関ヶ原大全 三拾弐

平成20年 9月24日 新着

 嘉永五壬子五月
 三拾五巻之内
       泉吉
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関ヶ原軍記 巻之三十二

  目録
一 福島ふくしま左衛門太夫正則家断絶だんぜつの事

一 小西摂津守安国寺其外こにしセつつのかみあんこくじそのほか
    大将落着らくちやくの事

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関ヶ原軍記 巻之三十二

  福島正則家断絶まさのりいへだんぜつの事
福嶋左衛門太夫正則は猛勇荒気もふゆふあらき
の大将なれども 徳川公とくがわこーに対し
毛頭粗略もふとーそりやくなき故関ヶ原の軍功
に依て安芸備前両州あきびセんりやーしーを賜り彼国
入部以後繁栄にーぶいごはんゑひ也然れ共兎角心
荒くして秀頼卿上洛の節供奉ぐぶ
4ページ
人数にいらず其後大坂御陣の節
江戸の御留守居るすい也此節 
家康公御疑ひあるといへ共御一代は
其侭に差置れ元和けんわ五年福嶋
家は断絶だんゼつにぞ及びけり
  古語に大丈夫だいじやーぶ其跡を見ると
  いふ事是偏是偏これひとへに 
  家康公の御事也此たひ福嶋
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  正則別して御とがめもなく又最
  初のおこりハ伊奈備前守宜敷宜敷よろしき
  にもあらず勿論もちろん福嶋事
  我手わがての者殺されし事なれば
  強くおこりしも尤の事にも是有と
  いへどもすべて 家康公御生涯
  の御気立きだてを論じたる時ハ何事
  にても下こしらへて申上る事ハ
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  御嫌ひ也又譬御難義たとへおなんぎに御あひ
  なされ候ても押付おしつける様にして
  鉄石の如く物に狼狽異うろたへい
  変有へんある事なし御幼年乃
  御時駿河するがに御生立おいたち有て
  御鷹狩度たかがりたび孕石はらみいしが屋形へ御
  入有いりあつて居給ふに三河の倅にあき
  はてたりと孕石はらみいしが一言をよくおぼへ
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  有て此林に二度と入給いりたまわず夫
  はるか年暦ねんれきて遠州
  高天神合戦たかてんじんかつセんの時孕石はらみいしハ甲州方
  にて籠城ろーゼーセし所 
  家康公御智謀ちぼーを以て高天神の
  城を破り給ひて孕石ハ生捕いけどり
  なりたる時に 家康公仰に
  汝は三河のセがれ飽果あきはてたらん
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  遠き国へ参るべし迚切腹仰付とてせつふくおふセつけ
  れたり此時孕石が最期のことば
  能故よきゆへに子孫は井伊直政の
  家老に仰付おふセつけられ其のち
  大高兵糧入おゝたかひやーろーいれも又御退口のきぐちにも
  御心動ず大山の如く武勇に手強てつよく
  し一分を立給ふ御気筋きすじ也また
  三州土呂針崎一揆さんしうとろはりさきいつきハ元来酒井
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  雅楽頭上宮寺うたのかみしやーくーじにて検断けんだん折節おりふし
  仕損しそんじたる故酒井を相手に
  取一揆原夥敷起とりいつきバらおびたゝしくこおり既に御運
  の安危あんきたりといへ共一度も酒井が
  越度おちどおふセなく難なく御利運に
  なれり又甲州の武田信玄たけたしんげんと二股
  味方みかた原天龍川はらてんりーかわにて大きに戦ひ
  ことゝゝを失ひ給ひしか共少ともすこしも
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  勇気を落し給わずきびしく
  ふセぎ給ふ故さしも日本に四大将と
  恐るゝ武田入道たけだにーどー三州野田のだにて
  鉄炮にあたりて討死セり其のち
  武田四郎勝頼駿遠かつよりすんゑん竪横ぢーおふ
  て 徳川家を押倒おしたほさんとす
  去共されども家康公事ともし給わず
  連年れんねんの戦ひにつひに勝頼乃
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  鉾先ほこさきを大きにくじき給ふ又太閤
  天下をなひがしろにする節織田内府
  信雄のぶをに頼れ給ひ小勢を以て
  太閤の大軍を長久手小牧ながくてこまき接戦セつセん
  に大利たいり給ひて尾張の国を
  取返して信雄のぶをに御渡し有又
  昨年大坂西の丸に御座ござ有し
  時石田が謀事ぼーじにて西国大名百
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  三十余人一統いつとーして討奉らんとす
  家康公わづかの御人数にて居給ふに
  十七ヶ条の難題なんだいを申上るといへ共
  御心中困窮ごしんちーこんきーあらずして情を
  たて給ふ此御心入眼前いれがんゼんにて程能ほどよく
  其意をたつるの事なきなれば
  福嶋正則事此たびの事御心に
  叶わざる事勿論もちろんなれ共備前守びセんのかみ
