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民衆宗教としてのキリスト教
――万有救済説を中心とする一考察――

野呂芳男

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初出:『基督教講座』第37号、青山学院同窓会基督教学会、第37号、1994年。




 日本に宣教師として来て、長い間、青山学院のためにご苦労されたキッチン先生が今回アメリカに帰られるということを聞いて、この拙論を先生のご苦労に対する感謝を表わすものとして提出致します。私たちは先生が青山学院大学神学料のために尽くされた数多くのこと、特に神学科と学院の理事会とが対立した時に、先生が取った毅然とした態度を決して忘れないでしょう。今後もますますお元気で、日本やアメリカの教会と神学のために尽くして下さい。長い間にわたる個人的な互いの友情にも、深く感謝します。



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 一切の衆生が観世音菩薩によって救われるという、『観音経』の教え(『観音経』と通常言われている部分を含む『法華経』全体がそのように教えているのだが)は、キリスト教の教理史にいつも根強く残ってきた「万人救済説」をわれわれに思い出させる。もっとも『観音経』の場合には生きている全ての生物の救いを説いているのであるから、「万有救済説」と言った方が良いであろうが。しかし、大乗仏教の中にも「万有救済説」を説かない宗派もある。元来大乗仏教は、全ての人が仏性を具えているが故に、悟りを求めて菩薩の修業を行なえば、必ず悉くの人が仏になれると主張するものである。(原始仏教や部派仏教では、一般人は仏になれるとは考えられておらず、仏になれるのは特殊な人々だけであった。)ところが、大乗仏教でも唯識法相宗では、一闡提(いっせんだい)と言われる人々は、三乗、すなわち、将来、仏になり得る声聞、緑覚、大乗の信者のいずれにもなれない、と説く。

 この法相宗の教えはわれわれに、永遠の昔より救いから除外されるように、神が予め定めた人々が存在すると説く(アウグスチヌスやルターやカルヴァンの)キリスト教の予定論を思い出させる。私は、一切衆生悉皆仏性(一切の衆生には悉く仏性が宿っている)とする天台宗や日蓮宗に惹かれるのであるが、これは私がキリスト教神学において、「万人救済説」に立っていることと勿論無関係ではない。

 「万人救済説」については、前に拙著『神と希望』(日本キリスト教団出版局、1980、324頁以下)において詳しく述べたので、詳細はそれを参照して頂きたいのであるが、この説の聖書的根拠としては、例えば「ローマ信徒への手紙」5:18「そこで、1人(アダム)の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、1人(イエス)の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」のような、神の愛がすべての人間に対して注がれることを告げる聖句がよく引きあいに出される。しかし、この説の強みは、聖書の中にどれ程多くこれを支える句があるかではなく、聖書の中心である神の愛に直接依存していることにある。人間を救うためにその最愛の独り子さえもこの地上に送り込み、その子が十字架上で死ぬことさえ我慢した神が、カルヴァンやその後継者たちが主張するような二重予定論の神である筈がないからである。周知のように二重予定論とは、(この論にも、細部で異なった幾つかの種類があることを承知の上で、敢えて大ざっぱに言えは゛)神が永遠の昔から人柄を2つに分けて、一方を救いに、もう一方を永遠の滅びに予め定め、救われるように定められた人々は信仰を持ち、やがて永遠に神と共に住むこととなるが、滅びに定められた人々は、どれ程努力しようとも、遂に地獄に落ちて永遠の苦悩の中に伸吟するというものである。個々の聖句ではなく、聖書全体が告げる神の愛と、こういう二重予定論は矛盾すると私は思うのである。

 ところで、今私は天台宗や日蓮宗、つまり『法華経』を信仰の中心的経典とする二大宗派が、「万人救済説」に近いものだ、と言ったのであるが、等しいものであるとはまだ言えない事情があったからである。既に述べたように大乗仏教の救いには、人間のみならず一切の命あるものが含まれているのであるが、それに対して、大体のところこれ迄のキリスト教は、神による救いの対象を人間に限定してきたのである。それ故に、大乗仏教とキリスト教とが、救いの対象を等しくすると言えるためには、キリスト教も人間だけではなく、命あるものの全て、あるいは、更にその対象を拡大して、山川草木まで含めて救うものであることが言えなけれはならない。ところが、このように拡大された対象を救うものが神の愛であることを、深く思索していた神学者がこれまでにも皆無ではなかったのである。

 ニコラス・ベルジャーエフは地獄における永劫の罰というような考えを明白に退け、万有救済――ベルジャーエフ夫妻が可愛がっていた猫を含めて――を主張した人物であったが、彼の言葉をここに引用してみよう。

