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笑いの構図

        

野呂芳雄



初出:『ユリイカ』1979年10月号、55-65頁。







 夏目漱石の『我輩は猫である』の中に、「猫だって笑わないとは限らない。人間は自分よりほかに笑える者がないように思っているのは間違いである。我輩が笑うのは鼻のあなを三角にして咽喉仏(のどぼとけ)を震動させて笑うのだから人間にはわからぬはずである」と書かれているが、この猫の抗議にも拘らず、我々の知る限り笑う動物は、哲学者のアンリ・ベルクソンも言う通りに人間だけである(1)。ベルクソンには『笑い』という、笑いに関してはこれ以上の良いものは一寸書けないと言って良い程の、やさしい言葉で書かれた研究書があるので、是非とも読者にはご一読を願いたいが、彼は、人間を笑うことを心得ている動物と定義することと並んで、人間はまた人を笑わせる動物とも定義できると言っている(2)。つまり、人間は受動的に何かを見て笑うばかりでなく、積極的に何かを行って人を笑わせることもできるという訳であるが、それはベルクソンによると、人間が他の動物と異なって、自己を対象から引き離して見ることができるからである。ベルクソンはこれを「笑いに伴う無感動」(強調はベルグソン)と言ったり、「見物人となって生に臨」む態度であると言ったりしているが(3)、要するに人間がある対象の中に感情的にいつも巻き込まれてばかりいないで、ある時にはその対象(客体)に対して主体として向い合って立ち得るからこそ、そこに笑いが生まれる可能性があると言うのである。
 
 感情的に巻き込まれずに、客体として主体が向い合って立つと言っても、冷静にあるいは冷たく眺めていることもあるし、温かく愛情をもって見詰める場合もあるであろう。主体に笑いが湧いても、一方の場合には皮肉な笑い、また、冷笑となるだろうし、もう一方の場合には励ましの意をこめたもの、あるいはユーモラスな慰めや共感の笑いともなるであろう。ベルクソンは、笑いが反響を必要とするもので、笑いの本来の環境は社会であるとする。笑う者たちが、笑われるような行動をなす者を矯正して、そういう行動をなさないようにさせるところに、笑いの役割がある、という訳である(4)。確かにこういう面が笑いにはあるが、これだけではなく、笑われても笑われても同じ行動を繰返して、社会の常態こそ笑うべき姿を呈しているのだと主張する革命的な笑いもあってよいのではないか。つまり、笑われる者たちが笑う者達を笑うのである。社会に適応できない人間を笑うことに笑いの意味を見過ぎると、我々の現状維持の姿勢を露呈してしまうことにもなるだろう。現状への嘲笑もあってよいのである。ベルクソンの笑いの研究の中でもう一つ物足りない点は、互いに温かい思いやりの笑いを笑い合う関係と、自分自身に向い合っての笑い――これも冷たい笑いと温かい笑いがある――の考察がないことである。自分自身に向い合っての笑いは、人前で(社会的に)なされることもあるが、一人でひそかになされる場合が多い。自分に対する嘲りの笑い、自己憐憫の甘く悲しい笑い、自分の失敗を快く許して、それでも自分は生きて行ってもよいのだ、というすっぱいがユーモラスでもある健康な宗教的笑い。ベルクソンの生の哲学の後、実存主義哲学を経てきた我々には、笑いの研究はどうしてもここまで広がる。


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 よく知られているように、ベルクソンの生の哲学の中心概念は「生の躍動」(élan vital)である。この概念によって彼は、我々が生きることの経験の中で直観的に知るところのもの、我々の生の中を流れている創造的進化の力を表現したのである。我々の中の「生の躍動」が我々をして環境に適応させ、そのための手段として我々に理性を与えてくれた。人間をも含めて生あるもののすべての中を流れ進化させて行く「生の躍動」は「生の躍動」自体が人間の生きる手段として人間に持たせたところの、理性的な観念や法則や論理の如き固まった・融通のきかない・動を失って静止しているものによっては把握できない。蛙を解剖してみた時には、そこには生はもはやない。
 
