肺病物語り

肺病の生き残り

私は肺病患者の生き残りだ。
昭和25年当時新しい外科手術が流行って私も国立福島療養所で是を受けた。これは病巣のある肺を合成樹脂の球で圧迫して結核菌の活動を封じ込めるプロンベとかの手術だ。
元々私の病巣は小さくて手術をしなくても良かったらしいが、職場復帰の焦りからピンポン球のような物、大小20数個で左肺を圧縮して貰った。
これと後で述べるストマイのお蔭で半年後職場に復帰した。
12年経って心臓の鼓動時にザックザックと言う不快な音がするようになった。階段を登ると頭がスウ−として酔ったようにもなった。
経験者の話しを聞くとどうやら化膿したらしい。

私は病気の先輩と相談して、当時結核治療のメッカと謂われた清瀬にある国立療養所東京病院の診察を受けた。
有名な小野先生は「未だこんな球を持っているのか、あなたは生き残りだ、直ぐ取らなくては」と球抜手術することになった。
流石、東京療養所だ万事流れ作業で一日に何人も手術をした。
術後、小野先生が「肺はボ−ル紙のように潰されていたが中に結核菌は残っていた、やはり上葉も切除して良かった」と教えてくれた。
夥しい膿が出たそうで、摘出した球を5個程ガ−ゼに包んで返してくれた。この中空の球になんと水分が溜まっていた。
当時最高の合成樹脂で水も何も絶対に通さないと言う事だったが、やはり浸透していた。
私はこれを見て、絶対に水を通さない等と言う物質は無いと思うようになった。
原子力関係でも絶対安全な物質は無いと思う。

手術後痰が喉に詰まって死ぬ目にあったことがある。
手術をすると肺に残った血液等が大きな塊りとなって出るから、看護婦付き添いで吐き出すように術前に指導されていた。
痰の気配を感じたので軽くケホケホとやったら、なんと是が喉にピタッと詰まってしまった。
看護婦を呼ぶ事も出来ず、もがいていたら看護婦が飛んできて私のアバラを折れる程押した。
流石看護婦だ、ペロッと大きな血の塊が出てきた。見せてと言ったらこんなもの見るもんじゃ無いよと処分してしまった。山形出身の看護婦さんだった。
同じ集中監視室で、やはり痰が詰まって鶏が締められるような声を出していた女患は、飛んで来た医者に喉を切り開かれて助かった。
私はこの後順調に回復してやはり半年後に職場復帰出来た。その後再発する事も無く82歳の今日まで生き残っている。
今、病友の住所録を見ると殆どの人が死亡している。それ程肺結核に罹って生き残るのは難しかったのだ。

怖い自然気胸

国立福島療養所での有る患者は人工気胸術の成績が良くてレントゲンに写る肺は握り拳大に圧縮されていた。
気胸術と言うのは肺と肋膜の間に空気を入れ肺を圧縮して結核菌への酸素供給を止めるのが目的らしい。
然し、この模範的な患者は結局死んでしまった。角を矯めて牛を殺すことになったのかも知れない。

また自然気胸になって悶え苦しんでいるのを見たことがある。凄絶というか七転八倒そのものだった。
自然気胸は肺が破れ洩れた空気が肋膜の下に入り込んで肺が圧縮されて呼吸困難になることとか。
看護婦が取り押さえている患者の肋骨は大波のように波打って、駆けつけたど近眼の先生もなかなか気胸針を刺せなかった。やっとのことで肋骨の間に太い気胸針を刺して空気を抜き取ると落ち着いた。
一度この自然気胸になると再発を心配して夜も眠れなくなるそうだ。
その苦しみを利用して、特高警察が思想犯の拷問に使ったとか、恐ろしいことだ。
このような患者は日曜日を最も恐れる。勤務する医者が少なくて直ぐ駆けつけて呉れないだろうとの心配だ。
私も先に述べたピンポン球を入れた術後に、時々胸に熱湯を注がれるような激痛に襲われたことがある。
医師が駆けつけて来るまでにたっぷりと苦しむことになる。
当時、キリスト関係の黒い布を被ったシスタ−が患者の見舞いに来ることがあった。
そして、「今晩は痛くならないように祈って上げますよ」と慰めて呉れる。
当時どちらかと言えば唯物論者だった私も、この言葉の為にその晩は安眠することが出来た。
正に宗教は阿片なり、そのものを体験した。
医師が何時も脇にいてくれれば安心だが、次に役立つのがこの宗教かも知れない。

