周防 高嶺城跡、大内氏館跡、築山跡(よしだっちの城跡探訪記)
 
siro  高嶺城跡(こうのみねじょう)、比高290m
場所山口県山口市上宇野令 主郭周辺の石垣跡
主郭周辺の石垣跡
訪問日2010年10月5日(火)
備考毛利の来襲の備え、大内義長が築いた城
郭図の表示





T郭
T郭。

登山道最初の郭です。
今回は登山道に沿った細長い城域なので、
登山の順に紹介します。
石垣跡
尾根の右を通って次の郭へ行く途中、
左手に石垣跡。
この上にも郭があるはずですが、
崩れたのか、確認出来ませんでした。
S郭
S郭。
R郭
R郭。
Q郭
Q郭。
P郭
P郭。
東郭群の最高所です。
高嶺城跡
そこにある案内板。
高嶺城跡
そして地形図。
高嶺城跡
そこからの展望。
高嶺城跡
角度を変えて、
右奥がQ郭、左上がP郭。

この後ろに車道が登って来て、
車道を挟んで西郭群がそそり立っています。
多分、堀切だったのではないでしょうか?
O郭
O郭。
N郭
N郭。
M郭
M郭。
L郭
L郭。
K郭
K郭。
I郭
I郭。
J郭
I郭からJ郭を見下ろす。
H郭
H郭。
H郭
H郭の奥側。
F郭
F郭。
G郭
F郭からG郭を見下ろす。
F郭
F郭の奥側。
高嶺城跡
F郭からE郭を見上げる。
ここから右に巻いてA郭裏側に向かう。
石垣跡
A郭東側。
見上げると郭の淵に石垣跡。(ズーム)
石垣跡
A郭北端東の斜面に石垣跡。
石垣跡
更に先に回り込んで石垣跡。
2段になっています。
石垣跡
更に回り込んで、
B郭西端からA郭北下の石垣跡。
石垣跡
その辺りから、右を向いてA郭を見上げる。
B郭
B郭。
奥はA郭。
A郭
A郭。
B郭からよじ登りました。
高嶺城跡
そこにある案内板。
高嶺城跡
そして郭図。
C郭
A郭からC郭を見下ろす。藪。
石垣跡
足元には先ほど見上げた石垣跡。
高嶺城跡
A郭から市街地の展望。
築山跡
築山跡をアップ!
大内氏館跡
大内氏館跡をアップ!
龍福寺は修繕の為、プレハブ状態です。
高嶺城跡
A郭からD、E、F郭を見下ろす。
この辺りに石垣跡が満載です。
D郭
D郭。
E郭
E郭。
虎口
A郭からD郭に抜ける虎口と思われます。
石垣跡
虎口右の石垣跡。
虎口があると言う事は、この階段は後付け?
石垣跡
虎口左の石垣跡。
石垣跡
A郭南東端(だったかな?)の石垣跡。
石垣跡
D郭下、西角の石垣跡。
高嶺城跡
E郭から2段の石垣を仰ぐ。
大内氏館跡
下山して、大内氏館跡(龍福寺)へ...
駐車場にあるマップ。
龍福寺山門
龍福寺山門。
大内氏館跡
その横に大内氏館跡(龍福寺)の説明板。
大内氏館跡
その上に航空写真。
大内氏館跡
龍福寺と毛利氏大内氏の間柄が説明されている。
宝現霊社
宝現霊社。
歴代の大内氏の当主の神霊が祭ってある。
大内義隆卿辞世
大内義隆卿辞世

討つ人も 討たるる人も 諸ともに
如露亦如電応作如是観
大内氏館跡
その説明板。
大内義隆卿主従之供養塔
大内義隆卿 主従之供養塔。
大内氏館跡
どちらもそうかな?
大内氏館跡
龍福寺本堂の説明板。
大内氏館跡
修繕中でなければこんな感じです。
※駐車場の説明板から抜粋。
池泉庭園
池泉庭園の復元中です。
池泉庭園
復元工事の説明。
池泉庭園
完成図。
池泉庭園
発掘中の模様。
大内義興公
大内義興公「馬上展望」像
大内氏館跡
土塁(北側)の上。
枯山水庭園
枯山水庭園。
枯山水庭園
その説明板。
西門
西門。
西門
その説明板。
石組溝
石組溝。
石組溝
その説明板。
築山跡
築山跡の大鳥居。
八坂神社
八坂神社。
八坂神社
その説明板。
築山跡
北西角近辺の土塁。
高嶺城跡
龍福寺駐車場近辺から高峰城跡(鴻ノ峰)を望む。
「大内氏の歴史(一部)と高嶺城」
1519年 義興、伊勢神宮より神霊を勧請し、高嶺に山口大神宮建立。
1523年 安芸国東西条の鏡山城、尼子経久、毛利元就らに攻められ落城。
1525年 毛利元就、尼子氏と離別し、大内義興の傘下に。
1528年 義興死去。義隆家督を継ぐ。

1544年 実子の無い義隆、甥大友晴英を猶子とする。(ここで将軍義晴の偏諱で晴英を名乗る。)
1545年 義隆に実子(義尊)が誕生した為、晴英と猶子関係解消、帰国。
1551年 陶隆房謀反。龍福寺焼失。義隆大寧寺で自害。
1552年 大友晴英、陶隆房に担がれ大内氏の家督を継ぐ。(陶隆房、晴英の偏諱で晴賢を名乗る。)
1553年 晴英、将軍義藤の偏諱を受け大内義長と改名。
1555年 厳島合戦。元就、陶晴賢を滅ぼす。
1556年 義長、毛利来襲の備え高嶺城築城開始。
1557年 義長、毛利氏に攻められ、高嶺城から長門国の且山城へと逃れ長福寺で自害。
      大内氏残党、義隆遺子亀鶴を奉じて挙兵、が討滅。
      毛利氏が周防長門を支配。高嶺城修築(市川経好城番)。

1600年 関ヶ原の戦いで西軍敗戦後、毛利氏は防長2州に減封。
      毛利氏は、要地である山口の高嶺城を拠点とする事を幕府より許されず、萩城を本拠とする。
1615年 一国一城令により、高嶺城は破却されることが決定。
1638年 高嶺城廃城。後に山口城の詰め城として使用。

「大内氏館跡」
大内氏滅亡の1557年まで使用、現在も館の基本的な部分は龍福寺境内地として残っている。(本堂は修繕中)
館跡は昭和34年、築山跡、高嶺城跡、凌雲寺跡と共に「大内氏遺跡附凌雲寺跡」として国史跡に指定。
昭和53年度から館跡の発掘調査を実施。館が数回改修された事、庭園が3つ作られた事等が分かる。
これらから、平成9年度から館跡の史跡整備を行っている。
※龍福寺:大内義隆の7回忌に、義隆を養父と仰ぐ毛利隆元の手で建立、義隆の菩提寺とした。
※復元された遺構:石組溝、西門、枯山水庭園、土塁など。
※復元中の遺構:池泉庭園。

「築山跡」
大内氏別邸築山館の跡。敷地内には八坂神社、築山神社などがある。
北西角にはL字型に土塁が残る。

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 参考資料:各種サイト