文化人と「南京事件」


 日本軍の南京占領に前後して、多くの文化人が、従軍の形で南京を訪れています。

 石川達三氏の「生きている兵隊」が発禁となったことからもわかるように、当時の状況では、日本軍の「暗」の側面を発表するのは不可能でした。 また戦後になっても、「南京事件」について語って「政治」に巻き込まれることを嫌ってか、これら文化人のうち多くは、ほとんど何もコメントを残してはいません。

 その中でも、何人かは、「南京事件」への認識を示す記述、あるいはそれを伺わせる記述を残しています。このコンテンツでは、そのような記述をまとめてみました。

*関連部分全体の引用はあまりに長文となるため、ここでは骨子のみにとどめ、別ファイルで前後の文の紹介を行いました。


目次

1.石川達三

2.大宅壮一

3.西條八十

4.火野葦平



●石川達三

 石川達三氏は、南京占領後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。

 氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。 この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。

 氏は、兵隊たちへの取材を通して、南京戦前後の日本軍の行動について十分な認識を持っていたようです。以下、戦後「読売新聞」に掲載された、石川氏へのインタビュー記事を紹介します。


「読売新聞」昭和21年5月9日

(見出し) 裁かれる残虐『南京事件』

(リード) 東京裁判の起訴状二項「殺人の罪」において国際検事団は南京事件をとりあげ日本軍の残虐行為を突いてゐる、 掠奪、暴行、■殺、■殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、 このころ南京攻略戦に従軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有様を見て”日本人はもつと反省しなければならぬ”ことを痛感しそのありのままを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きている兵隊』だ

 しかしこのため中央公論は発禁となり石川氏は安寧秩序紊乱で禁錮四ケ月執行猶予三年の刑をうけた  いま国際裁判公判をまへに”南京事件”の持つ意味は大きく軍国主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に当時の思ひ出を語つてもらふ



(中見出し)
河中へ死の行進 首を切つては突落とす

(本文)
 兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、 胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―
 "生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、 大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた

 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、 この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で 片ツぱしから殺害した

 戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、 支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか

 ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ 『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた

 何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ

(「読売新聞」昭和21年5月9日付 2面中上 リード4段、見出し3段)

*■部分は、2か所とも「殴殺」に見えるのですが、字が潰れていて自信が持てないため、とりあえず■で表示しました。


さらに中公文庫版「生きている兵隊」巻末に半藤一利氏が寄せている文章から、石川氏自身がこの作品をどのように認識していたのか、ということを見ておきましょう。

半藤一利「『生きている兵隊』の時代 解説に代えて」より

 「原稿は昭和十三年二月一日から書きはじめて、紀元節の未明に脱稿した。その十日間は文字通り夜の目も寝ずに、眼のさめている間は机に座りつづけて三百三十枚を書き終わった。・・・ 私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」(『生きている兵隊』初版自序より)

(中略)

 石川は、(「ゆう」注 「新聞紙法違反」の)公判で堂々と自己の意見を開陳するのである。

 「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、 戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。 殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」

(中公文庫版「生きている兵隊」P205〜P208)


2004.8.29 追記また、この記事に出てくる「片山某といふ従軍僧」の話が事実であることを示唆する資料として、次のものがあります。

島田克己「南京攻略戦と虐殺事件」より  (筆者は当時歩兵第三十三連隊機関銃中隊長)

  南京攻略に従軍していた作家の石川達三氏は、帰ってから『生きている兵隊』を書いて、その中に、戦場における日本軍の残虐行為を扱った。

 終戦後、彼は読売新聞の一頁を埋めて、殊更に南京残虐史として再びこれを強調した。戦争裁判が、中国関係戦犯の処刑をめぐって論議されている矢先であった。

 小説にはちがいないが、こうなるとその及ぼすところは小さくない。作中明らかにそれとわかる登場人物の一人、当時の従軍僧はもちろん石川氏と逢ったことも、話したこともなかったのではあるが、 僧侶の身でありながら、彼の行った残虐行為は、まことに許さるべきものではなく、若しこの作品を楯に追及せられた場合には、どう弁明すべきかに苦慮した挙句、遂に因果を妻に含めて、 ひそかに覚悟を決めていたという話もある。

