東中野氏の徹底検証3
ベイツ文書と新聞記事


 さて、続けて東中野氏は、南京事件の第一報であったダーディンやスティールのニュースソースが、実は「ベイツレポート」であった、と論じます。

新聞記事のニュースソースはペイツであった

 ティンバーリ編『戦争とは何か』の第一章前半は、ペイツの寄稿であった。ティンパーリの解説によれば、これはペイツの一九三七年十二月十五日付け「上海の友人宛ての手紙」を収録していた。ところがこれは上海の友人だけではなく、十二月十五日上海に向けて南京を離れようとしていた特派員にも渡されていた。そのことを彼は一九三八年四月十二日『戦争とは何か』の出版を知らせる手紙に書いている。

「その本(『戦争とは何か』−引用者注)には、十二月十五日南京を離れようとしていた様々な特派員に利用してもらおうと私が同日準備した声明(以下「レポート」と呼ぶ)が掲載されています」

 城門陥落から二日後の十二月十五日、南京を離れる特派員に利用してもらうため、その日ペイツは彼らに「レポート」を用意していた。十二月十五日、南京を離れた特派員とは、『シカゴ・デイリーニューズ』のスティール、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディンなど五名であった。彼らはアメリカ海軍の砲艦オアフ号に乗り、通信手段のなくなった南京から上海の共同租界へと向かった。オアフ号が南京を離れるや否や、次の記事をステイールが発信した。それが十二月十五日(アメリカ時間)の『シカゴ・デイリーニューズ』 に掲載されたのである。

「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、その後の征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となつたが、多くは罪のない人たちであった。・・・それは羊を殺すようであった。・・・以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や他の外国人の観察に基づくものである」

 これに続いてダーディンも十二月十八日付けの『ニューヨーク・タイムズ』に、「殺人が頻発し、大規模な椋奪、婦女暴行、非戦闘員殺害、・・・南京は恐怖の町と化した。・・・恐れや興奮から走る者は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃されたのである」と報じている。

 両者の記事を、『戦争とは何か』の第一章前半のベイツ「レポート」と比べてみる。

ペイツ 「日本軍はすでにかなり評判を落としており中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました」
スティール 「日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを自らの蛮行により失おうとしている」
ダーディン 「日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずのまたとない機会を逃してしまった」

ベイツ 「日本軍の入城によって・・・安心した気持ちを示した住民も多かったのです」
ステイール 「日本軍が入城してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った」
ダーディン 「日本軍が南京城内の支配・・・安堵の空気が一般市民の間に広まった」

ベイツ 「殺人、略奪、婦女暴行・・・事態の見通しはすっかり暗くなってしまった」
ステイール 「その幻想はたちまち破れてしまった」
ダーディン「日本軍占領の二日間で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害…捕虜の大量処刑・・・」

ペイツ 「恐怖と興奮にかられてかけ出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺されたようです」
ダーディン「恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れてから…巡回中のパトロールに捕まった者はだれでも射殺されるおそれがあった」

ペイツ
「市内を見まわった外国人はこのとき通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告…」
ステイール「市内の通りはいたるところに市民の死体(略)外国人がみた事実によるものである」
ダーディン「市内を広範囲に見て回った外国人はいずれの通りにも民間人の死体を目にした。・・・多くの殺人が外国人に目撃された」

三氏は別々に行動しながら、その記述は明らかに酷似している。スティール、ダーディンの記事は、ペイツ「レポート」に完全に影響されていたのである。

(『南京「虐殺」研究の最前線 平成十五年度版』 P295〜P299)



 この見方は、次作「南京事件『証拠写真』を検証する」にも引き継がれています。

『南京事件「証拠写真」を検証する』より

 アーチボールド・スティール氏は『シカゴ・デイリー・ニューズ』の特派員であった。十二月十五日、南京を離れるやいなや、ただちに「南京虐殺物語」を打電して、十二月十五日(日本時間十六日」付『シカゴ・デイリー・ニューズ』に掲載している。

 しかしその記事はティンパーリ編『戦争とは何か』の第一章とほぼ同じであったことから、そのニュースソースは宣伝本のティンパーリ編『戦争とは何か』(第一章)の執筆者マイナー・ベイツ師であったことが判明しており、しかも記事内容は事実と大きくかけ離れていることも検証済みである。

