あるいは共産主義者でいっぱいの日本

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』(1)―


 中川八洋氏『近衛文麿の戦争責任』が描く戦前日本のイメージは、何とも異様なものです。 何しろ、近衛文麿をはじめ、松本重治、犬養健、影佐禎昭、三木清などという、戦前日本のビッグスターたちは、実は「共産主義者」だった。 日本が戦争に引きずりこまれたのは、コミンテルンの意を受けた彼らの陰謀であった、というのですから。

 高校で普通に「歴史」を学んだ方でしたら、その荒唐無稽ぶりは、一目瞭然でしょう。ひょっとしたら中川氏の描く戦前日本は、我々の住むこの日本とは別の、パラレルワールドにあったのかもしれません。(笑)

*この本は、氏の著書『大東亜戦争と「開戦責任」』のうち「近衛文麿」に関係した部分のリメイク版であり、文章もほぼ同一です。 さらに『大東亜戦争と「開戦責任」』は『近衛文麿とルーズヴェルト』のリメイク版でしたので、氏は都合3回、ほとんど同一の内容の本を表題だけ変えて出版していることになります。
 


 日本に「共産主義政権」が誕生していた


 まずは、中川氏が「共産主義者」と認定しているメンバーを確認しておきましょう。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より

 なお、近衛文麿は「近衛上奏文」にあるごとく、対英米戦を「日本の社会主義化(共産化)」が目的のものと認識していた。 近衛は共産主義者として、一九一七年のロシア革命が成功した同じ土壌、すなわち敗戦によって生じる経済破綻と精神の荒廃という共産革命のための土壌をつくるために対米戦争を目論んでいた。(P96-P97)


中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より

米国のルーズヴェルトの周辺が共産主義者で固められていたのと同じく、日中戦争の早期講和を阻み「南進」を決行する日本でもまた、 近衛文麿首相の周辺は共産主義者の巣窟であった。

 近衛文麿が積極的に側近に登用した共産主義者としては、書記官長(=現在の官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、 ゾルゲ事件の首謀者の一人として死刑となった尾崎秀実(ソ連のスパイ)、 日中講和の阻止に暗躍した西園寺公一(中国共産党系のマルキスト)や犬養健(同上)、朝日新聞の佐々弘雄松本重治などあげるときりがないほど多い。(P66)



中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より

近衛のブレーン・トラスト「昭和研究会」の一人であった三木清も、暴力革命論の(共産党系の)共産主義者であった。(P93)



中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より


また、近衛文麿の最側近たちの(しかもすべてソ連のGRUかNKGBの工作員である)尾崎秀実、松本重治、西園寺公一、大養健らからなる、日中戦争の長期化(講和つぶし)を狙うグループは、 日本の一般国民に対して和平の連を探っているかのような一八〇度逆のイメージをつくることにも成功した。その秘訣は、これまたコミュニストの巣窟となっていたマスコミとの連携にあった。

 それはともかく、和平の道を探るかのような偽イメージをつくりつつ、日中講和つぶしに邁進した、これら「ピース・フィーラー」(和平の努力に貢献した人物)すべては、「共産革命戦争屋」の共産主義者であった。

このことは、日中戦争が何のために遂行されたかを解く鍵を与えてくれよう。このグループには陸軍から過激な共産主義者の影佐禎昭大佐(軍務局軍務課長)らも加わっていた。 彼らは中国共産党による中国支配(支那全土の赤化)をめざしていた。(P146-P147)



 ほとんど何も考えずに、手当たり次第「共産主義者」認定を行っている感があります。

 言うまでもないことですが、日本の共産党組織は、1928年の三・一五事件、1929年の四・一六事件という相次ぐ弾圧によってその力の大部分を失い、最終的には1933年の宮本顕治らの逮捕によって事実上潰滅していました。

 近衛が最初に首相になった1937年頃になっても、このような大規模な「共産主義者組織」が存在しており、しかも近衛首相自身も「共産主義者」であったというのは、中川氏の明らかな妄想でしょう。

 少なくとも、現在に至るも中川氏の所論をサポートするような材料は全く出てきませんし、「歴史学者」でこの奇想天外な説をまともに取り上げる方も存在しません。



 しかも、「近衛文麿の最側近たちの(しかもすべてソ連のGRUかNKGBの工作員である)尾崎秀実、松本重治、西園寺公一、大養健らからなる、日中戦争の長期化(講和つぶし)を狙うグループ」に至っては、 何を根拠にそのような無茶を言い出すのか、読んでいる方が頭が痛くなってきます。