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  事内々の沙汰としてかつおもて
  たゝざる事也依て外様とざまの事にハ
  たゝざる道軍功みちぐんこーの賞もなく又
  福嶋事ハ 家康公へ対したてまつり
  疎略そりやくなく忠有ちーあり此福嶋が
  すじ随分能大将ずいぶんよきたいセーといへ共一越調いつこてー
  にして其上弱そのうへよわきを救ふの
  しつにて猛勇もうゆふの将也依て諸人を
14ページ
  見くだ大荒気おゝらき軽率人けいそつじん
  然るに福嶋を其侭そのまゝ立置たておかるゝハ
  意味尤深重いみもつともしんぢー也此度関ヶ原御
  陣の前に会津発向あいづはつこーの諸大将
  三十三人有此面々の妻子さいし
  大坂に有て其身ハ会津へ御とも
  此時評定に諸人しよにんの心一決いつけつセず
  彼是かれこれへんの時誰人にても頭取とーどり
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  人なししかる所に福嶋一番に
  進ミいでそれがしハ 大臣殿の御味
  方致すべきとの一言にてことゝゝ
  諸将一致す勿論左もちろんさなくとも池田
  藤堂蜂須賀はちすか山内堀尾等ハ 
  大臣殿のふかき御味方也然れども
  まづハ福嶋一番に出て諸将の心
  をはげましける故此時の正則が忠誠ちーセい
16ページ
  大ひにひいでたり是心を付て
  見たる時は福嶋の気筋きすじ前にハ
  上杉佐竹有上方うへすぎさたけありかみかたにてハ石田が逆
  謀にて西国方さいごくかたの大軍押出す
  内府公前後の敵にはさまれて
  御難儀ごなんぎの所見るに忍びずして
  ひしと御味方に成ハ気筋きすじ
  我慢がまん強故つよきゆへ也尤正則此時の気質きしつ
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  ハはなはだだ勇ましくして諸人是を
  感心する所なれ共流石に生立おいたち
  賎敷故いやしきゆへ一生涯の内武勇をはな
  に懸我かけわが心に叶わざる時は大きに
  怒りのゝし我意がい振回多ふるまいおゝ
  東照宮御他界の後にハ悪政あくセい
  つのりて 将軍家をないがしろにし
  て良臣りやーしんいさめを用ひずいつも
18ページ
  世は同じ事との心得こゝろへける故終ゆへつい
  大国を失ひける然れバ平生へいセいの人
  にても発明過或はつめいすぎあるいは武勇に長じ
  又ハ芸能に達者成たつしやなる人必ず我身
  の強きをたのみとして我意を震ひ
  滅亡セし者いにし少なからず
  福嶋の気質はひとへに我身のもふ
  勇成ゆふなるまんじて種々の非法ひほー
19ページ
  おこなひ天地の時を知らざる故始終ゆへしじう
  国家を断絶だんゼつするの根元也 
去程さるほどに福嶋左衛門太夫正則が此度の
剛訴法ごーそほーに過たり既に矛盾むじゆんおよバ
とするといへ共元来くわんらい 家康公へ対し
毛頭疎略もふとーそりやくなく只伊奈たゞいな備前守に
恨深うらミふかく然るに伊奈ハ斯の如くなりたる
上はひとへに 徳川公へ忠誠をぬきんずる
20ページ
事疑ひなし是に依て此乱治らんおさまりて
後安芸備後のちあきびんご両州七十万石を福嶋
正則に賜る是迄の知行ちぎやー尾州清洲びしうきよす
二十万石也福嶋にわかに大身と成大●調なりだいくわんとゝの
ひし事ひとへに 大臣殿の御恩ごおんかた
しけなしと入部にーぶしけるに其行粧そのぎやーそー
尤大軍にして花麗くわれひ也然るに正則心
大きに荒く仮初かりそめにも手強き事ばかりにて
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心にそまぬ者ハ手討に成し者数多ものあまた
にと非法ひほー刑罪不仕置千万けいさいふしおきセんばん也此たび
芸州へ入部の節瀬戸内セつせとなひを船にてこす
時大風ときたいふーにて荒浪逆立あらなこさかだちける正則心もん
しんして大きに怒り思ふといへ共風波どもふーはの事
なれバ是非に不及暫およバすしバらくハ船をかゝ
たるに船頭をよんで此風ハ如何にと
尋るに地嵐ちあらしと申て悪風あくふー也いふ
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正則是を聞て大きに怒り我入部わがにーぶの節
地嵐といふ事不吉成迚ふきつなりとて大身の鑓にて
いもさしに貫き船の真先まつさきに立て
安芸の国へ入部しける安芸備後あきびんご
両州の者共ものどもちゞみ上りて大きに恐れ
やすき心ハなかりける又或時江戸献上にて
備後国の畳表たゝみおもてを献上するにほか々の
大名衆の献上する表ハよく福嶋家
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献上の表は悪敷あしく正則此義を以ての外
怒りて備後国とも商人あきんど六十三人を
呼出よびいだし畳表を積重ね其上そのうへに並べ
汝等国主なんじらこくしゆの申つくる事ハ曽て不用
外へハ能表よきおもてを出す事不届千万也迚
一々手足首をきり又ハちー釣上つりあげて刺殺し
其上此商人共の妻子さいしを引出しはらみ女の
腹をさきて見或は手の指の生爪なま め不残のこらず
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へがして木のをほらセて苦しむ