 救いとは、人間が神と再び一致することを通して、神が人間及び宇宙と再一致することである。従って、個人個人ばらばらの救いだとか、選ばれた者だけの救いは存在しない。十字架や苦痛や悲劇はこの世界の中に存続して行くが、遂には全人類と全世界とが救われ、変容され、更生されるのである。そして、このことがわれわれの世界時期で到達され得ないとしても、救いと変容との業が続行されるところの他の諸時期があるだろう。その業は、われわれの地上の生に限られていない。私の救いは、他の人々の救いと結び付けられているばかりか、動物や植物や鉱物の救い、一枚の葉の救いとも結び付けられている。一切のものが変容されて神の国の中に持ち来たらされねばならない。そして、これは私の創造的な努力に依存している(Berdyaev, Nicolas: Dream and Reality, trans. by K. Lampert, New York, The Macmillan Co., 1951, pp.319-320)。

この引用で明らかなように、ベルジャーエフにとっては、動物も人間と同じように救われるのであるが、残念ながら動物が動物のままで――つまり、動物が輪廻転生の過程において人間に進化して教われるのではなく――救われるのかどうかは明白ではない。更に、植物や鉱物の救いに関する彼の考えが具体的にどのようなものであるかは、全く分からない。これに対して、大乗仏教の場合には、動物は人間に転生して救われることがはっきりしている。では、植物や鉱物はどのようにして救われるのだろうか。この点で私の興味を引くのは、最蓮房に問われた時の日蓮の答である。日蓮は先ず宇宙と人間の全てを妙法蓮華と見る。妙法とは、宇宙の全てを貫いて流れる仏の法であり、有情衆生(一切の生あるもの)の成仏を意味する。蓮華は非情(命のないもの)の成仏を表している。従って、有情の成仏は生の成仏、非情の成仏は死の成仏とも言える。非情の成仏とは、草や木が成仏すると言うよりは、宇宙の法そのものである仏が、草木となって現われるのである。その意味はどういうものであろうか。日蓮は更に説明する。衆生は自分たちが久遠の生命を宿すものであることを自覚する時に、既にこの地上において仏である。この地上は、迷える凡夫にとっては穢土であるが、既に自分が事実上仏であると自覚した者にとっては浄土なのである。既に浄土たる仏の国を飾るものとして、山川草木はこのままで仏土の宝樹宝池であり、仏の生命を体現しているものなのである(姉崎正治『法華経行者日蓮』、博文館、改定新版、1933、251頁)。大乗仏教、特に『法華経』を解釈する場合に、山川草木の成仏については、これ以上に説得力を持つ解釈を私は知らない。

 このような事がらを考えるに当たって、キリスト教の場合によく引き合いに出されるのは、パウロの「ローマ信徒への手紙」8章18-25節である。
 
 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

この聖書翻訳はカトリック教会とプロテスタント教会とが共同で行ない1988年に出版した、いわゆる『新共同訳』によったが、翻訳者たちは、被造物を虚無に服させたものを神と考えて、被造物を「服従させた方」というように敬語を使って表現しているのであるが、神が被造物を不条理たる虚無に、服従させることなどあり得ないと思っている私にとっては、誤訳であるとしか言いようがない。服従させたのは、神話的に言えば悪魔である。それは兎に角として、この文章の中に表わされているパウロの希望には、すべての被造物、すなわち、人間のみならず動物や山川草木までもが、(人間が聖化されて)神の子たち(となり、そのようなわれわれ)が現われるのを、われわれと共に苦しみ、うめきながら待っているという、上述の大乗仏教における仏国土への期待に山川草木の救いが含まれているのと、同じ発想が見られるのである。確かにパウロの文章には、大乗仏教の山川草木悉皆有仏性のようには、意味がはっきりしないところが多くあるが。しかし両者の発想が同じであることを踏まえるならば、日蓮の考え方でパウロの文章を解釈してもー向に差し支えがないのではないか。

 発想が同じであれば、辿り着く結果も多かれ少なかれ同じ筈である。ただ、人間以外の被造物の救いについては、大乗仏教の方が深く考え抜いていることは疑いをいれない。新約聖書の著者たちは、間もなくこの世が終わるという、熱い終末の期待に生きていたために、この世界が終末の後どうなるか、人間以外の被造物はどうなるか、というような諸問題は考える対象にならなかったに過ぎない。こういう世界観の局面では、キリスト教は仏教から多くを学ぶべきである、と私は思っている。それ故に、山川草木悉皆有仏性を、キリスト教の万人救済説と結合させて、日蓮の解釈にあるように、(永遠の世界での救われたものたちの状態を、われわれの今の言語を使って表現するために、やむを得ず使わない訳には行かない神話的表現を使うならば)天国において全ての生あるものが救われる時に(救われた生あるものの霊的な体に相応しいように)山川草木さえも、神の愛をわれわれが賛嘆するのに何の妨げにならないように、(霊的な時間と空間を構成するものに)変容される、と私は信じているのである。