(詳細は『南京「虐殺」研究の最前線』平成15年度版、二七五頁) 

(同書 P196)


 東中野氏は、この「ベイツメモ」がダーディンらの唯一の「ニュースソース」である、と錯覚させるような書き方をしています。

 東中野氏はどうやら、ベイツは「中華民国顧問」だった。ダーディン、スティールは、「中華民国顧問」たるベイツが作成したメモをもとに、記事を執筆した。従って、「記事」は実像を正しく伝えたものではなかった、というストーリーを読者に印象づけたいようです。


 しかし既に触れた通り、 「ベイツ=中華民国顧問」説は、根拠の薄いものです。また、ダーディン、スティールが「ベイツレポート」のみを頼りに記事を書いたかのような書き方も、彼ら記者の熱心な取材活動を無視した暴論であると言わざるをえません。

 だいたい、ダーディンらの長大な「記事」とコンパクトな「ベイツメモ」とでは「情報量」のケタが違います。ダーディンらが「メモ」のみを「ソース」にあれだけの分量の記事を書くことなど、そもそも不可能でしょう。



*「ベイツレポート」「ダーディンの記事」「スティールの記事」は、それぞれ以下のURLに掲載しました。「ダーディン」「スティール」の記事は12月13日以降のみの紹介にとどめましたが、それでもご覧の通り、読み通すのも大変な長文になっています。

○ベイツの手記
●ダーディンの記事
●スティールの記事



**ダーディン、スティールの記事は「第一報」であり、「ゆう江門の死体の成立原因」を日本軍に求めるなど、情報不足などによる不正確な点も散見されます。しかし、大筋は今日知られている「事実」に沿ったものであり、東中野氏のように「記事内容は事実と大きくかけ離れている」と決め付けるのは、あまりに一方的でしょう。




  実際問題として、東中野氏が「明らかに酷似している」とした部分は、何のことはない、 当時南京にいた外国人たちの共通の認識であるに過ぎませんでした。 以下、見ていきましょう。


ペイツ 「日本軍はすでにかなり評判を落としており中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました」
スティール 「日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを自らの蛮行により失おうとしている」
ダーディン 「日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずのまたとない機会を逃してしまった」



ベイツ 「日本軍の入城によって・・・安心した気持ちを示した住民も多かったのです」
ステイール 「日本軍が入城してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った」
ダーディン 「日本軍が南京城内の支配・・・安堵の空気が一般市民の間に広まった」



ベイツ 「殺人、略奪、婦女暴行・・・事態の見通しはすっかり暗くなってしまった」
ステイール 「その幻想はたちまち破れてしまった」
ダーディン「日本軍占領の二日間で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害…捕虜の大量処刑・・・」



 これで、「類似している」という5か所のうち、3か所になります。

 しかしよく読むと、わざわざ3か所に分けるほどの内容ではありません。要するに、「日本軍が入城してきたとき、中国人の間に、これで混乱は終わるというかすかな期待が広がった。しかしその「期待」は、日本軍兵士の大規模な暴行によって裏切られてしまった」という単純な内容で す。東中野氏は、ここで明らかな「酷似箇所の水増し」をやっています。

 しかもこの内容は、「南京で何があったか」という「事実」の問題ではなく、せいぜい、いわば前書き的な「感想」の部分です。ごく一般論的な「感想」の類似をことさらに取り上げて「ニュースソースはベイツだった」とまで言い切ってしまうのは、「印象操作」との謗りを免れない手法でしょう。



 種を明かせば、そもそもこの「感想」は、外国人たちの共通認識であったようです。

南京安全区国際委員会 第六号文書(Z9)より(ラーベ)

 当委員会より貴大使館と日本軍にわかっていただこうと熱心に努めている点は、われわれは、日本当局が新しい南京市政府あるいは他の組織を設立して市内の諸職権を引き継ぐまで、南京の一般市民のために市政府の諸サービスを委託されたということです。