 人間は自分たちが環境に適応して生きて行くために、近代になっては機械文明さえも作りあげてきたのだが、機械は人間の生のもつ創造的な柔軟性、しなやかさを持っていない。そこでベルクソンは、「生の躍動」が人間に与えてくれたしなやかさに対照的なものの例として機械を持ち出す。ベルクソンにとって、笑いは「注意深いしなやかさと生きた屈伸生とがあって欲しいそのところに、一種の機械的なこわばりがある点」(強調はベルグソン)に生れる(5)。「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである」(強調はベルグソン)(6)
 
 このベルクソンの主張はなかなかの洞察と思うが、理解するために一、二の例をあげておくほうがよいであろう。ガーロッド(H.W.Garrod)はその論文「ユーモア」の中で、小説家サッカレーのユーモアに関する定義をあげている(7)。それによると、「ユーモアがただ笑いを意味したならば」別に興味もないし、特にイギリス的であるとも言えないが、併し、「ユーモア作家の職とするところは、あなたの愛や憐れみや親切心を呼びさまして、どこにそれらを向けるべきかを教え、あなたに虚偽や見せびらかしやいかがわしいものを嘲らせ、弱きもの・貧しきもの・しいたげられたるもの・不幸なるものに対してやさしく接しさせることにある」のである。まさにサッカレーのこの定義は、前に述べたところの、客体に向い合って立つ主体が、客体を温かく包み込むように笑い励ます場合に当ると言える。ところで、こういうユーモアがよく表現されているものとしてガーロッドは、チョーサー、シェクスピア、ディケンズを特に推賞するのであるが(8)、その中から仮にチョーサー一人を取り出してみても、彼の作品の隅から隅までことごとくユーモアで一杯であるという訳のものではない。単なる笑いも実に多いのである。バースの女房の物語りの次の一節の如きはどうだろう。
 
 またライマとルーシの話もきかされたもんです。ルーシは恋のために、ライマは憎しみのあまり夫を殺したんですよ。ライマは夫の敵だったので、ある晩殺しました。ルーシは気がくるうほど夫を恋し、夫の愛をもっとほしいばかりに媚薬を飲ませました。だが、その調合をまちがえたので、夫はその日のうちに死んでしまいました。だから夫というものは、いろいろの苦しみに会うんだ、と説教するんですよ。ラトュミウスという男が友だちのアリシウスにこぼした話というのがありましたっけ。ラトュミウスの細君が三人とも怒ったあまり庭のおなじ木で首をくくったと愚痴をならべました。それを聞いたアリシウスが彼にこう言ったそうですよ。「ぼくにその縁起のいい木をくれないか。ぼくの庭にうえるからね。」そのほか、ベッドのなかで夫を殺した女の話。夫が眠っているあいだに頭に釘をうちこんだとか、毒殺したとか、考えおよばないような悪事の話をたくさん読んできかせたものでした。(金子健二訳)(9)
 
 元来恐るべき殺人のことを書いているのだが、読んでいるうちに誰しも笑いがこみあげてくるのは何故だろうか。一つには、将棋倒しのように次々に人が死んで行くからであり、二つには、同じ木に、ある男の三人の妻が次々と首をくくるからであり、三つには殺される夫たちが、、妻たちの殺しの行為を逃げるだけのしなやかさをもたずに、射的で倒れる人形のように殺されて行くからである。短い文章の中にこれだけの殺人事件の羅列があり、何か機械仕掛けのゲームで遊んでいるかのようなので、笑わざるを得ないのである。
 
 シェクスピアの創作になる滑稽男『ヘンリー四世』のフォルスタッフは、度外れに肥っていて、人間の本来もつべきしなやかさを裏切るところののような恰好をしている。彼が何かの所作をする前に、その姿を見ただけで観客は笑い出す。
 
