99.淡水機場 その昔

台湾 66話」で少し紹介したのですが、さらに掘り下げてみます。
単なるモノズキで調べていると、意外な歴史が見えてきました。
ですが、昔の話題ですので興味のない方が普通で、全然オモシロクナイかもしれません。
場所はMRT淡水駅のすぐ近くなのです。

淡水の町のイメージは「古い港町で夕日がキレイ」 まあこんな程度ですよね。
私もその程度の知識しかありません。
まして、水上機場なんてダ〜〜〜レも知るはずがありません。(モノズキ以外は)

戦前あるいは戦争中の軍事施設についてその場所を示すまとまった資料は実は皆無です。
例えば、飛行場の場所とか、身近にあったはずの防空壕の位置とか。
(私の住む大阪市内のドマンナカにあった飛行場の由来が間違って紹介されている始末です)
まして、台湾などの占領下の施設の資料は処分・散逸し、長い間に施設そのものも消えてなくりつつあります。
淡水水上機場は今もなお軍隊の管理下にあり(戦車が河を向いている)現状を見ることは不可能です。
そこで水上機場や周辺の過去を探ってみると、思わぬ事実や人物にでくわし、探索はアッチ行ったりコッチ行ったり。
     [壱] 台湾国内で機場はどう扱われているか
     [弐] ネットで見つかる昔の地図
     [参] ネットで見つかる昔の写真
     [四]  機場の隣の敷地
     [五]  機場ができる前
     [六]  論文資料
     [七]  淡水文化基金会
     [八]  小倉地図に出る人物
     [九]  淡水の住宅地図
     [拾]  淡水学研究専区
     [拾一] 退役軍人のフォーラムより
     [拾二] 淡水外人墓地
     [拾三] 淡水美国領事館


[壱] 台湾での施設の紹介
  @文化部(文部省に相当)文化資産局 淡水水上機場
  Aその元になったHPが同じ文化部の「台湾百科全書

   台湾最初の水上機基地「淡水水上機場」は神秘的な場所で軍が管理しており立ち入ることができません。
   さらに、鉄道(淡水線)が邪魔しているので、古老や少数の探検者を除いて一般人は知りません。
   1937年の盧溝橋事件のあと、台湾総督府航空局は淡水鼻仔頭村に飛行場を設ける計画を立てた。
   2年の計画と土地収用し、1941年に建設完了した。
   基地は最初は民間に開放され、大日本航空がこれを使用し、単葉双発水上機(20人乗)が
   本土とバンコクを月2往復していた。淡水には給油のため立ち寄った。
   数ヶ月後、1941年12月8日に第2次大戦が始まり、12月12日にはバンコク便は停止された。
   その後は零星包機(零式水偵か)がわずかに給油に使うのみであった。
   1943年9月に日本軍は民間機をすべて徴用し、以後民間機が淡水機場を訪れることはなかった。
   高雄の東港にあった海軍航空隊が小型哨戒機を派遣し、近海監視にあたった。
   1943年に軍は機場の発着安全強化のため、航空無線羅針所を設けた。
   1944年には丘陵の上に航空灯塔が作られた。
   1944年10月12日に米軍は淡水機場を爆撃し、隣接の「迺生産」油庫を破壊したが
           (「迺生産」は当て字でラサン=ライジングサン)
       水上機は退避しており被害は少なかった。
   1945年8月に日本軍は投降し、台湾空軍が接収して気象連隊が進駐した。
   がしかし以後機場として使われることはなく、一般に開放することもなかった。

   滑走水面は、中州の向こう側(八里側)で長さ4〜5kmであった。
            (南側は浅く大型船は北側を通っていた)
   機場施設として、事務所・修理場・油庫・航空測候所・滑台・牽引機がある。


[弐] ネットで見つかる資料
立ち入り禁止区域なので施設内側写真はまったく見つかりませんでした。
       (スロープを見下ろす写真が1枚だけ見つかりましたが)
過去の資料をいくつか紹介します。
    米軍が作成した淡水地図(オリジナルはテキサス大学
        1944年(昭和19年)に撮影し1955年に地図として作成されています。
        川の中央に中州がありますが、現在はなくなっています。
        第2次大戦間前から終戦まで住んでいた方はこの地図を見て
            「昭和十年代には大きかった淡水河の中洲も終戦の頃には随分小さくなっていた」と回想しておられます。
        10年単位で中州の消長があったのです。

    部分拡大図はあちこちのHPで見ます
        2つの油タンクの海側に並ぶのはRising Sun Petroleum Co.
        この会社はシェル石油の前身で、明治10年にロイヤルダッチシェルの
        日本法人として設立されたライジングサン石油鰍フことで
        嘉士洋行の土地建物を明治29年(1897)に買い取ったものです。前年に台湾は清から日本に割譲されています。
        嘉士洋行として現在も地図に載っているのですが、その点は後記します。
        明治35年(1903)には油出荷のため淡水線からの引込線ができているので
        タンクは1897年から1903年の間に建設されました。(正確な年代不明)
        (こういう正確な地図を事前に作成してから攻める米軍に比べて当時の日本軍はいかに遅れていたか)


