弘法山西国三十三観音めぐり  平成20年5月4日作成 

弘法山は面白い岩屋堂に安置されていた初代の弘法大師像
 弘法山は今から1200年前の弘仁年間(平安時代初期)に創立された麓の前山寺の奥院で、この山に弘法大師が独鈷(坊さんが仏前で使う道具)を埋めたことにより独鈷山(独股山)前山寺とよばれました。
昔は弘法山が独鈷山であり今の独鈷山はミネコヤ岳とか峨峨たる山と呼ばれていたようで、いかなる経緯で現在に至ったのかは定かでありません。
鎌倉時代になって北条義政が塩田の里に封ぜられてより信州の鎌倉として当時の中央の文明・文化が花開く事になるのですが、北条義政・国時親子は弘法山の北面の麓から頂の砦まで壮大な塩田城を築くことになります、後の鎌倉滅亡の後村上・武田・真田氏と変わり廃城となり消えてゆきます。
弘法山の登山は神戸(ごうど)川右岸を登り北条国時の墓より右を急登して尾根に出る、途中で右にトラバースすると35段の垂直に立つ岩を削った石段の下に出ます、こんな仕掛けが自然に出来る訳がなく塩田城の跡を利用したものと思います、此処から山頂まで約20分のコースはスリルとサスペンスを集約しており、石段を登り切ると岩穴を抜け岩山を這い登り「ブッタの眼」と言われる身体がかろうじて入る岩穴を二つ抜ける、岩の裂け目を通って奥の院まで、広場の下に岩屋堂があり登り切ると山頂と思われます。
又この地は聖地で道々に弘法山西国巡りの33体の観音が自然岩石の風穴に安置され全部目にするには何回も通わないと出来ません、現在のものは石仏ですが江戸時代に安置されたものは木像に金箔を貼った立派なもので明治になって回収した時は15体しかなかったそうです、近年になって前山寺の宝物より「信州小県郡前山寺奥院独股山図」の版木が出てきて当時歩いた道がはっきりしてきました、順次紹介してゆきます。
弘法山に登る  04−5−22
前山寺駐車場   9:40    前山寺の参道を抜けて右の林道に出る、左に境内の弘法大師像と後ろにあるナンジャモンジャ(ひとつばたご)が咲いている所を右に下り神戸川を渡る。
塩田城跡標識・水場   9:50
北条国時の墓      10:07   杉の植林地になっている塩田城遺跡の中を行くが虎口を通り国時の墓に出る、右に大きく曲がり急登して尾根道に乗る
自然石の石段   10:30   やせ尾根をしばらく歩きケヤキの大木を過ぎると登る道と右の巻き道と分かれる、巻き道を行くと垂直に近い石段に出る、これより弘法大師の修業コースで弘法山登山の面白さが集中している所です。
垂直に近い35段の石段をザイルをフィックス(現在はロープが常設されている)して安全に登る、石段が終わると石門を這って潜り抜け左に回り込むと大きな岩があり足場を選んでバランスクライミングの岩登り、次にお尻がやっと入る丸い穴を二つ抜ける、身体を横にしてやっと通れる岩の裂け目を抜けると朽ち果てた小屋に出る、奥社は広場の下側に鍵の掛った岩屋堂があり弘法大師が安置されている、少し登ったピークが山頂らしい。
08−5−2現在、北条国時の墓より上は倒木で荒れています、他は登山者も増加して道も各所で整備され全体では歩きやすくなりました。

登山口に立つ塩田城の案内図 北条国時の墓石 垂直に近い石段を登る
石段を登って這って潜る岩穴 ブッタの眼、お尻がやっと入る人もいる 山頂近くの石灯籠
山頂広場には朽ちた休憩所が有る やっと通れる峡間 不気味な独鈷山の東尾根
山頂より塩田平を見る 神戸川林道の順路の登山口 前山寺より弘法山


弘法山山頂   11:15   12:20   これより林の中を東に降って行く大きな岩があると岩穴に石の仏像が鎮座していて番号が付いている、信仰登山の盛んな昔に安置された西国33番札所の像を巡礼する事により現地に行かなくとも御利益にあずかれると言うもので降るに従って番号が小さくなるので順路ではないようです。
神戸川の仮橋   13:13
林道登山口標識   14:00   降って行くと前山寺に出ます。
前山寺の歴史
 前山寺のある塩田平は「信州の鎌倉」と言われ鎌倉時代に北条義政が此の地に居住した時から当時の中央の文化や文明・技術が投入され時間をかけて一大文化圏が形成されていった、その有形・無形の文化財は本家鎌倉をしのぐものが有ると言われています。
