毒ガス戦(Ⅰ) 「きい」は使用されたか




 「きい」「あか」「みどり」の中では、「きい」(びらん性ガス。イペリット、ルイサイト)が最も違法性が強い、強力な毒ガスです。

 日本軍が実際に「きい」を使用したかどうかについては議論があり、今日でも、政府は「きい」使用を公式に認めることは避けているようです。
*防衛庁・秋山昌廣防衛局長は、1995年11月30日の参議院外務委員会にて、「旧軍がイペリットなどの致死性の化学剤を充てんした兵器を実際に使用したか否かにつきましては、 資料が断片的でございまして確認することが不可能でございました」との答弁を行っています(松野誠也氏『日本軍の毒ガス兵器』P311)。 ただし、その後に防衛庁が公開した「化学戦例証集」「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」については、政府は何のコメントも発表していないようです。
 「毒ガス戦」に関する資料が乏しいことが、その背景にあります。 そもそも「資料の乏しさ」は、旧軍が、戦犯追及を逃れるために「戦闘詳報」等の資料を敗戦直後に大量廃棄したことに起因しますが、その中で、辛うじて残った資料が、熱心な研究者によって発掘されています。

 しかし実際の話、以下の資料群を見ると、日本軍の「きい」使用の事実を否定することは難しいでしょう。以下、代表的な資料をいくつか見ていきます。




支那事変に於る化学戦例証集


 「きい」の使用が問題になる時、必ず持ち出される、代表的な資料です。もともとは粟屋憲太郎氏が米軍押収資料の中から発見したものですが、その後2001年、防衛庁も、別途手持ちしていたこの資料を公開したとのことです。 (吉見義明氏『歩兵第二二四聯隊「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」』=後述、による)

 製作者は、「毒ガス戦」教育の拠点であった、陸軍習志野学校。「化学戦」の戦例56事例を戦闘地の図面付きで解説していますが、その中に、「きい」の使用事例が9例含まれています(うち1例は「使用失敗事例」です)。

 製作者が旧軍関係の陸軍習志野学校であること、また、戦例の中で実際の戦闘と対比可能なものが多数含まれていること、から、資料としての信頼性は高いものと思われます。私の知る限りでは、この資料の信頼性を否定する議論は眼にしません。

 ここでは、そのうち「事例21」を紹介します。これは、次で述べる「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」に対応する資料である、と見られています。

*「化学戦例証集」のうち、「きい」使用に関係する9事例を、こちらに掲載しました。 またそのうち、「宣昌戦における「きい」使用」(事例四〇)については、関連資料とともに、こちらにまとめました。


二一 きい剤を以て共産軍の根拠地を毒化し殲滅的打撃を与へたる例

太行地区撒毒実施要図 於二月八、十五日 (図略)

一般の状況

第○○師団は太行地区に於ける共産軍の撃滅を企画し二月初旬より攻撃を開始せり
 
戦闘経過の概要

一、師団特種作業隊は一月下旬より潞安に於て教育竝に作戦準備を実施中なりしが主力を以て○○聯隊に配属せられ両聯隊の掃蕩戦と密接に連緊し撒毒を実施し敵根拠地を完封せり

二、気象
 
本期間一般に晴天にして二回降雪あり 北北東の風発達し特に局地風は顕著なり
 気温は最高零下五度最低零下三十度なり

三、使用毒量 きい一号甲約三〇〇瓩(キログラム)

四、使用場所
 兵舎、洞窟、工場
 監視所陣地等の要点

五、効果
 敵主力は我が撤退直後根拠地に復帰せるため密偵報其の他敵無電傍受等の諸情報を総合するに敵は数千の瓦斯者を出し内約半数は死亡せるものの如し
 
教訓

 陣地を有せず洞窟、村落等を根拠地とし政治工作を主とする共産軍に対しては此の種瓦斯用法は効果甚大なり

(『毒ガス戦関係資料』P454)

