
| 幕府山事件 資料集 |
| 「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日 未聞の大捕虜群 ”殺さぬ”に狂喜し拍手喝采 勝敗は時の運で仕方がありません、日本軍は私らの想像以上に強かつたのです、私は紫金山要塞の参謀を努めてをり、南京戦の全戦局を語る資格を持ちませんが、句容の一線が防げなかったのがそもそも失敗でした。私は奉天省生れで奉天中学の出身中国十五年(昭和七年)奉天の陸軍大学を卒業しましたが、満州事変には参加してをりません、後でいろいろ申上げます、私の心が静まるまでこれ以上きいて下さいますな となかなかしつかりしたものだ、最後の記者が「今夜は食事を与へられるさうですよ」とつけ加へると
と頭を低くたれた
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●第五中隊
| 福島民友新聞社『
ふくしま 戦争と人間 1 白虎編』より
南京の城内には、すでに日本軍が次々になだれ込んでいた。守るべき首都を失った中国軍は、まだ日本軍の包囲網の手が届いていない幕府山方面へと、なだれを打つように敗走した。おそらく揚子江を渡って対岸へ逃げるつもりだったらしい。ところが、そこへ若松歩兵六十五連隊が進出していた。
昭和十二年十二月十四日未明、兵力二千二百余(山砲兵十九連隊など配属)の若松連隊は、その中国兵の大軍のウズのなかにはまり込んでいた。彼らはすでに統率を失い、武装はしていても戦意はないようだった。最初のうちは一人ずつ捕えてはみたが、それをしていると捕虜だけで自分の連隊の二倍から三倍もの数になってしまうに違いない。結局は「武器を捨てなさい」という形で彼ら自身に川などに小銃を捨てさせ、その大軍のなかを進む形となった。
同じ中隊で幕府山の攻撃隊に加わっていた樋口藤吉上等兵(保原町二丁目)も次のように回想する。
*以下、両角連隊長の回想ノートが続きますが、省略します。 |
●第十二中隊
| 八巻竹雄氏『南京攻略戦』
連隊は山田旅団長の下に、山砲一ケ大隊、工兵一ケ中隊と共に山田支隊を編成して、南京攻略戦に参加することになった。仝十二日大なる戦斗もなく南京城外にせまった。
その中にいた人品骨柄いやしからず、柔し皮の外套を着た将校らしい者がいた。残飯を兵隊の前で与へ様とすると、鄭重に辞退された。考えてみると支那人は面子を重んずる国民と聞く、多数の兵の前では、残飯は貰へないのだと思い、人前を避けて家屋の後ろで与えた処、結構喰べ終った。彼は我々が持つている倍もの大きさの名刺を差し出した。見た処、中央軍軍官教導総隊参謀少佐劉某と印刷してあった。彼れは既に覚悟をしていたものか、それとも単に恩義を感じたものか、着て居た立派な外套を脱いで、私に呉れようとしたが、自分は官給品ではあるが、着ているのでいらないと断った。連隊だけでも投降した捕虜は、一万数千名位いあったろう。 |
野崎渡氏『父の戦死・母の死 南京事件』 父の書簡や手帳には、それらをうかがわせるようなものは勿論何一つない。しかし、父の死後一年半程して、冒頭に記した従兵Aさんが、帰還後第一にせねばならぬこととして父の基参りに来てくれた。美味しい「会津実知らず」と、驚く程大きい「百匁柿」の入った箱を両手に重そうにぶら下げての来訪だったのでよく覚えているのだが、母はこのAさんから父の戦死の模様と共に、次のような驚くべき事実を開かされたのである。一泊してAさんが帰ったあと母は私にそれを聞かせてくれた。
「南京ではあまりに沢山の捕虜を捕え、始末に困った末、軍の命令で揚子江につながるクリークの傍で小銃や機関銃で全部殺してしまった。中には日本刀で首を打ち落したり、銃剱を付けた剣付銃で度胸試しに刺突させたりもした。中国兵もただ殺されてはおらず、勇気も腕力もある者がこれをひったくり、若い見習士官が逆に殺されたりした。その中国兵はその直後、よってたかってなぶり殺しに殺された。
それ等の中国兵の屍体は皆そのクリークに投げ込まれた。屍体は一たんは水底に沈むが腐敗がすすむにつれてガスがたまり、浮き上がって来る。その屍体で水面が覆われ、見えなくなる程だった。」いうのである。そして母は、それにつけ加えて
「いくら戦争だとは言つても、ひどいことをするもんたねえ」
と、誰にともなくつぶやいたのを思い出す。(宮城県平和遺族会編「戦火の中の青春 戦没者遺族の手記」P11)
| 藤原審爾氏『みんなが知っている』より
私たちが南京市へあと一日行程という距離まで辿り着いたのは、上海上陸後まる二カ月、十二月八日前後のことで、南京城はすでに陥落し、城内居住一般民に対するあの悪名高い大虐殺が行われていた真唯中にあたっています。 *「ゆう」注 日付は原文通りですが、「南京陥落」は十二月十三日のことでしたので、おそらくこれ以降の日付の間違いであると思われます。 銅貨あり、銀貨あり、また蒋介石政府がこの頃発行していた、円形のボール紙に銀紙を張りつけた玩具のような通貨、それらが数百メートルにわたり道路に帯のように敷かれている上を、私たちは異様な好奇心にかられながらザクザクと歩きました。 犠牲者からいずれ取上げたのに違いありませんが、それがどうして道にまかれているのか、幾ら考えてもわかりません。懐ろの固いといわれる中国人も、広場に集結させられる途中ですでに覚悟して、自ら銭を捨てて行ったのでしょうか。
さて、現場で、私たちは将校から屍体を揚子江へ投げ込む作業を命じられました。その時には誰しもが慌てて手拭で鼻と口を覆ったほど、名状しがたい悪臭がたちこめていて呼吸苦しいくらいでした。
*「ゆう」注 藤原審爾氏の小説、「みんなが知っている」(1957年) の一節です。 この小説は、「幕府山事件」に題材をとっています。記述によれば、主人公は「昭和十二年九月二十日」に召集令状を受けとり、輜重兵として第十三師団に編入されたとのことです。小説のスタイルをとっていますが、内容は「山田支隊」の兵士から取材して書いたものであることは明らかであり、いわばルポ的なものと考えていいでしょう。 後半は「幕府山事件」の死体処理作業についての記述ですが、こちらはこの兵士の直接体験であるだけに、比較的正確だと思われます。死体処理作業にここまで具体的に触れた資料は、なかなか貴重 なものです。 |
(2004.8.29記 2005.5.6「ふくしま 戦争と人間」追加)
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