東中野氏の徹底検証2
ベイツ=中華民国顧問説


 東中野氏は、「諸君」2002年4月号所収の「南京大学教授ベイツの”化けの皮”」で、「ベイツは中華民国政府の顧問だった」と断定しました。

東中野修道氏 『南京大学教授ベイツの”化けの皮”』より


 そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになった。

それを証明したのが、イエール大学で私が発見した小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明 (「ゆう」注 「写真」はベイツの顔写真)は次のようになっている。
「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、それに怯むことなく、オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、 中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。 アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」
 私たちが新聞の切り抜きをする際、しばしば購読紙名をいちいち書かないのと同じように、この切り抜きにも、何月何日の何新聞か、何も書かれていない。 ただ、「日本軍が南京の城門を攻めるなか」とあることから、昭和十二年の十二月十三日の城門陥落前後の記事と判断される。

 この紹介記事の中に、ことさら虚偽の履歴が書き込まれるべき強い理由も見当たらないから、ベイツが「中華民国顧問」であったことを疑う理由もないであろう。

(「諸君」2002年4月号 P154)


 どうやら「明らかになった」という断定の材料は、誰が切り抜いたのかも、いつのものなのかも、何新聞なのかもわからない、一片の新聞記事の切り抜き、ということであるようです。 それも、記事本文ではなく、「写真説明」でだそうです。

 氏は自分の「発見」にすっかり舞い上がってしまったようで、他の史料に全く登場しない「中華民国政府顧問の・・・ベイツ博士」という表現に対して、いろいろな史料から多面的にその正当性を検討する、 という当然の手続きを、すっかり失念しています。

 余談ですが、「いいかげんさ」を少しでも薄めようとする意図か、東中野氏は、「私たちが新聞の切り抜きをする際、しばしば購読紙名をいちいち書かないのと同じように」というフレーズを挿入しています。

 少なくとも私は、「新聞の切り抜き」をする際には、必ず「新聞名」「日付」は記入していましたが、どうやら氏は、そのような面倒なことはしないようです。




 さて、日本や米国などで、「ベイツ」の名が出てくる新聞記事は大量に存在します。 しかし、ベイツを「中華民国政府顧問」という肩書き付きで紹介しているのは、私の知る限り、東中野氏が発見したというこの記事のみです。

 例えば当時の日本の新聞での紹介ぶりを見ましょう。

東京日日新聞 昭和十二年十二月十七日

 ベーツ博士は北米オハイオ州ハイラム大学を卒業、ロード・スカラーシップを得て英国オツクスフオードに学び更に帰米後エール、ハーヴアド両大学を卒業、 支那に渡り爾来十七年間金陵大学で歴史と国際事情を教授する傍ら日支親善のため活躍を続けてゐる親日家で 今回の南京陥落の際には避難民のため安全地帯設置委員として身の危険を忘れて活動した在南京外人の恩人である。

  しかも親日家の同博士は数年前から長男モルトン君(一ニ)を神戸のカナデイアン・アカデミーに遊学させ真の日本の姿を学ばせてゐる。

*記事全文は、こちらに掲示しました。


 ベイツは妻と子供を日本に残し、長男を「数年前から」日本に遊学させていました。新聞記者はベイツとは初対面ですから、この事実のみから「親日家」という断定を行ったのかもしれません。

 しかし常識的にも、自分の大切な子供を「嫌いな」国に学ばせるとは考えにくく、「南京事件」に接する前までは、ベイツに一定の「親日感情」があった、と推定することは十分可能でしょう。




なお、ニューヨークタイムズ記者のダーディンが、この記事とほぼ同一の内容を書き送っています。

ニューヨークタイムズ 一九三七年十二月九日

F・ティルマン・ダーディン

<ニューヨークタイムズ>特電

十二月九日、木曜日、南京発。

(中略)