 笑いごとではない。石川氏にしても、果して、そこまでの意図を持って書いたのかどうかは判らないが ― 。

(『特集人物往来』 1956年2月号 P111)




2007.11.18 追記

半藤氏が言及している「生きてゐる兵隊」初版序文、および昭和二十三年の「選集」に寄せた石川氏の一文を確認できましたので、紹介します。

石川達三「選集刊行に際して」より

私は南京の戦場に向ふとき、できるだけ将校や軍の首脳部には会ふまいといふ方針をもつて出発した。 そして予定通り下士官や兵のなかで寝とまりし、彼等の雑談や放言に耳を傾け、彼等の日常を細かく知つた。将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ。 私は戦場の真実を見ようと考へて兵士の中にはいつた。



 「将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ」の部分は、戦後における軍将校たちの「タテマエ証言」群を想起させ、興味深いものがあります。 より詳しい引用は「石川達三『生きてゐる兵隊』 昭和二十三年版 序文」に掲載しました。



2011.10.1追記

石川氏は、『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号 「秘録 "あの大東亜戦争"」でも、インタビューの中で、「南京大虐殺」に言及しています。

『いままた戦争の足音が聞こえてくる? かつての従軍記者 石川達三氏は憂える』より


 石川特派員は、この南京で、異様な光景を目撃した。南京の街のまわりには、高い城壁がめぐらされていた。揚子江沿いに、ゆう江門という門があった。 その門に近い城壁に、兵隊のゲートルを二、三本つないだものが、幾条もたれ下がっていたのである。

 いったい何のためだろう? 石川特派員は不審に思った。わけを聞き、始めて合点がいったが、同時に戦争というものにひそむ偶発性に、いもしれぬ恐怖を覚えた。 その幾条ものゲートルは、南京城内に閉じ込められた中国兵が、城外へ逃げるために伝って降りた命綱だったのである。

 そのゲートルについて、石川特派員の取材した話というのは、こうだ。

 日本軍が南京へ迫ったとき、中国軍のなかに、城外へ逃亡を企てる部隊が続出した。そこで中国軍は、一番逃げやすい揚子江沿いのゆう江門を、がっちり押えて締めきった。 ゲートルの命綱で逃げた兵隊もいたが、ほとんどの将兵は城内に閉じ込められた。日本軍が入城したのは、そんななかへだった。城内には、中国の敗残兵と非戦闘員が満ちあふれていた。(P26-P27)

「これも、日本軍としては、予想もしなかったことのようでした。中国軍の司令官は、いち早く姿をくらませている。軍の施設は徹底的に破壊され尽くしている。 むろん食糧も全くない。城内の何万人という中国人を、いったいどう扱えばいいのか。日本軍はホトホト困り果てた。 こういう予想もしなかった事態が、あの大虐殺という残忍な行為と、結びついていったのです。

アメリカが落とした原爆だって、向こうは開戦時から使うつもりではなかったろうし、いざ使う段になってからでも、広島にするか長崎にするか、あるいはもっと他の都市にするか、 結局、最後はその朝の日本の天候などで、落としやすい所へ落としている。戦争というものは、そういう偶発事故の連続なのです。どこへころがっていくかわからない。これは恐ろしいことじゃありませんか」


(『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号)


 ここでは、「大虐殺という残忍な行為」の存在が、話の当然の前提として語られています。石川氏が「大虐殺」の存在を疑問のない事実として受け入れていたことは、明らかでしょう。 この発言の前後を含むより長い引用は、こちらに掲載しました。



2015.1.4追記

 石川達三は、1970年刊の著書『経験的小説論』でも、やはり「南京虐殺」に言及しています。

石川達三『経験的小説論』

 敗戦後、東京裁判がひらかれたとき、米国側の検事団は「生きてゐる兵隊」を南京虐殺事件の証拠資料に使おうとした。ジープが迎えに来て私を裁判所の検事調べ室へつれて行った。私は不愉快だった。彼等は「協力しなければ逮捕する」と言った。

 南京虐殺事件の現場を見てはいない。しかし大体のことは知っていた。事件そのものを否定することはできなかったが、私は当時の日本軍の立場を弁護した。つまり虐殺事件にも或る必然性があり、その半分の責任は支那軍にもあるという説明をした。焦土抗戦主義もその一つ。敗残兵が庶民のなかにまぎれ込んだこともその一つ。捕虜を養うだけの物資が無かったこともその一つ。(P38)

