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回想の神学者たち  


野呂芳男



初出: 『キリスト教学』第32号、1990年、立教大学キリスト教学会、3-34頁





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 政治的また社会的な視点から現在キリスト教は激しくその功罪を問われている。むしろその罪の責任を追求されている、と言った方が当たっているかもしれない。西欧の近代科学技術と結び付いて地球環境を荒廃させてきた責任、アジア、アフリカ、南アメリカなどにおいて、かつて植民地支配を達成した国々と協力し、その地の民を政治的にも経済的にも収奪したばかりか、その地の民の固有の宗教を理由もなく蔑視して、キリスト教こそ絶対宗教であるとのイデオロギーによって改宗を迫ってきたところの、宗教的帝国主義の罪責などを、キリスト教は今追求されているのである。更に、キリスト教国と言われている国々の中にいるユダヤ人や黒人に対する差別的取扱いばかりか、人類の半分である女性を蔑視してきた男性至上主義の宗教としても、キリスト教は批判の俎上にのせられている。これは私の僻目かもしれないが、これらの理由からであろうか、どうもキリスト教神学は近年あまり元気がない。何か言い訳に終止しているような嫌いがある。

 客観的に見るならばキリスト教は他の諸宗教、例えはイスラム教や仏教などと、互いに同じ資格で話し合いに入らねばならない相対的な一宗教である。自分の宗教は絶対であると他に対して主張してみたところで、相手もそう主張している以上は、絶対性は相殺されてしまう。話し合ってみると、相手の宗教から学び得るところが多くあることを考えると、どうしても相殺されてしまうのである。このように、自分にとって実存的に絶対性をもつ宗教が、客観的には相対的な一つの宗教にすぎず、他の諸宗教にも学ぶべき宗教的真理が存在するとする相対主義は、ここ数十年の間にキリスト教神学が苦労して自分のものとしてきた立脚地であるが、私はこれは大きな成果であると思って喜んでいるのである。

 そして、上述した政治的、社会的ないろいろの問題も、私の見るところでは、キリスト教に元来備わっている真理のお蔭で、やがてはキリスト教自体が自分を改善して、言い訳がましい態度から一転、今度は積極的に改革を担い得る姿勢をもつであろうと、私は楽天的に信じているのである。

 振り返ってみれば、私が青年時代を過したアメリカ留学の期間(一九四九−一九五六)は、キリスト教に対する今のような批判の嵐もなく、まだ神学者たちも大多数はキリスト教の絶対性を無反省に前提しており、神学校は温室のような所であった。第二次世界大戦でナチズムに勝利したという、アングロサクソンのキリスト教の自信に満ちた姿がそこにはあった。

 併し、この温室のような神学校で与えられたキリスト教神学の理解が、やがて私を嵐の中で方向を見失わないように守ってくれたのである。嵐の中で私は迷いに迷ったし、今でも迷っていることに変りはないが、何か、この方向を行けばよいのだ、という羅針盤のようなものが心のどこかに備え付けられているように思う。それは、あの温室の中で、はぐくまれていた基本的なキリスト教の理解なのである。


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一九五○年の春であった。第二次世界大戦において太平洋戦線やヨーロッパ(戦線で戦ってきたアメリカの青年たちの中で、将来牧師になろうと決心した者たちが、政府の支給する報奨金のようなもので、ドルー神学校(Drew Theological Seminary)にも入学してきていた。学生数は通常一学年五十名ぐらいのところが、その時は百名ぐらいになっていた。当時ドルー神学校で組織神学を担当していたエドウィン・ルイス(Edwin Lewis)教授の授業はどの一つをとっても多数の学生たちが詰めかける評判のものであったが、組織神学全般に亘ってやさしく解説する通論の講義は、結婚している学生たちがその奥さんを連れてくるので、ニ○○名入る救室が一杯となり、華やかなものであった。その前の年の秋にこの神学校の一年次に神学士(B・D)を目指して入学した私も、前の方の席を占めて教授の来るのを待っていた。私がここに来たのは、日本基督教神学専門学校(今の東京神学大学)での恩師左近義慈先生(ドルーの卒業生)のお勧めによるものであった。ほかの神学校については私は調べようともせず、信頼し切っていた先生の勧めにすべて従ってドルーに来た。そして、先生の言われる通りにアメリカ人の学生たちと全く同じようにドルーで三年間、基礎的なところからもう一度神学全般について勉強したことは、私にとって実によかった。英語での発音学実習まで取らされたが、Bの評点を貰ったのも嬉しい思い出である。

 七十才とはとても思えない元気な足取りでやがてルイス教授が教室に入ってきた。既に定年を過ぎていたにも拘らず、特別に神学校が頼んで専任なみの講義を続けて貰っているのである。見ると、教授は手に美事な花束を二つ持っていた。そして、神学生の奥さんたちの中で割合に年輩と思われる婦人にそれを差出しながら、この花は今朝自分の家(ドルー構内にあった)の庭に咲いていたのを切り取ったものだから、どうぞ受取って欲しいと言い、またもう一束もそのようにして他の婦人に手渡したのである。春の過ぎ去り行く前にこんな事がニ、三度あったが、少しの嫌味もない、さわやかな光景であった。

