「自殺日記」


<はじめに>
2005年2月、私は「自殺について考えた」という1冊の同人誌を発行しました。内容は自殺をテーマとした漫画、エッセイ、意見文などを連ねたアンソロジーで、他に8名の方に参加していただいています。

極めて個人的な話で恐縮ですが、私には自殺未遂の経験があります。その結果治療を打ち切っていた持病の再発、運転免許が取得できない、将来奇形児や障害児を出産する可能性が他の人より高くなった。持病があるから、海外旅行の際保険に入れない・・・・・・。などの事態を引き起こしましたが、全く後悔はしていません。

決してお勧めはしませんが、そこから学んだ事も多かったので「やって良かった!」と思っているのが現状です。

たかだか本1冊、さらに自費出版、さらに同人誌なので、読む人だってコミケなどを利用する限られた人たち。本当にとても小さな力かもしれません。しかし今の世の中の常識を考えると、自殺のような暗い話は極力避けられている内容、もしくは禁じられているものではないでしょうか。

せめてこの本を読んだ人達の間だけでも、自殺についてもっと開放的に話し合えるようにならないだろうか。それによって、自殺を考えている人達に精神的な意味での居場所が出来、自殺をする人も世の中から減らせるんじゃないだろうか。そのような願いを込めて本を作りました。

「誰かに自分の声を聞いて欲しい」「誰かに悩んでいる自分を助けて欲しい」という個人的な理由も少しあったのですが。

私が語るべき言葉はこれぐらいに留めておく事にして、詳しくは本編をご覧下さい。

また、このエッセイに関する質問、批判的な意味でのコメントは一切受け付けられませんので、ご了承ください。
これより本編が始まります










 小学校に入学して、二年目か三年目の梅雨の季節。細い雨の降っていたその日、私は道端に生えていたキノコを摘んだ。真っ白でふんわりとした、シイタケから色素を抜いたような感じのものである。当時習っていたピアノ教室の帰り道で、辺りはもう暗かったのを覚えている。持ち帰ったそれは酸素に触れたためか茶色く変色し始めていたが、構わずそのまま口に入れた。毒キノコだったら、これで死ねると思ったのだ。生のまま食べるキノコは独特の不味さがあって一口めから吐き気を催したが、結果的には何事も起こらなかった。それが初めての自殺未遂だった。

 小学校に入学してから中学校を卒業するまでの九年間、私はずっといじめに遭っていた。通学班を含めた上級生に下級生、そして同級生たちから。それは学年が上がるにつれて徐々に広がっていき、気がつくと一部の学年を除いてほとんど全校児童の男女からいじめられるようになっていた。小学校というものはまだ先輩後輩といったものがないし、基本的には近所の子どもたちが集まる場所でもある。子どもというものはそうなのかもしれないが、ある意味団結力が強かったのかもしれない。

 いじめの事実が両親に発覚したのは三年生の時だったが、反応は次のようなものだった。曰く、いじめられるのはお前に原因があるからだ。曰く、どうして言い返さないの?曰く、お前はなんて情けないんだ。ほとんど怒鳴るような勢いだった。

四年生に進級し三歳下の妹が同じ小学校に通うようになると、それはこんな風に変化した。

お前がいじめられているから、○○ちゃん(妹の名前)も学校で変な事たまに言われるのよ。しっかりしなさいよ。

この妹は、何故か通学班でも私の妹であるのにも関わらずいじめに遭わなかった。そしてまた、男というものは子どものうちは女子にも同性同様手を上げるらしく、妹も近所や同じクラスの少年たちからある程度は色々されたらしい。しかし抵抗している最中に相手がかわいそうな気がし、途中でやめて結果的に泣かされてしまう私と違って、彼女はある日勇敢にも戦った。すると、まだ男女でそれほど体力差がない時期だったためか、妹は近所の少年たちに勝ってしまった。それ以来彼女は少年たちにも認められて何人かと親密になり、クラスでもだいぶ大きな顔をするようになったらしい。

話は両親に戻るが、父親はいじめのせいで(主に男子たちによる暴力・悪口)男性恐怖症となった私を持て余すようになっていた。おそらく父の目からは男性恐怖症なのではなく、ただ単に自分が姿を見せるだけで娘がビクビクした顔をするように見えたのだろう。実際ろくに話してもいない人間にビクつかれると人はイライラするものだし、そういう態度を見せることは失礼である。父はビクビクした私を見て、「何をビクビクしてるんだ。シャンとしろ!」と言って怒鳴った。