・・・・・結局検事側は私から有力な証言は何ひとつ取ることができなかった。しかし裁判の結果、たしか中支派遣軍司令官は絞首刑になったようであった。私はやはり不愉快であった。敵側が裁くことに公正な裁判などは有り得ないと思っていた。(P39)


 こちらで興味深いのは、石川が「虐殺」の事実は明確に認識しつつも、日本軍をある程度擁護する立場をとり、また「東京裁判」に対して批判的な考えを示していることです。冒頭の読売新聞インタビューでは「裁判」の「意義」に言及していますが、むしろこちらの方が石川の「ホンネ」なのかもしれません。

※同書のうち「生きてゐる兵隊」関連部分を、こちらに掲載しました。執筆の動機、自分なりの作品の位置づけなどが詳細に語られており、関心のある方にはぜひ一読をお勧めします。





 なお、この読売新聞記事に対比する形でよく持ち出される、阿羅健一氏の石川氏に対するインタビューも紹介します。

「「南京事件」日本人48人の証言」より

 昭和五十九年十月、インタビューを申込んだが、会うことはできなかった。理由は後でわかったが、それから三ヵ月後の昭和六十年一月に石川氏は肺炎のため亡くなった。 インタビューを申込んだ時は胃潰瘍が良くなりつつあったが、会えるような状況ではなかったのである。しかし、そのおり、次のような返事をいただいた。

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。

 何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」


(P312)


上の記述ではなぜか阿羅氏の「質問」が省略されていますが、「じゅん刊 世界と日本」の記事で、その応答を確認することができます。

「聞き書き 昭和十二年十二月南京 「南京大虐殺」説の周辺」より

  お会いしたいと思って連絡をとったが、会えることは出来なかった。代わりに次のような返事をいただいた。簡単だが質問と返答の形で記す。

−いつ南京にいらっしゃったのですか?

「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です」

−その時、どのような虐殺を御覧になりました?

「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません」

−いわゆる南京大虐殺をどう思いますか?

「何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」

(「じゅん刊 世界と日本」No444 P14)


 石川氏はなぜか、「読売新聞」記事に見られるような「兵隊」の「無軌道の行動」について一切語っていません。 1970年に「事件そのものを否定することはできなかった」と発言している人物が、その後「今も信じてはおりません」とまで認識を変えるのは、いかにも不自然です

 どのような状況で「質問と返答」が行われたかは明記がなく不明ですが(往復はがき?)、「否定」の側面を強調させようとする「誘導」が働いた可能性は否定できません。 質問と回答がやや噛み合っていないことも気になります。 また「会えるような状況ではなかった」ほど健康を害した状態でのやりとりであり、石川氏がどこまで十分な認識の下に語ったのか、疑問が残ります。

 いずれにしても、「生きてゐる兵隊」、読売新聞記事、その他関連発言を見ると、石川氏が、「二十万」なり「三十万」なりの規模はともかく、上海戦−南京戦において 「いくら何でも無茶」な規模の「兵隊」の「無軌道の行動」、そして「虐殺」の事実を認識していたことは、間違いのないところでしょう。



●大宅壮一

 大宅氏は、毎日新聞の準特派員という形で、南京占領と同時に南京に入城しました。戦後は、以下のような発言を残しています。

 あまりに長文となるため、以下では、ダイジェスト版のみ掲載しました。より正確に、前後の発言を含めて知りたい方は、 「大宅壮一氏の発言」にアップしておきましたので、合わせてご覧下さい。

 
「サンデー毎日臨時増刊 大宅考察組の中共報告」より

四旧追放と孫文ゆかりの地 9月15日 南京

小谷 南京は大宅さんにとって思い出の土地ですが、まず大宅さんから南京がどのように変わったか、戦前と対比しながらうかがっていきたいと思います。

大宅 ぼくは南京攻略のとき上海からずっと軍について南京にはいったわけだけどね、一番乗りは光華門で、ぼくらは二番手で中山門からはいったんだが、その中山門に土のうを積み込んではいれない。 それを遠くから日本軍が土のうをくずすために大砲をどんどん撃ち込むんですね、日本の大砲は正確ですね、真ん中に穴をあけて、そこを突撃するわけですね、