奇蹟のストレプトマイシン

当時日本にはストマイは無くて、物凄く高価だった。
伝を求めてアメリカから送って貰う人もいた。
これが実に良く効いて、回復する患者が多くなった。
私の親しい友人は粟粒結核とかで、レントゲン写真には泡粒のような影が全面にあった。
粟粒結核にはストマイが良く効くと言うが、大工の親はストマイを買う金が無かった。
呼吸が苦しくて、ピストルが欲しいと訴えていたがとうとう他界した。
有る村で耳の遠いおばさんに合った。ストマイ聾だと言っていた。
副作用の為だったが死ぬよりは増しと割り切っていた。
その内に、福島療養所にストマイの割り当てが有るようになって私も適応者に選ばれて打って貰った。
これが効いて職場復帰が出来たのかもしれない。

喀 血

私は喀血している現場を二度見た。
福島療養所は学校の教室見たいで廊下から大部屋が覗けた。
ある時看護婦が支えている洗面器に半分以上の喀血をしている患者を見た。
その後その患者はどうなったか記憶に無いが、突然の喀血に今の癌告知以上のショックを受けたと思う。
当時結核と告知されるのは、必ず死ぬと言うことだった。
もう一度は、中国から復員して7日目に弟が喀血した洗面器に顔を突っ込んでこと切れた。
野戦で沢山の死傷者に慣れていた私も只うろたえるだけで、却って母の方が気丈に手当てをしていた。
血で染まった弟の顔は道化師のように見えた。前に一度大喀血をしたそうだが毎日どんな気持ちで過ごしていたのか不憫でならない。
これが私の復員をひたすら待って居た弟の最後だった。

アツツ島で玉砕した先輩

職場にいつも酷く咳込む先輩がいた。電話中に咳き込んで私に代わらせることも有った。
たまたま募集していたエンジン関係の軍属を志願して北の方に行って、アツツ島で兵と一緒に玉砕した。
先輩は結核でじりじり死ぬのを嫌って従軍を選んだと言う皆の噂だった。
その後で私も召集を受けたが死なないで復員した。


優雅だった療養所。

昔の福島療養所は優雅だった。サナトリゥムと謂われるだけあって万事余裕があった。
朝、看護主任が各病室を回って一人一人に「お変わり無いですか」と尋ねる。この時にいろんな事を充分に訴える事が出来た。たまに来る先生よりも日常頼りにしていた。
広い病院の敷地内には回復期患者の歩行練習をするコ−スが有って、看護婦と一緒に歩いている患者もいた。
夕方勤務の終った看護婦さんと池の周りの赤松林や、小高い丘のベンチで語り合う患者もいた。
女患と男患の大部屋があって自由時間には、行き来して遊ぶことも出来た。
冬には湯たんぽをベットに入れてくれたし、夏には蚊帳も釣ってくれた。
元気な患者は池で釣りをすることも出来た。
軒下で煮炊きする人もいて、七輪をパタパタあおいでいた。

寂しい霊安室

福島療養所には広い林が有って、低い窪地に目立たなく、ひっそりと霊安室があった。
怖いもの見たさで散歩の時覗いたら、粗末な祭壇に造花が転がっていた。
隣の部屋にはコンクリ-トの解剖台がぽつんと有って木の葉が乗っていた。
霊安室まで亡くなった友を見送ったことがある。
林の中を看護婦の担架で運ばれた友は霊安室で棺に入れられた。皆で脇に転がっている小石でクギを打った。
小石は手の油で黒くなっていた。僧の読経も無く、2〜3人の遺族と人足の曳くリヤカ-に乗せられて林の坂道を下って行った。
落ち葉の積もった小径にはリヤカ-の轍が深くなっていて、死者の通りが少なく無いようだった。

病気は人を変える

東京療養所の私の隣のベットのおじさんは囲碁が好きでいつも碁の本を読んでいた。
温厚で相当、学のある人だった。私も手術後で退屈だったのでボ−ル紙で碁盤を作って二人で勝負を楽しんだ。
勝ったり負けたりだったが、彼は負けると熱を出すので自然とやらなくなった。
また碁に熱中したのが祟ったのか、病状がだんだん悪くなって個室に移された。
その内に面会も出来なくなった。戸の外から窺うと何か喚いていて器物を投げたりしている様子だった。
付き添いの奥さんの話しによると、お膳を払い除けたりして人が変わってしまったと途方にくれていた。
身体が苦しくなると、あの様な温厚な人でも気違いのように暴れるのかも知れない。
私も絶望の時や、酷い苦しみの中でじっとして死を迎える自信は無い。
  (2004.1.29)