 ところで、生あるものが全て救われるという主張は、輪廻転生説と結び付き易い。われわれは普通、輪廻転生説は大乗仏教のものでキリスト教とは無縁であると思い込んでいるが、キリスト教と深い関わりを持っていたマニ教や、中世の南フランスの(絶対二元論に立った)カタリ派はこの説の信奉者であった(原田武『異端カタリ派と転生』、人文書院、1991;Nelli, Rene : Les Cathares, Culture, Art, Loisirs Paris, 1972,pp.74ff.)し、近代以降もニコラス・ベルジャーエフ(Berdyaev, Nicolas: The Destiny of Man, London, Geoffrey Bles, 1954<Forth Edition>, p.275, p.279)を含めて、何らかの形態での輪廻転生説を唱える神学者は跡を断たない。自分たちの祖先の霊魂が死後も何らかの形で存続していると信じる古来からの祖霊信仰を持ち、かつ、それと混合した形で大乗仏教の輪廻転生説を受け入れて来たわれわれ日本人のことを考えると、若しもキリスト教が輪廻転生説を積極的に採用出来るならば、キリスト教とわれわれ日本人民衆との大きな接点となることは疑いを容れない。私も大分前から輪廻転生説を神学の中に受け入れて来た者の1人である。

 最近のことであるが(1992年2月)、ある神学校の学生から私の神学、特に拙著『神と希望』に関連して質問の手紙を受け取った。その質問は、私の神学が、イエスを神からわれわれに語りかけられた言葉としており、その神の言葉に対してわれわれが主体的な応答をしなければならないことを中心としているものである事情と関係していた。何らかの身体的障害を持っているために応答も出来ない、否、自分が自分であることさえも意識できない人々は、私のような実存論的神学、主体性を強調する神学ではどうなるのだろうか、というような質問であった。この手紙による質問者は、障害者の方々への奉仕の中に自分の生きる意味を見いだしておられるようであった。手紙の文面には書かれていなかったが、恐らくこの質問の背景にほ熊沢義宣氏の好論文「身体性と神学――とくに障害者神学の視点から」(日本組織神学会編『身体性の神学』新教出版社、1990年刊、209頁以下)を質問者が読んだという事実があったのであろう。熊沢氏は上述の論文の中で、北ドイツのべ−テルという町の社会福祉施設を訪れた時の体験を語っている。そこの重症患者の部屋で、氏は焦げ茶色で長さ50センチくらいの丸太のようになってしまった人物に出会った。この人物は生まれた時からこのような状態で、既に50年以上を過ごして来たのであった。ナチの時代にヒトラーは、障害者を安楽死させて施設を閉鎖するように命令したが、施設で働いていた人々は捨て身で障害者を守り通したので、ヒトラーも遂に自分の方針を貫けなかったとのことである。つまり、その時に、この丸太状の人が施設に働く人々にとって、ヒトラーに抗するシンボルとなったのであった。

 熊沢氏はこの感動的な物語の後で、人間の価値は、ヒトラーが考えていたように、その人間の能力によるものではなく、人間が神の像を宿す存在であることにある、と主張されているが、もっともな主張である。恐らく私に手紙をくれた学生の質問は、人間が神の像を宿す存在であるということにも関わっていたのではないかと思う。例え主体性を失う程の、丸太状の障害者も救われるというなら、私の実存論的神学の中心をなしている主体性は、神学としてそのように重んじられてはならないものなのではないか。これが質問者の心の中にあった疑問なのであろう。私は返事として、神の像を宿す人間の存在が尊いとする時に、その存在と、その存在が持つ障害とを同一視することの危険を、先ず指摘した。障害そのものが尊いのではなく、障害のない人々(実は、心の中に罪という障害を持っているのではあるが)も、障害のある人々も、変わらずに救って下さる神の愛を、われわれは賞賛すべきなのである。ナチに抗して、1人の丸太状の人物を守り抜いた人々は、そのような障害者であっても、神が愛しておられるが故に、人々が勝手に処置することの出来ない神聖な存在であることを証したのである。決してその丸太状の障害そのものを賛美したのではない。もしもその障害そのものを賛美したとすれば、そこにあるものは不幸そのものの美化であり、不幸への病的な耽溺である。意識さえない人々のことであるから、これは比喩的にしか言えないが、自分の障害に気づけば、誰だって自分の障害をできれば取り除いて貰いたい筈である。障害を持つ人々がわれわれ神学者に提起する問題は、不条理との関連で、神義論との関連で、取り上げられねばならないものなのである。神が欲したが故にその人々は障害を持っているのではなく、神の意志に反して、無の持つ不条理の故にその人々は障害者なのである。この点については、他のところで既に多くを論じて来たので、ここでこれ以上に述べる必要はないであろう。

 健常者のようには言葉を話せず、通常の意味では主体性のない人々も、輪廻転生の結果いつの日にか神の摂理の下に建常者となり、自覚的に言葉のなかに生きる主体的存在となって、沢山の生の体験に基づいた決断によって、神を信ずるようになると私は確信しているのである。