 当時はですね、南京を占領すればですね、あの日華事変は終わるもんだというふうな考え方が一般的で、兵隊もそう考えて張り切っていた。 張り切ったあまり、相当悪いことをしたもんでね。非常に思い出の深い土地だね。

(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P70)



文化粛正と教育問題と 9月17日 天津

南京大虐殺の”真相”を聞く

大宅 (中略)城前後、 入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、 私も目撃者として十分いえるね。

(同 P78)


  
 「大宅壮一人物料理教室」より「アジアをかける自民党の一匹狼」


宇都宮 松井家とは、家族的につき合っていたんです。あのあと、奥さんと電車のなかで会いましてね。「わたしゃ、共産党になりたい」・・・怒っていましたよ。 南京虐殺の責任者にされたんだが、事件のとき、松井さんは嘆いたそうですね。日本軍の軍紀が、こんなに乱れたのははじめてだ・・・。あれは柳川平助中将が・・・。

大宅 あの人は上陸と同時に、演説をブッたそうですね。「山川草木、全部、敵なり」。ひどい非常手段で進んできたんです。 ボクら、南京に入るときにあの兵団と会いましたよ。

(「週刊文春」1965年2月22日号)

*当時大宅氏は、「週刊文春」誌上で、「大宅壮一人物料理教室」という連載を行っていました。この回では、自民党(当時)の衆議院議員、宇都宮徳馬氏を迎えています。

*「柳川兵団」についての悪評は、当時から広まっていたようです。当時同盟通信者の上海支局長の松本重治氏も、次のような記述を残しています。
松本重治『上海時代』(下)より

 日本軍は兵站の線が延びすぎ、糧秣に事を欠く結果、掠奪が行われる危険が多い。
柳川兵団に従軍していた「同盟」記者の話によれば、 柳川兵団の進撃が速いのは、将兵のあいだに『掠奪・強姦勝手放題』という暗黙の諒解があるからだとさえいっている。 これでは、皇軍の皇軍たる面目もなければ、すべては、全くの『無名の師』に堕することになる。

(同書 P242)


2010.12.4追記

 南京戦に従軍した朝日新聞記者、浅海一男氏の記述を紹介します。ここに登場する「フリーのジャーナリスト」は、明らかに大宅壮一氏です。

 
浅海一男『新型の進軍ラッパはあまり鳴らない』より


ある日、筆者たちのチームのところへ二人のジャーナリストが追いついてきました。一人は当時すでに可なりな文名を得ていたフリーのジャーナリストで、ある新聞の臨時嘱託の資格で従軍を許された人物でした。 もう一人はその新聞の現地記者で、われわれより百倍も「支那通」といわれた人物です。かれはこの高名なフリーのジャーナリストの案内役をしていました。

かれらは、別に緊急な報道の任務をもっているのではなかったのですが、しばしば筆者たちのテントに寄宿営したことがあります。

そのとき、そのフリーのジャーナリストは、 かれが昼間見聞したむごたらしい情景を語りつつ「まったく日本軍いうたらなっとらへんがな・・・」というふうな関西弁で日本軍の残虐を酷評していました が、「支那通」氏は「あれぐらいにしなけりゃ、蒋介石には判らんのです」と、どうやら甲州訛りらしい語調で解説していました。

そしてかれらは朝になると、ブイと出ていってしまって、かれらなりの「取材」をしていたようです。しかし、夜になってかれらがふたたびテントに帰ってきたとき、 二人の両手にはさまざまな中国伝統の美術品が抱えられていて、われわれを驚ろかし、憤慨させたのでした。

その二人が誰であったか、筆者はいまそれをいうことをやめておきましょう。だがひとつだけ、そのなかの一人が、あれから三十数年後、 「南京大虐殺と百人斬り競争はマボロシである」と書いた鈴木明氏がもらったプライズに深い関係のある著名な反共社会評論家であったとだけ付け加えておきましょう。(P346-P347)

(『ペンの陰謀』所収)





●西條八十

 詩人の西條八十氏は、入城式(12月17日)の参観のため、同日朝、駆逐艦で南京に入りました。 氏は、その時の体験談を、文芸春秋社の「話」昭和13年2月号に寄稿しています。

