
| 中国は知らなかったか? |
掲示板などでは、あたかも、中国国民党政府が一九三八年当時には「南京虐殺」の認識を持っていなかった、と言わんばかりの書き込みをよく目にします。ここでは、蒋介石、及び蒋介石夫人の宋美齢 などが、当時どのように「事件」を認識していたか、を確認しておきましょう。
2005.1.9 中国共産党の認識については、独立したコンテンツとしてこちらにアップしましたので、あわせてご覧ください。
*余談ですが、ネットでは、この種の議論は、必ずと言ってよいほど次のような経路を辿ります。
まず、誰かが、「蒋介石も毛沢東も何応欽も「南京大虐殺」を知らなかった。その証拠に、彼らは当時、どこにもそんなことは言及していない。従って「南京大虐殺」は存在しない」と発言します。それに対して、以下に挙げるような、「彼らが(正確かどうかはともかくとして)ともかくも「南京における大規模虐殺」の事実を認識していた」という反論が続きます。それに対する反応が、判を押したように同じです。すなわち、「蒋介石や毛沢東の文章なんか、「プロパガンダ」じゃないか」。
最初の発言者は、「蒋介石らが言及していなかった」ことを、「大虐殺がなかった」根拠としていたはずです。「言及していた」事実を示された時点で、既にこの論は崩壊しています。その認識がどこまで正確だったか、ということは、また違う問題になります。
少なくとも、蒋介石らが「何も知らなかった」わけではなかったのですから、これ は「大虐殺がなかった」ことの根拠にはなりません。
●蒋介石
| 『蒋介石秘録12 日中全面戦争』より 首都を南京から重慶へ移す
日本軍の機械化部隊と波状的な空襲の前に、十二日、南京城南方の最大の防衛拠点である雨花台を失い、翌十三日、日本軍は光華門、中山門などから城内に突入、市街戦ののち、ついに南京は陥落した。
このあたりの記述は、「南京軍事法廷判決」などをもとにしたものであるようですが、必ずしも正確なものとはいえません。
また、中国軍の死傷者が「六千人を超えた」というのは、明らかに過小です。ここでは、「1938年1月22日」の日記で、
蒋介石自身が、既に「南京で」の「あくなき惨殺と姦淫」を認識している事実にのみ、ご注目ください。 |
| 『日本国民に告ぐ』より (1938年7月7日 蒋介石) *全文はこちらに掲載しました。
二 暴を以て徳に報ゆる日本軍閥 (略) 而してそのうち最も重大な損失は道徳上の損失である。諸君は貴国の出征軍隊がすでに世界で最も野蛮にして最も破壊力を有する軍隊であることを知つてゐるであらうか。諸君は貴国が常に誇つてゐた「大和魂」と「武士道」はすでに地を払つて存せぬことを知つてゐるであらうか。 毒瓦斯、毒瓦斯弾は遠慮なく使用せられてゐる。阿片、モルヒネの類は公然と販売せられてをり、一切の国際公約と人類の正義は総て貴国の侵華軍隊によつて全く破壊せられてゐるのである。 また日本軍が占領したどの地区においても掠奪、暴行火附けを行つた余勢で、わが方の遠くに避難出来なかつた無辜の人民および負傷兵士に対しても大規模な屠殺が行はれた。また数千人を広場に縛してこれに機銃掃射を加へ、あるひは数十人を一室に集めて油を注ぎ火炙りに処し、甚しきに至つては殺人の多少を以て競争し、互ひに冗談の種としてゐる。また四方の土匪と結託し、ごろつきを集め、欺瞞宣伝を散布し、傀儡組織を製造するなどおよそわが社会秩序とわが固有文化を破壊するためにはあらゆる手段も選ばなかつたのである。 わが後方の無防備の城市もまた盲爆を受け、これによつて死傷した人民、損失した産業の数は数へあげる方法がない。どの空襲もまるで気違ひのやうに専ら民衆と文化、教育、慈善などの諸施設を目標とし盲爆の乱暴をほしいままにしたのである。 すなわち最近広州では中山大学の瓦は四散し数千の市民は首と胴がばらばらとなり世界各国の屡々たる非難を引起したにかかはらず、その兇暴さは少しも改まらなかつた。 諸君はわが中国空軍がかつて貴国の各大城市に向ひ巡礼のため飛んだことを知るべきである。諸君に贈呈したのは親摯なる同情にして無情の爆弾ではなかつた。いやしくも中国が貴国が最近広州に加へた爆弾の数量をもつて諸君に返還し東京大阪あるひは神戸の諸城市及び諸大学に投擲したらその結果はどうであらうか。 中正は正に諸君に告ぐ。このやうな公約に違背し人道を廃絶せんとする行為はわが中国にとつて不可能なるのみならず、実に忍び難きことを。
三 狂暴な日本兵 更に中正は実に云ふに忍びないが、また云はざるを得ないことがある。それはわが婦女同胞に対する暴行である。 十歳前後の幼女より五六十歳の老婦に至るまでその毒手に遭ひ、甚しきは全家族難を免れぬものさへあつた。あるひは数人によつて代り代りに汚辱され辱めを受けた後即座に殺害されたものもある。あるひは母、娘、姑、嫂ら数十人の婦女を裸身で一室に集合せしめ、まづ姦淫を加へた後惨殺し、胸を割り、腹を抉つてもなほ満足せざる非人道の暴行を施してゐる。 貴国は昔より礼教を尊重し、武徳を崇拝し、世界より賞賛を受けてゐた。しかるに今日貴国の軍人の行為上に表現せられたものは単に礼教が地を掃ひ、武徳蕩然と流れるのみかただちに人倫を絶滅し、天理に違逆せんと欲してゐる。かくの如き軍隊はただに日本の恥辱のみならず、また人類に汚点を止むるのみである。 (以下略)