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 キリスト教史上の万人救済論が、人間の救いだけに関わって来たのに対して、大乗仏教は生命のある全ての存在の救いに関わる万有救済論を唱えていることは既に述べたが、私はこの点で大乗仏教に影響され、万有救済論をキリスト教神学の中に取り入れたいと思う。ダーウィン以降の生物進化論が、人間が進化して来たその途上の下位の動物たちと人間とが、生物学的に強い繋がりを持っていると主張していることはさておいて、われわれの日常生活の中で、われわれはそれらの動物と不十分ながらも愛の関係を結ぶことができるのに気づく。この愛の関係の中には、その動物と死によって決別することとなるならば、われわれの永遠に亙る存在の喜びが、どうしようもない仕方で傷つけられるという要素がある。神が愛であるということは、神があらゆる愛の関係を救おうとされていることを意味するが故に、そして、救われて行く中で愛は(われわれがこの地上で知っているものよりも、もっと)深められて行くことを思えば、動物の愛が深められて人間の段階に進歩したとしても少しも不思議ではない。つまり、動物も輪廻転生して行くうちに人間の愛を体験するようになってくるし、(すなわち、人間になるし、)人間も(神話的に)われわれが天使と称しているような存在の段階が持つような愛で、互いに愛し合うことが出来るようになるのである。新約聖書の著者たちは、余りにも差し迫った世の終わりの期待に生きていたので、動物たちの宿命について考える余裕がなかっただけである。

 拙著『神と希望』(347頁以下)において、私は輪廻転生については詳細に書いているので、成るべく重複は避けたいけれども、重要点だけは繰り返さざるを得ないであろう。私はその拙著で、ゲデス・マグレガー(Geddes MacGregor)が、聖書の2つの記事について説明している叙述を引き合いに出している。彼が説明する2つの記事の1つは、「ヨハネによる福音書」(9:1−3)であるが、そこでは生まれつき目の見えない人に関して、弟子たちがイエスに尋ねた言葉が書かれている。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(9:2)。「本人ですか」という質問の背後には勿論、本人が前の人生で罪を犯したからではないか、という輪廻転生の思想が存在したに違いないのである。もう1つの聖書の記事は、「マタイによる福音書」(16:13−14)であるが、ここでイエスは弟子たちに、人々は自分を誰と言っているかと問われている。彼らの答は、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の1人だ』と言う人もいます」(16:14)であって、この答もイエスをこれらの先人の再生した存在と考えており、その発想は輪廻転生を土台としていることが明白である。そして、これらの2箇所で重要なことは、どこにもイエスが輪廻転生をはっきりと否定しておられないことである。前の場合でも、生まれつき目の見えない人の、この病の原因に当たる罪を、この人の前の人生では見いだし得ないこと、他は知らず、この病はむしろ、(前生を含む)過去の罪の結果ではなくて、神のみ業が今、彼の上に現われるためである、とイエスは言っておられるのであって、決してこの人に前生がなかったとか、人間には元来前生などなく、この世の1回限りの生涯しか与えられていないのだ、などとイエスは主張されているのではない。勿論、この記事から、イエスが輪廻転生を積極的に信じ、それを説いて回っていたとは言えないのであるが、しかし、少なくともイエスがここで、そのような思想に反対しているのではないことは確かである。それに反対するイエスの言葉は、新約聖書のどこにも見当たらない。しかし、どう考えてもイエスの当時の宗教的環境に、輪廻転生を信じる一般的風潮があったことを想定しない訳には行かないのではないか、と思う。
 ところで、もしもキリスト者が、聖書の中で否定されてはいないにしても、積極的に説かれてはいない思想である輪廻転生を信じるとするならば、神学上のどういう根拠によって、そのことは是認されるのであろうか。この点については、ここでもう少し詳細にわたる叙述をしておくのも悪くはないであろう。

 キリスト教を民衆の宗教として捉える神学であっても、何か特別な神学方法論がある訳ではない。ただし、カール・バルトの神学のように自然神学を全く拒否する神学では、とても私が意図するようなキリスト教神学は成立しない。(バルトが行なったような自然神学の完全な否定が、輪廻転生というような問題とは全く関係なしに考えても、神学の方法論として私の取り得ないものであることは他のところで述べた。)従って、承認の程度に差はあるにしても、自然神学を承認する神学と、私の意図するキリスト教神学は基本的に同じ方法論に立つ。つまり、人間の体験の諸次元、文化の次元、社会(政治・経済)の次元、自然との関係の次元、全てにわたって、イエスにおける神の啓示を理解するために役立つものが存在することを認めるのである。役立つ仕方は、まず何と言っても、これらの次元における人間の体験が啓示に対して質問を突きつけるところにある。どうしても人間の生きる意味が、それらの次元のどれを探ってみても見いだせないけれども、一体人間にほ生きる意味があるのか。こういう生の諸次元からの質問に対して、神学は啓示に基づいて、神との愛の関係の中にこそその答があることを告げる。問いと答のこういう関係は、(啓示を信じる前にも、その信仰への準備としての神の働きが存在するというのが、自然神学の意味内容なのであるから、)問いを持たざるを符ないように仕向ける神の働きを想定しており、当然のこと、自然神学に入るものであるが、自然神学にはそれだけではなく、イエスを通しての神の啓示では明瞭に理解できない真理を、その啓示との有機的連関を保ちながら、(従って、その啓示と矛盾しないように注意しながらではあっても、)理性的に解明する働きも含まれている。古びた自然神学で今日では最早通用しないものと私は思うが、例えば、かつての教会のある神学者たち、が提唱していた、「創世記」に記されている、神による6日間にわたる天地創造物語の一日一日を進化論と妥協させて、その1日が長い進化のある時期を表わしているのだ、という主張などは、明らかにこの種類の自然神学である。ところが、進化論など全く知らなかった「創世記」の著者は、その当時の幼稚な科学思想に則って神による創造を物語ったのであって、「創世記」の著者の言う1日は、われわれの体験する1日と同じものである。それをあの神学者たちは、自分たちの創造への信仰と矛盾しないように、理性的に進化論を土台として補足し、1日を一定の時期に変えたのである。