 学校ではいじめに遭い、親には慰めてもらえるどころか情けないと言って責め立てられる。そして最初は少しいた友達もだんだんと減り、気がつくと一人もいなくなっていた。小学校低学年にして学校にも家庭にも居場所がなくなった私は、やがて自殺を考え始めた。それは小学校の三年生から、高校を卒業する頃まで毎日続いた。自殺の回数は覚えているだけでも八回あり、ほとんどの方法は服薬(ODなど)と首吊りだった。それほどひどくはなかったが、一時期手首も切っていた。

 悪夢のような九年間が終わると、当然の成り行きとして高校生になった。

高校に入れば変わる!と内心期待していたが、中学校まで友人というものがないに等しかった私は人間関係をどうやって築けばいいのか知らなかった。

人とどのように会話すれば良いのか、そして気の合う人間とそうでない者の見分け方も。

さらに、いじめの後遺症で、ひどい対人恐怖症にもなっていた。

いつの間にか出来上がっていくグループのいずれにも所属出来ず、何か話そうとしても「○○ちゃん。おはよう」以上の言葉が出てこない。さらに私自身、クラスメイトたちと積極的に交わろうとしなかった。例えば昼休みになると一人で教室を抜け出し、聖堂など(カトリックの学校だった)誰も自分を傷つける人の来ない場所に籠もっていた。そんなわけで、高校でも友人はほとんど得られなかった。

 やがて卒業の時期が来て、大学生になった。これまで、「中学校に入れば」「高校に入れば」きっと友達も出来て幸せになれる。人並みの人生を送る事が出来る。そうやって希望を先送りにしていた私にとって、大学は最後の砦だった。

その希望を現実のものにしようと、入学式前日のガイダンスに出かけた私はそれまでになかった行動を起こした。隣の席に座っていた二人組の少女に、声をかけたのである。幸い彼女たちは私と同じクラスで、この大学には指定校推薦で入ってきたらしかった。その日のうちに受験時に彼女達が出会った数人の少女も加わり、あっという間に大グループに所属する事になった。そしてその中の誰かの友達、その友達の友達。そういった感じでグループはどんどん広がり、人間関係も広がっていくように思われた。

それは初めての人並みの付き合いだったので、自分だってやれば出来るんだ。そう思い、私は少し自分に自信を持つようになる。が、異変は授業が始まり数日後に起こった。

グループに新しい仲間が入ってきたのである。それは、一見するとごく普通の少女だった。しかし、こちらが特に何かしなくても、気の合わない人は敏感にそれを感じ取るらしい。私は彼女と、一対一でまともに話した事など一度もない。しかし彼女は何故か私を避け、例えば同じ授業で居合わせても挨拶もしない、目が合っても見えない振りをした。その授業ではクラス割の関係で、グループ内のメンバーは私と彼女の二人きりだったのだ。それでも彼女は先に教室に来ていた私が見えない振りをした。そして、目が合うと少し目を大きく見開いて私をじっと見つめる。まるで、何かに慄いているように。話しかけると普通なのだが、目が合ったことについては「私はあなたに会った覚えはない」と言い切るのだ。そんな彼女はリーダーの少女と仲良しになり、一緒になって私を仲間はずれにした。と言うのは私は元々授業には少し早めに行く性格なのだが、彼女はリーダーと二人で少し遅れて入ってくるのである。そして私には目もくれず、二人だけで違う場所に座る。他のメンバーは当然人が多く、リーダーがいる方向に行ってしまうので結果的に孤立させられるのだ。

 入学から、一ヵ月半後。私はそのグループから出た。これで友人は一人もいなくなってしまった。大学では一年生の前期、つまりこの時期だけ週に一回クラスごとに集まって行う授業があった。だから多少努力すれば、あるいはクラスの中で友人が出来たかもしれない。しかし前期の半分はもう終わろうとしており、クラスの人間はもうそれぞれ自分と合った友達を見つけ固まっている。そして私はグループを出るまでは、その一部でもある同じクラスの少女二人といた。彼女たちはもう二人ではなく、同じクラスの中で他に男女含めて三人も知り合いを作っている。そのうち二人はやはり何かを感じ取ったのか私を敬遠しており(やはりまともに喋ったことなどロクにないような二人だ)、さらに先に書いた私のかつて所属していたグループの二人とは、別のグループに所属していた。私が話しかけてみたいと思った人々はそのグループの一部の人間で、だから行動するのは憚られた。彼らと話すということはつまり、私を避ける連中に擦り寄るという事を意味していたのだ。そんなある日、偶然にもオープンキャンパスの時に知り合った在校生、つまり先輩と再会した。私はその人に頼み込み、彼女の所属する部活に入れてもらった。

