る不十分にして之に対する各種瓦斯の使用は偉大なる効果を発揮し得るものと認む

二、支那軍主脳部の化学戦に対する関心は頗る大にして其中央直系軍の如きは近々数年間に少くも形式的には著しき進歩を示せり 然れとも軍全般の真の化学戦能力向上には今後相当の年月を要するものと認む

其二 編成装備

(略)

2.瓦斯弾

 本事変に於て支那軍は野砲級及迫撃砲用瓦斯弾若干を使用せることは確実なるも部隊装備補給能力等は不明なり

(イ)昨年九月の保定会戦に於ては一部の瓦斯弾を有し保定西方約八〇粁の新楽附近に於て我軍の鹵獲せる装甲列車内には該列車に装備せる七・五糎加農砲瓦斯弾約三〇発を発見せり

(略)

尚弾表面には化学弾たるを示す露西亜文字の符号と特別の標識あり

(ロ)上海方面 於ては支那軍は主として迫撃砲により窒息(ホスゲン)「クシャミ」及催涙等の瓦斯弾を若干使用せりと云ふ(以下略)

 其五 支那軍の瓦斯使用に就て

 支那軍は未だ化学兵器を大規模に使用し得る能力を具有しあらず 其使用は当分小規模局地的に過きさるべし

(イ)化学兵器の如く取扱困難且つ教育訓練容易ならさる兵器の有効なる戦場使用は短日月の研究教育にてよくする所にあらず 況んや科学的素質低等なる支那軍隊に於ては容易の業にあらざるべし

(ロ)使用上簡単にして有効なるは瓦斯弾射撃なるも砲兵数頗る貧弱なる支那軍が瓦斯弾射撃を有効に実施することは殆ど不可能に属す、 又迫撃砲は相当数を有するか如きも之とても砲兵代用にして其編成及射撃技能等を以てしては局部的にあらざる限り瓦斯急襲を行ふは困難なりと見らるるを以て目下の処支那軍の瓦斯使用は小局部的と見て大なる過誤なかるべし

(以下略)

(『毒ガス戦関係資料Ⅱ』 P212〜P221)


  

武漢攻略戦間に於ける化学戦戦例集(其一)


第十一軍

第六、化学戦に関する支那軍の観察

 支那軍の化学戦は未だ研究の時期にして整備竝に実行の時期は尚将来にあり

 特に瓦斯使用に関しては更に年月を要すべきも 軍民共に其重要性を痛感し 其認識の徹底に腐心しある事実濃厚なるを以て 今後の指導宜しきを得ば 本次事変に於ての刺戟と相俟ちて 意外に早く画期的進歩をなすべきは予察せらるる所なり


一、判断

 防毒面は濾煙能力概ね五〇−八七%程度の各種型式を有し 我が八七式防毒面の能力より劣等にして携行比率も一定せば 直系軍に於ては相等多数兵員携行しあるが如きも 雑軍に至りては殆ど之を有せざるが如し

 而して昭和七年上海事変時の煙草空罐を利用せる防毒面に比較する時は長足の進歩を示しあり 且本事変中に於ても外国品購入等により相等数を整備し 又武漢攻略戦間に於ても防毒面の追送間に合はざるを以て簡易口覆、 眼鏡を各自に交付せるが如く多大の関心を有しあり

 特に本作戦間に於て敵は特種煙に依り多大の損傷を受けあるを以て防毒面の整備を急ぐこと明なり 

 然れども目下支那自体の製造能力は殆どなきを以て多くは外国製品に依るものと判断せらる

 従つて之か整備の能否は一に各国の支那支援の程度に依るへきも多数整備には相当の日子を要すへく且防護教育に至りては早急に完璧を期し難きを以て此等整備には今後若干年を要するものと思考せらる

 防毒面以外の防護具に至りては其整備殆ど見るべきものなし

二、瓦斯使用

 支那軍は事変開始以降極めて局部的に一時瓦斯を使用せることあり

 且押収化学戦資材より判断するに外国製品を購入し研究の緒に就きたる程度にして 発煙筒毒煙筒催涙弾(以下弾共)等は一部製造せるが如きも 目下は夫れ等工場は殆ど我軍の手に帰し使用に堪ふるものなき状態なるを以て  之を製造し戦場に使用する為には今後数年を要すべし