 
 フォルスタッフ 俺ァ本来(もと)は紳士らしい徳の高い生れ附きだったんだ。稀(たま)にしか怒鳴りゃアしなかった。博打(ばくち)なんか、たかが一週間に七度ぐらいのもんだった。借りた金は返したよ。三四(さんよ)度も。好()い具合に、程よく生活(くら)していたんだ。けれども今は滅茶(めちゃ)滅茶だ。程(ほど)も絲瓜(へちま)もあったもんじゃない。
 
 バードルフ そりゃ其筈(そのはず)でさ、あんまり度外(どはず)れに肥っていなさるからだ。程も絲瓜もありゃしませんや。(坪内逍遙氏訳)(10)
 
 
 フォルスタッフの度外れな行動を、その度外れな樽の如き恰好が象徴しており、人間離れのした、物体のような感じを観客は受けとって、フォルスタッフからはいつも――そのずるがしこさにおいてさえも――度外れた所作を期待するようになる。観客がそれを期待するのは、法則に支配されて動く機械のようにフォルスタッフを見始めた証拠であり、その期待が答えられるとどっと笑うが、これがまたフォルスタッフへの期待を強める。
 
 ベルクソンが『笑い』を書いた一つの動機は、当時の唯物論に反対することであったように思う。人間の中を流れる「生の躍動」は身体という物体的なものを、しなやかにも見事に使いこなす精神的なものなのである。ところが、一人の人間の中で「生の躍動」が自己を忘却したかのようになり、物体的なものが勝利を収めるのを他の人が見ると笑い出して、人間が精神的存在であることを証明するという訳である。従って、人間の身体、特に顔などは、元来が精神的な動きをあらわす動的様相を帯びているものである。そこで、表情が固定化した感じの顔、動きがある方向を指して少し動きすぎて、あわててもとに戻ろうとするその瞬間に止まってしまったような感じの顔は、見ただけで滑稽なのである(11)。我々はこのようなものの好例を外国文学に求めるまでもなく、『源氏物語』の末摘花の姫君にもっている。その鼻はなんとも醜く、普賢菩薩の乗りものたる象の鼻に似て、ひどく高くて長く、先の方が垂れ、赤い色をしている。二条院に帰った源氏は、まだ幼い紫の君に、髪のひどく長い女を描いてやり、鼻に紅を塗る。姫君はひどく笑うのである。芥川龍之介の『鼻』も同じ笑いをさそう。
 
 アメリカ文学の笑いの傑作、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』の面白さの一つは、トムが山賊や海賊になる時に、それに関する多くの物語を読んでいて、そこから先入観として、山賊なり海賊なりの生活の在り方を前以て決めてしまっており、それを機械的に繰り返そうとするところにある。
 
 
 やがてハックがいった。「海賊は、どんなことをやんなきゃいけないんだ?」
 
 トムがいった。「そりゃ、すごいことばっかりさ――船を分捕って焼き払っちまい、金を奪って、自分たちの島の、幽霊やなんかの見張ってるおっかねえ場所に埋め、船のやつらは片っぱしから殺しちまうんだ――海へ突き出した板の上を歩かせてな」
 
 「それから、女たちを島へつれていくんだ」とジョーがいった。「海賊は、女は殺さないからな」
 
 「そうだよ」とトムが相づちを打った、「女は殺さないんだ――海賊はそんな卑怯なまねはしないからな。それに、その女たちは、いつだってきれいなんだ」(光吉夏弥訳)(12)
 
 
 また、ベルクソンは笑いをさそう状況の一つとして、全く互いに独立している二つ以上の事件が、どこか一つの点で交差し、その交差点がそれぞれの事件にとって別の意味をもつ状況をあげている(13)。それぞれに独立した事件の幾つかの系列が、機械的にある一点で交差する。その場合、その交差点は喩えると一つの機械の一部品で、全体との関連の中でその役割を果している。ところが、もう一つの機械がかたわらにあって、一部品が足らない。たまたま前の機械の一部品を取りはずしてきて後の機械の足らない部分を補ったところ、後の機械が見事に動き出したとする。両方が機械ならこれですむが、人間の場合はどうであろうか。勘違いからくる笑いは、大体これに属する。
 