を見て楽しみとすまことに恐ろしき
事共也又ハ口中こーちーの上下のハをぬきて
石をかまセ誠に正則が振回偏ふるまひひとへに昔
武烈天皇ぶれつてんわーの悪逆の如く恐敷悪大おそろしきあくたい
セー也か様の人といへ共武略の心懸深がけふか
故に能家人よきかにん数多持家老あまたもちかろーの諸士ハ
皆々一騎当千いつきとーセんの勇士を召抱めしかゝへおく
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其面々ハ福嶋伯耆ふくしまほーき同く丹波たんば大崎玄おゝさきげん
蕃可児ばかに才蔵尾関石おセきいわ見吉村又右衛門
堀尾隼人ほりをはやと大橋おゝはし茂右衛門広瀬ひろセ市太夫
渠等かれらを始として究竟くつけー勇士有ゆふしあつ
武備厳重ぶびげんぢー也然るに慶長十六年
秀忠公御上洛じやーらく時加藤肥後守ときかとーひごのかみ池田
三左衛門セー浅野左京太夫あさのさけふたいぶと同く福嶋
をも大坂御供おともを頼まるゝの所正則は
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病気成迚曽びやーきなりとてかつ出合いであわず 家康公
思し召けるハ福嶋が心底我世しんていわれよに有
中ハ随分疎意ずいぶんそいなき者也去ながら元来
気筋きすじ心元なき事ハ我死後ハ危き
者也と御噂有其後慶長うわさあるそのゝちけいてー九年大坂
逆乱ぎやくらんにて片桐東市正且元かたぎりとーいちのかみかつもと大坂を追
払われしかふして関東の大軍出陣の時に
至り 家康公御内意ごないいに福嶋事
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此頃の様子何角覚束やふすなにかとおぼつかなく城中へ荷担かたん
する心底ミへたり此度ハ江戸の留主るす
つくべしとの御内談にて則ち福嶋
左衛門太夫正則黒田甲斐かひ守長政加
藤左馬介嘉明よしあきら最上出羽守家親等いへちかとー
三の丸の御留主居るすいたり又本丸にハ
竹千代君三代将軍家光公也御譜代衆ごふたいしう鳥居
内藤の面々江戸大留主居おゝるすいにハ本多佐
28ページ
佐渡守正信仰付まさのぶおふセつけられけるハ万一大坂の
戦ひ御勝利なき時は御本丸へ呼寄よびよセ
刺殺さしころすべしとの御内意にて御出陣也
案の如く勿論もちろん御敵すべきにも江戸の
事なれバすべきやーなく御城内にて
寄合よりあひの節も大坂方勝利鴫野今福しぎのいまふく
戦ひ木村後藤が働きよしと聞バかしらを
たゝき大きによろこび渠等ハ良将也剛敵ごーてきたる
29ページ
上杉佐竹の鉾先ほこさきくじると天晴城中
出来たりとよろこび又大野抔の敗軍して
段々其曲輪くるわを攻詰られて蜂須賀
安房守が穢多ゑたさきを攻落し石川
主殿頭とのものかみ伯楽はくらくふちを攻破りたる事を
聞て大きに怒り我城内われじやーないに有ならバ東国
勢に足はとめさセまじき物をと大きに
のゝしりける故偏ゆへひとへに城内の味方と相ミへる段
30ページ
委細に言上ごんゼー有大坂落城以後其侭そのまゝ
立置たておかれたるも子細しさい有事也 
東照宮 秀忠公天下の御仕置しおき
仕残しのこしなく御在世ございセ御隠居のうち
工夫有くふーあつて此うちに悉く御仕置ヒ成しおきなさる
べきの所 東照宮の思召おぼしめしハ誠に有
難き御心入也我ハ草創そーそーの者也依て
数度の働きも又万端ばんたんを知る故軍功ゆへぐんこー
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応じ片付かたつきたる様なれども未仕残いまだしのこ
おきたり又諸将の罪をくわふる事我一代の
中倶うちともに働きたる者なれバ又其人を一生
の内に罪する時は漢の高祖我朝かーそわがてー
頼朝よりともの如し子孫軽しそんかろく成 家康が悉く
片付置かたつけおひたる天下を思ふ時は我死後は
必ず 将軍職の威光軽いこーかろく成ておさま
かねる也しやーをも行ハざれバ誰々も 
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家康が恩と計思ばかりおもひてかならず
将軍の下知は此家康が差図致さしついたす
やーにハ受まじき也井伊藤堂ハ我死後わがしご
将軍恩知おんちつかハすべき也尾張おわり
常陸ひたちも是又増知ぞーちつかハすに於ハ
家康が恩の上に又 将軍の新恩しんおん
有故旁不足あるゆへかたゞゝふそくの心なしと其外諸そのほかしよ
大名たいめー落着断絶らくちやくだんゼつ始終迄悉しじーまでことゝゝ
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か様ゝ々に致すべきよし万代ばんだい御末おんすへ
迄の事共御遺状ゆいじやーと申て巻軸まきじく
したゝめ遊バされて 秀忠公へ御ゆつり
有其後元和ありそのゝちけんわ二年四月十七日 
家康公御他界有たかいあつて以後ハ段々
遺状ゆいじやーのことくに御仕置相済其中すミそのなか
に福嶋左衛門太夫事必ず我死後わがしご
我侭にして剛訴ごーそすべき事有べし
34ページ
段々目上の者は死絶しにたへし其ときは
福嶋思ふ侭に非法ひほーを行ふべし其
節はヶ様かやふ々ゝにして断絶だんゼつすべきなり
我一生ハ随分深切ずいぶんしんセつにしたる物也 
将軍の時にいたつて加藤福嶋田中
ヶ様かやふ々ゝにとて念頃ねんごろ仰置おふセおかれたる
所に果して元和五年芸州広嶋げいしうひろしま
城広大成絵図しろくわーたいなるえづを以て願われけり