 部活には、私を省いて三人の新入生がいた。そのうち一人は顔が広く人付き合いが得意な性格だったが、もう一人の少女と一緒によくサボった。事実上、二人は幽霊部員だった。そして最後の一人は、これがその後大学生活を共にする事になった少女なのだが、よく判らない人だった。何を言っても、「うん」とか「ああ」の一言二言で返事が終わる。部活には毎回来るし、同じ授業だと私の隣の席にも座る。しかし、全く楽しそうな様子も笑顔も見せない。いつも無表情に返事を繰り返すだけで、自分からはほとんど何も喋らない。さらに同席すると、例えば四人がけの椅子があった場合、普通ならすぐ隣に座るだろう。しかし私が右端にいると彼女は左端に座り、真ん中の二つの椅子には各自の荷物が置かれるのだ。当然、会話は成立しない。そんなわけで会話をしても全く楽しくなかったし、だから彼女から離れようと何度も考えた。しかし私の通う大学では、部活というものがまだなかった。というのも、その大学が出来たのは私が入学する一年前で、私が一年生だった当時は大学内に二学年しか学生がいなかったのだ。大学では部活は学生が興すものなので、出来たばかりの大学に部活がないのは当然とも言える。だから部活で友人を作ろうという目論みは、もろくも崩れた。そして人がたくさん集まりやすい部活としては、演劇部がある。当時はもう演劇部なる部活は出来ていたので入ろうとも思ったが、そこには私が離れたグループの人間の一部がいた。だから彼女と一緒にいるしかなかったのである。結局大学でも友達と呼べるような人間、例えば一緒に遊びに行ったり楽しく会話できるような相手は出来なかった。

「中学に行けば」「高校に行けば」、友達も出来て幸せになれる。自分も人並みになれる。そして高校でも駄目だったから、大学が最後の希望だったのに。私の自殺日記は、ここから始まる。

 小学校の三年生か四年生の時だったと思う。はっきりと覚えていないので、もしかしたら六年生だったかもしれない。学校の最上階にある図工室から飛び降りる事が出来なかったある日、密かに決めたことがあった。

「二十歳、つまり大人になるまで生きてみて、幸せになれなかったら自殺しよう」。

そして約束の二十年が経った。私はまだ一人。希望はなくなった。もう死ぬしかない。

 それまでは自殺したいという思いが頭を掠めても、二つの事に引き止められていた。一つは、失敗したらどうなるかという恐怖。そしてもう一つは大抵の若者が抱きやすい幻想で、自分にも何か人をあっと言わせたり歴史に名を残すような偉業が成し遂げられるかもしれない、という希望だった。しかし二つめはそのうちに消え、あとは一つめだけになった。絶対に失敗しない方法を選ばないといけない。

 いつか読んでいた本(小説だが)で、頭痛薬を使った自殺方法が紹介されているのを見かけた事がある。正確に言えばそれは自殺方法ではなくて、睡眠薬の代わりに市販の頭痛薬をアルコールと一緒に服用するという事だった。そして作中では、その行為は二度と目覚めなくなる可能性があるので、絶対に真似をしないように。と、主人公が釘を刺されていた。私は生理痛で産婦人科に通っているのだが、そこで痛み止めを処方されている。早速、通常量を家に置いてあった梅酒で流し込んだ。もうこれで何も悩まなくて良い、何も苦しまなくて良い。布団に入りながらこの上もなく幸福に満たされ、こころなしか景色もいつもより綺麗に見えた。そして、私は眠りに就いた。

 翌朝。私は、何事もなかったように目が覚めた。どうやら量が足りなかったらしい。とてつもない脱力感を味わいながら、私は授業を受けるために登校した。その後多少量を増やしたり他の薬と混ぜたりもしたがいずれも失敗に終わり、ひどくてもお腹を下す程度だった。