 おもに四国地方の民話の一つだが、東北地方から九州までかなり広く分布しているものに「とろかし草」というのがある(14)。一人の樵夫(きこり)が、旅人を追いかけているウワバミに出会い、傍らの大木によじ登って見ていると、旅人を飲み込んだウワバミのお腹(なか)が膨れあがった。ウワバミは、ある草を探して食べたが、するとお腹がもとの如く細くなった。ウワバミが去ったあと樵夫は消化に効くと思われた草を家に持って帰った。ある晩樵夫は村の会合に出たところ、長者が、大どんぶりの蕎麦を五杯立てつづけに食べたら田圃一反くれる、と言い出したので、三杯まで食べたがそれ以上何としても食べられない。そこで樵夫はトイレに行く。いつまで待っても出てこないので、皆が思い切ってトイレの戸を開けてみると、樵夫の着物だけがそこに転がっていて、樵夫の姿は見えない。あの草は人間をとろかす草であった。勿論、草が二つの事件の交差点である。


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 ベルクソンの『笑い』が革命的な笑いや反抗的な笑いを取扱っていないことは前に述べた。チャーリー・チャップリンが、機械の中に人間性が失われて行く近代文明を諷刺した「モダン・タイムズ」、また、ヒトラーを揶揄した映画などで醸し出すような反体制的な笑いは、ベルクソンのこの書物によって問題にされていない。これはベルクソンの創造的進化の思想と関係があるのかも知れない。世の中が進歩しつつあると信じるのは一種の楽天主義だと言ってもよいだろうが、この信仰をもつ人々は世の中を根底からひっくり返して見ようとか、大きく変えて見ようとは考えない。徐々なる進歩を達成して行くことに重点が置かれるから、革命は勿論のこと、体制への激しい抵抗などもしようとは望まない。また、このことは、「生の躍動」が生きとし生けるすべてのものを流れて行くという、ベルクソンの汎神論的思想とも関係しているのであろう。今の現実に神的なものが満ちていると考える汎神論は、とかく現状肯定的となり、今の全体の傾向を是認し勝ちである。つまり、汎神論は今の全体の傾向の外に立って、これをさばく神のような存在をもたないので、文化の現状を肯定し、うっかりすると今の文化を神聖視する恐れなしとしない。ベルクソンの場合にはその主張する「生の躍動」がしなやかなものであるが故に、古びて形骸化して「生の躍動」の現実に適合しなくなった文化を「生の躍動」自体が批判し、それを置き去りにすることができる。併し、進化論に阻まれてしまっているために、この文化批判は本当に根底までは届いていないのではないだろうか。ベルクソンが、笑いが社会的なものであること、社会に適応できない人間の行動を笑うことによって、それらの人間を矯正するものであることを強調すればする程(15)私にはその感が深くなる。更に、こういう場合にベルクソンは、社会に適合できない人間たちに対して、人々は徹底的にいじわるな笑いを笑う可能性もあるということを考えなかったようである。人間は相手を笑い殺す程に悪魔的になることができるのである。
 
 併し、「生の躍動」は現状や周囲に対して批判的になり得る訳だから、そこに客体に対して向き合って立つ主体という図式が成立し、客体に感情的に巻きこまれていない主体から笑いが涌き起り得るのであった。ベルクソンによれば、人間は感動をさそうものに対しては笑えないのであり、笑いは理性的なもの、客体に対して距離をおくものである(16)。だが、ベルクソンには、もう少し客体と主体との間の距離について詳細に述べて貰いたかった。ベルクソンが汎神論的な立場に立ち、「生の躍動」に動かされて行くという角度から人間を把握しているために、彼は人間の自由ということを徹底的に把握できなかったように思う。人間は悲しいことに、自分に気に食わない相手を笑い殺す程に自由な、残虐な、悪魔的存在でもある。
 