 尾崎はともかく、「リベラリスト」として有名な松本重治、立憲政友会(戦後は自民党)代議士であった犬養健まで、どうして「ソ連の工作員」ということになるのか。 戦後日本共産党に入党した西園寺公一にしても、戦前は、「尾崎の親友」であった、というだけの話で、当時における「共産主義」との関わりは確認されておりません。

*このあたりの氏の議論は、三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』の影響を受けているのかもしれません。

**参考までに、前著『大東亜戦争と「開戦責任」』では、この「ソ連のGRUかNKGBの工作員である」という文言は登場しません。 この間、別に「中川説」を裏付ける新しい史実が発見されたわけではありませんので、 これは中川氏の「根拠のない暴走」と考えてよいでしょう。


 一体中川氏の頭の中では、「共産主義勢力」はどこまで広がっているのか。P93に「まとめ表」めいたものがありますので、見ておきましょう。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より

図2 近衛文麿とその側近・プレーンのマルキスト(共産主義者)たち

(昭和研究会の有カメンバー)
後藤隆之助
暉峻義等
東畑精一
三木 清
矢部貞治
稲葉秀三(●)
勝間田清一(●)
正木千冬(●)
和田耕作(●)
ほか

(内閣の朝飯会)
風見 章
佐々弘雄
笠信太郎
蝋山政道
尾崎秀実(*)
牛場友彦
西園寺公一(*)
犬養 健(*)
松本重治
   ほか

(*)ゾルゲ事件で逮捕
(●)
企画院事件で逮捕

(P93)


 要するに、近衛文麿のブレーン組織、「昭和研究会」「朝飯会」に属していたら、それだけでもう、「共産主義者」と認定する材料になってしまうようです。



 このうち真正の「共産主義者」は、尾崎秀美ただ一人、と言っていいでしょう。

 この中には勝間田清一や和田耕作のように若い頃「治安維持法違反」で検挙された経験を持つ人物も少なくありませんでしたし、そのために「昭和研究会」が一部右翼から「アカ」の嫌疑をかけられていたことは事実です。 あるいは西園寺公一や風見章、勝間田清一らのように戦後「左派政治家」として活躍した人物も存在します。

 しかし、厳しい弾圧によって「共産主義」が事実上封印されてしまった当時において、彼らがあえて「共産革命」を目指して活動していた、とする証拠は、何ひとつありません。 近衛首相とその周辺が全員共産主義者であった、と言わんばかり氏の決めつけは、間違いなく「妄想」の域に達しています。



 なお治安維持法下の弾圧事件であった「企画院事件」は、関係者のほぼ全員が「無罪」判決を受けており、今日では「でっち上げ」であったことが明らかになっています。 中川氏は、このような「史実」を無視して、「企画院事件」関係者があたかも実際に「共産主義者」であったかのように読者を欺いているわけです。

 治安維持法の研究家、奥平康弘氏が「まとめ」を行っていますので、紹介しておきましょう。

奥平康弘『治安維持法小史』より


企画院事件

 さて、企画院事件というのは、三〇年代後半に生じた「(企画院)判任官グループ」事件と、それに端を発して四〇年代初期に検挙された「(企画院)高等官グループ」の事件との複合体である。(P226)

(略)

 結論をまずいえば、高等官グループは、約三年ものあいだ留置場および未決拘置所で拘禁されたのち、一応保釈された。 そして、敗戦直後の一九四五年九月、これら被告人のうち和田、正木、勝間田、稲葉は無罪とされた。佐多だけは、櫛田民蔵全集の編纂にあずかったという理由にならない理由で懲役一年半、執行猶予二年の刑を言い渡された。

 このように、最終的には−おそらくは敗戦という重大変化を媒介として、はじめて−裁判所も、この事件がデッチあげであることを認めなければならなかったが、 問題はいったい、この事件の本質はなんであったのか、である。(P228)

(略)

 当時、挙国一致の新体制運動が展開中であったが、運動の担い手はばらばらであった。わけても、親軍的な一国一党を標榜する「革新」右翼と国体明徴といった精神運動を重視する「観念」右翼の対立が、顕著であったのである。 それぞれが、軍のなかの統制派と皇道派と結びついて、右翼のなかの主導権争いをしていた。