35ページ
此節御老中評定有ごろうーちーひやーでーあつ天下安泰一統てんかあんたいいつとー
節別セつべつして城普請しろふしんに及バさる事也と
公辺難渋こーへんなんじうの沙汰に及びけり此事正則
聞て大きに怒りて剛訴有ごーそあり当時左衛門太夫
城普請差留しろふしんさしとめらるべきハわれなし当国
我勲功わがぐんこーの賞に申受たり又当家に
対して二心にしんなき事勿論もちろん也いかなるおこのやつ
評義成哉ひやーぎなるややむべき気色けしきなし扨こそと
36ページ
何の御とがめもなく心のまゝに普請ある
べしと国御暇くにおんいとまを下されて以後
秀忠公にハ東照宮の御遺状ゆいゼー
御覧被成ごらんなされ候て福嶋断絶の次第を
合点有かてんあつて 東照宮の御智謀
を感じ給ひ元和けんわ五年五月御老中
酒井讃岐守さかいさぬきのかみ土井大炊頭とひおゝいのかみ安藤対馬あんとーつしま
阿部豊後あべぶんご牧野因幡まきのいなは守を初として
37ページ
御譜代大名不残伺候ごふだいだいめーのこらずしこーす其時 
将軍家仰出さるゝおもむきハ福嶋左衛門太夫
事天下の法令ほーれひを軽んじ種々の
を申立殊に 東照宮の御遺ごゆい
げん有依ありよつて此度福嶋家断絶有べき
との御相談也然れ共誰一人兎角とかく
申上る人もなき所本多上野介ほんたかふつけのすけ申上
けるハ御遺言ゆいげんとハ申セ共福嶋事は
38ページ
関ヶ原以来忠節是有勿論気ちーセつこれありもちろんき
筋広量すしくわーりやーにして荒気あらきハ元来乃
気質きしつ也然れ共以前の忠節を思めさ
尤此度城普請の義ははなは政法セーほー
過たる事に候へバ我々宜敷よろしく
差留さしとめ申べき也旧好きーこーの者にて只今一人
存命致ぞんめひいたす殊に早老年にも罷成まかりなり候へバ
唯々御免ごめん下され候半哉ハんやと申上る時に
39ページ
秀忠公上意にハなんじが申所其利そのり
しかし我と 東照宮とハいづれか
まさりたるや遠慮ゑんりよなく申べしと乃
上意也其時面々ことハそろへてもつとも 
当将軍家御名将とーセーぐんけごめいセーとハ申ながら 
東照宮にハ少しおよバセ給わずと申時に
秀忠公仰にわれの如く思へり
先代セんたい老職ろーしよく汝等なんじらとハ如何いかにやと仰有
40ページ
時に面々申ハ皆死替みなしにかわり昔の如くにハ
および申さずと申上る其時 
秀忠公仰にわれ 東照宮に
及びたてまつらず汝等ハふるき者におよばず
然る時は福嶋事差置難さしおきがたしとて
福嶋断絶だんゼつきわまりける各評定おのゝゝひやーじやーして
申上るハ福嶋が武勇通達ぶゆふつーだつの者に候へバ
如何成騒動いかなるそーどーに及ぶべきとの時 
41ページ
東照宮御遺言一紙ごゆいげんいつしの内に悉く有迚
早速さつそくに御上使として大久保加賀守おゝくぼかゞのかみ
其外そのほか目附諸役人めつけしよやくにん差越さしこされて
安芸広嶋へ仰遣おふセつかハさるゝハ福しま
左衛門太夫事武勇猛烈ぶゆふもふれつ古将こセー
依て此度東国の端奥州津軽領はしおふしうつがるりやー
今に至て武威ぶいに応ゼず殊に東夷とーひ
近く剛国ごーこくに候へバ蝦夷松前ゑぞまつまへおさへとして
42ページ
知行有ちぎやーあるべし尤土地広大もつともとちこーたい也依て
南部領松前仙台領なんぶりやーまつまへせんたいりやーを添て百万石
増知ぞーちして遣ハすべし早々正則
事奥州へ国替有くにがへあつ城築しろきづきの事ハ
領内に於て心のまゝにいたされよとの
事也もし又福嶋御受に応ゼざる
時は急度誅罰きつとちーばつすべきとて中国西海
の諸大名へ御奉書ほーしよの御下知有て
43ページ
大久保加賀守が下知をうくべきとの仰
なり依て俄に早追はやおいにて諸方へ申
送るさて又大久保加賀守は芸州に
下着げちやくして 上意のおもむき申渡す
所に福嶋家老の諸士ハ不得心ふとくしんにて
西のはしより東のはし蒼海万里そーかいばんりへだて
其上知行所務そのうへちぎやーしよむの事色々といへども
御内意に津軽領つがるりやー南部仙台松前とも
44ページ
に百万石増補ぞーほして下さるべきとの事
故正則兼々聞所に彼土地広大かのとちこーたい
にして殊に松前蝦夷抔ゑぞなどハ望ミに
思ふ賊国ぞくこくにて国肥くにこへ土地珍ら敷
思ふ故彼地へ罷越まかりこし申べき由御受申たり
此故に家中の諸士しよし段々諸道具
を出し家老のれき々正則も大坂へいで
たる時又御上使として阿部備中守あべひつちーのかみ
45ページ
来臨らいりんにて申渡さるゝおもむきハ福嶋事
奥州へ国替仰付られ候所旧民共久敷きーみんともひさしく
地頭替ぢとーかわらぬ所故不同心の旨願むねねがひ候条
是非に不及およバす依て津軽の高四万六
千石を信州しんしうにて仰付られ候間早々
信州へ罷越まかりこし申べきとの事也正則聞て
大きに怒り扨ハ謀略ぼーりやくとハ夢にも不知しらず
してかくうかゝゝと偽引出おびきいだされし事
46ページ
残念千万ざんねんセんばん也広嶋にて一戦のうへ
切腹すべき所にかへす々ゝも心外しんぐわいなり
今更何迚いまさらなにとて四万六千石を領すべき哉と
血眼ちまなこに成て怒りのゝしるといへ共すべ
き様なくついに酒井左衛門ゼー
あずけとなるさしもの大家一時に
滅亡めつぼーしけり然れ共 
将軍家正則存生そんセーの内ハ衣食料いしよくりやー
47ページ
として毎年まいねん三千俵を下されまた
子孫は二千石をたまわりて御旗本へ
くわへられけり

 小西摂津セつつ守行長安国寺あんこくし其外
  諸大将落着しよたいセーらくじやくの事