 ところで、主体と客体との距離、主体が客体に対して感情的に巻き込まれてはならないことなどに関し述べておきたい事柄がある。ゼーレン・キルケゴールの書いた喩え話に次のようなのがある。
 
 
 劇場の舞台裏で火災が起った。それを観客に告げるために、道化役者が舞台に出てきた。観衆は彼の言うことを冗談だと思い、拍手かっさいした。道化役者は警告を繰返した。そこで観衆はますます大声で歓声をあげた(17)
 
 
 道化役者から機械的に冗談を期待している観衆にとっては、自分たちと舞台との間の距離を維持し得ている限り、火災の警告も笑いの種にすぎない。併し、火が身の回りに迫って来た場合には、観衆の反応はおのずから違ってこざるを得ない。このキルケゴールの喩え話には、人間がある事柄(ここでは火災)に対してとり得る二つの態度が明らかにされているのである。一つは、主体が客体に対して距離をおいて、眺めるような態度でいることである。これを「主観−客観構図」(ここでは観衆と舞台)と言っておこう。もう一つは、主体が客体の中に巻き込まれ(ここでは、やがて逃げまどう観衆)、自分の実存の生死を賭けざるを得なくなる関係、「主体性が真理である」(キルケゴール)ような事情である。実はキルケゴールのこの喩え話で重要な点は、観衆は火災の警告を「主観−客観構図」で受けとめてはいけなかった、というところにある。主体性の次元で受けとめるべきものを「主観−客観構図」の次元で受けとめてしまった観衆には、両次元の混同の誤りがあったのである。笑うべきでない時に笑ったのである。社会に適応できない、あるいは、文化的規格に外れてしまっている人々を笑い殺すような残虐も、本来ならば主体的に愛においてそれらの人々とかかわるべき者たちが、相手を客観視する犯罪、笑うべきでない時に笑う次元の混同を犯しているのだ。我々がどういう状況で笑うかは、我々の生き方、我々の人格の心(しん)を露呈させる。笑いは自由の責任である
 
 話がだんだんと笑うどころではなくなってきたような感じであるが、もう少し読者には我慢して貰って、笑いの構図を可能な限り明らかにしてみたい。ユダヤ教の哲学者マルチン・ブーバーがその著書『我と汝』(18)の中で我々に提供してくれた二つの基本語、即ち、「我−汝」及び「我−それ」はあまりにも有名になってしまった。併し、これらに関する誤解も多いようである。例えば、「我−汝」は人間と人間の関係を、「我−それ」は人間と物質的なものとの関係を表現している、というようなのはよく聞く誤解である。ブーバーによるとそうではなく、一本の樹木も我にとって汝となり得るのである。つまり、我に対する汝とは、我を真の我に目覚めさせてくれる存在のことである。この目覚めを支えてくれるものは、人間であることもあるし、一枚の絵、一つの詩であることもある。それに対して、相手が人間であっても、その人間を我が目的を実現するための手段として使うような場合には、相手はそれなのであって、そのそれは我の深みには関わってこない。それとの関係は表面的なものであるにすぎない。つまり、我は同一の相手に対して二つの次元(在り方)での関係、「我−汝」と「我−それ」の関係を結び得るのである。そしてブーバーの主張では、人間の目指すべきなのは「我−汝」の次元を優先させることであり、従って、「我−それ」は「我−汝」に従属して初めて意味をもつのである。
 
 キルケゴールのあの喩え話の中で、舞台で叫んでいる道化役者を観衆が笑っている時には、観衆と道化役者(及び道化役者の告げる火災)との関係は「我−それ」である。ところが、観衆が火災を身近に感じ始めた時には、我が身体の危険に目覚め、自己の存在を守るという身体の次元の事柄ではあっても、「我−汝」の関係が成立してくるのである。
 