 
燦たり南京入城式


なんにしても、一刻も早く今日の式場へ行きたいので、艦に交渉して、やつと消防自動車へ乗せて行つて貰ふことにした。

 乗り込むとなつたら、運転手の兵隊さん、どこからか薔薇の花模様のついた素晴らしく華麗なレースの布を持つて来て、ゴシゴシそこら拭掃除をはじめた。

 「勿体ないですな、そんな布で」
 「なあに蒋介石の賜り物ですよ」
 兵隊さん、ニヤリと笑ふ。

 このとき読売紙の村田東亜部長が、遅ればせに、社の自動車で僕を迎へに来てくれた。

 だが、結局、氏も、消防組に加入することになつて、みんな横坐り、電線の燕よろしくの恰好で出発。

 出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。

(文芸春秋社「話」 昭和13年2月号)


 前後を含めた原文のより長い引用は、「西條八十氏「燦たり南京入城式」」にアップしました。

 検閲厳しい時期の文章であり、「何が起こったか」は「行間を読む」しかありません。これについては、記事を紹介した高崎隆治氏のコメントを見ることにしましょう。

 
高崎隆治「1937年12月13日=南京大虐殺」より

 これは「南京入城式」 (17日)の参観のため、その朝、揚子江上の軍艦から上陸した詩人西条八十の見開記の一節である。死体は連日の虐殺で焼却や川への投入が間にあわず、 大急ぎで「高い坂塀」をつくって暫時隠蔽されたものにちがいない。

 だが、そのことよりも、西条八十の「そろそろ始まったな」という感想は、いったい何が「始まった」というのであろうか。戦闘そのものはすでに終息しており、 数時間後には入城式が行なわれようとする時点で、「死体の山」を見て「そろそろ始まったな」と言うからには、まぎれもなくそれは捕虜の殺戮を意味し、 西条八十は自身の判断でそれを予期していたか、あるいはそういう事態がやがて起ることを誰れからか聞かされていたとしか考えられない。

(「未来」1976年12月号 「記憶20」より)


 確かに元の文を見ると、文章の流れから、「そろそろ始まったな」の後にはかなりの「省略」があるようにも思われます。高崎氏の見解は概ね妥当なものと言えるでしょう。




2010.5.22追記

西條八十が1961年「西日本新聞」に連載した『我愛の記』に、「大虐殺」の文字を見ることができます。「漢口陥落の前」、九江で「文士部隊」と合流した時の記録です。


西條八十『我愛の記』より

夜襲

 晩飯がすんだあと、時計の針は七時、八時と進んでいった。だが約束の九時を過ぎてもみんなが待望する肉湯たんぽの艶なる姿はあらわれなかった。

 一同がもう待ちあぐんで、あきらめかけたころ、ぼくらが蟠踞する二階の一室のドアをコツコツとノックする音が聞こえた。

 「そら」と色めき立った中の一人がドアを開けると、ピカピカひかる銃剣、銃かぶと、寸分のすきまもなく武装した兵士が二名、ぬっとはいるや、おごそかな声でこう呼んだ。

 「廬山に立てこもる約四万の敵兵が今夜来襲するという情報がただいまはいりました。どうぞ皆さんは、軍の行動にじゃまにならぬようこの建物の目立たぬすみに待避してください」

 言い終わるや、こちらの質問も待たず、二人はあわただしく立ち去ってしまった。

 待ちうけていたものと、来たものとのあまりの相違に、ぼくらはシュンとしてしばらく凍りついたように黙ってしまった。ぼくは個人として「とうとうくるものが来たな」という感じだった。

 ぼくは南京入城の前日、あのむごたらしい大虐殺を目のあたり見て、心にもう血の洗礼は受けていた。 従軍とはいうものの、まかり間違えば殺されるか、捕虜になるかもしれないとは覚悟していた。 だから東京を出るとき、将校である甥から、コルトの拳銃を借りて、腰にぶらさげていた。(P230-P231)

(『西條八十全集17』所収)



 「燦たり南京入城式」によれば、南京到着は南京入城式(1937年12月17日)直前の「深夜」でしたので、「南京入城の前日」というのは記憶違いかもしれません。 あるいは、「大虐殺」をリアルタイムで目撃したのではなく、「大虐殺の跡」を目撃したことを語っているのかもしれません。