小西摂津守行長こにしセつつのかみゆきなか未落方不知仍いまだおちかたしれずよつて
家康公仰に行長ハ邪蘇宗門じやそしーもんなり
彼宗門は捨身しやしんきらふと仰られしが
48ページ
果して生捕いけどられける偏に割符わりふ
あわセたるか如しこの小西摂津守は武勇
才智さいちの侍にして太閤の御心に
かなひ肥後国八代宇土両城やつしろうどりやーセーを賜りて
都合二十万石也先年朝鮮征伐てーセんセいばつ
先手さきてと成て加藤肥後守清正相士あひし
然るに行長ハ石田三成と入魂じつこんにして
清正と不快成故ふくわいなりゆへ此度秀頼卿の御ため
49ページ
言旁逆意いゝかたゞゝぎやくいに与力して出陣す
此時家臣芦塚あしつか忠右衛門大きにいさ
兎角とかく此度ハ 徳川家へ従ひ給へと
いへ共摂津守承引セーいんセず居城宇土に
芦塚を残しけり惜ひかな芦塚
度供致たごともいたすに於てハ未練みれんの事有間敷
に芦塚は宇土うとの城代をつとめけり斯
て小西摂津守ハ関ヶ原の接戦セつセんに黒田
50ページ
山内に駈破かけやぶられ敗走して美濃国
相川あひかわと言所に忍び居たり小西は
利発りはつにして弁舌速べんゼつすみやかなれバ相川あひかわ
村の民家に立入只たちいりたゞ壱人鎧兜よろいかぶと并ニ
金銀を与へ病身成迚介抱びやーしんなるとてかいほーに預り
暫く世上を聞合きゝあわセて居ける百姓ハ
まいにして小西とハ不知しらず又敵方の落人おちうど
とも心つかず此ほど暫く心安くいたわり
51ページ
ける行長弁舌速べんゼつすみや成故物語抔なるゆへものがたりなど
功者故村中こーしやなるゆへむらちーの百姓等多く馴染と成
ける然るに当村の内曹洞宗そーとーしーの禅寺
林蔵主迚気早成大力りんぞーすとてきはやなるだいりきの僧有て
折々彼家かのいへに来りて村中へそゞろ
を給ひ彼人は関東の怨敵おんてき張本てーほん
小西摂津守也かくし置たらんには
必ず 上様たゝり有べき也我等いけ
52ページ
どり申べき也迚主若者共とてあるじわかものどもに申触て
辺落人吟味役竹中へんおちうどぎんみやくたけなか伊豆守伊藤いとー
治左衛門後藤ごとー市左衛門等三人の方へ林蔵りんそー
内意を申いれ明日御人数を差向られ
候へ某生捕それがしいけどりて相渡すべしと約束して
林蔵主りんぞーすハ小西が方へ来り御旅宿りよしゆく
さぞ々御徒然成とセんなるべしとて酒肴等さけさかなとー
持参して酒盛さかもりを初め段々酒をしい
53ページ
ける小西も流石さすがの大将なれ共此程
気鬱きうつを晴し大きに沈酔ちんすひして
前後も不知臥しらずふしたり其時林蔵主りんぞーす
胸板むないたに飛上りて若者共折合わかものどもおりあへよばハり
たり其時二三十人立懸たちかゝりて生捕いけどらんとす
小西ハ大力にて即時に刎起はねおきて太刀を
たつねかねなけれバ口惜くちおしやと言つゝ近寄百
姓を二人迄大庭おゝにわへ投出す時に林蔵主りんぞーす
54ページ
きゝたる法師にて小西が足を取て
打返すさしもの行長も沈酔ちんすいの上ゆへ
倒るゝ所を林蔵主取て押へけり其内そのうち
大勢来りてつひに縄を懸たりさて右の
太刀をそへて竹中伊豆守に相渡す竹
中ハ急き京都へひいて 大臣殿へ
申上るすなわち御褒美ほーびとして林蔵主へ
黄金わーごん五十枚百姓二十余人へ同三十枚を
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下されける皆々有難ありかたく思ひ即時そくじ
在所相川村さいしよあひかわむらへ立帰りける又林蔵主ハ
今迄ハ甚だ貧寺成ひんじなりしか共此節にわか
福分ふくぶんと成此事隠れなく或夜盗あるよとー
賊共そくとも数十人抜つれて押入おしいり林蔵主を
縛り上て五十枚の黄金を不残奪のこらすうバひ
とつて其上帰りかけに大勢にて切殺きりころし
行衛知ゆくへしれすになりにけり出家に
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似合ざる働きセし故命ゆへいのちとらるゝ
とハ此林蔵主の事也兎角とかく人ハ理不りふ
じんの欲心ハ思ふまじき事也斯て小西
摂津守行長ハ奥平美作おくたいらみまさか守に預け
給ふ是も久々落人と成たる故衣類ゆへいるひ
見苦しけれバ 徳川公小袖二こそでふた
重賜かさねたまわりける行長ハ少しも礼義をみた
さず誠に此身になり候ても 大臣殿乃
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御恩志有難ごおんしありがたしと申上此度逆徒一味
の事ハ欲心計よくしんばかりにても無御座ござなく候肥後守
清正と不快ふくわいに依て斯の如しと有様ありやふ
条流石じやーさすがに小西也あつハれ残念なる
行長が身の上哉うへかなと諸人是を感じけり
扨又こゝ安国寺恵慶長老あんこくしゑけひてーろー学才がくさひ
智弁ちべんにして京都東福寺きやーととーふくじの住僧
成其後芸州なりそのゝちけいしうに下りて安国寺と
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申けるが先年太閤備中国高松セんねんたいこーひつちーのくにたかまつ
於て毛利三家の大軍と対陣たいぢん
節京都本能寺の大変太閤前たいへんたいこーゼん
猛敵もふてきはさまれ給ひてはなは難義なんぎ
の時安国寺長老智弁ちべん以難もつてなんなく
太閤毛利家と和睦調わぼくとゝのひて上方の
合戦に大利たいりを得給ひて後ハ秀吉公
天下を掌握しやーあくし給ふよつて太閤にも