次の地図もあちこちのHPや論文で見かけます。
   
 台湾 數位典藏與數位學習國家型科技計畫より「日本海軍が作成した測量図
        右側に作成由来が書かれているのですが、疑問ばかりです。
        右上文章は
            g.礫 m.泥 r.岩 st.石     ←水底の状態を示します
            ●四四八分一           ←何とも不思議な縮尺です
            ●十八年             ←英文では明治28年(1896)です
            ●門従事             ←英文KAIMONは海門のこと
            ●大尉小椋元吉・技手大林正作 測量
            ●三十二年二月軍艦操       ←明治でしょう
            ●海軍大尉小倉寛一
            ●戦によりて改補す        ←●戦とは何でしょうか?
          地図下端に淡水機場になる地名「鼻仔頭」が見えますが
          その左上に長方形の敷地があります。これが嘉士洋行倉庫で、シェル石油はまだ土地を買う前です。
          淡水線ができたのは明治33年(1901)なのでこの地図にはまだありません。
          海軍の報告書を探しても小椋大尉が淡水港を調査した記述はなく
          なぜ小倉大尉が小椋大尉をもちあげるのか理由が不明です。
          どうもウサンクサイので別途調べることに。→次回100話
          河の中央には広大な中州あるいは浅瀬が見えます。この頃の写真で検証してみたいのですが。

別の調査をしていて、小倉大尉の地図のオリジナルを見つけました。(公文書館アジア歴史資料センター)

       砲艦操江(日清戦争の戦利品)に乗っていた小倉寛一郎大尉の書いた報告書
        「台湾淡水ニ関スル事項  付台湾付近気象諸表」
       図右上の説明文では明治32年3月に小倉寛一郎大尉と飯山仁三郎中尉の作成で
                縮尺1/9224
                陸上と岸線は海軍海図370号より引用
                旧水深は青字、新水深は赤字
                つまり古い測深図があってそれに新しい結果を追記比較したわけです。
       地名など陸上部の表記はごく簡略化されており
          税関近くの海岸に旗竿
          高燈とあるのは教会でしょうか
          嘉士洋行の場所には「ドーグラス桟橋」とあります
                    Douglas Lapraik & Co.得忌利士洋行
                    CassはDouglasに売ったのでしょうか?
          さらにコの字形の大きな建物が見えますが、嘉士洋行の倉庫配置と違います
          さらに右の鼻仔頭には判読し難い文字があります。こんな風に読んでみました。
               旗
               竿 館 事 国 旧
                       領 米
          黄東茂が大稻土呈から鼻仔頭に移るのは1913年(大正2)なのでこの地図にはまだ出てきません。
       水深は小倉地図よりも少し深く、年代が古いと考えられます。
       結論は、この小倉寛一郎地図が先にあり、後で誰かが全面書き直した。
       ということになります。よ〜く考えれば、海軍の地図に英語が書いてあるなんてオカシイですよね。
       では、何の目的で名前や由来を騙ったのか?
            小椋元吉大尉は淡水を測量していないし
            小倉寛一郎大尉の名前を1字忘れているし(日本人ならこんな間違いはしない)

ついでに小倉寛一郎大尉について調べると
    明治33年海軍大学校卒 (動機は8名)
    1904年8月10日、日露戦争の黄海海戦で軍艦最上に参謀(少佐)として乗り被弾負傷
    明治37年12月13日 高砂航海長で戦死br>


1895年(明治28年)陸地測量部の作成した台湾全図1/400000 だそうですが
清から割譲してもらったその年に測量できたはずはなく、もう少し後年と思います。
この図では淡水の対岸八里側に広大な中州あるいは浅瀬が広がり、八里から河まで伸びる「埠頭」があります。
この地図は何か別の地図から引き写したようにも考えられます。



1897年(明治30)には八里側半分は砂州・浅瀬になっていて養魚場もあったことがわかります。


さらに遡るとこんな地図がありました。
http://memory.loc.gov/cgi-bin/image-services/jp2.py?data=/home/www/data/gmd/gmd7/g7914/g7914t/ct003675.jp2&res=2

1888年(明治21年5月)地図 小澤徳平歩兵中尉
Library of Congress 米国国会図書館
    安政2年生まれ・明治11年陸軍少尉・明治18年特務機関兵として福州派遣
    とあるので、その後清朝台湾に渡ってスパイをしていたとしてもおかしくはない人物です。(渡台記録を見つけられず)
    この頃(清末)には日本軍は朝鮮・中国に特務機関兵を派遣し調査させていました。
    この地図には中洲なのか浅瀬なのか明示されていません。
    鼻仔頭に英国領事館とありますが、明らかに間違い。



1885年(明治17) C.Imbault-Huartの「L'ile Formose Histoire et Description」より
この図では中洲であることが明記されています(満潮時も水没せず見えていると)
八里から川へ伸びるのは桟橋Jeteeでした。
淡水側の河中にも砂の堆積があり、かなり進行していたことがわかります。
さらにいろいろなことが読めます。
      八里にはスペイン砦跡がある(八里の歴史遺産については別項予定)
      鼻仔頭にはヨーロッパ人の屋敷(複数形)がある
      淡水にはすでに英国領事館があった
      その山側には墓地が
      油車口のはずれに砦(現在の砲台より古い)
なぜフランス語の地図があるの? という疑問が沸きますが、1884年は清仏戦争があり
ここ淡水でもフランス砲艦の砲撃があったのです。もちろんフランスの勝利で、だからこそこの地図が作成されたのでしょう。
清はあわてて淡水の防備強化に乗り出し、ドイツの技術援助で砲台を建設するわけです。

1884年10月8日の淡水の戦い(清仏戦争の最後)時にフランス軍が作成した地図で、台湾国家文化資料庫にありました。

淡水の町の前にある船は米国砲艦Cockchafer、港外に並ぶのがフランス艦隊6隻
淡水在住の西洋人はフランス軍が1日で勝つと思っていたが、清に手もなく撃退されてしまう。
結局、清仏戦争は軍事的にはフランスの敗北であったが弱体化していた清から北ベトナムをもぎ取った
がしかし、当初の目的であった台湾占領は完全に失敗し、その後フランスは清での地位を失うことになる。
淡水の戦い http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tamsui
英文wikiの内容は戦いの経過が時刻を追って詳しく説明されており、意外に面白いです。
この戦いではマッケイ博士一家も実は巻き込まれているのです。