 このように考えてくると、我々がこれ迄に取り扱ってきた笑いは、ことごとく「我−それ」の次元に属するもの、主体と客体との間の距離が「我−それ」の()で象徴されるようなものである。相手を笑って楽しむとか、相手を笑い殺すなどというのは、相手の人間をひたすらに物に変えようと努力しているようにさえ感じられる。それ故に、先程私は、ブーバーの言う「我−それ」を人間と物体的なものの関係に限定するのは誤解だと言ったけれども、その誤解にも幾分の理由があるのである。実のところ、我は相手の人間を、徹底的に物の如くに取り扱うことができない、と言うのは、相手の人間の生に対して本能的な畏敬の念をもたざるを得ないからである。人間を物のように取り扱うのは、努力して初めてなされ得ることである。従って、その取り扱いは我が自由の責任を含む。ベルクソンが、笑いには社会的な矯正の意味が含まれていると言う時に、矢張そこにも「我−それ」の次元の中にありつつ、相手を矯正してやろうとする幾分の愛の関係――愛の関係こそ「我−汝」である――への接近が垣間見えている。即ち、笑いは徹底した「我−それ」ではなく、「我−それ」の次元に属してはいても「我−汝」の境界に近い領域で起る。ベルクソンがどれ程笑いは理性的で、相手に感動しないところで起るものだと主張しても、感情のまつわりつき――愛であろうが憎しみであろうが――の全くないところでは、笑いは起らず、そこには完全な無視のみがあるだろう。まだアメリカに奴隷制があった頃、南部の白人の恥じらい勝ちな娘のある者たちは、男の黒人奴隷の目の前で裸になっても別にそれを恥ずかしいこととは感じなかったということを、かつて何かで読んだが、これなどは、良心の痛みも覚えずに黒人を物に変えてしまった例だろう。ここには笑いは起らない。
 
 ブーバーの言う「我−汝」の完全な様相は、汝への愛のために我を忘れてしまっている我の姿であろう。そのような献身的な愛の中に我は真の我となって行く。それ故に、「我−汝」は、本当は「我汝」あるいは「汝()」なのである。そうすると「我−汝」(Ich und Du)()<und> は何を意味するのか。ブーバーは「我−汝」の次元にも大ざっぱに言って二つの領域を考えるべきであった。我を忘れた「我汝」あるいは「汝(我)」の領域と、この領域を支える土台のようなもう一つの領域たる「我−汝」である。今述べたような意味での我を忘れるような体験――この体験の中では、我は自由であって、しかも、相手の魅力のとりこになっているのだが――は確かに我を真の我とする生の高揚であり、生きることそれ自体だと言ってもよい。ここには笑いなど生れる余地もない。併し、この体験はそう長く続くものではないし、その体験を再度、繰り返し体験するためには、ある程度の忍耐を汝――この汝が神であっても人間であっても物体であっても――に対して抱くような生活が絶えざる準備、また土台として必要である。ここには、我と汝との間に幾分の距離がある。つまり、「我−汝」は「我汝」や「汝(我)」よりも、同じ次元の中ではあっても「我−それ」の次元に対する境界に近い。だから笑いは両次元の、境界に近い両方の領域でおこる。


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 「我汝」や「汝()」と区別された「我−汝」の領域で生れる笑いこそ、何とも美しいものである。相手を温かい愛でそっと包み、しかも相手を自由にさせておく。相手を笑っても、それは相手を矯正するためではない。共に同じ地平に立っていることを知っているからである。相手が痘痕(あばた)(機械的なこわばり)を靨(えくぼ)(しなやかさ)に見せようとする時に、笑ってそれが痘痕であることを認めさせる程に相手に対して距離を置きながら、痘痕が痘痕であっても一向に差支えないことを、目の輝きと愛の振舞いで知らせるのである。まるでユーモアがイギリス人の専売特許であるかのようなガーロッドの発言は好きだとは言えないが、彼が言うように、確かにイギリス文学の中には、今私がここで述べているような笑いがよく描かれている。(この笑いこそが、ユーモアと言い得るものなのである。)彼のあげるユーモアの代表的な作家たちの中では、個人的には私は『デイヴィド・コパーフィールド』――『ピクウィック・ペイパーズ』のではない――のチャールズ・ディケンズが好きである。サッカレーも、ディケンズの『デイヴィド・コパーフィールド』にこそ、彼のもっとも輝けるユーモアが見られると言っている(19)。しばしば見られるディケンズのセンチメンタリズムも、この『デイヴィド・コパーフィールド』における温かい人間描写を読むと忘れてしまう。特に私には、世の中を立派に生き抜く力もなく、借金のために牢に入ったことがあるような、あらゆる面で弱い人間であるミスター・ミコーバーを温かく描くディケンズは実に魅力がある。ミスター・ミコーバーの礼儀正さと、零落れた貴族であるかの如き振舞いは、真にユーモラスである。
 