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安国寺を悉く御取立紫衣地とりたてしゑひち
して十万石を賜り出家をおとして
肉食妻帯にくじきさいたい栄耀ゑひやー身に余り
安楽あんらくに暮しけるが此度石田に頼れ
張本人てーほんにんと成て中国勢世話役ちーごくゼいせわやくなり
手勢三千余人南宮山なんぐーざん出張しゆつちーして
蜂須賀父子有馬等はちすかふしありまとーに突破られて
四方八面に散乱さんらん江州野沢野がーしうのざわの
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桂川を越て小原鞍馬寺おはらくらまじ入月性いりげつセー
いん蟄居ちつきよす相従ふ者長坂長七平ながさかてーしちひら
井藤九郎いとーくろー只二人也此時鞍馬にも落人
さがすしきり也依て長坂平井勧め
けるハ今ハのがれざる所也御生害ごセーがい有べしと
勧めけれ共安国寺心おくして其義に
不能我暫あたわずわれしバらく軍法に有といふ依て両人も
主人を誘引ゆふいんして七条の道場に深く
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忍びけるに幸ひ出家故衣しゆつけゆへころもを着して
仏前にかゞまり居たりしかるに天命とて
古き仇有あだある佐々木家の臣出家して
要鎮やーちんと申ける法師見付て落人吟おちうどぎん
味役奥平美作みやくおくだいらみまさか守へ訴へける故俄に
捕手とりての面々五十余人七条の道場に
向ひける平井長坂心きゝたる者にて
則ち死人しにんのセたるこしにのセ伏見の
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方へ落行所追手おちゆくところおつての者共是を見て
此乗物こそ怪敷迚頻あやしきとてしきりに追来る
依て今ハ早のがかたし迚両人かご
安国寺を一刀刺貫さしつらぬきけるが此太刀
先あごの下に当りて小疵こきづ也平井長坂の
両人は切死して安国寺は生捕いけどられけり
是も奥平に預けられ御褒美ごほーび
して金子きんす三百両たまわるといへ共林蔵主とハ
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大きに違ひ此者俗名ものぞくめーは北村五郎右衛門と
言者いふもの也我又古き仇を報じたり何ぞ
身の為にすべきや迚故郷とてこけーへ帰りて右の
三百両を村中へ配分はいぶんす諸人是を感ず
扨安国寺へも御小袖賜こそでたまわり此度の次第
を御たづね有けるに安国寺迷惑めいわく
一言いちごんの答へもなく只命終るを急ぎ
けるとかや食事するはしにてのどきづ
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をひたと突破りけれ共死に切ずはん
死半生しはんセーの体と成後に六条河原にて
死罪の上梟首きやーしゆに懸らる安国寺最期さいご
悪敷あしきハ偏に仏罰ぶつばつなすなるべし爰に
長曽我部宮内少輔盛親てーそかへくなひセーゆふもりちかハ土佐の国
主として土佐守元親嫡子とさのかみもとちかちやくし也元親ハ
良将にて四国を切従きりしたが猛威もふいを震ひし
が先年太閤と戦ひて土佐一国となる
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今の盛親是もりちかこれ又良将也然るに此度荒井あらい
むらに於て池田輝政と強く戦ひ関ヶ原
破れて後早のちそー々降参す井伊兵部
少輔直政と入魂じつこんなれバ直政を頼みて申
上るは此度偏たひひとへに秀頼卿の御下知と
のミ相心得不慮こゝろへふりよに御敵申上候事誠に
後悔こーくわい仕候何卒御免蒙なにとぞごめんかふむ度分国たくぶんこく
土佐を差上申べく候浪人致ろうにんいたし京都の住居
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を御免下され候ハゞ早速法体仕さつそくほつたいつかまつ度由たきよし
願ひける 家康公御許容有きよやーあつ
則ち土州としうを御取上京都の住居ぢーきよ
免也仍盛親法体よつてもりちかほつたいして祐夢ゆふむあらため
洛中らくちーに住居しけり土州ハ他家へ
恩補おんほに成て長曽我部が家人ども
浪人して所々を徘徊はいかいす尤武勇もの
多し然るに慶長けいてー十九年大坂らんの時
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秀頼卿に頼れ大坂の城に入て旧好きーこー
臣を招き集め一方の大将となつて滅亡し
けり江州水口ごーしうみなくち城主長束大蔵大輔じやーしゆなつかおゝくらたゆふ
正家まさいへ六万石を領して五奉行のうち
此長束ハ算勘さんかんの名人にして太閤に
召出され日本惣検見につほんそーけんみを蒙り異義いぎ
なく相つとめ今に用ゆるハ長束がなわ
なり此節五奉行と成て諸賄しよまかなひつかさど
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石田と入魂して兼々逆謀の張本てーぼん
なれバ中々助命有ぢよめひあるべき者にあらず
然に此度関ヶ原にて浅野生駒あさのいこまに突破られ
居城水口きよしやーミなくちに帰りて楯籠たてこもりける
元来算通くわんらひさんつーの人故兵糧蔵ゆへひやーろーくらに充満し
武具玉薬沢山ぶぐたまくすりたくさんにして籠城の用意