[参] ネットで見つかる昔の写真
地図だけでなく航空写真も見つかりました。
    米軍の航空撮影
        戦争末期から戦後にかけて米軍は大規模に航空写真撮影をしていました。
        日本国内分は国土地理院のHPで見ることができます。
        原本はたぶん米国公文書館にあるはず。
        この写真では水面に1機、駐機場に3機、右の隠体壕に1機見えます。
        左上の丸いタンクは燃料庫で、昭和19年(1944)10月に爆撃破壊されているので
        この写真はその前の偵察時か爆撃直前のものでしょう。
        敷地の上を斜めに走るのは淡水線で、タンク近くへの引込線も見えます。

    最初の1発はスロープを外れた

    殼牌倉庫のさらに北側(小川の淡水市街側)にも

    機場の建物が炎上しています

   以上の写真は1944年10月12日の爆撃で、CV-11イントレピッドからの第18攻撃隊のもので
   3枚目の写真では油タンクはまだ無事だったようです。
   ではなぜタンクは火災をおこしたのか? よくわかりませんでした。
   数次にわたって攻撃するのが常なので、撮影後の次の爆撃かもしれません。
   飛行機が飛び上がれないように、@飛行機A格納庫を破壊し
              あわせてB高射砲・対空機銃を破壊し
              さらに C油タンク・工場
   の順番に爆撃すると思います。
       3枚は「Taiwan AirBlog」から引用しましたが、さらにその大元は「Fold3.com」だそうです。
       Fold3は米国の軍に関する膨大な資料の窓口となるサイトです。
         独立戦争・第2次大戦・ベトナム戦争など
       残念ながら大元の写真データは見つけることができませんでした。


    戦前の淡水機場
        この機体は十四式水上偵察機(複葉・双舟・液冷エンジン・3人乗)
        この写真は淡水ではありません。背景の山並みが違います。
        このHPによると基隆だそうです。
        写真はウソをつかないといいますが、タイトルはウソをつくことがあります。


[四] 嘉士洋行
GoogleMapで水上機場の隣に嘉士洋行の社名があります。
1894年(明治26)11月にイギリス人范嘉士Francis Cassが鼻仔頭の西側の土地を購入(永租)した。
以下はWikipedia台湾から
   1858年に清朝と英仏との間で天津条約が結ばれ淡水が通商のため開放された。
   1862年に関税免除されると淡水は北台湾の最大貿易港となり、全台湾貿易の60%を占めるようになった。
   茶葉貿易ですでに有名であった嘉士洋行は鼻仔頭の西側の土地を2400銀元で購入し倉庫を建設した。
   シェル石油の前身であるSamuel商会社長馬可仕薩姆爾(Marcus Samuel)は
   1878年(明治10)に横浜に支社を設立した。(後のライジングサン石油)
   1896年(明治28)に日清戦争に勝利して台湾を割譲させ、台湾経営が始まる。
   1897年(明治29)にライジングサンは嘉士洋行の土地を購入し2棟の倉庫と3棟の油タンク(2500t・1200t・60t)を建てた。
   さらに台湾鉄道アジア支線を引き淡水線に接続した。
   これによって石油の全台湾的商売ができるようになった。
   第2次大戦が始まると総督府は敵対国家のものとして強制収用した。
   1944年(昭和19)10月12日米軍の台湾北部爆撃のため油タンクは被災した。
   戦後台湾政府はこれを日本政府の財産として接収した。
   シェル石油はこれを不服として以後60年にわたって訴訟を続けることになる。
   1997年(平成8)台湾交通部は淡水北岸拘束道路計画を始めたが、敷地が計画路線にあたることがわかった。
   文化団体・環境保護団体が全国的な保護運動を開始し、1998年には古蹟指定申請を台北県政府に提出するとともに
   シェル石油と接触を開始した。
   2000年6月に県政府は正式に県定古蹟に指定することになった。
   2000年12月にシェル石油は建築物の権利を淡水文化基金会に贈った。
このような経緯があり、現在は「殼牌倉庫」(シェル倉庫)という名前が一般的になりました。
シェルは建物の権利を譲ったのですが、土地の権利がどうなったのかは紹介されていません。
2005年、倉庫群を利用して施設淡水文化園區ができました。
       油タンクはすでにありませんが、倉庫・引込線などが見れます。

Tony的自然人文旅記  淡水文化園區となる前の荒れた倉庫の紹介です


[五] 機場ができる前
水上機場ができる前の鼻仔頭はどうだったか、ふと気になりました。
村の家を立ち退かせたという文章も見たのですが、Imbault-Huart地図では西洋人の屋敷があったと。
戦争中まで淡水に暮らしていた方は「黄東茂の豪邸があった」と書いておられるのですが、上記地図では西洋人です。
この探索が結構てまどりました。

http://danshuihistory.blogspot.jp/2009/08/bricks-of-danshui.html
   漁人碼頭的戰爭というHPで「淡水のレンガ」が紹介されており
   そこに、「黄東茂」の名前がでてきます。
      長老教会に使ったのと同じアモイ製のレンガを石油王「黄東茂」の屋敷にも使った。
      地図のヨーロッパ人とはJohn Dodd と Mackay博士の宣教師同僚
        (John Doddはスコットランド人で台湾茶の王と云われています)
        (Mackayはカナダ人宣教師で医療・教育にも貢献しています)