 ルイス教授の著書に必ずと言ってよい程に引用されていることから分るように、彼は十九世紀ロマン派の英詩を愛読した。多感な夢を見る、感じ易く傷つきやすい心の持ち主であった。併し、彼には烈しい面もあった。講義の最中に、自分のどうしても言いたいところに来ると、右手で眼鏡を外し、それをもったままの手を机に叩きつけるので、いつも前の方に座っていた私は、眼鏡が毀れるのではないかと、毎回はらはらしたものである。容貌は、彼の綽名であったライオンのように魁偉であった。だが、不思議なやさしさが漂い、男らしく美しかった。

 恐らくは、美しいものヘの憧れがこの世の醜いもの、特に人間の罪によって汚され毀されて行くことに傷つけられたルイス教授の心が、あのような神学を造り上げていったのであろう。彼の神学は、基本的にはキリスト教的プラトン主義に属するものであった。この世に対立するものとして神の世界、真善美の世界が存在しており、人間の魂は元来その深層において、神の世界と結合しているものとして造られ、魂の故郷はこの世にはなかった。従って、人間はたとえキリスト教の神を知らなくても、この世の醜悪にまみれればまみれる程、自己の魂のこの郷愁を哲学的に表現せざるを得ない。これが、何故にルイス教授が、もっともバルト神学に接近した時期においても、啓示の哲学(philosophy of revelation)について語った理由なのである。神の啓示は魂のこの郷愁と呼応するものであり、前者は後者の枠組の中に受容されるが故に、勿論のこと後者によって彩られる。バルトはこういう自然神学的な結合点の存在を嫌うであろうが、ルイス教授にとってはバルトの目指すところの啓示のみに基礎付けられた神学などは、人間が神学行為の当事者である以上、不可能な事柄なのである。

 ルイス教授による現実の三元論的な理解、創造者(Creator)なる神が原料(Non-Creativity)を場にして創造行為を展開するが、併し、創造行為の中には神といえども排除できない仕方で、もう一つの原理である反創造者、あるいは破壊者(Discreativity)の働きが介入してくるとの理解も、その源をプラトン哲学にまで遡り得るものであるかもしれない。プラトンの諸著作の中でもその神概念は、研究者たちの間でその概念が何を意味するものであるかが論議されて決着がつかないものの一つであるようだが、プラトンにとっての神概念が、単にイデア界に属する種々の観念がもつ動的性格の神話的表現にすぎないものであると見るのは、矢張り無理であろう。プラトンにとっても神は人格的存在であったと見るのが至当であろう。

 神の存在との関連で、プラトンにとっていつも問題となったのはこの世における悪の存在であった。これに関してもプラトンは決して一貫した答えを与えてはくれない。併し、大体のところプラトンの答えは、神が、神とは別に存在するところのイデア界の諸観念を、物質に刻印してこの世界の諸物を造り上げた折に、物質がその刻印に反抗したが故に、この世界は不完全になっている、ということであった。ところが『パルメニデス』の中では、美や善の観念(形相)と同じように、醜悪や不善の観念も存在しており、それらの形相が物質を醜悪にも不善にも造る、となっているし、『パイドロス』では魂の中に永遠の昔から粗野なものが存在していて、それが悪の原因であるとされており、また『国家』では、人間の自由意志が悪の原因であるとなっている。更に、『法律』になると、神はイスラエルの預言者たちの説いたヤ−ウェのように崇高な存在であるとされ、そこではイデア界の存在は思索の背景に押しやられてしまい、理性的な存在である神がすべてを合理性と秩序によって治めるのである。そして、この世には神に敵対する悪の世界霊魂が存在し、神はこのある程度人格的な悪の原理と絶えず戦う。ここにプラトンに対するゾロアスター教の二元論の影響を見る研究者もいる。

 ルイス教授は『アーヴイングドン聖書註解』(Abingdon Bible Commentary)という一冊で完結している旧・新約聖書の註解書の編集者の一人であったが、語ってくれたところによると、他の二人の編集者は大先輩なので、結局は当時まだ若かったルイス教授がすべての原稿を整理し、すべてを校正したのである。そのために、ルイス教授は結局聖書を何回も読み、学問的に研究することとなってしまった、ということである。彼はこのことをとても感謝していた。このお蔭で、神は悲劇的存在であることに気付いたからである。ご自分の造った人類に失望し、その事態を救うためにイスラエル民族をえらび特別に教育したのだが、イスラエル民族も神を裏切る。神のお遣わしになった預言者たちを迫害し、最後の手段として神がお遣わしになったひとり子イエスを十字架にかけて殺した。このような裏切り行為の連続に、神は苦しみ悩むが、特にひとり子を殺されたことは、神の本質にこれ迄なかった傷痕(scar)を刻みつけた。イエスの十字架の死以降、神は永遠にこの傷痕を負う存在となった。