 いずれにしても、「むごたらしい大虐殺」に「あの」がつく以上は、「南京大虐殺」以外のことを語っているとは考えられず、 西條八十は間違いなく「南京大虐殺」の存在を認識していた、と判断してよいでしょう。



●火野葦平

 本名玉井勝則。 第十八師団第百十四連隊(小倉)に「伍長」として従軍し、のちには軍報道部に勤務、「徐州会戦」をテーマにした「麦と兵隊」などの戦争文学を著しました。

 火野氏は、12月17日の南京入城式に参加するため、南京を訪れています。この手紙には、「南京攻略戦」の途中、「嘉善」にて、投降した捕虜を全員殺害した事件が書かれています。

 大変な長文であり、以下は「捕虜殺害」のシーンのみです。全文は「火野葦平の手紙」にアップしました。

昭和十二年十二月十五日、南京にて

 それから、戸口の方へ廻ると、中でがやがや声がして居ます。戸を破らうとしたが、頑丈で破れない。コンクリイトの厚さは二尺近くもあります。 見ると、扉の横から電話線が通じてある、これは相当な奴が居ると思つたです。 戸口を銃剣でつついて、「ライライ」とどなりました。支那語は知らんし、来い来い、といふ言葉で、出て来いといふ意味を云ふ外なかつたのです。

 ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。 出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。

(中略)

 つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、 誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。 支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。

 中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。 山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。

 僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。 すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。

壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。

(「国文学」2000年11月号 花田俊典「新資料 火野葦平の手紙」より)


 「ライライ」と言って誘い出し、「ジユズつなぎにし」た捕虜を、「貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、・・・とか何とか云ひながら」、 上官の命令もないままに、自然発生的に「誰かが、いきなり銃剣で、つき通し」て、結果として三十二名全員を殺害してしまう。これはちょっと「正当化」のしようがない「捕虜殺害」でしょう。

 当時の戦場ではこの種の「捕虜殺害」が常態化していたことを伺わせる資料のひとつです。

 


なお田中正明氏は、文化人たちの「南京事件」認識について、こんな記述を行っています。

「南京事件の総括」より

 大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、あるいは西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。

(中略)

 しかしそれらの視察記や紀行文の中には"大虐殺”を匂わすような文章はどこにも見当たらない

 終戦になり、東京裁判が始まって、軍の作戦や旧軍人に対する批判が高まった時でも、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。

 批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった

(「南京事件の総括」P237〜P238)


 太字で示したメンバーについては、既に取り上げました。

 他のメンバーについても、検閲厳しい戦前に書いた文章の中に「匂わす文章はどこにも見当たらない」のは当たり前の話ですし、また「南京事件を告発」しなかったからと言って「南京事件」の存在を否定したことにならないのは、 言うまでもないでしょう。

 特に最後の、「大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった」との発言は、明らかな「ウソ」です。



 最後に、上の田中氏の記述についての洞氏のコメントを紹介します。

洞富雄「南京大虐殺の証明」より

 ・・・大量虐殺否定論者の反論をもはや許さないていの、旧日本兵の勇気ある証言や事件当時の従軍日誌類の存在が、「ゆう」注 1986年7、8月頃) 続々と新聞に報ぜられたではないか。しかし、これらの勇気ある証言者は、その後、匿名の非難・中傷・脅迫の電話や手紙でなやまされているのである。 (『毎日新聞』一九八四年九月二十七日号「記者の目」)。この事実一つをとってみても、南京大残虐事件の実見談を書くことの困難さが知られるではないか。

 文筆家にとって、いまも「南京大虐殺」を語ることは鬼門であるらしい。 それをあえてすることは、たいへん勇気を必要とするばかりでなく、飯の食いあげにもなりかねないのである。

 あの毒舌家の大宅壮一すら、ひとこと「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。 まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね」と語ったのは、「大宅考察組」を組織し、一九六六年に文化大革命下の中国に乗りこんだときの、現地南京でおこなった座談会でのことであって、 実際にその眼でみた事件の実相は語らずじまいであった。

 こうした事情であるとすれば、名乗り出るものがいないのは、事実がなかったからである、と言おうとするような短絡的思考は許されない。

(P247-P248)


 

(2003.12.21記)


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