 当時大学ではもう三年生になっていたが、この年に新たに挑戦した事があった。新しく部活に入ったのである。私の通う大学では確かにまだ部活は全くと言って良いほどなかったが、もう一つはそうでもなかった。大学にはキャンパスが二つあったのである。私が通っている方のキャンパスはまだ出来て数年だったのだが、もう一つはかなり古い歴史を持っていた。「二十歳まで生きる」そう決めていた私だが、それには二十歳を超えるまで、つまり二十歳いっぱいはまだ頑張ろう。そういった気持ちも微かに込められていたのである。三年生とは言え新入部員だった私は、一年生と一緒に行動する事が多かった。だから一時期は一年生と仲が良くなったが、学年が違うこととキャンパスが違う事で話が合わず、二ヶ月経った頃には完全に孤立していた。正確に言えば、普段私はそちらのキャンパスにはいないので、それぞれに出来たグループのいずれにも所属出来ていないのだった。だから受け入れてくれてはいるものの、こちらから話しかける事はあっても話しかけられる事はない。同様の理由で同学年の学生たちともキャンパスが違う事と私が新入部員である事で関わる機会がほとんどなく、結果的にはどちらの学年でも居場所がなくなった。こういった努力をしたにも関わらず、相変わらずうまくいかなかったのだ。この事も希死年慮、つまり自殺したいという思いに拍車をかけた。

 さて、痛み止めでは死ねないと解った私は、今度は飛び降りる場所を捜し始めた。しかし、いざ飛び降りようとすると下に自転車置き場の屋根があったり、失敗した時の事を思うと実行出来ない。

助かっても背骨が折れて、車椅子生活になったら嫌だ。頭を強く打って失明したら嫌だなど、様々な思いに駆られた。

そして、その間に腕や手首を切るようにもなっていた。リストカットをテーマにした同人誌を読んだことと、一つの記事を見つけた事がきっかけだった。その記事にはこうあったのだ。

リストカットをする者は慢性的な貧血状態におかれる。つまり、それによって心臓の弁が破れてショック死する事があるのだと。

ショックで死ねるなら、苦しまないで済むはずだ。

 カッターナイフを左手に当てる。本当の手首だと、縦に走っている筋のようなものを切ってしまいそうで怖いので、少し下の方に刃を置く。それから軽く力を入れて、刃を素早く横に引いた。手首自体を深く切ってしまった回数は数える程しかないが、落ち込んでいる時やイライラしている時に血を見ると落ち着いた。何かを超越したような、何かに復讐を遂げたような。こんな事が出来る勇気があるんだから、自分には何だって出来るんだ!そんな達成感と、爽快とも言える気分にすらなった。そして傷が塞がってくるとそれを心の傷に照らし合わせ、「傷はいつか治っていくのね」と一人で感慨にふけった。

 ある日、最寄りの駅のデパートの本屋で一冊の本に出会った。それは、『完全自殺マニュアル』という本だ。コミックスでもないのにその本はビニールで厳重に包まれ、『十八歳未満の方は購入しないで下さい』という看板がつけられている。私は迷わずそれを手に取り、レジに向かった。それは正に捜し求めていた聖典で、福音書だったのだ。実際その本にはいくつかの章が設けてあり、その中に詳しい自殺方法が記載されていた。失敗しても障害が残らない方法を、と思った私は服毒で実行する事にした。その本によると、紹介されている薬はみんな失敗しても障害が残らないものばかりとあったからだ。

 そして、二一回目の誕生日の二日前。自ら設けた「二十歳まで」という期限が切れる事に気づいたため、何日か前から薬を買い始めていた。再び名前は伏せるが、それは市販の割と有名な酔い止め薬だった。親が寝た事を確認すると、本に書いてあったよりも少し多めの量を手にとって買っておいた白ワインのボトルで流し込んだ。飲んだ後、「本当に飲んでしまったのだ」という感覚に捕らわれかけたが、後悔は微塵もなかった。ただ、いつ意識を失うかと思うと緊張と興奮で目が冴え、全く眠くならないのだった。