前山寺の創立は平安初期とも言われますが宗派は弘法大師空海の真言宗で伝教大師最澄と共に日本の仏教の現在の礎を造ったのは鎌倉時代で塩田城の祈願寺であったり、筑摩・埴科・小県郡の真言宗の筆頭として38世まで脈々と続いています。
拝観者で賑わう前山寺も重要文化財の三間四面の三重の塔は未完成の完成塔として有名ですが、なぜ未完かと言えば一層は完成しているが二・三層は窓や欄干が付いていないので出来上がっていないのですが一説には塔は人の住む物ではなく装飾物なので歩けなくてもいいと言われています、塔の横にある明王堂には西国33番の金箔の仏像の一部が保管されています、花では桜・藤・ツツジ・モクゲンジ・ボタンがよく知られていて弘法大師像の後ろにはナンジャモンジャ(ひとつばたご)が有り毎年5月に花が咲きます、虚空蔵山や塩尻小学校のナンジャモンジャはフジキです、又「くるみおはぎ」が有名だが有料です一度は庫裡に上がって食べてみるのも一興です。
前山寺の裏山には弘法山が有ります、前山寺の奥の院として独鈷山岩屋堂が有ります、この像の本尊は弘法大師で平安朝の頃より護摩修業の霊場で独鈷を持って加持をしたところ水が湧き出し絶える事が無かったのでこの山を独鈷山と呼ぶようになった、何時の日にか弘法山と呼ばれるようになった。
塩田城
上田市は千曲川の二分される、その左岸地帯は塩田平と呼ばれ此の地方の穀倉地帯です。
信州の鎌倉としても有名で鎌倉幕府の重臣の北条義政が統括地に居を構え義政・国時・俊時の三代・60余年にわたり活躍された事より始ります。
鎌倉時代の北条氏の系図
 源 頼朝が妻政子の縁で北条の手を借りて鎌倉幕府を開くが三代実朝が鶴ヶ丘八幡宮で暗殺される、頼朝の妻政子は父北条時政と執権制度を作って幕府を運営しました、直系の長子の列は執権を踏襲しているが上田北条の義政の父重時はD代時頼まで連署(実質上の施政者)として活躍します、この重時の系列は人材が秀でていて鎌倉幕府を支えます、義政もG代時宗の連署として蒙古襲来の大難に遭遇しますが神風(台風)に助けられ、再襲来の備えをした後突然に信州上田庄に出家隠遁してしまいます。
前代未聞の此の行動は病とか失政があったとか噂されましたが実際はかねてより出家を希望していて、この期を逃さず飛び出してしまった様で時宗も遺留するが翻意出来なかったと言います、塩田北条は60年後の鎌倉幕府滅亡の期には一族を挙げて鎌倉にはせ参じて宗家に殉じました、
塩田の平井寺トンネルの左、富士嶽山登山道に奈良尾の石像多重塔があり、此れは蒙古襲来の戦勝祈願と供養のために弘安8年にたてられた物と書いてありました。
ここでは話が反れますが史実を抜きにして私見ですが以前から疑問で、どうしても気になる事が有ります鎌倉文化が投入される以前の塩田庄をなぜ隠遁地に選んだのか、私見は義政の行動は計画的で確信のあるものであり鎌倉と人生を託す物だったのではないか。
信心の厚かった義政が長野善光寺に滞在するが、それより前にD代時頼が鎌倉五山第一の名刹「建長寺」を竣工する、名僧「道隆」が開山となるが当時の道隆の文書に、別所「安楽寺」開山した名僧「惟遷」の名が出てくる、2007年には別所温泉常楽寺の半田孝淳大僧正が天台宗最高位の座主に就任したように信州は名僧の排出で有名だが安楽寺以前にも学問を志す者は塩田の里に集まったと言います。
源 頼朝は鎌倉幕府を開くと守護・地頭制度を作り中央政権を強めて行くが塩田庄には守護人として比企能員(頼朝の乳母の一族)を地頭として惟宗忠久(後の薩摩島津の祖)と信頼の厚い側近で固めたのには当時は重要な地であったと思われます、又古代より信濃国府や国分寺がおかれたのは単に交通の便からも重要な地点だけが理由だったのでしょうか。
義政のとった行動も北条の執権政治が始まると信濃の地は北条の中心人物重時が治めてより4代に亘って信濃守護が続いたぐらい愛着の地となっていたので義政が隠遁したのはそんな地だったのです、重時の長子系で長時は早死、その子義宗は若年で三男義政が後見するしかなかったのです、義政として思うに北条の執権政治もやがて弱体化する時が来る、これを支えるには中央に居ては駄目だと悟っていた、最良の地を塩田庄に選んだのはうなずけます、それは義政の後の国時も俊時も中央では常に権威と格式ある名門として重職に任命されていました。