 感じやすく傷つきやすかったルイス教授は、自分も含めて人間が皆、神を苦しめ、神にこの傷痕を背負わせた存在であるという、この世に対する深いペシミズムの中に生きていたようである。神をこのように苦しめる人間はまた、聖書に基いて後の教会が発展させた原罪説の主張するように、神を裏切るとともに、人間同士互いに裏切り傷つけ合うのである。この世にはどうしてこれ程までに悪が存在するのであろうか。ルイス教授は最初、この悪の存在の問題を、愛の神に対する人間の自由意志の乱用という形で、つまり神と人間との関係の外に悪の原因を探索しないで解決しようとしたようであるが、それは結局不可能であった。いくら人間が社会的存在であるからとは言え、個人の罪に対する刑罰としてはあまり大きな結果を、集団的な罪の結果を個人が背負わなけれぱならないこと(例えぱ、国の戦争の惨劇が、その戦争突入に賛成した者にも不賛成であった者にも同じように伸し掛かってくること)や、天災地変などの存在は、片一方に全能・全知で全き愛の神を置き、もう一方に人間の自由意志を置くだけでは説明できないのである。それだけではなく、何故に人間が生まれながらにして罪人であるかということさえも説明できないのである。神が愛で、全能で全知であるなら、こんな事柄が起こらないようにご自分の創造の業を調節できたであろうからである。そこでルイス教授はプラトンの『法律』にみられる思索に近い形で、創造者たる神と、万物が造られた原料の他に、神に敵対し神の行為に介入してくる破壊者を想定する。この場合、原料はそれ自体で神の創造の行為に反抗するものではなくなり、単に消極的な受動性に留まる。そして、破壊者はプラトンの『法律』の場合と同じように、半ば人格的な言語で表現しないわけには行かない存在となっているのである。

 プラトン哲学へのルイス教授の傾斜はもう明らかであるが、彼は独創的な思想家として貪欲に、アメリカの思想家たちからも吸収できるものを、自分の基本的な立場に反しない限り取込んで行ったのである。例えばウイリアム・ジェイムス(William James)が『プラグマティズム』(Pragmatism)や『信じる意思』(The Will to Believe)において展開したところの「有限の神」(a finite god)の思索は、ルイス教授にとって我が意を得たものであったろう。ルイス教授の神も、全能でも全知でもなく、破壊者の介入を許容せざるを得ない以上は有限存在だからである。特に私の輿昧を引いたのは、ルイス教授の摂理論がジェイムズの『信じる意思』の中のそれときわめて類似したものとなったことである。しかもそれを借りてきてルイス教授は、彼の神学の中心にあるもの、即ちキリストの十字架と復活を説明してしまうのである。

 シェイムズの比喩に従ってルイス教授も神を将棋差し(chess-player)に喩えるのであるが、将棋差しは相手がどのように駒を進めてくるかを見ながらこちらの駒を進めて行く。これは歴史が決定論的に進展するものではなく、人間の自由の決断によって造られて行くものであること、また、神の歴史内の働きもその時の人間の行動や自然の環境の変化に応じて、その都度いつも新たに創造されて行くことを示す面白い比喩であるが、そのような神の創造的行為として十字架と復活の出来事が理解される。全人類もイスラエルの民も神の呼び掛けに背を向けてしまっている状況の中で、神が人類を救うための最後の手段として送られたのがイエス・キリストであったが、破壊者はイエスを十字架にかける程にカ強かった。神と雖もここで詮方つきたかに見えた。神の最愛のひとり子が、破壊者の本陣である死の国に飲み込まれてしまったのである。死は神にとって「最後の敵」(コリントの信徒ヘの手紙T 15・26)であって、神が自ら人間を、人間の罪に対する刑罰として死なせるという考えは、嬉しいことにルイス教授には全く見られないのであるが、この敵である死の中から、詮方つきた状況を打破る創造的な駒の進め方を神は行ったのである。それが死を死の中で死なしめた神の力の独創的展開たる復活であった。この出来事以降、キリストを信じる者は皆、キリストの力によって死の中で死に打ち勝ち、永遠の命に甦るのである。どのような状況に対してもこのように神が愛において創造的に行動して下さることを、ルイス教授は神の適応性(adequacy)という言葉で表現した。

 上述の展開は同時にルイス教授の贖罪論でもあるが、ギュスタフ・アウレン(Gustof Aulén)が古典説(classic theory)と表現した類型に入ることは一目瞭然である。これは初代の教会教父たちの贖罪論と同じであり、ルイス教授のプラトン的神学がどれ程に初代キリスト教に深く根差しているかを告げるものでもある。しかも、自分の神学の基本が古典的なところに根差しているにも拘らず、ルイス教授は、当時プロセス哲学に殆どの神学者たちが一顧をも与えていなかった状況の中で、そのゼミの中でホワイトヘッド(Alfred N. Whitehead)の『過程と現実』(Process and Reality)を学生たちと読み、現代思想と深くかかわるようにと努力していたのであった。ホワイトヘッドの説く愛の神が有限存在であることに、自分との共通性を見出したからであろうが。