 ところで私はこれ迄、「我汝」、「我−汝」「我−それ」を、一個の自我と他の存在との間の関係としてだけ取扱ってきた。併し、主体性をもった自由なる存在、実存としての人間は、自我の内部で、自分と自分との間に、これらの関係をもっているものなのである。例えば、フランツ・カフカ『変身』は、著者自身の内部に存在していた、自分と自分との関係を外側に投射した物語りだと言う外はないであろう。周知のようにその物語りの中では、ある日突然に大きな虫に変っている自分を発見した主人公が、やがて家族によって一室にとじこめられ、死んで塵芥として棄てられてしまう。『変身』はまだしも良いほうである。『流刑地にて』になるとたまらない。流刑地には特別の刑執行装置がある。それは、下の方にある寝台と中の部分の馬鍬と上の方にある録写機からなっている。囚人は電気仕掛けで振動する寝台にのせられるが、録写機の仕掛けで馬鍬が、その寝台の動きに応じながら囚人の身体の表面に針の先端をつき刺して行き、その身体に、録写機に入れられている判決文を書きしるす。12時間で完全に判決文が描き込まれ、馬鍬の止めの一刺しがなされて囚人は死ぬ。これらの作品でのカフカは、自分を冷たく眺める自我であり、自分と自分との関係は「我−それ」である。しかも、眺められている自分に対して眺めている自分は何の憐憫も憎しみも感じていない。単なる物体を眺めているかの如き作者の姿勢であって、読む者に鬼気迫る感を与える。特に『流刑地にて』は、処刑される囚人は罪を犯した自覚もなく、何故処刑されるかの理由を、判決文の形で身体に描き込んで貰わないことには、自分が殺される理由も分らない。それなのに、ぞっとさせるのは、判決文を描き込まれると囚人が納得したように、救われたような表情を見せて死んで行くことである。『流刑地にて』もカフカの内部を投影させたものと思えるが、ここまで自分をとして描き、自由なき存在として冷たく眺めてしまっている作品には、勿論笑いはない。笑うどころではない、凄惨な感じがするのである。しかも、人間を物扱いにすることが、どんなにしても本当にはできることではない、とカフカが知っていて書いているから、これらの作品が我々を把えて離さないのである。
 
 「我−それ」の関係にある自分と自分との間で、自分を嘲けるいやらしい笑いもあり得るが、これはしなやかさを失って、社会環境に適応できなかったり、思う通りに自分の未来を切り開けない自分に対する忿懣からくる。即ち、自分を本当には物と思えないところからくるのである。併し、何と言っても素晴しい笑いは、自分自身に対する、思いやりと親切に満ちたユーモラスな笑いである。これは言うまでもなく、自分が自分に対して「我−汝」の関係にある時におこる笑いである。
 
 実存主義的な作家であった椎名麟三は、彼自身のある時期の体験を次のように語っている。
 
 
 ・・・食うに困ったのと、生きてゆく思想的根拠を失って、何度も死のうと思った。その私は、美的観念がはなはだ不足しているために、首を吊ろうとしたのである。だが何度試みても、その最後のところで踏み切れなかったのである。
 