厳重げんぢー也此節 家康公御下知有て
伊勢筋平均いセすじへいきん追討ついとーとして池田輝政
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の舎弟備中守長吉ながよしを差向給ふよつて
水口の城を攻んとするに城堅固しろけんごなれば
備中守智謀有ちぼーある人にて和順わじゆんすべきとて
只壱人城中に入て長束なつかに対面の上
申されけるハ今ハ石田が余類悉よるいことごとく滅
亡す当城如何程堅固いかほどけんごに楯籠るとも
東国の大軍押来おしきたらバ終にハ落城すべき
なり所詮しよセん 大臣家へ降参致かーさんいたさるべし
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某能それがしよきに御詫申べしと色々すかす長
束此節備中守を人質ひとじちに取ての上なれバ
兎も角もすべき様有べきに池田がぼー
りやくに落され心ゆるミ此上ハ宜敷頼よろしくたの
入と則ち嫡子伊賀守ちやくしいがのかみ同伴どーはんして池田家
の陣へ降参かーさんに出たり此時ひしと捕へられ
以後囚人いごめしうどにして草津くさつに於て首をはね
らるゝといへ共かれハ此方調略てーりやくして
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降参したる者なれバ迚獄門とてごくもんのぞかれたり
勢州桑名セいしうくわなの城主氏家内膳正うじいへないゼんのセー同常陸
介ハ居城桑名に楯籠たてこもる所に関ヶ原
落去らつきよを聞て大坂の城へ逃入て秀頼の
近臣に成萩野道喜なりはぎのどーきといへり又勢州セいしう
亀山かめやまの城主岡本下野守おかもとしもつけのかみも大坂の城
に入て後年大坂落去らつきよ節生害セつセーがい
およびけり又濃州大垣じやーしうおゝかきの城ハ伊藤長門守いとーながとのかみ
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嫡子彦兵衛等石田留守居るすいとして
差置ける福原右馬介ふくはらうまのすけ垣見和泉かきみいつみ
熊谷内蔵介くまかへくらのすけ五千余騎にて守りし
所に関ヶ原の戦ひ西方大敗にしがたたいはいのよし
是を聞士卒共ちり々に落失おちうセ
やーゝゝ二千余人にて楯籠たてこもりしを 
大臣家の御下知として水野日向みつのひーが
勝重かつしげ稲葉右京亮一柳監物等大軍いなばうきやーのすけひとつやなぎけんもつとーたいぐん
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にて押来おしきたり城中にも能防よくふセぎ戦ふといへ共
稲葉右京うきゃー亮冨田信濃しなの守強く働き
無体むたいに攻破りけれバついに城主伊藤
父子福原垣見熊谷等不残生害のこらずセーがい
落城に及びける又同国岩村いわむらの城主
高木たかき十郎左衛門ハ関ヶ原落去らつきよ
きゝ大きに驚きし所に又々大垣おゝがき
落城らくゼー其上東国の大軍押来おしきたるよし
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是によつて高木は敵未来てきいまだきたらざるうち
岩村の城を開きて退散たいさんしけるかく
て 家康公九月廿五日伏見ふしみへ御入有
鳥居内藤松平が忠死を不便ふびん思召おぼしめし
翌廿六日御入洛しゆらく二条の城に入
給ふ洛中らくちーにぎわ大方不成おゝかたならず此節
小出大和守やまとかみ谷出羽たにでわ守は種々御わび
申此度 大臣家御入洛の節道辻セつみちつじ
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警護けいご深切しんセつを尽しける故本領安ゆへほんりやーあん
也又生駒右近将監いこまうこんセーげん高田豊後守たかたぶんごのかみ
冷泉右京亮れいゼひうきやーのすけ菊川左京亮等きくかわさきゃーのすけとー
切腹仰付セつふくおふセつけられ小野木縫殿介おのぎぬひのすけハ助命
に成べき所細川越中ゑつちーしきりに願われ
ける故死罪にきわまりけるこゝに大敵の
残りたるハ毛利中納言輝元もふりちーなごんてるもと也此人
不慮ふりよにして御敵おんてきにもあらず石田が
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調略てーりやくにて此度の惣大将たれバ中々
赦免しやめん有べき筋にあらずといへ共嫡子
宰相秀元同陣さいセーひでもとどーぢんしたる吉川駿河守きつかわするかのかみ
工夫能故くふーよきゆへ兎角関東へ敵対すべきに
あらずと内々を以て申上戦ひをけつ
セずして引退ひきしりぞく今此時に至りてハ
諸方大破しよほーおゝやぶれと成仍なるよつて輝元も降参
すべしと四万の大軍めひもふしてたり
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此時吉川駿河守きつかわするかのかみ申ハ 徳川殿は
義理堅ぎりかたき大将なれバ今此方はいもふ
してハ御承知有ごセーちあるまじそれがしに任セ給へ
迚取次とてとりつぎを以て申上けるハ毛利一家
関東へ対して毛頭恨無御座もふとーうらみござなく候只石田
調略てーりやくにて不慮に軍馬を発セし
なりさりながら此度関ヶ原へ出張でばりの軍
兵降伏して働かざるの證拠セーこに御座候
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得共今更御赦免へどもいまさらごしやめん有間敷定あるまじくさだめ