      黄東茂(別名 五舍あるいは五少爺)・許丙・洪以南の3人は淡水で裕福な現地人で
      ゴルフクラブに出入りを認められていた。

http://tamsui.yam.org.tw/hubest/hbst4/hube461.htm
   傳奇人物五舍大人與水筆仔的故事
             五舎は光緒2年にアモイで生まれ清末に淡水に移り、豪邸に暮らして1929年に亡くなった。
      1937年の暑いある日に筆者は中学1年の仲間数名と五舍公館の前で遊んでいた。
      広大な屋敷には花が溢れ、周りには古い樹木が天をつき、蝉や鳥が鳴き、桃源郷のようだった。
      台湾語で丘陵のことを「崙」というが、淡水第1公墓のあたりを「鼻頭崙」と呼んでいた。
      その先端が鼻頭村(俗称土卑仔頭)では半数が漁で暮らしていた。
      Imbault-Huart地図では鼻頭に屋敷が1軒"europenes malsons"あり
      これは英商寶順洋行の主John Doddの屋敷だった。
      半世紀前に筆者が見た屋敷が五舎だったのかDoddだったのかわからない。
      五舍の屋敷には、有網球場・苗地・大門・車庫・守衛房・汽艇庫・游泳池があった。
      1939年に淡水機場を建設するため、鼻頭村の一切の建造物は日本に買収され
      二、三十戸の村民は離村せざるを得ず、五舍大人の豪華公館も同様に永久消失した。

http://163.20.52.71/stu635/cwpspage/ta/grove/mangove.htm
  淡水鎮自遊行 紅樹生態
      水筆仔=紅樹=マングローブ
      淡水のマングローブ林の起源について4つの説がある。
      1)日本統治時代に呉・黄の2人が苗を植えた
      2)黄東茂が屋敷の汽艇庫・游泳池に高波が寄せないよう周りに植えた
      3)1632年にスペイン人が淡水を占領して、周りを調査したところマングローブ林があり
        漢人がその樹皮を買っていった。つまり以前から生えていた。
      4)1864年に英国領事館員が淡水・基隆一帯の植物標本を集めた中にマングローブがあり
        大英博物館のこの標本はもうすぐ返還される。
    文献調査すると、日本統治時代に淡水マングローブ林は絶滅したが
    後にシェル石油の代理商「五舍」黄東茂が植えた。
    これはウソ。 黄東茂は戦前に死亡している。

http://taiwanpedia.culture.tw/web/content?ID=26068
  台湾大百科全書 大稻土呈蓬莱閣
        黄東茂,光緒二年(1876年)生於廈門,排行第五,當時人稱他為「五舍」(五少爺)
        12歳時,光緒十四年(1888)二月間,渡海來台,設籍於台北大稻土呈
        後於日本大正二年五月間遷居淡水竿蓁林鼻頭村(今氣象聯隊所在地)
        時常往來台北、淡水兩地居住,因是英國殼牌石油公司代理商,而有石油大王之稱
        富甲一方,事業觸及交通、牧場等,經營「淡水興業輕鐵公司」更創建了淡水至小基隆舊庄(今三芝)間
        以及淡水至水碓子間的台車線
        1922年獨資創建了台灣最豪華的酒店「蓬莱閣」
        昭和四年(1929)七月七日卒於淡水。

http://www.918.org.tw/temple5/view.asp?id=5
  八庄大道公  黄東茂
  黄については「傳奇人物五舍大人」のまるっきりコピーです。
  その他いろいろな人物の紹介が詳しいです。

http://tamsui.wikia.com/wiki/%E6%97%A5%E6%B2%BB%E6%99%82%E6%9C%9F%E6%AD%B7%E4%BB%BB%E6%B7%A1%E6%B0%B4%E8%A1%97%E8%A1%97%E9%95%B7
  日治時期歴任淡水街街長一覧
        初代 洪以南 大正10〜13年(1921−1924)
              臺北廳參事、漢文學校學務委員、農會評議員
        二代 呉輔卿 大正14年(1925)
              滬尾國防局協?紳董、縣丞補、淡水臨時顧問紳董、滬尾街衞生組合總代、
              滬尾辨務署參事、臺灣總督府紳章、淡水國語傳習所學務委員、
              滬尾公學校學務委員、臺北廳參
        三代 雷俊臣 大正15〜昭和4年(1926−1929)
              煙草賣捌業、淡水公學校ヘ鞭、淡水街協議會員、淡水街評議員
        四代 多田榮吉 昭和5〜8年(1930−1933)
              淡水建築信用購買利用組合長、美術工藝品輸出貿易商、
              内臺海運業、商業合資會社社長、電信電機材料及諸官廳御用達、
              東京麥酒株式會社製品全島一手販賣、諸雜貨業及諸官廳用達商、
              帝國在郷軍人分會名譽會員、淡水生産販賣組合長、
              淡水副業利用販賣組合長、淡水築港期成同盟會委員長、
              淡水商工會會長、淡水漁業組合長、勸業港灣調査社會事業委員、
              臺北州水産會委員、淡水商工會顧問、
              國民精神總動員淡水郡支會參與、淡水街協議會員
              淡水に自宅が今も残され公開されています
        五代 鳥井勝治 昭和9〜12年(1934−1937)
              臺北地方法院雇、臺南地方法院書記、臺北地方法院高等法院書記、
              高雄州屬、總督府地方理事官、高雄州知事官房調停課長、
              交通運輸係長、臺南州知事官房調停課長、
              臺北州知事官房調停課長、巡査懲戒豫備委員
        六代 中原 昭和13〜15年(1938−1940)
              府屬、州理事官、市理事官助役、後里水利組合長、三峽庄長
        七代 小副川猛 昭和16〜20年(1941−1945)
              臺北廳森林主事、基隆市屬土木課庶務係長、
              臺北州屬文書課文書係長、同務書係長、總督府屬、
              官房秘書課恩係主任、總督府地方理事官、淡水街助役