 但外国製品を購入し使用することありべきも外国に於て毒瓦斯を供給する程度は之れ亦一に支那を支援するの程度に依るべし

 而して一時瓦斯は局部的には尚早期に使用することあるべきも持久瓦斯は其取扱の訓練を要するを以て砲弾等に依る局部的のものの外は若干年を要すべし

(『毒ガス戦資料』P307〜P308) 

 いずれの資料も、「中国軍は「毒ガス」を使用した(あるいは、使用したかもしれない)。しかし、それは「極めて局部的」であり、今後仮に使用されたとしても「小規模」「分散的」なものにとどまるだろう、ということで、一致しています。

 新聞報道から受けるイメージとは異なり、日本軍にとって、当時の中国軍の「毒ガス」の脅威は、ほとんど無きに等しかったようです。





 さらに、こんな資料も残されています。

支那事変関係国際法律問題(第三巻)(条約局第二課、1938年3月)

四、北支戦に於ける催涙性瓦斯の使用

・・・世界世論の攻撃を惹起するの危険多分なるを以て催涙性瓦斯使用は支那側より悪宣伝せられたる後に実情と理論的説明を表明するも手遅れの感あり 因て右使用に先ち予め左の如き方法を考慮すること適当と認む

(1)北京等に対する戦闘に伴ふ損害を少からしむる為催涙性瓦斯を使用するやも知れざる旨前記理論的合法性の説明と共に予め主要列国に可然通報し置くこと。

(註)右は実際問題として瓦斯使用後支那側の悪宣伝を生じたるときは一般世論により実情を信用せられざる危険あり。

(2)右通報を不適当とする場合は多少の権謀を用い支那側に於て戦闘法規違反の「ダムダム」弾を使用し居れること又毒瓦斯も使用し居れる旨の宣伝を予め開始し 然る後に復仇として不取催涙瓦斯のみを使用する旨の説明を以て使用を開始すること。

(註、(1)の手段を適当と認む)

(『毒ガス戦関係資料』P255〜P256)

 当時の外務省の文書です。要するに、こんな感じでしょうか。

 こちらが使って中国から宣伝された後で、あれは合法だった、と言ってももう遅い。

(1)事前に主要列国に対して「催涙ガスは合法である」ことを説明するべきである。もしそれが無理ならば、

(2)「多少の権謀を用い」て、中国側も毒ガスを使っているという「宣伝」を予め行い、日本側はその報復として使用した、ということにすればよかろう。

 「主要列国」に対して「合法論」を説いた、という記録は存在しませんので、結局(1)の方法は採用されなかったようです。

 (2)の考えがどの程度浸透していたかは不明ですが、この資料にも見られるように、当時の軍発表の背景に、 「中国側の毒ガス使用を大袈裟に宣伝して、日本側の使用を正当化しよう」という発想があったと考えるのが自然でしょう。




 以下は余談になりますが、ネットには、結構いい加減な情報も流布しているようです。例えば、「中国軍の毒ガス使用」について、こんな記事を掲載しているページをみかけました。 (「ゆう」注 2013年1月1日現在ではリンク切れになっています)


昭和十二年十二月十三日朝日新聞

張發奎の戦死説 自軍毒ガスで大被害

 細菌広東軍を中心とする支那軍中毒ガスを使用せんとして却って自軍を痛め顔面手足等を廃爛させ戦闘に堪えなくなったもの一万2千の多きを算するに至ったと伝えられてゐる

 尚広東軍首脳者たる張發奎の南京における戦死説、−等々人名傷病状態略−何れも去る九日広東に輸送され相当重傷であるといはれこれに加ふるに余カンボウと呉鉄城の内訌が盛んに流布され広東方面では漸く動揺の色が濃厚となってきた。