平沼らの観念右翼は、共産主義のみならず、ナチスやファッショに似た一国一党の「革新」運動をも、わが国体に反し許されないと考えていたのであった。

企画院や昭和研究会の新経済体制構想は、平沼らからみれば、共産主義的であろうと全体主義的であろうと、いずれにせよ「国体」と相いれない排斥すベきものであった。
(P230-P231)

この統制経済・企画経済の考えは、陸軍軍務局を中心とした軍内部でも支持されていたが、平沼らはこのような勢力をも放逐する必要を感じていたのである。

じっさい、平沼だけではなくて、近衛らも、「革新」官僚と結合した軍部のうごきは、共産主義運動にほかならないと真面目におもっていたらしい(例えば、矢部貞治編著『近衛文麿・下』、一九五二年、弘文堂、五三一頁をみよ)。

 企画院事件は、こうした体制内部の抗争を反映するものにほかならなかった。それは、財界と癒着した観念右翼が、日本ファシズムの路線確定で主導権をにぎろうとして打った手であった。 官庁や軍のなかに「アカ」がいるという風説を、単に風説としてでなく、本当に「アカ」がいると摘発してみせた企画院事件は、官僚および軍一般に対して絶大なる影響をおよぼしたのである。

 企画院事件は、このように四○年代初期の政治勢力争いを背景にして、治安維持法の発動という手段を利用しうる勢力がデッチあげた、高度に政治的色彩のつよい事件である。

デッチあげといっても、ふつうの犯罪事件とちがって、思想犯罪のばあいには、犯罪を構成する事実は、思想とか目的意識とかにほかならず、それはまた当事者の主観をはなれても、 当局が適当に客観的に読みとったり推定したりして摘示できるものであった。つまり、治安維持法は権力者が政治目的をもって利用しようとおもえば、いかようにでも利用できる、便利な法律であったのである。(P231)



 要するに、平沼騏一郎ら「観念」右翼が、対立する勢力の影響力を削ごうと、相手を「アカ」呼ばわりしてデッチ上げた事件、と総括できます。



 さて、実態はこんなところだったのですが、中川氏の頭の中では、こんな驚くべきことが起ったことになっています。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より

 つまり、日本には一九三七年六月、近衛内閣という、正真正銘の共産主義政権が誕生したのである。そしてただちに、支那(中国)を共産化するための日中戦争を開始したのである。

*『大東亜戦争と「開戦責任」』では、「日本には一九三七年六月、事実上の共産主義政権が誕生した」となっています。 「事実上」から「正真正銘」にグレードアップした形です。



 「近衛政権」の成立をもって「正真正銘の共産主義政権の誕生」と決めつけ、さらに日中戦争の真の目的は「中国を共産化するため」だったとまで言い切ってしまう。氏の妄想は、止まるところを知りません。


*実を言えば、近衛自身、「意識的に共産革命にまで引ずらんとする」一大共産主義者グループが存在し、彼らが「無智単純なる軍人」を踊らせて愚かな戦争に導いた、という、ほとんど「妄想」としか言いようのない考えに取りつかれていたようです(「近衛上奏文」参照)。 この近衛の「妄想」に、実は近衛自身まで「共産主義者グループ」の一員であった、という更なる「妄想」を附け加えたのが、この中川氏の著作である、と言ってよいでしょう。




「共産主義者」近衛は「戦争」を望んだ


 さて、「共産主義者」近衛文麿は、いったい何をしようとしたのか。このあたりの中川氏の「解釈」、オリジナルティ溢れるもので、皮肉なことに、本人の意思に反して大いに「楽しめる」ものになっています。

 念のためですが、中川氏は、はっきりと「右派」=「タカ派」の論客です。本書でも、「過激」としか言いようのない主張を展開してみせます。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より

「八年戦争」を真に反省するのであれば、「八年戦争」そのものによって樹立された中共(中国共産党の政権)を倒壊させることそれ以外はない。 冷戦の終焉がソヴィエト帝国の倒壊によって達成されたように、「八年戦争」の終結は、中共政権の倒壊で真に初めて達成される。別な表現をすれば、中共が存続している限り、「八年戦争」は終っていない。

 また、日中戦争は日本に非があると日本を糾弾する立場に立脚するならば、それは中国を一九三七年の日中戦争以前に戻す責任を果たすことであり、 中国を一九三七年時の国家である中華民国に戻すことを意味する。日本の支那(中国)に対する戦争責任とはこれであって、これ以外ではない。(P36)