 ところが、不幸にも貴下の兵士は、安全区内で当方が秩序を維持し、一般市民のための諸サービスを続けることを望みませんでした。その結果として、われわれが十二月十四日の朝まで続けてきた秩序維持と必要なサービス提供の体制は瓦解しました。

 言いかえれば、十三日に貴軍が入城した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾によるきわめてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却をおこなったさいにも何ら略奪はみられませんでした。

 貴下が当地区を平穏に接収し、かつ市内の他の部分が整備されるまで、そのなかで平常な生活が乱されることなく続けられる準備はすっかり整っていました。それだと、市内で完全に平常な生活をすすめることもできたのです。

 このとき市内に居住していた二七名の外国人全員も中国人住民も、十四日いらい貴軍の兵士がおこなっている強盗・強姦・殺人の蔓延にまったく驚いています。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P126〜P127)


ソーンの手記


 日本軍が入城すれば秩序が早急に回復されて、平和になり、市民は自宅に帰り、再び平常の生活に戻れるものと、われわれは思っていました。


 ところが、われわれ全員は言いようもない驚きにうたれたのです。強盗・略奪・拷問・殺人・強姦・放火と、想像がつく罪悪行為はなんでも、日本軍の入城当初から、際限なく行なわれたのです。近代にはこれをしのぐようなものはありません。南京は生地獄だったと言ってもよいでしょう。
 安全なものは何ひとつなく、誰ひとり無事な人はありませんでした。日本兵は、欲しいものは手当り次第に奪い、欲しくないものは破壊し、数十人・数百人の婦女を公衆の面前で公然と強姦しました。日本兵に反抗した者は即座に銃剣で刺殺されるか銃殺されてしまいました。強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』P53)


 
ローゼン『南京分館の執務再開 南京の状況』より

英国人(の同僚)が言うには、かれらの主な関心は日本海軍管轄下の下関港周辺にあるが、そこでの状況ははるかに良好で、何よりもある程度の市民の信頼があるとのことである。そのような信頼を日本陸軍は容易に手にすることができたはずであったのに、かれらはそれを南京のみならずこの地域一帯で完全に棒に振ってしまったのである。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』P69)


ヴォートリン日記『南京事件の日々』より

二月二日 水曜日 

 まったく奇妙な話だが、わたしたちとしては、こんなことになるとは思ってもみなかった。わたしたちの多くは、〔日本軍の〕長期にわたる包囲攻撃と、中国軍兵士による掠奪を恐れていた。いやむしろ、日本軍はきわめてよく訓練されているから掠奪や放火はしないと確信していた。

(『南京事件の日々』P150)


 当然このような「認識」は、「ベイツメモ」を待つまでもなく、ダーディンやスティールも共有するところだったでしょう。それだけの話です。

 


 さて次は、「恐怖で逃げようとした民間人の殺害」です。 これまた東中野氏は、ベイツとダーディンの比較については、「逃げようとする民間人が殺され、その死体が目撃された」という、一つの文章で済む内容を、わざわざ2つに分けています。


ペイツ 「恐怖と興奮にかられてかけ出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺されたようです」
ダーディン「恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れてから…巡回中のパトロールに捕まった者はだれでも射殺されるおそれがあった」



ペイツ「市内を見まわった外国人はこのとき通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告…」
ステイール「市内の通りはいたるところに市民の死体(略)外国人がみた事実によるものである」
ダーディン「市内を広範囲に見て回った外国人はいずれの通りにも民間人の死体を目にした。・・・多くの殺人が外国人に目撃された」




それぞれ、元の文を確認しておきましょう。

ベイツの手記

 市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体がかぞえられたほどです。

 死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。恐怖と興奮にかられてかけ出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものは、だれでも即座に殺されたようでした。その苛酷さはほとんど弁解の余地のないものでした。



ダーディンの記事


 民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた。

 とくに警察官や消防士が攻撃の対象であった。犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていたが、なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた。

 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや露地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった。 外国人はたくさんの殺害を目撃した。





 
スティールの記事


 五フィートも積もる死体

 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。

 陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィート(約一・五メートルー訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。

 市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。

 米公使宅襲撃さる

 日本軍の略奪はすさまじく、それに先だつ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。

 アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った。また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。