書籍「Taiwan: a new history Murray」 A. Rubinstein
      1864年(江戸末)に英国商人John Doddは北台湾にやってきて、瞬く間に茶商として成功した。
      基隆から淡水にかけて生産していたが、1868年(明治元)に淡水で雇人2名(西洋人)が大勢の農夫に殺される事件が起こった。
      英国領事館の求めで英国砲艦1隻が派遣され、たまたま近くにいた米国砲艦とともに圧力をかけ
      結果、清が文書で陳謝することになった。(もっと大事だったかも)
            Doddが鼻頭崙に農地を持っていたらしいが、屋敷がどこだったかは記載なし


http://johndodd.pixnet.net/blog/post/12904975-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E9%97%9C%E9%8D%B5%E8%A9%9E%EF%BC%9A%E7%B4%84%E7%BF%B0%E3%83%BB%E9%99%B6%E5%BE%B7%EF%BC%88john-dodd%EF%BC%89%E5%9C%A8%E5%8F%B0%E7%B0%A1%E6%AD%B7
   福爾摩「茶」─陶コ、李春生與臺灣茶的故事
      人物關鍵詞:約翰・陶コ(John Dodd)在台簡歴
      John Doddは陶コ・杜コ・道約翰・コ約翰などいろいろな呼び方があある。馬偕は「道先生」と呼んでいた。
      1859年には香港におり、最初に訪台したのは1860年、さらに1864年に2度目の訪台では樟腦や茶葉の市場調査であった。
      製茶業を始めて寶順洋行を設立し、30年も台湾に住むことになる。
      茶葉産業以外の事業で顛地洋行(Dent & Co.)や怡和洋行(Jardine, Matheson & Co.)の代理店であった。
      客をよく歓待し、脚の怪我から杖をついており「三脚仔」の綽名がついた。
      馬偕博士が始めて台湾に来たとき、淡水にあった陶コの邸宅に泊めてもらった。
      そのとき陶コは難破船の船員を収容しており、馬偕は浴室で寝起きしていた。
      1872年4月8日の馬偕の日記に「「一位英國商人道約翰,他將他所剩下最好的給我,在「底下的舊房間」當中那是一間浴室,大約8呎平方,潮濕而且發露。 一艘縱帆船在李麻、醫生和我到達這裡的時候發生船難,船長和船員將所有的房間都占用了,所以當我回來時除了浴室以外沒有房間。我永遠不會忘記道約翰的好意。」


http://tnua-1884.blogspot.jp/2010/02/6_22.html
  清法戰爭台灣外記  約翰.陶コ(John Dodd)原著
     ●陶コ(John Dodd)
        英國蘇格蘭人,1859年即至香港發展,1860年首度訪台,後返英;
        スコットランド人                 一旦帰国
        1864年再度至港,身兼コ記洋行(Tait & Co.)香港負責人及怡和洋行(Jardine, Matheson & Co.)代理人,
        同年來台調査樟腦、茶葉市場,創「寶順洋行」(Dodd & Co.),兼任顛地洋行(Dent & Co.),
        1867年顛地行倒閉,該年5月起任怡和行駐淡水代理人。
        1866年(同治五年),由福建安溪引進烏龍茶苗;
        1867年試銷台茶(老茶)到澳門,受到市場歡迎。同年在舟孟舟甲設茶工廠,為台灣精製茶之濫觴。
        1866年聘李春生為買?,
        1867年透過李春生在舟孟舟甲租得一屋準備作為洋行行館,但一直遭官方、角頭?難,
        1868年發生該行2位洋員被暴民攻?、受重傷事件而作罷;同年將台茶直接運到美國檢驗並試銷。
        1869年乃設寶順於大稻?,仍保留淡水、基隆行館,?在廈門、上海也設有分行;
        同年用兩艘可能租自怡和洋行的大型帆船,運載20萬3千磅(合2131擔)的精製茶(安溪茶種)試銷紐約,
        品質極佳,備受歡迎,遂引起其他洋行、台人競相投入,開?大稻?的茶香?月,
        造就李春生之類買?與媽振館(Merchant)的興起,也使大稻?成了洋行集中地。台茶成了外銷大宗。
        陶コ在台前後27年(1864〜1890),綽號「三?仔」,曾因故受傷、
        而?拐杖―林佑藻(連環頭)之子林凌霜於1953年9月一項座談會透露,陶コ因受傷、跛?;
        英駐淡水領事費理コ亦有同樣的記載。據《馬偕博士日記》記載,
        陶コ於1890年3月3日離台返英,無資料顯示之後是否曾再來台。
          Doddは1890にイギリスに帰国しその後来台したかどうか記録はない
        根據日治初期資料,寶順洋行於1895年初仍存在,1896年陶コ已不在洋商名單中。
          寶順洋行は1895まで存続していたが1896には洋行リストにDoddの名前はない。


http://tamsui.wikia.com/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%95%E6%88%B0%E7%88%AD%E6%BB%AC%E5%B0%BE%E4%B9%8B%E5%BD%B9%E6%88%B0%E7%88%AD%E9%81%BA%E8%B7%A1
  清法戰爭滬尾之役戰爭遺跡