*「ゆう」注 「太行山脈」は、江西省の地名であるとのことです。要図では、「襄垣」「河南店」「黄煙洞」など、下記「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」に登場する地名があり、場所の一致を確認することができます。




 
歩兵第二二四聯隊「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」


 歩兵二二四聯隊のこの作戦が上の「化学戦例証集」事例二一に対応していると見られることから、吉見氏が防衛庁に対して公開を求めていた資料です。防衛庁の反応ははかばかしくありませんでしたが、 田島一成衆議院議員(民主党)の公開請求により、2004年5月、ようやく公開されることになりました。(吉見義明氏『毒ガス問題と資料公開』=『戦争責任研究』2004年夏季号による)

 資料には直接には「きい」の文字は見えませんが、日時・場所・状況の一致から、「きい」使用事例である、上記「化学戦例証集」の事例二一に対応するものと考えて間違いないでしょう。「戦闘詳報」にも、はっきりと「撒毒」の文字が見られることが注目されます。

*この資料に「きい」の字が見られないことから、これは「きい」使用のデータにはならない、との言を、ときどきネットで目にします。 しかしこれは、この資料は「例証集」事例二一の傍証であり、 「セット」として語られるべきであることがわかっていないだけの話でしょう。

歩兵第二二四聯隊「冬季山西粛清作戦戦闘詳報」より

三六師作命甲第九〇六号

第三六師団命令 二月六日十三時 襄垣戦闘司令所

一、三六師作命甲第九〇四号に示せる撒毒地区の件左記の如く定む

左記

二、撒毒地 柳蒲、王家峪、東田鎮、半蒲北方地区、黄煙洞、左会、五軍寺、河南店、セキガイ、東堡鎮附近とす

三、主要道路より離隔せる地点に於て重要施設を発見せる場合之に撒毒す

四、撒毒地はその都度報告すべし 


雪歩二二四作命第一八号

近藤部隊命令 二月十一日十六時 団松村

一、各隊の努力に依り掃蕩の成果は漸次挙りつつあり

二、部隊は引続き掃蕩を実施せんとす

(中略)

作戦第二次中期後期掃蕩計画

六、上記期間(吉見氏注 二月一三日〜一六日)に於て馬嵐頭、磚壁、東田鎮、王家峪附近に撒毒を実施す
 之が為特種作業隊を一三日迄松尾大隊に、一五日平塚大隊に、一六日岩淵大隊に配属す

作戦第二次中期以降及三次掃蕩計画

六、本期(二月一九日〜二一日)に於て磚壁、東田鎮、王家峪に撒毒す
 之が為特種作業隊を二十日迄松尾大隊に配属し同日夕東田鎮に到らしめ岩淵大隊に転属し二十一日十三時迄に王家峪に到らしめ同地に於て平塚大隊に転属す

(中略)

二月二十日

(中略)

三、本日左の如く撒毒す
 松尾大隊 ― 磚壁及其周辺 二十五kg
 岩淵大隊 ― 東田鎮       二十五kg


二月二十一日

(中略)

八、王家峪及び下合の兵舎並其周辺に撒毒す 毒量 十八kg 残余なし


第七節 将来参考となるべき事項

(中略)

六、其他
 敵地区住民は日本軍は虎なりと称し恐怖しありと、今次作戦の如く敵性物資を壊滅すると称するも一般住民の被害少なからざるものと思考す

 斯くては我軍の建設を害し皇道宣布の主旨に反し民心の離反永続し寧ろ悪影響を齎すに至るべし


(『季刊 戦争責任研究』 2004年秋季号 P79〜P81より抜粋)


 


大陸指第四五二号


 「参謀総長 載仁親王」が、「北支那方面軍」に対して「きい」の実験的使用を指示した文書です。実際にどの程度の実験的使用が行なわれたのかは資料が乏しく判然としませんが、次に挙げる「第三飛行集団」の例などはこの指示のわずか二ヶ月後のことであり、 その一例と言えるかもしれません。