軍勢差向ぐんゼひさしむけられ御攻是有セめこれあるべくと
存候しかれバ武門の義是非ぎゼひ不及およばず
大坂西の丸に於て一戦仕り切腹仕セつふくつかまつ
べきにて候也同じく先日御内通ないつー申上
ゑんを以て御免蒙り候ハゞ出城致しゆつセーいたす
べきと申上る 家康公きこめし
毛利は元来義理ぐわんらひぎり正しき侍也
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尤も左も有べき事然らバ早々出城しゆつセー
いたすべし対面の上許容有うへきよよーあるべきとの
仰也よつて吉川駿河守きつかわするかのかみ輝元へ申けるハ
此度常体つねていにてハ毛利家立難し
何事も某に任セ給へ迚輝元を法体ほつたい
さセ嫡子宰相秀元吉川駿河守きつかわするかのかみ
附添つきそひて輝元ハ染衣ゼんゑひの姿と成て
九月廿八日出城しゆつセー也 家康公御対
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面の時輝元申さるゝハ安芸備後周防あきびんごすわー
長門豊前石見出雲隠岐不残差上ながとぶゼんいわみいづもおきのこらずさしあげ
との事にて御礼有れいあり 家康公大
きに御心やわらぎ給ひ扨いたわしき有様也
我侭わかまゝの心なく領国不残差出りやーごくのこらずさしいださんとの
事 家康甚だ驚感きやーかんセりしかしながら
祖父元就以来骨折そふもとなりいらいほねおりて切取れたる
領国無下りやーごくむげに 家康作略さりやくすべきに
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あらず然らバ周防長門領国すわうながとりやーこく四十万石ハ
毛利家永く領地いたさるべし又残国ざんこく
天下の人口も如何いかゞなれバ是は他家へ恩賞おんセー
にすべしさて吉川駿河守きつかわするかのかみ事ハ周防の
うちにて五万石を配分いたさるべきとの 
輝元ハ隠居にて相済軍兵共あひすみぐんひゃーども
残らず周防長門すわうながと引退ひきしりぞく輝元ハ大坂の
屋敷に残りけるこゝに又鍋嶋加賀守なべしまかゞのかみ
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直茂なをしげも種々御わび申上けるに鍋嶋事
前方伏見城攻まへかたふしみしろセめの時 徳川公の御公達ごきんだち
女中方を介抱かいほーして丹波たんばの国田辺まで
送りとゞけし忠節ちーセつに依て本領ほんりやー
安堵仰付あんどおふセつけられける此時松浦まつうら肥前守
とー大和守大村信濃しなの相良さがら左兵衛すけ
等も御わびを申人質を関東へ差上べき
よしにて強く御てき申さぬ故に皆々
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本領安堵ほんりやーあんどにて面々 大臣家の御じん
とくになつきける増田右衛門尉長盛ましたゑもんのセーなかもりは八千
余騎よきにて大坂に有しが 
徳川公へ和順わじゆんこふ是に仍
家康公仰入らるゝハまつ大坂を立て居城
郡山へ罷越返答まかりこしへんとーを待べしとの仰也依て
増田はなに心なく居城へ引退ひきしりぞきけり時に
大臣家の御使者ししやとして右衛門ゼー
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すぐ高野山かーやさんへ登るべきとの御事也
長盛大なかもりおゝきに驚き今此時なれバ定て
こおり山へも大軍押向ふべき也大坂にて兎も
角も成べきに是非に不及天命およバすてんめい
迚高野山とてかーやさんへ登りける家人共ハ思ひ々ゝに
離散りさんしける此以後尾州岩村いごびしういわむら左遷さゼん
成大坂落城後刑罪らくセーのちけいざいセらるこおり山の城
受取ハ池田三左衛門尉輝政てるまさ藤堂佐
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渡守高虎たかとら両将壱万余騎にて馳向はセむか
此時城渡しろわたしの次第ハ渡辺勘兵衛わたなべかんべい
大きにひいでて諸人是をほむる是十月
四日也こゝに越後の国主堀こくしゆほり左衛門かみ
政ハ上杉御誅罰ちーばつの節米沢への将成セーなり
しが此度会津御陣御延引ゑんいん上方へ
発向はつこーに付き秀政は在国さいこくして
出羽奥州でわおうしう動静どーセーうかゞひ居たりしが
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節手近成故セつてちかなるゆへ関ヶ原御勝利の御賀おんが
として二万余騎にて入洛じゆらくし御賀
を申上らる又加州小松の城主丹羽にわ
五郎左衛門長重ながしげは元来関東へこゝろざ
深き人なれ共聊心得違いさゝかこゝろへぢかひにて
加賀利長と不和に成合戦有なりかつセんありけるに
此程漸敵味方やーゝゝてきみかたのあや分明ふんめーしける故
長重後悔こーくわいして此上ハ早々上洛じやーらくして
87ページ
徳川公へ申開もうしひらきセんとて二万余騎にて
入洛じゆらく有 家康公へ御を申
先達さきだつ不慮ふりよ矛盾むじゆんに及び
次第しだいを語りて御わび申ける故 
大臣家にも何の御とがめもなく一段と
御機嫌能ごきげんよく御盃をたまわりける

  関ヶ原軍記 巻之三十二終 


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