 中世のカトリック教会の説いた地獄や煉獄の思想も、上述のような意味での自然神学であることは明瞭であろう。新約聖書は、当時の世界の考え方であった3階建ての建物のような世界像を背景として持っており、われわれが住む地表の上の方には天空があって、そこには神や天使たちがおり、地表の下の方には、悪霊などの住む冥府があると信じられていたのである。後にダンテがその『神曲』の中で展開したような天国についての叙述は新約聖書にはない。そして、『神曲』で表現されている、幾つもの階層を持つ地獄などは、新約聖書の冥府の考え方とは遠く離れた神学的発展である、と言わざるを得ない。まして、世の終わりが間近であるという新約聖書の終末論から言って、煉獄において、死んだ人間が長い修練の期間を経て徐々に聖化され、やがて天国に受け入れられるようになるという発想は、何らかの理性的操作を経ない限り出てくる筈がない。これは、この世の終わりにこの地上に到来すると信じられていた(新約聖書が告げるような)神の国がいつ迄経っても来ないで、多くの信者たちがその間に死んで行く事情を見てきた教会が、神の国を天国と考えるようになった結果、そこに出てきた理性的説明なのである。つまり、余り立派とは言えないわれわれが死んだあと、すぐさま天国に行けるとは信じられないので、修練の期間を置く必要があると考えられた結果が、煉獄思想の展開であった。

 更に「創世記」の創造の物語から、後の教会が主張するような「無からの創造」(creatio ex nihilo)という教理が作られたのは、これも自然神学によってである。「創世記」の1章の創造物語によると、神が創造を始められた時に、地表は混沌状態にあり、それを神は、大空の上の水と地表上の水とに分け、地表の水を陸地と区別することによって、秩序を作り上げられたのである。後の教会が主張した「無からの創造」は「創世記」の創造物語にはない。つまり、「創造する」という言葉は、われわれが聖典としている聖書の中では、後の教会が意味させようとしたものを意味していないのである。経外典である「マカバイ記二」(7:23)にある記述、「人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は……」が、後の教会が主張したような仕方で創造が意味された最初であるとししばしば言われてきたが、これもはっきりしない。要するに、「無からの創造」は、創造を神と、それに敵対する力との二元論的争いとして考えていたグノーシス主義に対して、一切が神の支配下にあるとする一元論的正統主義が、全てを神が支配するなら、天地の全てが何もないところから神によって造られたに違いないと理性的に類推したものであって、まさに自然神学的操作の結果出てきたものなのである。そうすると、私のようにプラトンに倣って、創造に当たって神に敵対する無の力を想定している者にとっては、むしろグノーシス主義の二元論の立場の方が自分に近いと思わざるを得ず、正統主義的神学と同じ「無からの創造」という言葉を私が使っていても、その意味が正統主義のそれとは違うことを主張せざるを得ない。従って、私には創造論に関して別の仕方での――既に述べたような――自然神学が当然存在していることとなる。

 創造論にしても、煉獄の思想にしても、聖書から直接に由来したとは言えない思想ではあるけれども、イエスにおいて与えられた神の啓示においては明確ではない事がらに関して、当時の文化の次元からその事がらを補ったものである。しかし、この自然神学的操作は、竹に木を接いだ不自然なものではなく、矢張りイエスにおける神の啓示を、当時の文化的状況の中で、更に際立たせるような仕方での接ぎ木であった。私もこれ迄の(上述したような)自然神学的操作に倣って、今の状況の中で自分なりの自然神学を展開しているのであるが、その一要素が、輪廻転生によって(新約聖書に表わされている)イエスにおける神の啓示を補う操作なのである。この思想は、新約聖書の告げる世の終わりが来なかったし、いまだ来ていない現代において、中世の煉獄思想に似て、死後いきなり神のところへ行ける程には聖化されていない者たちが、聖化されて行く経過として私が採用したい神学的素材なのである。既に新約聖書において、この思想への反対が見られないこと、日本においてのみならず広く世界中の民衆宗教において、この思想が古代以来連綿と続いてきていること、などを考えると、私には、この思想を神学の中に取り入れることは賢明であると思われるし、そうしても教会がこれ迄に行なってきた自然神学的操作を継続するだけの話だ、と思えるのである。