http://dns2.tksh.ntpc.edu.tw/historyhouse/p-6-b-16.htm
  淡江中学校史館  砲台埔頂用紅磚仔拱的番仔樓
        1906年淡水にはレンガ造の洋館は3棟あった。
           紅毛城内の領事官邸
           崎仔頂老街の達觀樓(紅樓)(洪以南の屋敷を指す)
           鼻仔頭の黄東茂公館    (並ぶほど屋敷は立派だったということ)


http://www.guoxue123.com/tw/02/089/006.htm
  臺灣遊記   中国国内のHPですが、昔の台湾で出版された日記がありました。
        徳富猪一郎(徳富蘇峰)著「台湾遊記」を繁体字中国語訳したもの 1929年
        4月3日 大阪商船の新高丸で○○を出航、福州経由で台湾へ
        16日まで台湾各地(台北・台中・嘉義・台南・高雄)を調査旅行
            休日に淡水へ
        由此至竿■〈竹上秦下〉林(士名鼻仔頭),有洋式房屋,景色極佳。地瀕海,宜於商業。
        該處洋房系三十年前某西人為貿易而設,今則歸黄東茂君所有。
        到門,晤黄君,頗善英語,原籍系廣東,今則入淡水籍矣。
        黄君承林薇閣君之屬,為余等預備晝食,再辭不獲;東道情殷,深足感謝。
        午餐畢,因?赴汽車,匆匆告別,路過竿■〈竹上秦下>
      屋敷はもともと某西洋人が30年前に建てたものを黄が入手したと。
      筆者は黄東茂の屋敷を訪れ、歓談したとある。
      1928年、つまり死ぬ直前まで黄東茂は屋敷に住んでいたと考えられる。


http://www.libertytimes.com.tw/2009/new/aug/25/today-so13.htm
  豪門父子鬥 夫冒妻名 誣兒奪産
        黄東茂の曾孫(自称)がやらかしたトンデモ事件


ここからは私の推測です(特に米国領事館がらみの内容は)
   もともと鼻仔頭には小さな村があった。
   貿易商Cassは西側河べりに桟橋と倉庫を建てたが(住んではいない)
   シェル(ライジングサン)に売りどこかへ消えた。
   シェルは第2次大戦まではそこを石油販売の拠点としていたが、開戦と同時に接収されてしまう。
   またスコットランド人John Doddは黄東茂よりも早くから茶葉生産輸出で財をなし、鼻仔頭にも茶園を持っていた。
   茶園だけでなく屋敷もあったかどうかは定かではない。
   米国領事館は1880年(明治13)頃に鼻仔頭に建設されたが1899年(明治32)には閉鎖していた。
   1895年(明治28)に台湾が割譲された後も黄とDoddの2人は淡水では裕福な商人として認められていた。
   Doddは1890年には帰国し戻ることはなかった。(日本治世下ではやっていけないと判断したか)
   1913年(大正2)に黄は旧米国領事館跡地に自分の屋敷を建て、亡くなる1929年(昭和4)まで住み続ける。
   総督府の計画で立ち退いたのは1939年(昭和14)頃で、そのとき屋敷には黄家の誰かが住んでいたのでしょう。
   ですが、立ち退きさせられた黄一族は、その後没落してしまったようです。


[六] 論文資料
雲林科技大学の張志源・邸上嘉の論文「西元1937-1945年台湾淡水水上機場の研究」より
   清朝末に淡水が開港した頃、この土地は怡和洋行のものであり
   後に美利士メリス洋行と寶順洋行が怡和洋行の代理をするようになった。
   1884年11月に范嘉士が購入した。
   1897年11月に殼牌運輸貿易公司が手に入れたが東半分は日本統治末期にようやく開発されることになる。
   1937年に総督府航空局はこの土地に水上機基地を設ける計画をした。
   その数年前から民間で淡水水上機場の議論がすでにあった。
   1931年、台湾時報で根津熊次郎は具体的に提案している。
   1935年には大谷光瑞は帛琉島(パラオ)と日本との中間基地の必要性を認めた。
   当時パラオは日本領の西端で軍事的に重要であった。
   1925年(大正14)9月19日にイタリア水上機(複葉単発)は淡水に飛来し大歓迎を受けた。
          このイタリア人については別の項で紹介します。(第101話)
   1931年8月5日イギリス機(複葉単発)がバシー海峡を渡り台湾を縦断して淡水に故障着水した。
   1931年8月水上機と陸上機の郵便試験飛行を大日本航空が行った。
   1931年10月5日大日本航空の連絡水上機ドルニエが福岡ー淡水線を始めて飛んだ。
     福岡ー久留米ー鹿児島ー口永良部ー沖縄(給油)ー石垣ー淡水 の総計1600km
     にも及ぶ。
淡水水上機場は日本から東南アジア・ポリネシアへのゲートウェイとして開設されたのですが
運悪く第2次大戦が始まってしまい、商業飛行はごく短期間で終わってしまった。
最後に軍用機以外が淡水に飛来したのは、皮肉にも戦争直後にGHQの命令により
日本で印刷した台湾紙幣を大日本航空が97式飛行艇で緊急に送り込む「緑十字飛行」であった。
このときの操縦士の回想はネット上で見ることができます。