 大使館からの度重なる避難勧告にもかかわらず、一七人のアメリカ人がなおも市内に残っている。安全区職員と報道人とがこれに含まれる。一四名がパナイ号その他の船上にある。

 大使館員とパナイ号のJ・J・ヒューズ艦長とは、市内のアメリカ人との連絡を保つべくあらゆる努力を払うつもりだ。 城壁を越えて脱出するための縄ばしごが大使館から支給され、金陵大学教授M・S・ベイツ博士に保管された。博士は、このようにして脱出しなければならなくなった時に、 避難を指揮・監督することになっている。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P395) 

 当然のことながら、ダーディンの記事には「中華民国政府顧問」という肩書きは付いていません。


 「縄ばしご」については、アメリカ大使館の記録も残っています。

回覧・南京のアメリカ人へ

アメリカ合衆国大使館
南京、一九三七年十二月八日

 (略)

 城壁を越えて避難する場合に必要な縄ばしごは、平倉巷三番地のM・シール・ベイツ博士(電話番号31789番)のもとに保管されている。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P95)



 「写真説明」をつけた編集者が誰で、どのようなソースからこの肩書きをつけたのかは、今日となってはもう知る術はありません。

 しかし、これが記事本文ではない単なる「写真説明」であること、おそらくは当時南京にいたわけではないであろう編集者がつけたキャプションであることを考えると、これがどこまで正確であったのか、微妙なところです。

 編集者がソースを十分に確認しないままに書いた「勘違い」であった可能性も否定できません。例え「顧問」であったことが事実だったとしても、「国民党顧問」ではなく「中華民国政府顧問」となっているところを見ると、「政治」ではなく、 ベイツの専門である「歴史学」方面の「アドバイサー」だったことも考えられます。


 いずれにしても、「ベイツ=中華民国政府顧問」説は、「根拠不明、裏付け資料なし、従って真偽も不明」としておくのが、無難なところでしょう。


*そもそも、数限りなくある「ベイツ」関連文献に全く登場しない「中華民国政府顧問」という肩書きが、新聞名もすぐには判明しないようなマイナーな外国紙記事にのみ登場するのも不自然な話です。 もしこの肩書きが公然のものであるとしたら当然至るところでこの肩書きを目にするはずですし、もし秘密のものであるとしたらこのような形で公然と報道されるはずがありません。 「外国紙記者(あるいは写真キャプションをつけた編集者)が肩書きを間違えた」と解釈するのが、最も自然でしょう。



2015.10.18追記

 この記事の存在が確認されたようです。こちらに、その画像があります。

 アイオワ州キャロル郡の地方紙「Carroll Daily Herald」1937年12月30日付特集"FIRST PICTURES OF THE PANAY SINKING"(パナイ号沈没の写真第一報)の左上に、記事を見ることができます。 笠原十九司氏『日中全面戦争と海軍』によれば、パナイ号乗船の記者・カメラマンらが帰国した後の12月29日から30日にかけて、各紙に大々的に「パナイ号」事件関連写真が掲載されたようですので
(同書P252)、この特集もその一環と見られます。

  ベイツは、"professor of history at Nanking University and adviser to the Chinese central government"(「南京大学の歴史教授および中国中央政府の顧問」)として紹介されていますが、上に見てきたとおり、この肩書の真偽は不明です。

 


 しかし次の論稿では、東中野氏にとって、「ベイツ=中華民国政府顧問」説は、もはや説明の必要もない、読者にとっても周知のはずの「事実」となってしまったようです。

南京「虐殺」 ― 第二次国共合作下の戦争プロパガンダより

 一方、『戦争とは何か』の分担執筆者はすべて匿名であったが、それは一つを除いて南京大学教授のマイナー・ベイツとジョージ・フィッチの執筆と特定された。 しかもベイツは中華民国政府の「顧問」であったことも判明した。又、フィッチの夫人は蒋介石の夫人と「親友」であったことも分った。