大陸指第四五二号

指示

大陸命第二百四十一号に基き左の如く指示す

一 北支那方面軍司令官は現占拠地域内の作戦に方り黄剤等の特種資材を使用し其作戦上の価値を研究すへし

二、右研究は左の範囲に於て実施するものとす

イ 事実の秘匿に関しては万般の処置を講す 特に第三国人に対する被害を絶無ならしむると共に彼等に秘匿することに関し遺憾なからしむ

ロ 支那軍隊以外の一般支那人に対する被害は極力少なからしむ

ハ 実施は山西省内の僻地に於て秘匿の為に便利なる局地に限定し試験研究の目的を達する最小限とす

ニ 雨下は之を行はす

昭和十四年五月十三日

参謀総長 載仁親王


北支那方面軍司令官 杉山元殿

(『毒ガス戦関係資料供截丕横毅検





第三飛行集団司令部「北支に於ける航空弾薬消費調査表」


 若手の毒ガス研究者、松野誠也氏によって発見された資料です。

 余談ですが、松野氏は、高校生時代に早くも防衛庁防衛研究所図書館で新資料を発掘し、大学卒業直後(当時23歳)には『毒ガス戦関係資料集Ⅱ』の編集に携わるなどして学会での地位を確立した、研究者としては大変早熟な方です。

北支に於ける航空弾薬消費調査表

 昭和十四年十一月末日調

 第三飛行集団司令部


種類 一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 合計
九二式五〇瓩(キログラム)
きい弾甲
            66   12     78

   備考    一、単位は発とす

(『毒ガス戦関係資料Ⅱ』 P401)

*「ゆう」注 同表は、第三飛行集団(集団長・木下敏中将)が消費した種々弾薬の一覧表です。そのうち、「きい」の行のみを抜粋しました。日中戦争における、最も早期の「きい」使用事例であると見られています。



 なお、上の「弾薬消費調査表」は1939年(昭和14年)7月の使用事例を記録していますが、これは中国側の訴えとも一致します。1942年7月14日、駐英中国大使顧維鈞が、ロンドンで開かれた太平洋戦争協議会に提出した文書です。

『中国における日本軍の毒ガス使用』より

 日本軍は、一九三七年上海で毒ガスの使用を開始した。ここでは催涙ガスとくしゃみ性のガスだけが使用された。

 一九三八年、台児荘で中国軍が勝利を収めて以来、日本軍は一層多くの化学戦班を送り込んだ。武漢での戦闘でもガスは何回も使われた。そのため中国守備隊は撤退を余儀なくされた。

 一九三八年一〇月以来、日本軍は窒息性ないし致死性の毒ガスを使ってきた。

 一九三九年七月日本軍は飛行機でびらん性ガス爆弾を山西省南部の前線に投下し、中国守備隊の移動を妨害した。このようなことは他の地区でも行なわれた。

(以下略)

(竹前栄治氏『資料紹介 やはり毒ガス・細菌兵器は使われていた −中国側からの告発−』=『世界』1985年9月号 P87)

*「ゆう」注 念のためですが、これは中国側の宣伝文書の色彩が強いものです。例えば、現在までのところ、上海戦での信頼できる「くしゃみ性のガス」(あか)の使用事例は確認されていません。 ここでは、「中国側の宣伝」と「日本側の消費記録」が一致している、という事実にのみご注目ください。

 


 


 この他、「きい」あるいは「き弾」の名がはっきりと出てくる資料としては、歩兵二二四聯隊堀江集成大隊『白羊泉河及柳樹口付近の戦闘詳報』(昭和十六年十一月十九日〜二十一日。『毒ガス戦関係資料Ⅱ』P368)、 歩兵第二二四聯隊第二大隊『晋中第一期作戦戦闘詳報』(昭和十五年八月三十日〜九月十五日。『毒ガス戦関係資料Ⅱ』P364)、といったものが存在しますが、煩雑となるため、ここでは割愛します。
 

(2005.10.17)


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