2013/4/15追記  水上機場の建設で鼻仔頭はどう変わったか
   李乾朗2003の著作から淡水地図1934年の鼻仔頭付近の詳細図があります。
   
   鼻頭崙の西半分には迺生産洋行(ライジングサン)の倉庫数棟とタンク2基があり、淡水線からの引込線も見えます。
   数棟の邸を挟んで西半分に塀に囲まれた広い屋敷が見え、これが黄東茂の邸宅です。
   (2つの間の屋敷のうち桟橋のあるほうがJohn Doddの屋敷だったのではと推測しますが、不明です。)
   1937年に総督府航空局は全台湾に設ける7箇所の民間飛行場の内の1つとして淡水が選定されました。
      台北(松山)・淡水・台中・宣蘭・台東・台南2ヵ所
   機場建設のため鼻頭崙の土地建物は買収され、約20戸の全村民は離村して整地された。
   整地後完成したのは1940ないし1941年で、当時は淡水飛行場と呼ばれた。
   台湾で2番目の国際機場(1番は松山)であり、唯一の民間水上機場(東港は軍用)であった。


台湾師範大学の曽令毅の論文「航空南進と太平洋戦争 淡水水上機場の設立と発展」より
   この論文は1920年代からの国際航空路発達・日本の航空南進・さらに戦争の航空路への影響を調べたものです。
   淡水機場の占める地位やパラオ航路とか終戦直後の「緑十字飛行」など
   知らなかったことがたくさん書かれています。
   さらには、イタリア人飛行士のことも。



近代淡水聚落的空間構成與變遷--從五口通商到日治時期
国立成功大学建築研究所 莊家維
http://etds.lib.ncku.edu.tw/etdservice/view_metadata?etdun=U0026-0812200911414794
古い淡水を知るには重要な碩士論文です。
五口通商とは清が外国貿易のため開港した五港(厦門・上海・寧波・福州・広州)を指すもので、1843年の英米仏との条約によります。
なので論文タイトルは「清末から日本統治期までの淡水の変遷」ということになります。
3国は商社を尖兵に利権獲得に走っていた時期で、当然淡水にも商社が進出しています。(○○洋行と云う)
上海に進出していた英系ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)を始めとして論文には多数の名前が載っており
中には現在も淡水にある会社も(徳記洋行Tait Co.)。
Jardine Mathesonは現在は香港を本拠とする巨大企業グループに発展しており、大変興味深いのですが、いつか...
   長崎にあったグラバー商会はJardine Mathesonの代理店


日治時期臺灣「外國人雜居地」之空間研究
中原大學建築學系 黄信頼 碩士論文
淡水だけでなく台湾各地にあった外国人居住区についての研究です。
他の論文にない写真が多数あります。


淡水英國領事館官邸設計風格之研究=The Study on the Design Style of the Former British Consular Residence in Tanshui Pudin, Taiwan
張志源 ; 邱上嘉
読んでいません

臺灣淡水鼻仔頭殼牌倉庫歴史與空間變遷研究=A Study on History and Special Transformation of Shell Transport and Trading Company in Tamsui Pi-A-Tou
張志源 ; 邱上嘉
読んでいません


http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter6/pdf/n6_s6_2.pdf
アメリカ議会図書館所蔵の日本軍将校により1880年代の外邦測量原図
山近久美子・渡辺理絵
この論文からすると上記小澤地図はスパイ活動の成果だった。(ただし測量などできたはずもなく、旅行図としている)



[七] 淡水文化基金会
http://www.tamsui.org.tw/



[八] 小倉地図に出る人物
地図に出てくる「小椋元吉」を検索すると思わぬ事件と関係がありました。
ですが    「小倉寛一」にはついにたどり着きませんでした。
http://d.hatena.ne.jp/yashimaru/20090405/p1
軍艦比叡土耳古国航海報告
明治23年9月16日に紀伊大島近海でトルコ(オスマン帝国)海軍のエルトゥール号が遭難沈没した。
乗員620名中の生存者69名を軍艦比叡・金剛でトルコまで送還した。
            (先代の艦です)
小椋元吉は比叡の航海長で大尉。送還航海は明治23年10月から24年であった。
が、そのような経歴にもかかわらず帰国後5年たってもなお大尉のままだったのはなぜか?
1904年(明治37)日露戦争中に輸送船佐渡丸で運送船監督官をしており後備役海軍少佐だった。
海軍では現役を退くと予備役に編入され、それも4年で後備役という役にまわされる。
従って、小椋は明治33年には退役していたはず。それでも大尉で10年以上も在籍していたことになり
かなり深い理由があったものと考えてよい。
上司を上司と思わない「ヘンクツ」だったとか.....
従って、小倉寛一大尉が彼を尊敬していたとしてもかなり個人的に親しかったのではと推測できそうです。
残念なのは、小倉大尉がどのような人物なのか、まったく掴めないことです。
ひょっとすると、明治28年の征湾報告書に出てくるかも知れません。(残念ながら出てきませんでした)