 「中国共産党打倒」の思想を、前面に押し出しています。それも、「中国の民主化」を求めるのであればまだしも、「中華民国に戻す」というのでは、いささかアナクロ過ぎる感は免れないでしょう。


 
それはともかく、「日本は戦争など欲していなかった」「にもかかわらず戦争が惹起し拡大したのは、中国なり米国なりの責任である」と主張するのが、通常の「右派」の「定石」です。

 しかし、中川氏はこんな「定石」には従いません。戦争を起こし、拡大させた責任は、決して中国や米国の側にあるのではなく、全面的に近衛文麿の側にある、という、「右派」が頭を抱えてしまいそうな主張を展開します。

 以下、具体的に見ていきましょう。




 以下の話の前提として、まずは近衛文麿という人物の「評価」を確認しておきます。

菊地正憲氏『「バスに乗り遅れるな」 近衛文麿と大政翼賛会』より

 日本を戦争の泥沼に引きずりこんだ無能政治家として評されることの多い近衛。いくら弁明に努めても、日本が開戦に至るまでの過程でトップの座にいたのだから、責任は免れない。 安藤(正純)が述べたように、軍に踊らされた、哀れな人気宰相でしかなかったのである。

(『新潮45』2005年12月号 P39)



 「日本を戦争の泥沼に引きずりこんだ無能政治家」 ―やや感情に流れているきらいはありますが、結果として近衛が、日本を泥沼戦争に引きずり込んだことは事実であり、 これはある程度世間から認められた見方と言えるかもしれません。

 ところがこのようなマイナス評価を、中川氏は見事に引っくり返してみせます。近衛は実は「無能」だったのではなく、「確信犯」的に、断固たる意思をもって、日本を戦争に引きずりこんだ、というのです。




 まずは、近衛内閣成立後わずか1か月あとに起った、盧溝橋事件です。事件4日後の7月11日、近衛内閣は「三個師団派兵」を決定しますが、これへの中川氏の評を見ましょう。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より


 半年前の一九三七年七月七日の盧溝橋事件から四日後の十一日の午後八時(日本時間午後九時)に停戦協定が現地の松井(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)によって調印(・発効)されたのに、 ちょうどこのときに、近衛は総理官邸に報道界(午後九時)・政界(午後九時半)・財界(午後十時)の代表を招いて、内地三個師団を派兵するとの「北支派兵声明」の説明という形でそれを国家あげての"お祭り"にして内外に派手派手しく宣伝した。

 これによって、おおむね同時刻に発効したせっかくの停戦協定は、一瞬にして存在しない死文となってしまった。

 なぜなら、「北支派兵声明」のほうは、翌日の朝刊をもって大ニュースとして世界をかけめぐってしまったからである。その一方で、この停戦協定の締結という真の平和の事実は小さくは報道されたが、 大仰な「北支派兵声明」の報道の陰で未熟児が縊死されたごとく、すでに生命を絶たれていた。

 いやそれよりも、この「北支派兵声明」を決定した閣議終了(午後三時四十分ごろ)と同時に、「松井・秦の停戦合意の見込み大」との支那駐屯軍からの電報が届いており、 この「北支派兵声明」の発表(午後六時半)をするそのこと自体、理由も根拠もすでになかった。

 しかも、この停戦協定の調印に数時間も先だって、日本時間午後一時には中国側が撤退を開始しており、午後一時半には日本側も駐屯地への帰還を開始している。この状況を踏まえて現地は先述の「停戦合意の見込み大」の報告を打電したのである。

つまり、この「北支派兵声明」の閣議そのものが不要であった。少なくとも、この電報受信とともにその発表はしばらく凍結するのがごく常識だろう。(P135-P137)



 折角「現地解決」が成立しようとしていたのに、近衛は、「北支派兵」という愚かしい声明によって停戦の動きをぶちこわしてしまった。近衛自身、いろいろと思惑があったようではありますが、結果を見ると、これはまさに近衛の「無能」の証明になってしまった、と言わざるをえません。

 中川氏の上の文は、思わず拍手を送りたくなるような、全く正当な評価です。しかし中川氏は、この後、思い切りのどんでん返しを用意していました。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』より


すなわち、「北支派兵声明」そのものが、そしてその閣議も、この停戦をつぶすことを狙っての近衛が発案し近衛が実行した、悪の策謀であった。

 さて、近衛文麿がわざわざ三界の代表を招いて「北支派兵」決定をぶちあげるそのお祭り騒ぎの最初の客は、まず午後九時、新聞・通信社の代表たちであった。東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら約四十名であった。 次に、午後九時半に民政党総裁や貴族院議長ら政界代表三十四名であった。午後十時に財界代表で日銀副総裁以下二十二名であった。