 当時の私は戦争中に受けた心の痛手を克服できないでいた。何か宇宙全体が人間存在の無意味さを、悪魔のロを大きく開けて嘲り笑っているように思って、絶望の中に転々としていた。それ故に、人間の不幸が愛で全能・全知の神が人間に与える試練や刑罰というようなものではないというルイス教授の主張は、私には説得カをもっていた。何故なら、戦争中に見たり体験したりした悲惨は試練にしては度が過ぎていたからである。相手を殺すことが聖なる行為とされて、そのために日常のすべてが捧げられていった、精神生活ばかりか物質生活をも襲った困窮の日々は、実に馬鹿々々しく無意昧であった。それは(神からの試練なら何かのため、という目的がある筈だけれども)個人にとって全く目的というに値するものなどいくら探しても見当たらない代物であった。仮に戦争の悲惨が集団的な人間の罪に対する刑罰としたところで、個人にとってはそれは自己の罪に対する刑罰などとは到底信じ得ない程に大きなスケールのものであった。従って、それらのものは、神もそれに敵対している破壊者のなす業である、というルイス教授の主張はきわめて私にとって魅力的であった。併し、東京の神学校で、神の主権を徹底的に主張するバルト神学を教え込まれてきた当時の私にとっては、教授の三元論は私の救いの確かさを奪い去ってしまうように思えた。成程神は創造的工夫によって死という袋小路をあの時はキリストの復活によって打開されたかもしれないが、私のこれからを神が同じように処置できる保証はないのではないか。破壊者のほうが競り勝ってしまうかもしれない。矢張、神の全知・全能という古典的教理は棄てられない。

 ルイス教授の思想に引かれながらこれに反抗するという、私の心の揺れは長く続いた。私は新しいものに直ちに順応できると思っている友人たちが多いようだが、本当のところは新しいものを取入れる決心をするまでが大変なのである。両方の立場を、そのプラスとマイナスを勘案して、私の心は揺れに揺れ、なかなか決断しない。だが、決断してしまうと、今度はまたそこから移動することが殆ど不可能となる。

 質問をやたらにするところを見ると確かに自分の神学に大変興昧をもってくれているらしいが、しかし一向に自分の立場に賛成してくれないこの学生、僅か数年前には敵国であった国から来たこの青年を、どうしてルイス教授があれ程に気遣って面倒をみてくれたのか分らない。私が三年次の学生となった時には、ルイス教授は完全に引退されて、神学校のあるマディソン市の下町に居を移された。そのお宅にもしばしば私はお邪魔したが、教授は家庭的にはあまり幸福ではなかったようである。

 確かクリスマスが近い頃であった。まだルイス教授は構内に住んでおられ、窓のガラス越しに二階の書斎でいつも勉強しているその姿が見えて、夕方など気晴らしに下町に遊びに出掛けようとしてその家の傍らを通る学生たちを勉強に度々引き返えさせていた頃のことだが、ルイス教授が当時私のいた独身学生の寮に来たことがあった。偶然廊下で出会った私に、ジョージの部屋を知っていたら案内してくれと言われた。案内して行ったところジョージはいないで、部屋の戸は明け放しになっていた。冗談まじりのロ調で私に物を盗って行かなかった証人になってくれと言いながら、教授は部屋の中へ入って行き、ジョージの机の上に何かプレゼントのようなものを置き、私に案内の礼を言って去って行った。

 ジョージは難かしい名前をもつインド人で聖トマス教会に属する司祭であったが、私たちは発音しにくい彼の名前に似ている英語を使ってワンダフル・ジョージと呼んでいた。内攻的で心理の揺れの激しい、しばしば神学校を逃げ出してはニューヨークにある修道院で瞑想にふけって、また戻ってくるという青年であった。私は知らなかったのだが、数日前にある授業で、何が原因なのか誰も分らなかったのだが、ジョージがルイス教授をいきなり殴ってしまったらしいのである。教授がジョージの部屋に来たのは、事件のあとルイス教授に会わせる顔がなく、逃げ回っているジョージヘの、教授のほうからさし延ベた和解の手であったのだ。

 ルイス教授が引退したあと、小柄で猿のような顔をしたジョン・S・ウェール(John S.Whale)教授が、イギリスのケンブリッジ大学より客員教授としてドルー神学校に招かれて来た。この先生の講義は立板に水を流すように流暢で、その神学は、かつて彼に大きな影響を与えたP.T.フォーサイス(Peter T. Forsyth)のような力強い会衆派的カルヴァン主義であった。後に長期にわたって文通することとなったこの先生より、私はドルーで徹底的にルタ−やカルヴァンの宗教改革の神学を教えられた。ウェール教授は教室に入ってくると、帽子をドアのところから相当の距離のある講義用のテ−ブルまで投げるのだが、それが見事にテ−ブルの上に落ちて行くのであった。スティ−ムで暖房されているアメリカの教室は冬でも暑いとのことで、帽子にしばしば上着が加わった。学期試験のあとには、学生一人びとりの成績を大きな紙に書いて教授が廊下に貼り出したので、そんなことに馴れていないアメリカ人の学生たちは仰天した。

 卒業の一カ月ぐらい前であったろうか、神学校長で新約学を担当していたクレアランス・T・クレイグ(Clarence T. Craig)教授−この先生から私は初めてルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)の非神話化論について教わった−に呼ばれて、卒業後どこかの大学院で勉強し、それから日本に帰るように、そのためにドルー神学校がスカラ−シップを出してくれる、と告げられた。日本に帰るものと思い込んでいた私はびっくりし、どうしてよいか分らずにルイス教授のところに相談に行った。ルイス教授はそのことはクレイグ教授から聞いていると言って、私にユニオン神学に行き、ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)やパウル・ティリッヒ(Paul Tillich)の講義を聞いて、それから日本に帰るようにと勧めてくれた。このようにしてニューヨークのユニオン神学校における三年間の博士課程、そのあと半年のエキュメニズムの研究という恵まれた研究生活への道が開かれたのである。