(『南京「虐殺」研究の最前線』P261)


 こちらの記述は、これだけです。「顧問」と認定した根拠は、本文からは省略されています。 「根拠」の内容が「小さな新聞記事の切り抜き」だけだったとわかると、かえって信憑性が問われかねないので、あえて触れなかった、という見方は、うがちすぎでしょうか。


*当論稿では、小さく「註」の形で「ベイツ=中華民国顧問」であったことの「根拠」を紹介しています。そのまま写すと、
(5)Esther Tappert Moetensen Papers, Record Group No21, Box7, Folder 120, Yale Divinity School Library, New Haven, Connecticut.
ということです。

一見もっともらしく思われますが、何のことはない、「イエール大学所蔵のベイツ文書」、すなわち、先にあげた出所不明の記事のことであるようです。




以下は本題から外れますが、さらに読み進めると、氏はベイツについて、こんなコメントを行っています。

『南京「虐殺」 ― 第二次国共合作下の戦争プロパガンダ』より

 処刑は不法であったかのように主張したペイツも、実名の時は、処刑に触れなかった。 たとえば東京のアメリカ大使館から詳細な情報収集のため一九三八年四月南京にやってきたキャーボット・コーヴィル武官にたいして、 ペイツは『戦争とは何か』に執筆した内容やそこに加筆した主張には決して言及しなかった。

 その場には、実情を知つているルイス・スマイス教授や、 ジョン・アリソン領事、エスピー副領事、ジェッフリィ英国領事、ゲオルグ・ローゼン書記官その他が同席していたからである。 「英米では私たちは事実と見解の自由な表明に慣れている」と主張するベイツも、事実でないことは言えず、嘘はつけなかったのである。

(『南京「虐殺」研究の最前線』P303〜P304)


 さて、東中野氏が、ベイツが『戦争とは何か』での「主張には決して言及しなかった」、と述べる、コーヴィル武官の会見記録です。

『カボット・コヴィルの南京旅行記』より

1938年4月22日 

 金陵大学のM・S・ベイツ博士とスマイス博士、ともに博士号を持つ両者が南京大使館を訪れ、アリソン、エスピーと私で夕食を共にした。 お互いに日本の情勢に関心をもつ我々は、夜を徹して詳しい情報の交換をした。二人は戦争開始半年後の日本の経済に関する私の報告を読んでおり、私はこの報告にないその後の経過を口頭で補足した。

 私は二人の南京での一連の経験を話し合ったが、これらはアリソンの全報告を十分に網羅し、さらに個人の経験が加味されて話をもりあげた。

 最後に私は一般的な質問をした。もしも、日本軍が取得したものに即座に制限をくわえたり、占領地域の鉄道を掌握しそして失地回復を期す中国軍の反撃をしっかり持ちこたえる態勢が整えられるとしたら、 日本は敗北しうるだろうか、という質問である。

 スマイスとベイツの見解は、神出鬼没の中国軍攻撃による間断のない圧力こそが復讐の気概を持続させて、ついには日本軍に撤退を余儀なくさせるであろう、というものであった。 この討議のなかで示された論点は、中国側がすすんで抗戦する意思があるかどうかにかかっているという結論をみた。

 秩序と規律正しい日本軍、私利私欲のない軍政当局という伝説は、中国人民の心を深くえぐりとったアトロシティーズや過ちによって、台無しとなったので、 日本側の支配は中国人にとって何ら意味を成さないことに中国人自身が気づくであろうこと、そして、彼らの悲痛な思いは、日本軍を追い出すまで不断の攻撃となって続くであろうことを、ベイツとスマイス両者は確信している。

 彼らの見解の結論は、日本は自身が考えている以上に痛めつけられるであろうということであった。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P112〜P113)