 翌朝、結局一睡も出来ないまま夜が明けた。また失敗したのだと思いながら、いつものように布団から起き上がろうとした。が、すぐに何か様子がおかしい事に気づく。というのも体を起こした途端、頭の中がひどくグラグラしたのだ。上を向く度に、下を向く度にそれはひどくなっていく。横になっていた間は、全く何ともなかったのに。眠らないまま長時間横になっていると、たまに後頭部あたりがだるくなったり、頭が少しグラグラすることはある。が、それとは少し違うようだ。立ち上がると、足がひどく震えてうまく立てなかった。もちろん、真っ直ぐに歩けるわけがない。どうやら横になっていた時には体のどこかで止まっていた薬が、体を動かした事によって急速に全身に回り始めたらしい。仕方がないので階段を降りて(私の部屋は二階にあった)、すでに起きていた家族に助けを求めた。その間にも薬はどんどん回っていき、やがては意識まで侵されていった。

 父親の車で地元の総合病院に行き、既に立つ事も出来なくなっていた私はすぐに救急治療室に運ばれた。血液検査までされたのだが、酔い止めはシロと出たのだろうか。中学生の時に発症し、現在も治療中の脳の病気を持っているのだが、それの発作だと言って片付けられた。実際それは脳を破壊して中枢神経を侵す自殺方法だったので、脳の病気が再発しても不思議はない。そんな診断を下す医師を私は内心笑ったが、親に自殺がばれなかったので安心もしていた。子どもがいじめられても怒鳴りつけた親だ。全く、ばれたら何を言われるのか分かったものではない。

 半日にわたる検査と点滴の後、もう帰っても良いという事で帰宅した。その後、白い小さな虫が大量に部屋や自分の腕の上を這いまわっていく。トイレの床の黒いタイルの中に黒い子猫の顔が浮かぶ。等といった幻覚を何度も見たりもしたが、翌日には何事もなかったように回復した。そして治まっていた病気が再発した事を除けば、日常生活には特に問題のない状態を保って現在も生活している。しかし、何も残らなかったわけではない。傷は治ったのに未だに手首が痛む事があるし、いずれも病気によるものだが、「運転免許の取得」そして「子どもを作る」という二つの未来が消えてしまった。

 その後、また薬を飲んでみたり首を吊ったりもしてみたが、いずれも失敗に終わってしまった。薬は量がわからないし、首は吊ろうとしても高さが足りず足が床についてしまうのだった。

そのうち、本に書いてある事の多くは嘘だったと確信した。

例えばベンジンやクレゾールという薬品を飲めば、吐き気・多幸感・昏睡を経て死亡すると、本にはそう書いてある。しかし、上野正彦という監察医の著書によると、現実はそれとはまるでかけ離れたものだった。実際に飲むと、硫酸と同じで飲んだ瞬間から内臓が焼けただれていき、飲めば体の下の方へと流れていくので口、肺、胃、小腸に大腸と順番に臓器が侵されていくと言うのだ。そして全ての臓器が死んでしまうのには非常に時間がかかるため、最低でも三日間は意識のあるまま苦しみ続ける。もう飲んでしまったのだから助ける事も出来ず、哀れな自殺志願者はもだえながら死んでいく。飲んだ場合口の中にも多少残るので唾液にも混じり、口の周りや舌まで焼けてしまうのだ。また、首吊りは吊った瞬間に意識がなくなり、何の苦痛もないまま最後を迎える。これも本に書いてあった事だが、実際にやってみるとすぐさま酷い頭痛に襲われ、今にも脳が破裂するかと思った程だ。最近練炭自殺というものが流行っているらしいが、これも一酸化炭素中毒を人工的に引き起こすもので、割れるように頭が痛くなるらしい。確実に死ぬ方法も楽に死ぬ方法も、この世に存在しないのだ。

 このような体験をして私が感じたのは、人間の体というものはそう簡単には壊れないという事だった。生き物の体は生きるために作られており、本人が望もうと望むまいとこれからも生きていこうとするのである。電池を入れられた時計のように、その時が来るまで止まれない。それを無理やり殺そうとするなら、相当無理な力をかけなくては不可能だろう。特に若者にはまだ沢山の時間が残っているので、死ぬのには大変な苦痛が伴うはずである。だから、私はもう自殺するのをやめようと思う。

 そして、そう考えているうちに、本当に自分が死ぬ時に何を感じるのか楽しみになってきた。死は人生の最後に訪れる非日常的な楽しみで、安息である。今でもたまに死にたくなる事はあるが、そうやって誘惑と戦おうと思う。





<追記>
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