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 ドルーは去り難い神学校であった。左近義慈教授の恩師であった旧約学のジョン・パターソン(John Patterson)教授はスコットランド英語で私を悩ませたが、自分の孫弟子と思ったらしくいろいろと心違いを見せてくれたし、エミール・ブルンナ−(Emil Brunner)の下で博士号を取得したスタンレ−・ホッパー(Stanley R. Hopper)教授は倫理学を教えていたが、その倫理学はこの当時既に文化論にまで深められており、ヨーロッパやアメリカの近代文化の克服を目指すものであった。後にホッパー教授は日本に来られて、当時私が教えていた青山学院大学の神学科、及び、京都大学で講義されたが、その頃には、近代文化の克服を後期ハイデッガー哲学を媒介として試みられるようになっておられた。私がドルーにいた頃は、その媒介の手段はおもにキルケゴールの思想であった。そして、ホッパー教授は近・現代文化を知る好材料として文学や美術を取上げ、それらの提供する諸問題に対してキリスト教がどのように答え得るか、に自分の倫理学の課題を設定していた。ホッパー教授のことで忘れられないのは、書いて下さる手紙が、まるでリルケのように詩的で重厚なものであったことである。ところで私が立教大学で隔年ではあったが「キリスト教と文学」というクラスをもったのは、ホッパー教授の影響であった。

 カール.マイケルソン(Carl Michalson)教授については他のところで(拙論「カール・マイケルソン教授のことども」<「神学」第十四号、東京神学大学神学会編、一九五八年冬・春合併号所載>及ぴ拙論「カール・マイケルソン博士を悼んで」<『基督教論集』第十二号、青山学院大学基督教学会、一九六六年五月に所載>など)何回か書いているので、ここではあまり触れないほうが良いであろうが、当時はまだ助教授で、おもに宗教哲学を教えていた。彼と本当に親しくなったのは、彼が家族とともに一九五八年に来日されて、青山学院大学及び東京神学大学において講義を三か月に渡って行った時のことであった。さらに、牧会心理学の大家であったデイヴィド・メイス(David Mace)教授もおられた。

 ニューヨークで生活を始めた時には、私はすでに結婚していたのだが、ある時にエドウィン・ルイス教授から私たちニ人宛の丁寧な手紙をいただいた。それより一年程前に教授は奥さんを亡くしておられたのだが、その手紙の中で再婚する、いうことが書かれていた。私たちを驚ろかしたのは、その文面がまるで私たちから結婚することの許しを得たいかのように書かれていたことであった。ルイス教授は、日本では多分自分のように年をとったものは再婚しないのだろうと思うが、自分は今回長年の知り合いだった女性と結婚することにした。どうか了解して欲しい、と言うのである。このような手紙を書いてくださる程に私たちを親しい友人たちと考えていてくださったのかと思うとともに、そんなに皆に気づかいせずに先生には生きて欲しいと思った。私たちも心からのお祝いの手紙を書いた。

 アメリカ留学の間中、私は日本から持ってきたどちらかというと正統主義的な神学と、アメリカで教えられたいろいろな神学傾向、特にルイス教授の神学とを心の中で戦わせていた。そして、どうしても前に述べたような救いの確かさの問題と、もうひとつの問題が私に正統主義的な立場を取らせたのである。そのもうひとつの問題とは神の不受苦性の問題であった。東京神学大学で北森嘉蔵教授の「神の痛みの神学」に強く影響されながらも、私にはこの思想が結局は信仰者の魂の平安を奪うものに思えたのである。地上においてもそうであるが、死んだあと神のみ許に憩うことになったとして、その永遠の本質において痛み苦しむ神を何時も見ていて、人間は魂の平安を持っていられるのだろうか。そんなにも苦しむ神を見つづけるならば、人間は神ヘの同情でとても平安など得られないはずである。しかも、その神の苦しみは、私たちがその原因であれば、尚更私たちに平安はない。愛において神が私たちに同情してくださるということは当然のことと言ってよいことだし、神が私たちのために苦しんで下さるということも、ある場合には言ってもよいことであろう。しかし、その苦しみを同情の深み以上の事柄にしてしまい、神の本質にまで及ぼすことは上述の理由から、してはならないのである。そのような二つの事柄を中心にして、ユニオン神学校に提出された私の博士論文(Impassibilitas Dei)は書かれたのであった。

 一九五六年の一月ごろのことであった。日本に三月には帰ろうと考えていた私たちは、当時メンダム(Mendham)というニュージャージー州の田舎町に住んでおられたルイス教授夫妻を訪ねた。南側に大きな庭を持つ家であったが、応接間の暖炉の薪に、燃やすといろいろな色彩で火を美しく彩る油を掛けて、私たちの目を楽しませてくれたのが今もって忘れられない。南に面した大きな書斎も見せていただいたが、天気の良い日には夫妻は望遠鏡で庭に来る小鳥たちを眺めて過ごすとのことであった。

