出雲 月山富田城跡(よしだっちの城跡探訪記)
 
siro  月山富田城跡(がっさんとだじょう)、比高155m
場所島根県安来市広瀬町富田 三の丸の石垣
三の丸の石垣
訪問日2010年5月5日(水)
備考山陰、山陽十一ヶ国を有した尼子氏の本城
登山道の表示
郭図の表示
鳥瞰図の表示(案内板より)



地図
富田城道の駅周辺の地図。
地図
富田城周辺の地図。
概要
富田城の概要。
富田城郭図
富田城郭図。

以上、道の駅にて...
尼子興久の墓
道の駅から山側(南東)に進むと、
すぐに尼子興久の墓。
馬場跡
千畳平に向かう途中、馬場跡。
千畳平
千畳平。
月山富田城跡
その説明板。
「太鼓壇(千畳平)」となっているが、
他の案内では、ここが千畳平、
南東1段上が太鼓壇となっている。
月山富田城跡
千畳平西端にある椎の木。
樹齢400年以上で、毛利氏による兵糧攻めの折り、
少なからず食料の足しになったと考えられます。
月山富田城跡
千畳平と太鼓壇の間の高所。
見張り台的な郭でしょうか?
月山富田城跡
その1段下(太鼓壇側)の郭。
太鼓壇
太鼓壇。
山中鹿之助像
そこにある山中鹿之助(鹿之介)(鹿介)像。
奥書院平
奥書院平。
花ノ壇(侍所)
花ノ壇(侍所)。
月山富田城跡
その説明板。
写真は地元の小学生による発掘調査の風景。
月山富田城跡
山中御殿北東(外側)の石垣。
多門櫓跡
その内側。
「多門櫓跡」とある。
山中御殿
山中御殿。
月山富田城跡
その説明板。
月山富田城跡
東にある門跡。
月山富田城跡
その横に櫓跡。
月山富田城跡
更に横に井戸跡。
月山富田城跡
石垣。
この右側が山中御殿内側、
左側が菅谷口門跡で本丸へ続く。
七曲がり
七曲がりの石畳。
「七曲がり」は、山中御殿から三の丸に向かう、
急斜面を登るつづら折りの道。
山吹井戸
七曲がり途中にある山吹井戸。
月山富田城跡
七曲がり終点に三の丸の説明板。
月山富田城跡
三の丸北西下の石垣。
月山富田城跡
三の丸虎口。
七曲がり終点から三の丸に登って振り返る。
三の丸
三の丸。
月山富田城跡
奥に井戸跡。
残念ながら蓋がしてあり確認出来ません。
月山富田城跡
二の丸下(三の丸側)の石垣。
二の丸
二の丸の説明板。
二の丸
二の丸にある展望図。
京羅木山に陣取った毛利軍の侵攻経路(三方)と、
迎え撃つ尼子軍の動きが記してある。
二の丸
北方面の展望。
二の丸
左を向いて京羅木山。
二の丸
二の丸から本丸との間の堀切を見下ろす。
月山富田城跡
堀切から石垣越しに二の丸を見上げる。
本丸
本丸。
本丸
本丸にある眺望図。
本丸
北方面の展望。
月山略史年表
月山略史年表。
鎌倉時代以前の築城から江戸時代初期の廃城
までの427年の歴史が記してある。
山中圭或塔
「山中圭或塔」。
山中鹿介記念碑との事。
山中鹿介関係の史跡がやたら多い。
パンフを見ても周辺に5ヶ所はある。
本丸
右に土塁と左に窪地。???
本丸
本丸北東にある土塁跡。
勝日高守神社
一番奥には勝日高守神社。
勝日高守神社
その裏手の石垣。
月山富田城跡
下りは二の丸、三の丸を南へ迂回。
三の丸西下の石垣。
月山富田城跡
山中御殿にて、
富田城の城主が尼子氏、毛利氏、吉川氏、堀尾氏
と遷移してきた旨が書かれている。
大手門
大手門の説明板。
大手門
その大手門の片鱗。
月山富田城跡
軍用大井戸。ってこれの事かな?
※追記:違うらしい...
月山富田城跡
史跡 富田城跡 案内板。
大手門から谷筋の舗装路を通って
歴史資料館の裏まで帰って来ました。
地形模型
地形模型。
地形模型
その説明板。
富田川河床遺跡
富田城城下町跡(富田川河床遺跡)の説明板。
富田川
その富田川(飯梨川)。
有名な山中鹿之助と品川大膳の一騎打ちのあった
中州(川中島)は今は奥の土手の向こうになります。
月山富田城跡
月山富田城跡全景。(西側より)
(まとめ・総評)
平安時代末期頃、平景清が富田荘に入り、八幡社を移して築城した。との説がある。
鎌倉時代初期頃、佐々木義清が出雲、隠岐二ヶ国の守護として富田城に入る。
南北朝時代、一時山名氏の領となるが、京極氏(佐々木氏)の手を経て、
室町時代初期(南北朝時代を除く)、尼子清貞(3代当主)を城主とする。
(このあたりまで情報が交錯し、定かではありません。)
以後、尼子氏の本拠として、山陰、山陽十一ヶ国を領するまでの礎となる。

長門、周防を拠点とする大内氏とは、安芸、備後などで攻防を続け、国人衆も両者間で頻繁に鞍替えする。
室町時代末期、大内氏の出雲遠征(毛利氏も従軍)を一旦退けるが、その19年後、
厳島合戦で大内氏(陶氏)を破り、勢力を拡大した毛利元就に包囲され、持久戦(兵糧攻め)の末、
7年後に落城、毛利氏家臣(一族?)の天野隆重が入る。
後、吉川元春(元就次男)の三男、吉川広家が秀吉の命で、出雲、伯耆の一部等を与えられ、入城。
関が原合戦敗戦を受けて、毛利、吉川減封後は、堀尾忠氏が入り、
その15年後、松江城完成を持って、家康の「一国一城令」により廃城となる。

城域が余りに広すぎて、現地やパンフで案内されている以外は廻っていません。
時間的な制限もあり、周辺の史跡も全てパスしました。
観光地としてかなり整備されており、石垣等はほぼ復元されたものと思われます。
七曲がりの石畳もあやしいです。
しかし、道の駅にある郭図(郭図2)等は、当時の城の雰囲気を再現して、面白いものになっています。

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 参考資料:史跡ガイドマップ「安来市広瀬町」