 
以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。



*ゆう注 スティールの記事については、東中野氏は「外国人による死体目撃」のみを「酷似」点としてあげていますが、これは一般的な状況の記述であり、わざわざ「酷似」を指摘するほどのものではないでしょう。

さらに言えば、上記の短い引用の中ですら、スティールは、「ベイツレポート」からは読み取れない、以下の「情報」を記述しています。

1.中国兵の「屠殺」推定数は五千から二万。
2.ゆう江門での死体の山。死体の上を通過する車両群。
3.アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸への日本兵の侵入。
4.アメリカ人所有車の盗難台数は「少なくとも二台」。

「記事のニュースソース」が「ベイツレポート」であったとする東中野氏の説は、明らかに強引きわまりないものです。




 日本軍占領当時、日本軍が逃げようとする一般民衆を射殺していたというのは、これまた、外国人たちが一般的に認識していた事実です。

フィッチ「一九三七年、クリスマス・イブ 中国、南京にて」

十三日の午前一一時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー二人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二○人を殺したのです。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P29〜P30)


 
ラーベ「ヒトラーへの上申書」

 私はアメリカ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況をざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司令官は三日たたないと到着しないということでした。

 中国人の民間人の死体がそこここにありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわかりました。たぶん逃げようとするところだったのでしょう。中山路と太平路をぬけ、夫子廟の手前まできて、太平路にあるアメリカ人伝道団の地所で車を降りました。

(「南京の真実」文庫版P356〜P358)


 
スマイスの手紙

We went down Shanghai Road and found no Japanese soldiers on Kwangchow Road. Near the Seminary we found a number of dead civilians, about 20, whom we later learned had been killed by the Japanese because they ran. That was the terrible tale that day, any one who ran was shot, and either killed or wounded.

("EYEWITNESS TO MASSACRE" P256 )


*(「ゆう」訳)
我々は、上海路を下り、広州路には日本兵がいないことを発見した。
神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。


 
ウィルソンの手紙

 地下で休んでいる大勢の中国人については、まったく数えきれない。使用人たちはまったく脅えきっている。この段落を初めの文章に少しでも近づけて締めくくるとすれば、市民は恐れを顔に出したり、逃げる素振りを見せたなら、たちどころに銃剣で刺し殺される。きょう午後、ひどい切り傷の縫合をしたし、銃剣による患者を何十件となく扱ってきている。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』 P278)



 以上をまとめると、ダーディン・スティールらが「ベイツ・レポート」を受け取ったことは事実としても、彼らの記事は基本的には自分たちの広範な取材に基づいたものであり、また、東中野氏の言う「酷似」箇所は外国人たちが概ね共通の認識としていた事項に過ぎない、ということが言えると思います。

 


 余談になりますが、アメリカ総領事の報告では、逆に、スティールらの「新聞記事」が、「ベイツレポート」の信憑性を裏付ける資料として言及されています。「アメリカ総領事」は、スティールらから「話」を聞き、その「話」と「ベイツメモ」の内容の一致を持って、「ベイツメモ」を「全般的に事実である」と判断していたようです。

 間違っても、スティールらが「ベイツメモ」を「ニュースソース」にして「話」をした、とは認識していません。

 
『蕪湖の状況と国旗事件および日本占領後の南京』より

報告書簡<秘密扱い>
中国・在上海アメリカ総領事
一九三八年一月五日

ワシントン国務長官殿

  (略)

  南京大学のシール・ベイツ博士(社会学および歴史学の教授)が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを同封する。本メモの写しは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』記者のアーチボルト・スティール氏が当総領事館の館員に手渡したものである。

 ベイツ博士のメモに述べられた情報が、全般的に事実であることは、日本軍の占領時に南京にいたスティール氏や他の新聞記者の話に照らして確かである。

  (略)

C・K・ガウス
アメリカ総領事

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P105)

 





 さらに余談になりますが、東中野氏は、スティールらの記事の信憑性を少しでも貶めようとする意図か、このような記述を行っています。

東中野修道氏「南京事件『証拠写真』を検証する」より

 
もっとも多く死体が目撃されたのはゆう江門である。十二月十五日に南京を離れたアーチボールド・スティールやティルマン・ダーディンは中国兵の死体が高さ一メートル半の小山を築き、その上を日本軍の車両が「頻繁に行き来した」と記事にしている。