 東京にかえってきてからもルイス教授との文通は続いた。私がウェスレー学会にかかわりはじめた時には、私を援助するためにわざわざウェスレーに関する論文を書いて送ってくださったりした。しかし私は知らなかったのだが、このころ既に教授は健康を害しておられたのであった。私に宛てられた最後の便りは一九五九年一○月七日の日付になっている。その中でルイス教授は、間もなく入院するが手術は必要ではないようであると言っているが、その年の一一月ニ八日に癌でこの世を去られたのである。








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 ニューヨークのユニオン神学校に私が入学したのは一九五ニ年九月であった。当時のユニオン神学校はその全盛時代にあったといってよいと思う。ラインホルド・ニーバーとパウル・ティリッヒの両教授や、キリスト教倫理学や組織神学のジョン・ベネット(John C. Benett)教授、そのゼミでは学生の話す数ヶ国語が乱れ飛ぶし、自身幾つかの外国語を話される新約学のフレデリック・グラント(Frederick Grant)教授、教父学のシリル・リチャードソン(Cyril Richardson)教授、旧約学のジェイムズ・マイレンバーグ(James Muilenburg)教授などがおられた。

 確か九月も半ばを過ぎた頃であったと思うが、初めてのユニオン神学校での授業登録も間近かとなり、私は何かと気忙しかった。日本ヘの旅から帰ってきたベネット教授に会うために学校に出掛けて、教授の研究室のある塔の下に来てエレベーターに乗ろうとしたところ、エレベーターが降りてくるのを待っていたニーバー教授と出会った。その容貌は著書のカバーに印刷されていた写真で知っていたので、私は教授にあいさつし、かつ自己紹介をした.教授は葉巻を吸いながら、自分の研究室もベネット教授のそれと同じ階だから、そのうち話しに来るようにと誘って下さった。やがてエレベーターが降りてきてドアが開くと、教授は葉巻の煙を吸い込んで、口から吐く息をとめ、葉巻の火のかすかな煙が私のところに直接あたらないように、下におろした手の平で蔽い、確か六階であったと思うが二人が降りてから、やっとロから煙を吐き出したのである。その一、ニ年程前にニーバー教授は最初の脳溢血から立ち直って、講義を始められたと私は聞いてきたのだが、エレベーターでの教授の姿は、彼の剛毅な性格と繊細な人ヘの思いやりとを象徴するように思えた。

 ニーバー教授とティリッヒ教授の授業はどれも大教室で行われたが、学生で一杯であった。ニーバー教授は、左手が病気の後遺症で自由が利かなくなっていたにも拘らず、講義中に熱中してくると右手で教壇を叩いた。人間的に実に魅力のある人であったが、私はニーバー教授から、――組織神学と並ぶもう一つの私の生涯の研究課題である――ジョン・ウェスレーの完全論にも通じるような完全主義を土台にして、しかも現実的な、倫理学の構想を教えられた。新約聖書に見られる終末論的な(つまり、この世では、そうやたらに実行できるものではない、完全な)アガペーを倫理学の基本とし、それを自由と平等という中間概念を媒介として、政治や経済の現実におろしてきて適用するという方法論は、私がニーバー教授から得たものである。

 ティリッヒ教授の話す英語はドイツ語のように発音されるもので、アメリカ人の学生たちは聞き取りにくいとこぼしていたが、私にはむしろアメリカ人の英語よりもよく分った。ティリッヒ教授についても、他のところで私は多くの事柄を書いたが、今から振返ってみて言えるのは、ティリッヒ神学において私は初めて、美的なものを至上とする思想の流れに本格的に出会ったということである。それぞれに異なるジャンルや思想の展開ではあるが、十八・十九 世紀のロマンティシズムや、ニィチェ、ハイデッガー、フーコー(Michel Foucault)、デリダ(Jaques Derrida)、また日本の西田哲学などには、人間と自然を含めた現実のすべてを、詩や文学や音楽や美術における芸術体験から理解しようとするところの、美的至上主義があるように思う。

 ここで私が言う芸術体験とは、芸術家が作品を創作する折に、勿論主体的に自分の構想を練り、それに従って創作し始めるのであるが、そのうちに自分の構想などを粉砕してしまうような仕方で、芸術家の存在のすべてを左右し巻込む恐ろしい美的な力が、芸術家の内側から沸き上がってきて、芸術家(主体)と作品(客体)とを区別なきものとし、両者を支配してしまう体験である。例えば彫刻家が、大理石に立ち向い鑿を振って像を作り出そうとしているうちに、大理石の中から像の方が彫刻家に呼びかけて、彫刻家は我を忘れてその美の指図に従い、像によって像を作るような体験のことである。そういう形での主観―客観構図の超克がティリッヒ神学にみられることに、その神学を少しでも知っておられる方々は同意して下さるであろう。ティリッヒの場合には、諸存在を存在させる力であるところの、存在そのものが神であり、その神に諸存在は参与しているのである。ここでティリッヒの言う参与とは、存在そのものの力に諸存在がすみすみまで浸透し尽くされていることであり、諸存在のうち例えば人間を例に挙げれぱ、人間の主体性また自由は、結局のところ存在そのものの動きに身を委ねること以外の何ものでもないのである・

 当初から私は、ティリッヒ神学は美的体験を至上のものとする思索系列に属すると判断していたが、そのことを芸術運動としての表現主義(expressionism)との関係で、近年明らかにしてくれた著作として私に興昧を覚えさせたのが、マイケル・パーマー(Michael F. Palmer)の『パウル・ティリッヒと芸術』(Paul Tillich’s Philosophy of Art, 1983,指谷朋子、野呂共訳、日本基督教団出版局、一九九○年)であった。これが、この書物を私が共訳するに至った理由である.