*「ゆう」注 この文章は、開戦一周年に際して発表した3つの文章、『全国の軍隊と国民に告げる書』『世界の友邦に告げる書』『日本国民に告げる書』(題名の訳は井上久士氏「戦争当時中国でも問題にされていた」(『南京大虐殺否定論13のウソ』所収)によります)のうちの一つです。 このうち『世界の友邦に告げる書』の記述をもって、「蒋介石は「南京大虐殺」には一言も触れずに「広東の虐殺」のみを問題にした。従って蒋介石はこの時点で「南京大虐殺を知らなかった」という論を唱える方もいるようですが、同時に発表された上の文を読むと、これがいかにとんでもない論であるかがはっきりします。 ご覧の通り、蒋介石は、まずは前線および占領地における「無辜の人民および負傷兵士」に対する「大規模な屠殺」を問題にしています。直後に明らかに「百人斬り」と見られる事件に言及していることからも、これはある程度「南京」を意識したものと見るのが自然でしょう。 さらにその後、話題を「後方の無防備の城市」に転じて、「最近」の例として「広州」への爆撃に触れています。ここでは文脈から見て「広州」を持ち出すのが自然であり、逆に「南京」など出てこようがない部分であることがわかると思います。
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●宋美齢(蒋介石夫人)
宋美齢からアメリカの友人への手紙 総統司令部、中国 アメリカ合衆国、マサチューセッツ州、 敬 具 ・クラーク夫人の返書によれば、二人はマサチューセッツの東部にあるウェルズリー大学(Wellesley Collage)の同窓生。 (「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」P215-P216) |
さて、蒋介石について、田中正明氏はこんな記述を行っているようです。
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東京裁判とは何か、七烈士五十三回忌に当たって 興亜観音を守る会 会長 田中正明
最後に私は、蒋介石総統の前に進み出て、御礼の挨拶をした後「私は総統閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げました。 (「興亜観音を守る会 第15号会報」より) *「ゆう」注 入手困難なパンフレットで、私も現物は持ち合わせておりませんので、上記サイトから直接引用を行いました。 |
蒋介石が自ら書いた『蒋介石秘録』の文章と読み比べれば、田中氏のこの記述にかなりの「脚色」があるであろうことは、容易に見当がつきます。自分の日記に「
倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている
」と書いた人物が、非公式の席とはいえ、「南京には大虐殺などありはしない」と発言することは、極めて考えにくいことです。
*2007.5.26 田中氏のこの記述については、コンテンツ「田中正明氏と蒋介石」に詳述しました。
さらに、「大虐殺などありはしない」という「記録」を残したはずの「何応欽将軍」が、自著にはどのような記述を行っているかといえば・・・。
●何応欽将軍
| 『中日関係と世界の前途』より 一九三七年七月七日、日本軍は大挙北平郊外の盧溝橋を攻撃し、ついに「七七事変」が勃発して、中国軍は英雄的な抗戦をした。この中日戦争の勃発によつて、日本は中華民国と奇しくも悲惨な運命を共にした。
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実際には、「殺害された市民が十万人以上にも達した」という認識を示しています。
*この資料の存在については、KOILさんに示唆をいただきました。
**また、上の「何応欽が軍事報告でちゃんとそのことを記録しているはずです」は、実際には「当時作成した軍事報告に南京大虐殺の記載が存在していなかった」だけの話です。そもそも、蒋介石が、50年前の「軍事報告」を記憶していたというのも不自然であり、また、仮に覚えていたとしても、その内容から考えて、上のような表現になることはこれまた不自然であると思われます。これまた、田中氏の「脚色」の可能性が 大きい、と考えられるでしょう。
●顧維鈞
さらに、事件の少しあと、1938年2月1日付の、中国代表の「国際連盟理事会」における演説を見ておきましょう。この時期、国民政府が、既に「南京事件」についての十分な認識を持っていることが伺えます。
| 『国際連盟理事会(ジュネーブ)決議文』 1938年2月1日付
『国際連盟理事会第六会議議事録』 1938年2月1日付 内容 − 中国政府の声明 (『ドイツ外交官が見た南京事件』P136〜P139) *「ゆう」注 〔以下、略〕は原文通り。 **「ゆう」注 2007年3月、この顧維鈞演説が、国会議員の戸井田氏により、なぜか「新資料」として取り上げられました。よく知られた演説でありそのこと自体「見当違い」としか言いようがないのですが、さらにその紹介のされ方を見ると、何とこの演説が、「中国は当時犠牲者数は2万人だと主張していた」と主張する根拠として使われているようです。 演説は、事件のわずか1か月半あとの2月1日のものでした。事件の現場である南京は既に「日本軍占領地」になっていますから、中国側としては調査のしようもなく、確実な数字を挙げることなど不可能だったでしょう。上の演説を見ても「数字の正確さ」に力を入れている気配はなく、「特に根拠のない見当の数字」と見るのが妥当であると思われます。 何よりも、この演説の存在を認めてしまうと、「中国は南京の暴虐について何も言っていない。従って南京虐殺はウソだ」という、田中正明氏流のデタラメな論理が、あっさりと崩壊してしまうわけなのですが・・・。 |
(2004.5.16記 2004.8.16「日本国民に告ぐ」追加)
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