 その私は、自分に勇気が欠けているせいだと思っていた。『自由の彼方で』という自伝小説で私は次のように書いている。
 
 「清作は縄の一方の端を首にまきつけて、(屋根の桟からぶらさげてある)他の一端に結ぶ。荒縄の、ぷんとあまい、かぐわしい健康そうなにおいがする。その彼には、店頭に縄でつるした歳暮の新巻の鮭が思いうかんでいる。しかしそれだけなのだ。なぜなら彼に、ほとんど毎夜のような、涙ぐましいたたかいがはじめられているからである。首に縄を巻きつけている彼は、片足を土間の方でつき出し、もう一方の足も同じように上りかまちから土間の方へ離そうとする。だがその片足は、一方のそれとちがって、とりもちで上りかまちにくっついてしまったようになかなかはなれないのだ。しかもそのときになって、必ず便意を催してくるのである。彼は、その便意にとまどう。いつものことだと思いながらもそれにとらわれる。ときには彼は、古来、何万人何百万人というひとのやったことが、どうして自分にできないのかとその自分をののしりながら、チューブから古絵具をしぼり出そうとするように、勇気をしぼり出そうとする。彼は、百度決心し、そしてさらに百度決心しなおして、あらゆる種類のかけ声をかける。・・・」
 
 それでもついに自殺できなかった私にたりなかったのは、ほんとに勇気なのだろうか。(20)
 
 
 いつも試みては機械的に失敗する自殺行為、とりもちでくっついてしまったような片足、チューブから古絵具のようにしぼり出さねばならない勇気、これらは、しなやかなるべき人間の生のこわばりであって、この文章は笑いをさそうものに事欠かない。併し、これを読んでさそい出される我々の笑いは、椎名麟三の自分自身へのやさしさに満ちた笑い、真のユーモアへの共感的笑いである。彼に対する、うっかりすると涙が出るような同情に駆られながら、涙の直前、その瀬戸際で我々は笑いだす。我々は、椎名麟三に対する「我−汝」の関係に引き込まれているのである。そして椎名麟三自身は、自殺しようとしてできない自分に、失望と憐憫をもちそうになるその直前で、笑い出しているのであり、自分に対する幾分の気の毒さを混じえたユーモラスな笑いである。しかも、彼はその自分の滑稽な姿を堂々と人々の笑いに供して共に笑う。人々との「我−汝」関係での笑いが、相手を笑うことによってではなく、自分を笑うことによって円滑に保たれて行く。ユーモアはここにおいてまさに――パウル・ティリッヒの言葉を使えば――「存在への勇気」(Courageto be) となっている。ユーモアは生の味方である。


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(1) ベルクソン、林達夫訳『笑い』(岩波文庫)、13頁。
(2) 同書、同頁。
(3) 同書、14−15頁。
(4) 同書、17頁。
(5) 同書、19頁。
(6) 同書、35頁。
(7) Garrod,H.W.:"Humor"in The Character of England,edited by Ernest Barker,Oxford,Clarendon Press,1947,p.348.
(8) ibid.,p.351.
(9) チョーサー、金子健二訳『カンタベリー物語』(角川文庫)、99−100頁。
(10)シェイクスピア、坪内逍遙訳『ヘンリー四世・第一部』第三幕、第三場。
(11)ベルクソン『笑い』、31−33頁。
(12)マーク・トウェイン、光吉夏弥訳『トム・ソーヤーの冒険』、平凡社(世界名作全集R)42−43頁。
(13)ベルクソン『笑い』、92−93頁。
(14)永田義直編著『ふるさとの民話』、東京、金園社、767頁以下。
(15)例えば、ベルクソン『笑い』27頁、84−85頁、125−126頁などを参照されたい。
(16)ベルクソン『笑い』、129頁。
(17)Michalson,Carl edit.:The Witness of Kierkegaard ――Selected Writings from Kierkegaard on How to Becone e Christian,New York,Association Press,1960,p.38.
(18)Buber,Martin:Ich und Du,Leipzig,Insel-Verlag,1923.
(19)Garrod:"Humor",p.349.
(20)椎名麟三『愛と自由の肖像』(現代教養文庫225)、社会思想研究出版部、51−52頁。





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入力:平岡広志
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/3753/

2002.10.3