(略)

一メートル以上の遺体の小山の上を日本軍の車両が行き来していたとの記述は、常識で考えてありえないことであり、あまりに誇張した表現と言える。

(同書 P43〜P44)



  しかし、ゆう江門の「無数の敵屍体の埋れる上」を車で乗り越えた話は、日本側の記録にも残っています。

泰山弘道氏『上海戦従軍日記』より

◇十二月十六日 晴暖かなり

 やがて下関より南京に通ずるゆう江門に到るや、高く聳ゆる石門のアーチ形なる通路は其の高さの約三分の一は土に埋れて、之を潜るには下関側より坂路を成すに至る。

 徐に進む自動車は、空気を充満せるゴム袋の上に乗れる如き緩かなる衝動を感ぜしめつつ軋るあり。之れ車が無数の敵屍体の埋れる上に乗れるなりと。さもあるべし、土の層の薄き所を進むに、忽ち土の中より肉片の泌み出づるあり。凄惨の状筆紙につくしがたし。

 漸く門を潜り抜けて南京側に出づれば、敵の屍々累々たるが黒焦となり、鉄兜も銃剣も黒く燻りて、鉄条網に用いたりし針金と絡まり、門柱の焼け落ちたる木片と相重なり、堆く積める土嚢も黒く焼けて、その混乱と酸鼻の景は譬へん方なし。

(『南京戦史資料集』(旧版)P528)

 ゆう江門の「ぎっしり詰まっ」た死体については、前田氏も記述しています。同じく、16日の記述です。

前田雄二氏『戦争の流れの中に』より


死体の門


 支局に帰ると、荒木と稲津が車で出かけるところだった。同乗して市内をまわり、下関への出口のゆう江門へ行く。すると、まるで門をふさぐように中国兵の死体がぎっしり詰まっている。

「何だね、こりゃ」と、まず運転手がいぶかりの声をあげた。城門の内側に、まるで土嚢でも盛ったように死体が積まれ、車はわずか一車線あけられた穴を徐行して抜けなければならない。死臭の中をだ。

 いったいどうしてこんな状態になったのか、いつからなのか、聞こうにも誰も知った者はいない。下関の部隊で聞いてもムダだった。私たちは帰途ふたたび、気味の悪いこの城門を抜けなければならなかった。

「今日はいやなものばかり見る日だ」

と、私は昼食時にこれらの見聞を同僚に語った。

(『戦争の流れの中に』P118)


『南京戦史』にも、同様の証言が取り上げられています。

 
松川晴策氏の証言


 その翌日(ゆう注.12月14日)、光華門(原注.中山門の誤りであろう)から南京城内に入りましたが、街は粛然としており、歩いて中山路を一路北に進み、市内を縦断してゆう江門に出ました。途中ほとんど屍体を見なかったが、ゆう江門付近には相当数の中国兵の屍体が折り重なっていました。

 土嚢と死体が一緒くたになって、約一メートルぐらいの高さに積み重ねられ、その上を車が通るという場面を見ました。しかし、それは、ほんの三〜四メートルぐらいです。その付近、道路の両側にも死体があり、その数は百以上だったと思います。

(『南京戦史』P203)


 東中野氏は、これらの証言も、「常識で考えてありえない」と決め付けるつもりでしょうか。



*2007.8.3追記

その後東中野氏は、新著『再現 南京戦』で、この「常識で考えてありえないこと」という見方を撤回しました。

高さ六フィート(一・八メートル)と言えば、人間の背丈ほどの高さに達する。そこに死体の山があったことは日本軍将兵の記録にも出てくる が、両記者(「ゆう」注、ダーディン、スティール)は日本軍が?江門を占領するさい中国兵を殺戮したため死体の山ができたと書いていた」(P75)。

なおダーディン、スティール両記者の記述は、別に「プロパガンダ」を行ったわけではなく、報道時点での情報不足による、単なる誤認と見るのが自然でしょう。

(2005.8.15) 


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