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 ティリッヒ神学の魅力は私にとっても強烈なものであった。今でもその魅力は失われていない。併し、こういう系列の思索は、キルケゴールの言う宗教性Aに属するものであり、こういう宗教性においては人間は、最後のところで対話の相手を失い、どうしようもない孤独に沈淪する。哲学的理性には満足して貰えない立場ではあろうが、キルケゴールの言う宗教性Bのように、人間と人格的に向い合って立つ他者なる神を、対話の相手となってくれる神を、キリスト教は追い求めない訳には行かないのである。

 このような他者なる神を信じることは、芸術体験や、それに準(なぞら)えられる宗教体験を悉く否定し去るものではない。それらの体験を至上のものとせずに、神と人間との人格的邂逅の中に含まれる要素として、それらを把握するのである。具体的には、人間における神の創造の業、摂理、聖霊の働きなどとして体験するのである。そして、主体−客体(主観−客観)を超克するとしても、それは美的なものにおけるように、神の動きに身を委ねるものとは違ってくる.それは神(主体)と人間(主体)との愛の人格的邂逅の中での超克であり、神への主体をふりしぼるような情熱の中で人間が忘我的に働くことであり、それがまた、人間中心の自然支配に見られる主体−客体構造の真の超克をもたらしてくれるものである。人間は自然を、神の意図に従って保存し、形成するように委託されているのであるから。

 ユニオン神学校では、ティリッヒ教授の講義に強い刺戟と興奮を覚えながらも、私の信仰の支えとなったのは、むしろカルヴァン主義を倫理的人間(実存)の確立という角度から独創的にまとめ上げた、ニーバー教授の神学であった。とにかくニューヨークは私の青春そのものであった。論文を書くこととアルバイトで忙しい生活の中から、暇をみつけてはしばしばコンサートに、観劇に、バレーを見に、美術館に私は足を運んだ。そして、この街から、私たちは一九五六年ニ月に出発して、貨物船で海を渡り、三月七日の夜中横浜港に帰ってきた。八日の朝、甲板に出てみると富士山が晴れた空を圧してくっきりと見えた。

 その四月から私は青山学院大学の文学部神学科で教え始めたのであるが、ティリッヒ教授、また、特に――悪の存在は神に由来せず、むしろ神と悪とは敵対関係にあると言う――ルイス教授の神学に惹かれながらも、私の講義の土台はニーバー教授やウェイル教授から教えられた穏健なカルヴァン主義であった。そして、それが、ウェスレーのもっていた極端な体験主義の要素――例えば完全論や聖霊の確証の教理や、うっかりすると神人協カ説になりかねないアルミニアニズムなど――を除いてしまえば、ウェスレーに関する正しい解釈の方向でもあると、私は思い込んでいた。併し、こういう自分の神学では、どうも自分に嘘をついているのではないかという囁きが、いつも心の奥底のどこかで疹(うづ)いていた。戦争中に見た人間の地獄がどうしても脳裏を離れず、あれ程の悪に対し、何の介入もしてこなかった全知・全能の神への不信が私を苦しめたのである。

 青山学院大学の神学科で組織神学を担当していたのが私一人であったので、先輩の諸教授が、他の学者たちの講義も学生に聞かせたいという私の希望を入れて、たびたび私の恩師たちを客員教授として招いて下さった。マイケルソン教授が東京に来たのも、そのお蔭であった。

 ドルーで知っていた頃から較べて、彼は人間的にも神学者としても一段と大きく成長していた。既に独自の実存論的神学を作りあげていた彼の講義は素晴らしかった。この機会に、彼から学問的に吸収できるものを、可能な限り吸収した。アメリカに帰ってからも、彼は私に対する好意を絶えず表現してきた。フリードリッヒ・ゴ−ガルテン(Friedrich Gogarten)教授に私のことを紹介してくれたのも、その一つである。お蔭でゴ−ガルテン教授と私は文通を通して知り合うこととなり、新著を贈られたりして、教授の実存論的神学についても深く知るようになった。

 東京でのマイケルソン教授との再会を契機として、到頭私も実存論的神学の方法論を受け入れることとなった。一つには、幾ら穏健なカルヴァン主義を私が自分の立場としていたところで、御多分にもれず私も組織神学と聖書批評学との乖離(かいり)に長年にわたって悩まされてきたのであるが、それが聖書の非神話化論(実存論的解釈学)を採用すれば一応は解決するからであった。二つには、私が自分の信仰の糧として研究し続けてきたウェスレー神学の、カルヴァン主義をはみだしている諸教理、しかもウェスレー神学の中心と思われる諸教理――例えば、確証の教理、完全論、自由意志論、体験し得るものの強調、アルミニアニズムなど――が、実存に集中して神学するところの実存論的神学によって、より深く理解されるからであった。三つには、そしてこれが一番大きな動機であったと思うが、実存論的神学によって私の前に、神の全能とか全知とか言うような理性の納得する客観的保証によって救いの確かさを獲得しないですむような、新しい神学の展望が開けてきたからであった。実存のすべてを賭けて、科学的な、また、理性的な一切の保証なしに、そう信じないならば生きて行けないというただ一つの根拠によって信じるという実存論的神学が、ルイス教授の神学を新しい形で生かし得る、ということを私は本能的な直観で知ったのである。