 一見して、おかしな記述です。

 日本軍に全く損害を与えられなかった中国軍が、逆に自軍に「一万2千」人の戦闘不能者を出す、という大被害を出している。事実だとしたら、こんな間抜けな話もありません。

 しかし、私が実際にこの記事の現物を確認してみたら、こうでした。


『東京朝日新聞』昭和十二年十二月十三日

  張發奎の戦死説

 
     自軍毒ガスで大被害

香港十二日発同盟】 広東、広西軍将領は続々南京方面戦線より帰還しつつある一方両広軍将校にして戦傷を負ひ香港、広東に後送された者相当数に達する模様で 一説によると最近広東軍を中心とする支那軍中毒ガスを使用せんとして却て自軍を痛め顔面手足等を廃爛させ戦闘に堪へなくなつたもの一万二千の多きを算するに至つたと伝へられてゐる、

 尚広東軍首脳者たる張發奎の南京における戦死説、四川省主席劉湘の行方不明説や蒋光第も負傷して目下香港に於て治療中で更に広東軍軍長葉肇、 広西軍軍長■■も貫通銃創を受け何れも去る九日広東に輸送され相当重傷であるといはれこれに加ふるに余漢謀と呉鉄城の内訌が盛んに流布され広東方面では漸く動揺の色が濃厚となつて来た

(第2面、中下 三段見出し)

  「最近」を「細菌」と写し間違えたのはご愛嬌としても、紹介者は、この記事の信憑性を探る上でのキーワードともいえる、「一説によると」のフレーズを省略していました。このフレーズを加えると、 「本当かどうかわからないが、こんな話もある」程度の印象を与える記事になると思います。

 当時の新聞記事を見る時には、「軍のプロパガンダ」がその背景にあることは最低限認識しておかなければならないでしょう。記事すべてを何の留保もなしに「事実」とみなしてしまうことは、危険なことだと言わざるをえません。 ましてやこのページのように、信憑性を判断するキーワードを省略してしまうことは、読者を欺く行為である、と見られても仕方がないでしょう。
※※なお当時の新聞記事の「いいかげんさ」については、こちらで具体的事例を紹介しています。

 さらに、この引用も問題です。


昭和十三年六月二十九日大阪毎日新聞夕刊

敗敵毒ガス作戦 山西で防毒面多数押収

 ベルギ−製250支那製1万その他約2万の防毒面をわが方において押収せるが支那軍がかかる大量の防毒面をそなへていることは卑劣にも毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、 さきにわが進撃を阻むため黄河を決壊せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪った敵はここにまた毒ガス使用の戦術を持ちふるに至った−後略−


 「敵はここにまた毒ガス使用の戦術を持ちふるに至った」の結びの言葉で、読者は間違いなく、「中国軍は毒ガスを使用した」と錯覚します。しかし実際の記事は、こうでした。

『大阪毎日新聞』 昭和十三年六月二十九日(夕刊)

  敗敵、毒ガス作戦

 
     山西省で防毒面多数押収

石家荘【二十八日】後藤(基)本社特派員発

 徐州、帰徳、開封を逐はれ朧海線上を西へ西へと遁走した敵は今や西安を拠点として山西省内に大軍を潜入せしめ、小癪にもわが占領地区の攪乱、同蒲線の奪還を企図しつつあるが如く、 ○○部隊発表によれば最近山西西方地区でベルギー製二百五十、支那製一万その他約二万の防毒面をわが方にて押収せるが、支那軍がかかる大量の防毒面を備へてゐることは卑劣にも毒ガスによりわが精鋭無敵の皇軍に抗せんとする意図を明白にしてをり、 さきにわが進撃を阻むため黄河を決潰せしめ数十万の自国良民の生命財産を奪つた敵はここにまた毒ガス使用の戦術を用ふるに至つたことを示し、断末魔の支那群は明瞭に人道と国際道義を踏みにじつてゐる。

(第1面、中左 四段見出し)


 「後略」部分を復活させると、印象は一変します。何のことはない、中国軍は防毒面を用意していた、というだけの記事でした。 これを「毒ガス使用の準備」と見るのは、記者の単なる「想像」に過ぎません。

 その後の「7月6日曲沃戦」の記事を根拠とするのであればともかく(前述の通り、記事が事実であると断定できるかどうか微妙なところですが)、 この記事を根拠に持ってきて、さらに一部を省略して誤った印象を作り出すことは、これまたこのページの作者の「いい加減さ」を物語っています。
 

(2005.10.24記 2006.12.22「光華門攻略戦」部分を追記)



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