 東中野氏の紹介とは、全く印象が異なります。

 この会談では、少なくとも「アトロシティーズ」については語られていたようです。 ベイツがどこまでのことを語ったのかは明記されていませんが、特に、ベイツが、従来の主張を曲げてこの場では何も言わなかった、と決め付ける根拠もないでしょう。



 続けて氏は、「ベイツが勲章を授与された」ことに触れています。

『南京「虐殺」 ― 第二次国共合作下の戦争プロパガンダ』より

 それにしても何故ペイツはこのような事実無根の「レポート」を流したのか。いまのところ十分な解明には至っていない。分っているのは彼が南京陥落前から既に中華民国政府の「顧問」であったということと、 彼が中華民国政府から「勲章」を授与されたということだけである。

  勲章授与は、彼がコーヴィル武官にも言わなかった「日本軍による戦争捕虜と市民の殺害」を『戦争とは何か』に加筆挿入した一九三八年と、 東京裁判の証人として四万人虐殺を証言した一九四六年のことであった。

(『南京「虐殺」研究の最前線』P304)


「註」によれば、ベイツが「勲章を授与された」というのは、同じくイエール大学の「ベイツ文書」中にある「人名録用資料−マイナー・サール・ベイツ」の記述を根拠としているようです。

 東中野氏の記述によれば、ここには「勲章授与」の理由までは書かれていなかったようですが、それをいいことに、氏は、 あたかもベイツが「中華民国顧問」であったことが「勲章授与」の理由であるかのような印象をつくりだしています。

 例えば、「勲章授与は、彼がコーヴィル武官にも言わなかった「日本軍による戦争捕虜と市民の殺害」を『戦争とは何か』に加筆挿入した一九三八年」という記述ですが、 誰が見ても「加筆挿入」したことが「勲章授与」の理由になるとは考えられず、かなりひねくれた文章です。

 素直な書き方をするならば、こういう文章になろうかと思います。

「ベイツが、国際安全区の中で中国人難民のために人道的支援活動を行った一九三八年」。

 この方が、「勲章授与」の理由としてははるかに自然でしょう。自然に見える理由付けをわざわざ避けて、「加筆挿入」云々を枕詞にするのは、フェアな記述であるとは思われません。





2007.7.28追記

 中国国民党が、南京国際委員会の人道的活動に感謝し、そのメンバーリストの送付をを米大使館に依頼した記録が残されています。

国民政府外交部から南京国際委員会への感謝

国民政府外交部・漢口辨公処から在漢口米大使館へ宛てられた第三者への覚え書の翻訳

翻訳:TMC  一九三八年四月二十二日
点検:EFD  一九三八年四月二十二日
タイプ: TMC 一九三八年四月二十三日

日付:一九三八年四月二十二日
受領:一九三八年四月二十二日

漢第一一七〇号


 国民政府外交部・漢口辨公処よりアメリカ大使館に対して感謝と敬意を表明する以下の文書が寄せられた。

 南京国際委員会が設立されてからすでに数ヵ月が経過しました。この間、同委員会は人類互助の精神に基づいて、難民救済の仕事に従事し、数十万の避難民の安全を守ることを可能にしました。 委員会のメンバー全員が正義の精神を発揮して難民の保護に最善をつくされました。彼らの不屈な意志と努力に対しては内外から賞賛が寄せられています。

 該委員会がこのように顕著な貢献を遂行することができたのは、委員会のアメリカ人が最大の努力をはらったという事実によるものにほかなりません。

 ここに連絡をさしあげましたのは、かくも精力的に活躍された委員のかたがたの名前と職業のリストを用意されて、参考までに本事務所へ送っていただきたいからです。 ご返事いただければ幸いです。

( 外交部漢口辨公処の印 )

原文と素訳を北平へ送付。写しを二部国務省へ、写し一部を南京へ送付。


(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』P200)

 ベイツに対する勲章授与は、あるいはこのリストに基いたものであったのかもしれません。


(2004.3.14記 2007.7.28追記 2015.10.18追記)


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