 自然神学を造りあげるに当たっての素材が、これ迄のキリスト教が主に素材としてきたヨーロッパの諸宗教的風習や諸哲学思想だけではなく、今は大きな広がりを見せている。アジヤの諸宗教も諸哲学も素材となって来ているのであるから、神学はその性格をいやおうなしに変えざるを得ないであろう。そこでもう一度ここで、今の自然神学的操作と、前に述べた人間の体験の諸次元との関係を明瞭にしておく方が良いかもしれない。

 自然神学の素材となる他の諸宗教は、いずれもその中核に信仰という信者の決断を土台としたものなのであるから、私が前に描いた幾つもの同心円の一番内側の次元に属する部分を持つ。これらの宗教のいずれかの中核が、キリスト教の中核と全く同じであれば、両宗教は同じものであることとなるが、そういうことは現実には存在しないだろう。(2つ以上の宗教が長い間の対話の末に、全く中核を同じくするようになることを否定するものではないが。とにかく、対話の最初には、大体において、)それぞれの中核は多少とも互いにずれたものであろう。その場合、それでもキリスト教はそのずれている中核から、キリスト教にとって自己を発展させる栄養分を吸収させて貰うし、他の宗教にもキリスト教から栄養分を吸収して貰いたいのであるけれども、更に、この円の外側にある文化の次元――宗教は悉く信仰に文化の衣を着せたものであることを読者には想起していただきたいが――からも、キリスト教神学は多くのものを吸収できるのである。私は、輪廻転生の思想を取り入れる自然神学的操作は、主に信仰(及び神学)の次元と、文化の次元とにわたる事がらであると思っている。このようにして取り入れられた輪廻転生の思想は、イエスの説く愛の神と見事に適合して、それを補うものとなる。これも正統主義の「無からの創造」や、中世の煉獄思想と同じように自然神学の系列に属するから、やがては排除される日が来るのかも知れないが、しかし、その日が来るまではそれらと同じように、それ自体の場所を神学の中に占めて良い権利を持っているのである。

 以上のように考えてくると、私の志向する民衆の宗教としてのキリスト教にも、神学が存在することが明白になったと思う。その神学の方法論は、自然神学を全く実を学ぶためのものであるばかりでなく、法を内に含みながらも、それを越えて支配している愛を学ぶためのものである。互いに生かし合うことのほうが、善行良果、悪行必罰の法の徹底よりも大切なのである。愛することの喜び、愛されないことの淋しさを知ることのほうが、歓喜と絶望を体験することのほうが、笑い泣くことのほうが、緻密な道徳的計算よりも大切なのである。

 つまり、道徳的なものを否定しないが、しかし、それを越えた1つ1つの生の存在の深みを味わうために、われわれは生きるのである。ある1つの生で、われわれは神仏を信じず、人を蹴落として自分の自我の拡大だけに生きるかも知れない。そういう生が最終的には空しいことを体験するために。ある1つの生を、われわれは絶望して自殺で終わらせるかも知れない。神なき人生の究極的無意味さの証しとして。ある1つの生をわれわれは、差別される、例えばアメリカでの黒人としておくるかも知れない。蔑まれ差別されることがどんなに苦しい悲しいものであるかを体験するために。このようにして、一連の生の連続を通して、われわれの生は存在の深みを知るに至るのである。そして、互いにそういう存在であることを知れば、信仰者と不信仰者の区別などは無意味となる。信じることそれ自体が今喜びをもたらしてくれるが故に、われわれは信じるのであって、信じない人もいつの日にか(ある1つの生において信じるようになり)救われるのであれば、彼我の価値に区別も優劣もない。

 一連の生を体験するものは、1つの魂たる実体であろうか。大乗仏教では、究極的なものが空、無、真如であるために、何時までも変わらない本質を持つ実体という概念は採用しないが故に、実体としての魂は認めていない。勿論、輪廻転生し、一連のいくつもの生を貫いて因果応報を受けて行くものが存在する訳であるから、実体としての魂に近いものを大乗仏教も想定していると言わざるを得ないが、それでも大乗仏教が実体概念を否定するのは空や無の理解から来ているのであろう。空や無は因縁の意味であって、全ての存在するものは互いに依存し合って存在している、とするのである。沢山の因縁の線が交わる交点が1つ1つの存在なのであるが、線のほうが強調されており、交点はそれ自体の主体性を認められていないのである。それに対しキリスト教の場合には、神の支配たる摂理の中に因縁に当たる現実が思考されているが、そればかりでなく、交点が主体性を持つ、責任ある諸存在者(すなわち人間)として考えられてきたのである。そして、中世の神学はこれを実体として言い表わしたのである。この点は、恐らく大乗仏教とキリスト教とのもっとも重要な相違であろうが、その相違は、キリスト教が人格的な神を信じるところから来ているのであろう。人格神は、人間に語りかけてくる訳だが、また人間から応答を要求する。責任ある主体性が、どうしてもキリスト教の人間理解の中心とならざるを得ない。面白いのは、今日の民衆仏教になると、人間の魂が実体として考えられているのであるが、これはキリスト教と結合した西欧文化の中に、いやおうなしに生きて行かねはならない日本の民衆仏教家が、知らず知らずのうちにキリスト教的人間観を持つに至ったものであろう。