[九] 淡水の住宅地図
昭和11年発行 中国商工地図集成 (柏書房が1998に復刻)
赤文字を追記しました。

莊家維の論文に地図の引用があり、ネットでは見つからないものの、図書館にありました。
淡水の会社が地図に示されています。(個人宅は記載なし)
さらに別紙で職業別電話帳も。(もちろん掲載費を払った店だけですが)
   ジーッと眺めているといろいろなことに気が付きます。住宅地図は宝の山(笑)
   上端に「淡水海浴場」 海の家が3軒も並び、結構にぎわったのでしょう。
              某HPで台北からの海水浴列車があり割引切符もあったと。
   そのすぐ下に「ゴルフリング」 さすがに戦時中だと畑にでもしたのでしょうか。この時代は金持ちならOKだった。
   その左側に街長宅がありますが、昭和11年だと街長は多田栄吉の次の鳥井勝治です。
     ところが記載の場所は多田の家。よっぽど多田の印象が記憶に残ったのでしょう。
   中央の長老教会の下に「広瀬資生堂」 あの資生堂の化粧品を売っていたのでしょう。
                       資生堂は明治時代からありました。
   そのすぐ下に「十全病院」  日本各地に○○会十全病院というのが沢山ありますが無関係。
   その向かい側に「洪成枝」  淡水弁務署(警察)事務嘱託をしていた。
   その隣「酒類大蔵」     実は蔵ではなく山冠に戚という漢字です。
      電話番号が何と24番。4000番台もあったので、台北でも一番早くからあった電話です。
      なぜ淡水の酒屋が?
      ついでながら、電話番号の若いものを列挙すると(★は淡水を示す)
 日本食料工業 台湾支店84・85
★乗合自動車  三和商事19・106
★材木     老義発54
★材木     施合発30・126
 台湾製○47
★ミシン    南国公司114
★酒類大蔵24
 台湾料理   蓬莱園62・749
 旅館     摂津館90・275
★煙草     雷俊臣13
★レコード   朝日屋111
★淡江信用組合農倉部66・117
★淡水信用組合52
 北投信用組合141
 材木     胡漆登商行138
 湯守観音 鉄真院149
★台湾銀行   淡水支店6・50
 帝国生命    台北支店95
     それだけ淡水は早くから開けていたことがわかります。
     いろいろオモシロソーな店がある中で、1つあげるとすると
         下のほうに「ホタル食堂」  鹿児島知覧の「ホタル館富屋食堂」とは関係ないのですが
                       この時代になぜそんな名前を?


http://www2.tku.edu.tw/~tahx/ts-01/
[拾] 淡水学研究専区
   淡江大学HPの中にあります。
   台湾文献史料の一覧(淡水関係の総督府公文書の一覧があります)


http://army.chlin.com.tw/BBS/viewthread.php?tid=4376&extra=page%3D25
[拾一] 退役軍人のフォーラムより
   後備軍友倶楽部> 軍事新聞>對淡水河防防務調整觀感
扁時代大打「反斬首」戰術牌,調動海軍陸戰隊66旅進駐林口地區擔任中樞衛戌部隊,接手淡水河口兩岸防務,大批LVT、AAV-7兩棲登陸車進駐淡水沙崙一帶部署。後備司令部在當地以「忠莊計畫」為名,興建教召基地即將完工,外界發現原本隱藏在基地?的LVT保養場消失了,才知陸戰隊已悄悄撤離,防區交還陸軍。
位於淡水漁人碼頭旁的忠莊計畫,是行政院研考會列管施政計畫,預算為9.6億元,除興建三棟新穎的四層樓兵舍、三層樓動員庫房與聯合餐廳外,還要興建海軍陸戰隊連級LVT與AAV-7保養廠。
軍方透露,因應陸戰隊兩棲登陸車撤離淡水河口,全案緊急變更設計,預算縮減為5億9000餘萬元。
海軍將領透露,海軍陸戰隊在扁執政時代取代陸軍關渡指揮部,接手淡水河口防務。將AAV7與LVT部署淡水油車口和漁人碼頭?,主要是為?況發生時,自淡水泛水直奔對岸八里的台北港,維護港區暢通。但因防務思維改變,改還陸軍接手,陸戰隊進駐時間根本不到兩年。
駐防隨著政權更迭 立委質疑浪費資源
國民黨立委林郁方批評,台海防衛作戰想定與戰術須有一致性,才能精確規畫未來十年建軍備戰工作準備,不能因為政權更迭,換人執政,就出現新的戰術與想定,容易造成浪費。
【2010/10/16 聯合晩報】


http://www.takaoclub.com/Tamsui/cemetery.htm
[拾二] 淡水外人墓地
小倉大尉の地図で淡水機場の位置になにやら建物があるのですが、文字が読み取り難く
どうやら「旧米国領事館」らしく、ネットで検索して最初に見つかったのがこのサイトです。
機場とも米国領事館とも関係ないのですが、淡水外人墓地の詳細を示す貴重な資料ですのでここに紹介しておきます。



[拾三] 淡水美国領事館
米国領事館を探していて、次のような文章が目に留まりました。
    アメリカ領事館は1898年新聞記者ダビッドソンを初代領事として台北に設置した
    (それ以前は厦門領事館が台湾を管轄)

ここで現れたダビッドソン領事の名前を Davidsonと推測して検索すると、確かにいました。J.W.Davidsonです。
http://politicalgraveyard.com/geo/ZZ/TW-consuls.html
     Wilfred Christy (Consular Agent 1884)
     James H. Davidson (Consular Agent 1897)
     James W. Davidson (Consul 1898-1902)
     A. Norris Wilkinson (Vice Consul 1902)
     Fred D. Fisher (Consul 1904-06)
     Alexander C. Lambert (Vice Consul 1905)
     Julean H. Arnold (Consul 1906-08)
     Carl F. Deichman (Consul 1908-09)
     Samuel C. Reat (Consul 1909-11)
     Francis William O'Connor (Vice & Deputy Consul 1910-11)
     Adolph A. Williamson (Consul 1914)
     Edwin L. Neville (Consul 1914-16)
J.W.Davidsonが1903年に出版した「The Island of Formosa, past and present」があります。
http://ia600200.us.archive.org/7/items/islandofformosap00davi/islandofformosap00davi.pdf
いつか内容を紹介できればよいのですが、大冊なのでモノグサな僕には望み薄。


台北にあった米国大使館は史跡として残されていますが、淡水の領事館は存在すら抹殺されています。
米中国交のため米国政府が、なかったこと、にするのは推測がつくのですが
ネット上でこうも資料が見つからないというはどうしたことでしょうか?




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