 従って私の実存論的神学の展開方向は、マイケルソン教授やゴ−ガルテン教授のものとは初めから違ったものとなった。その具体相は幾つかの拙著によって知っていただきたい。一九六五年十一月八日に、まるで兄のように親しんでいたマイケルソン教授が飛行機事故で死去した時(彼はその時五十歳)の、どうしようもない悲しみを含めて、私の実存論的神学は展開されてきたのである。

 何の保証もなしに救いの確かさを信じてしまえぱ、神が全能で全知である必要はなくなり、ルイス神学の神のように有限であって一向に差し支えないのである。神はひたすらなる愛の存在となり、愛の想像的創造性を発揮されて、人間の歴史創作に人間の主体性を脅かさない仕方で介入される。ルイス神学における破壊者は、その神話性を非神話化されて、人間主体との関係で考え直され、不条理の現実となる。その現実と戦いながら、その中で神と人間とが愛と真実の歴史を創作して行くのである。

 愛において神と人間とは相互主体的に交わる。その交わりは、美的体験を至上のものとするような仕方で考えられるものではない。飽くまでもキルケゴールの言う「主体性が真理である」を地で行くような仕方で、人間主体がぎりぎり一杯、その自由な主体性の全容を動員しない訳には行かないような仕方で、神の主体との出会いが成立するのである。

 確かマイケルソン教授が東京に来られた頃からあまり離れた時期ではなかったが、私は国際基督教大学に客員教授として来日された二人の神学者と別々の機会に知り合いになった。アメリカのネルス・フェレー(Nels F.S. Ferré)教授とスイスのバーゼル大学で教えていたフリッツ・ブーリ(Fritz Buri)教授であった。おニ人とも東京に来られるたびに何回もお目にかかって話し込んだりしたが、文通は長年にわたって続いた。死去されるまで、折に触れては手紙を下さったフェレー教授は、ご自分の著書で私が持っていないものを、すべて買い集めて私に贈って下さったりした。

 ブーリ教授はそのブルトマン教授との論争でも有名であるが、ヤスパースの哲学に近いその哲学的神学は、私にとってなかなかに魅カあるものではあったが、かえって私に神学的思索と哲学的思索との微妙な相違を深く反省させた。

 フェレー教授は長年インドで宣教師をしておられたので、否応無しにヒンズー教との神学的対話を迫られたようである。彼はその対話をなし得るような神学を形成するに当たって、私の見るところでは、十七世紀の思想家ヤコプ・ベーメに依存した。私はフェレー教授の神学を非常に高く評価しているのだが、彼の神学はベーメの思想の現代版的神学だと思っている。神的無から人格的神が生まれ、一切の被造物がその神的無から人格的神によって造られて行く、とするベーメの思想に、私が興味を覚え始めたのは全くフェレー教授の刺戟によるものであった。併し、ベーメの思想においては、すべてが結局のところ神的無の遊戯となってしまい、私が欲するような悪の存在の解明はない。

 だが、やがて、アメリカに留学していた頃より注目していたニコラス・ベルジャーエフ(Nicolas Berdyaev)の思想が、ベーメの思想と私の心の中で重なってきた。ベルジャーエフの思想も、ベーメを土台としているが、彼はベーメの神的無を自由と規定する。自由はプラトン的な真・善・美を憧(あこが)れると同時に、すべてを破壊する情熱でもある。ベルジャーエフは、人格的な神も――ベーメが神話的に無から生まれるとしたのを受けて――自由をその本質とする点において人間と変らないとする。併し、人間が自由の破壊的情熱に身をまかせ、罪を犯し勝ちであるのに対し、神は自由の情熱を愛へと完全に昇華しておられる。自由が尊いのは、それがなければ愛が生まれないからである。愛は強制からは生まれない。

 今も私は神と不条理は敵対関係のものだと思っており、不条理を神的なものだとは全く考えていないが、不条理とは、神や人間や一切の被造物の素材となっている自由のもつ破壊の力だと考えている。このようにして、私はプラトンの、世界の中の悪の存在は、それから神がすべてを創造したところの素材に原因がある、とする説に近くなっている自分を発見しているのである。

 私の思索は勿論私自身による拙いものではあるが、多くの人々の影響の下になったものである。この小論では外国の学者たちの影響を感謝をもって記させていただいたが、私に対する日本の友人たちの影響も勿論のこと大きかった。そして一九七ニ年に立教大学に勤めるようになってからは、文学部、特にキリスト教学科の同僚との対話は私にとってきわめて貴重であった。いつの日にか稿を改めて、それらの事柄を書いてみたい。親愛なるキリスト教学科の同僚、助手、事務専任、卒業生、学生諸兄姉に対する深い感謝をもって去り難き立教大学を去ることとする。





入力:山田香里
2002.4.15



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