 ところで、大乗仏教の因縁話と近い形で、人間霊魂の存在に対して否定的な見解を表明しているのが哲学者ウィリアム・ジェイムズである。彼は人々が、不滅の霊魂を信ずることに反対はしないのであるが、科学的にはその存在を仮定する必要は全くなく、むしろ心理学的にはその存在を証明することはできないものであることを論じている(James, William: The Principles of Psychology, vol.1, Harvard University Press, 1981, pp.330ff.)。
 これ迄に述べたように、大乗仏教は霊魂の存在を認めないのであるが、その徹底振りは大乗仏教の認識論を検討して見ると良く理解出来る。例えば、戸崎安正氏は次のように述べている(「認識」、『インド仏教』3、岩波講座、東洋思想、第10巻、1989、161頁)。
 
 まず第一は、無我を唱道する仏教は認識者(個我)を認めないということである。その認識論は無我論を前提とした上でのそれである。彼らにとっては「私は花瓶を見る」と言うことは正しくないし、「私に花瓶が見えている」と言うことも厳密な意味では認められないのである。ただ「花瓶が見えている」それだけである。

同氏は更に、大乗仏教認識論を貫徹したものとして唯識説を取り上げ、法称の認識論に触れているが、法称においては、認識における主観と客観との区別は存在せず、例えば青という色彩の認識であれば、青という内容を待った知が自ら輝き現われるだけである、とする。つまり、そこにあるものは主客未分の自己顕現なのである。それを主観が客観的な青という現象を見ているように思うのは、無明のなせる業、われわれの迷いに由来するのである(同書、178頁以下)。そして、1つの知覚がある長さの時間に亙って継続するのは因果論で説明される。つまり、前の利那の知覚が困となり、次の剃那に果として受け継がれ、取り入れられて行くのである(同書、164頁以下)。

 このように徹底して個我を否定する大乗仏教に個的な霊魂の存在や、輪廻転生の様々の段階の全てを貫いて変わらない実体的なものを求めることは不可能であろう。ところで、西欧の自我と環境との対立から出発する哲学的伝統を受け継ぎ、イギリスの経験主義の流れに棹さすジェイムズの場合には、主観・客観の区別は当然のこと前提とされている。大乗仏教が無明として棄却したこの区別こそが、ジェイムズの出発点であった、と言っても良い。それにも拘らず、ジェイムズも霊魂の存在を否定して、むしろ大乗仏教における因果論に近い形で、われわれの認識における継続性を理解するのである。それをジェイムズは「思想の流れ」(stream of Thought)と呼んでいるが、これは、ある時間における体験されたものについての思想をAとすると、次の時間における思想Bは、このAを内に含むのであり、更こその次の時間の思想Cは、Aを含んだBをその内に含むのである。このようにして、われわれの思想は1つの流れを形成しており、その流れの中に主観として自分自身を客観視する(通常は)自我(と呼ばれているもの)の働きも含まれてしまうのであり、わざわざこの思想の流れの深みや外側や背後に、その流れを統括する霊魂を想定する必要は全くない。思想の流れだけで、われわれの体験は十分に解明できる、とジェイムズは主張するのである。勿論、思想の流れの中で自己反省の要素の存在を強調するジェイムズの場合には、今の時間の主観が積極的に働いて過去の時間の体験をそれ自体の中に取り込むのであって、主観の存在が無明として退けられている大乗仏教の認識論とは異なるのであるが。