政界や財界よりもマスコミ界を優先するところは、レーニンやヒットラーに似て、議会制民主主義の否定論に立脚する、独裁主義者の近衛文麿らしい行動であった。むろん、先にマスコミ界と結託することによって、 政界と財界における、北支派兵に反対するあるいは疑問視する多数派をおさえこみ、既成事実をつくるためだった。(P137)



 近衛は無能であったわけではなく、確信的に「停戦つぶし」を狙ったのだ、というわけです。

 このような大胆な「異説」を主張するのであれば、普通の研究者でしたら、関係者の証言なり、コミンテルンの内部文書なり、具体的な根拠資料を用意するところですが、もちろん氏は、資料的裏付けを何ひとつ示すことができません。根拠は氏の脳内の「妄想」のみ、と言ってもいいでしょう。

*「三個師団派兵決定」をめぐる詳しい経緯は、 「盧溝橋事件 「拡大」への道程 ー内地三個師団等派兵決定ー」をご覧ください。 「三個師団派兵決定」が、盧溝橋事件を「拡大」に導く決定的なターニングポイントになった、という一点においては、私は中川氏と、完全に認識を同じにしています(笑)。

**なぜ「三個師団派兵」などという愚かしい決定をしてしまったか、ということについては 、風見章『近衛内閣』石射猪太郎『外交官の一生』あたりが参考になるでしょう。 どうやら近衛内閣は、杉山陸軍大臣が「現地兵力があまりに手薄である」として出してきた「派兵提案」を、たいした考えもなく受け入れてしまったようです。



 そして中川氏は、8月15日の「第二次上海事変」についても、近衛の責任を徹底的に「追及」してみせます。 右派論壇では、「第二次上海事変」を、「戦争を望んだ中国、望まなかった日本」の典型的事例として採り上げることが多いのですが、皮肉なことに、中川氏の論はこれと真っ向からぶつかる形になっています。


中川八洋『大東亜戦争と「開戦責任」より


 日中間の戦争を拡大(エスカレート)することに執念をかける近衛文麿は、この 嵋婿拉品疾写澄廖兵祁扈衆貽)、⊇畭瑤瞥住餐蔀屐兵祁扈充憩、七月二十六日)につづき、 八月十五日に中国を刺激することを狙ったとしか考えられない激越な「今や断乎たる措置をとる」声明をわざわざ発表した。さらにぁ嵒坡搬臺針を放棄する」との閣議決定までわざわざなした(八月十七日)。 そして、中国の上海あたりにまで拡大したからといって「北支事変」の名称をはやばやとッ羚饒甘擇棒鏖个拡がったごとくに「支那事変」と改めた(九月二日)。

 この、ぁ↓イ蓮単に海軍中尉と水兵のたった二名の日本の将兵が上海で殺害された事件(八月九日)をうまく利用して、拡大しているという誤ったイメージ(虚像)を、「拡大していない」現実より先行させ、 事態を拡大に導こうとするものであった。

これにからみ、八月十三日の閣議で二個師団(第三、第十一師団)の追加派遣を決定しているが、これもいやがる陸軍を拡大にひきずりこむ近衛文麿の強硬な指導なしには不可能な決定であった。(P143-P144)

 この八月十五日の日本政府の「今や断乎たる措置をとる」声明はまた、海軍が南京に対してなした長崎(大村)から東シナ海を渡洋しての爆撃と同時であった(二十機)。 当時の日本の航空能力の飛躍的な進歩を示す実験を兼ねたデモンストレーションでもあった、 この渡洋爆撃は、中国や世界からみれば日本が問答無用とばかりの派手な対中国全面戦争をしているとしか映らない、有効な演出となった。(P144)







 そして翌1938年1月、日中和平交渉に行き詰った近衛文麿首相は、とんでもない声明を発表しました。いわゆる「蒋介石対手とせず」声明です。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』

第二節 「蒋介石を対手とせず」

 交渉している相手国政府、交戦している相手国政府を突然「政府と認めない」とすれば、いかなる外交といえども交渉そのものが成り立たない。誰にもわかる常識以前のイロハである。 また、そのようなことは当時の国際社会においてもルールに反し、文明の国際社会の一員としてあるまじき「野蛮」な対外行動であった。