 面白いのは、このように霊魂の存在を否定するジェイムズが、死後の命の存続を否定していないことである。彼には、1つ1つのアトムのような霊魂がただ死後の聖なる世界に存続することに、多くの人々が執着するとは考えられないのであって、むしろ大切なのは、死後も現在の生と連続している意識の流れ(a stream of consciousness with the present stream)があるということなのである。そして、倫理的観念が発達した今日においては、死後の命(不死)はどうしても目的論的に考えられなければならないとし、われわれが不死を信じることができるのは、われわれがそれに相応しい(fit)存在であることを前提にしなければならない、とジェイムズは言う。そうすると、ジェイムズの論理を追って行くならば、倫理的に相応しくない存在は、それが霊魂であろうが思想の流れであろうが、一切そういう不死を持てないことになる。これは一種の行為主義だと言わざるを得ない(James William: The Principle of Psychology, vol.1, pp.330ff)、倫理的英雄だけが不死を獲得出来るのである。神の愛が全ての生あるものを最後には救って下さることを信じている私にとっては、何とも承諾できない論理の展開である。前に問題とした、人間としての、否、動物のような意識さえも失ってしまっている、丸太のようにただそこに存在している障害者は、思想の流れを持てないのであるから、ジェイムズの考えでは全く不死を獲得出来ないこととなる。科学としての心理学には、ジェイムズの言うように思想の流れだけで十分であるかも知れないし、心理学を越えて不死について語るにしても、倫理学との関係では矢張り思想の流れだけで間に合うのかも知れないが、十分に宗教的な(万人救済や万有救済という)救いの論理を展開するためには、それでは不十分なのである。思想の流れや意識の流れを越えて、輪廻転生を語らねばならないのである。もっとも、大乗仏教の場合には、輪廻転生を主張しながら実体としての霊魂については語らずに、無明に過ぎない意識の流れだけで済ましているところがある。しかし、これでは、これから述べるような悲惨な存在が、この世に存在することの意味を積極的に主張することなど元来できないのではないか。無明の意識の流れが、輪廻転生のある段階で丸太のような存在になってしまったとしたら、そのことの意味をどのように説明出来るのか。こういう思想の中では、そういう丸太のような存在は存在する必要がないのではないか。どうも実体としての霊魂が主張されていないところでは、最後には不死ではなく、減却が救いとなっているように思える。目に見えない霊的世界においても、無が有に優先しているのではないか。

 一連の輪廻転生の生の幾つかが、意識のない存在として過ごされるとしても、あるいは幾つかの生において、倫理的に他人に迷惑ばかりかけて、生きていることが意味がないどころか、存在しないほうが世の中のためであるような生をわれわれが過ごすとしても、不条理との戦いをしている神の摂理の中で、それらの生を奥底まで味わい尽くして行くことが、神の意志であると言われねばならないのではないか。終身刑の牢獄の中でも、その前途空漠たる生活をとことん味わうことが、その人間の、その生の課題なのではないか。死刑囚が宣告された死刑を目前に控えて、死の恐怖をどん底まで味わうことも、神と不条理との争いの中で展開される、その生の持つ意味なのではないか。死刑の瞬間までその生を自殺せずに生きて行かねばならないことを主張できるのが、神学なのである。(このことは、いきなり死刑制度の肯定にはつながらないことも、言っておきたい。)何故ならば有こそが神の働きであり、神は基本的に無に抵抗されるからである。こういうことが言えるためには、どうしても大乗仏教やジェイムズの思想と違って、実体としての霊魂の存在を主張せざるを得ないのである。この主張は心理学が実証出来るようなもの、また、倫理学がどうしても要請しなけれはならないものではなく、飽くまで宗教的な次元で信じられねばならない問題なのである。

 このように、無や空を生にとって究極的な関心事とせずに、人格的な神の愛を究極的な関心事とするわれわれにとっては、輪廻転生は、個としての霊魂の不滅を明確に肯定するものである。以上のように輪廻転生を考える時に、われわれの究極的な救いの保証は、最後には全ての生物が救われるという確証は、どこに見いだせるのであろうか。われわれが全知・全能の神が全てを支配しているという観念を捨てた以上は、当然のこと輪廻転生が、運命のように人間にとってどうしようもない仕方で展開されるものとは考えられない。(私ほ従来から、運命を星の運行やサイコロの運のように、われわれの自由意志や主体性とは無関係に必然的に展開されるもの、として理解し、それに対して、宿命という言葉を、われわれの存在それ自体に宿っているものが、われわれの自由意志や主体性を通して展開してくる事態を意味するものとして使って来た。今回もその使い分けをすることにしたい。)それは、自由な人格的存在である神と、勿論遥かに小さなスケールにおいてではあるが、(他の生物を管理するように神から委託されているので、他の生物をも代表するものとしての)同じように自由な人格的存在である人間との間に展開される愛のロマン、(時間と空間に限定されたこの大宇宙、また、時空を越えた世界をも巻き込む)両者の織りなす物語なのである。この物語は、必然の運命のようなものではなく、行く先の不確かな、冒険に満ちたものであり、われわれをわくわくさせる。その確かさは、新約聖書の終末論が告げているように、その物語がハピーエンドに至るということを、われわれが信じるところにある。最終的にはわれわれの全てが、愛の神の御許で永遠に生きることができるという、物語を信じるのである。われわれの(精神や環境の)それぞれの状況に神は可能な限りもっとも良い仕方で適応して下さり、ある時は力ずくで妨害物を除去して下さるし、それが出来ない時には出来るようになる迄忍耐強く待っておられるし、ある時は妨害物を迂回されて愛の意志を貫徹して下さるのである。この神の意志と1つになることを、私は摂理神秘主義と呼んできたが、神の摂理が必ずその創意工夫によって、われわれを全き救いに到達させて下さることを信じるのである。これが、われわれの救いの確かさなのである。

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入力:黒田良孝
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2004.7.23