 政友会の長老の小川平吉は近衛文麿に「蒋介石ヲ相手トセル戦争ナレバ、蒋介石ヲ相手トシテ講和ヲ為スハ当然ナリ」(『小川平吉関係文書』)と諌めているが、そのとおりである。 しかし、日本は一九三八年一月十六日、そのような外交交渉のイロハに反する、まさしく信じられない行為を世界の注目するなかでやってしまった。「国民政府(蒋介石)を対手とせず」という、 総理近衛文麿の独断による内閣声明の発表である。

 当時の中国において正統政府はただ一つ、国民党の蒋介石政権しかなかった。しかもこの政権が中国全体への実権をほぼ手中にしていた。 だから、この声明によって、日中の和平の道を探る唯一のパイプを日本側からこっぱみじんに破壊してしまったことになる。(P132-P133)




 自ら戦争の相手国との「対話」の途を閉ざしてしまう。近衛は何と愚かしいことをやってしまったのか。これでは戦争を終わらせようがないではないか。 (「蒋介石対手とせず」声明については、こちらに関連コンテンツがあります)

 これまた拍手を送りたくなるような「まっとうな」見解ですが、もちろん中川氏は、こちらでも「どんでん返し」を用意しています。

中川八洋『近衛文麿の戦争責任』

 それは日本の誰か(ある勢力)にとって、中国との和平そのものを断固として排除しなければならなかったことを意味している。中国と永遠に戦争がつづくこと、それが総理近衛文麿の目的であった。 日中間の戦争それ自体が無期限に継続されること、それが近衛文麿の執念をかけた狙いであった。(P133)




 つまり、近衛が思い切り悪意の固まりの政治家で、実は「中国と永遠に戦争がつづくこと」を目論んでいたのだ、と考えれば、近衛のこんな愚かしい行動の説明がつく、というわけです。 念のためですが、例によって中川氏は何も裏付け資料を用意しておらず、根拠は氏の「想像」だけです。


 この声明の4か月後には、近衛は自分の声明の失敗を認識し、新たに任命した宇垣外務大臣に対し、声明を「うまく取消す」ことを依頼しています。 「「和平工作」を阻んだもの 近衛声明、そして国内世論」参照) そして宇垣は、中国との講和のルートをつくろうと、必死の努力を重ねます。

 おそらく中川氏から見れば、このような都合の悪い事実は、すべて近衛が自分の真意を隠すために行った「偽装」ということになるのでしょう。

*ちょっと考えれば明らかな通り、中川氏のこの所説は、かなりの「危なっかしさ」を包含しています。 「近衛が共産主義者であった」という無茶な主張が崩壊すると、あとには、「戦争を拡大させた責任は、中国や米国の側にではなく、間違いなく日本側にある」という、 右派にとっては何とも都合の悪い主張だけが残ってしまうのです。

 ネットの右派の方の中には「中川説」の支持者が少なくないようなのですが、彼らがこの点をどのように考えているのか、興味を引かれるところです。

 こんなおかしな見方をベースに、中川氏は、さきほどの菊地正憲氏の「軍に踊らされた、哀れな人気宰相」との見方を、まるごとひっくり返してみせます。


中川八洋『近衛文麿の戦争責任』


近衛文麿の実像とは「優柔不断」の逆であって、独断と暴走的な実行力をもった政治家であった。「優柔不断」は"偽情報"である。

ヒットラーやスターリンと何一つ変らぬ独裁と強行、それが近衛外交であった。
また、軍部のなかの最先鋭分子といつも結託し、軍部全体の先頭に立ち、軍部を牽引する"魔性の機関車"の政治家であった。要するに、専断的に独走する「狂った政治家」であった。(P135)



 近衛はバカなのではない、バカのふりをしていたのだ、と言いたいようです。中川氏の妄想の終着点、と言えるでしょう。


*この本では、「新体制運動」や「日米開戦」も近衛の「陰謀」として語られていますが、私があまり知識を持つ分野ではありませんので、割愛しました。 関心のある方は、直接この本をご覧ください。

**
中川氏自身「思い込み」が激しい人物であるようで、この本にはあらゆるところに細かい「間違い」、露骨な原典資料の「トリミング」、あるいは明らかな「曲解」が目立ちます。 この本を根拠に議論しようとする方は、十分に注意した方がいいでしょう。少なくとも「他の一般的な歴史書にはどのように書かれているか」程度のことは確認しておいた方がいいと思います。

 

(2010.9.23)
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