本題の塩田城ですが信濃の守護所となり鎌倉幕府が武士の守り仏として禅宗を重用するが建長寺も安楽寺も禅宗の古刹として栄える、義政も信心厚く信州の鎌倉として発展してゆきます、鎌倉幕府最後の戦いでは鎌倉にはせ参じて一族共に自害して塩田北条60年は終わります。
室町時代では村上氏が領有して村上義清の時代で武田信玄に渡り真田昌幸を経て江戸時代に廃城となりました。
弘法山西国三十三観音
 日本に仏教が伝道して以来、周期的に信仰が盛んになったり衰弱期が有ります、江戸時代後期にも観音信仰が盛んになり行き交う人も多くなりました、しかし寺々を巡り歩くには財と時間が掛りました、これを解消したのが道々にとか山に、お堂など一か所に西国三十三ヶ所観音や坂東三十三ヶl所観音、秩父三十四ヶ所観音を集めて此れを参拝する事で同等の御利益が有るというものです、観音は菩薩が衆生の求めに応じて種々に姿を変えて救うとされ宗派によっては名前等に多少の違いが有ります。
弘法山三十三観音を語るには前山寺の歴史を抜きに出来ません鎌倉時代の後、塩田平は信州の鎌倉として栄えますが弘法山の歴史から見ると
○ 1793年(寛政5年)西国三十三観音を弘法山で巡礼できるようにと各岩穴に金箔を貼った木仏を三十三ヶ所に配置しました。
○ 明治になって前山寺に仏像を降ろすが15体しか残っていなかった。
○ 1989年(平成元年)5/24開眼法要に合わせて上小石材組合の各店が一体づつ石仏を製作して元の場所に安置した。
    (岩屋堂弘法大師像は開眼法要の2〜3年前に降ろされて修理されている)
○ 近年になって前山寺より「信濃小縣郡前山寺奥院獨股山図」の版木が見つかり巡礼の道筋や配置が明らかになりました。
* 時間を追ってみると寛政5年より75年で仏像を降ろすが15体しか残っていなかった、仏像が無い期間が122年続いて石仏が安置されました   、開眼法要の時には木版は発見されていたようです。
複製の石仏

第一番 赤い格子は初期からの様式 第一番の異様に感じる窟を見る 第二番 格子の後も有る
第二番の岩穴 第三番 第三番の岩穴
第四番 黒格子も見られる 第四番の岩穴 第五番
第五番の岩穴 第六番 第六番・七番の岩穴
第七番 第八番 第八番の岩穴
第九番 第九番の岩穴 第十番
第十番の岩穴 第十一番 第十一番の岩穴
第十二番 第十二番の岩穴 第十三番
第十三番の岩穴 第十四番 第十五番
第十五番の岩穴 第十六番 第十六番の岩穴
弘法大師の岩屋堂 前山寺の奥殿 複製された弘法大師像 第十七番・十八番
第十九番 第二十番 第二十・二十一・二十二番の穴
第二十一番 第二十二番 第二十三番
第二十四番 第二十三・二十四・二十五番の穴 第二十五番
第二十五番の穴 第二十六番 第二十七番
第二十八番 第二十八番の穴 第二十九番
第二十九番の穴 第三十番 第三十番の穴
第三十一番 第三十二番 第三十三番
第三十三番の穴 西の砦上の弘法大師像 西の砦尾根より石の階段に向かう案内
第三十番が入っていた穴 第三十一・三十二番が入っていた穴 第三十三番が入っていた穴
番号 所在地 宗派 観音名
  一  那智山青岸渡寺         紀伊東牟婁郡那智村 天台宗        如意輪観音        
紀三井寺金剛寶寺       同海草郡紀三井寺村 真言宗      十一面観音      
粉河寺施音寺 同 那賀郡粉河町 天台宗 千手観音
槇尾寺施福寺 和泉泉北郡横山村
葛井寺剛琳寺 河内南河内郡藤井寺村         真言宗   
壺坂寺南法華寺 大和高市郡高取町 同  
岡寺龍蓋寺 大和高市郡高市村 法相 如意輪観音
初瀬寺長谷寺 大和磯城郡初瀬町 真言宗 十一面観音
南圓堂(興福寺内) 大和奈良市 法相 不空羂索観音
三室戸寺 山城宇治郡宇治村 天台宗 千手観音
十一 醍醐寺 山城宇治郡醍醐村 真言宗 准胝観音
十二 岩間寺正法寺 近江滋賀郡石山村 千手観音
十三 石山寺 如意輪観音
十四 三井寺園城寺 近江大津市 天台宗
十五 今熊野観音寺 山城京都市下京区 真言宗 十一面観音
十六 清水寺 法相 千手観音
十七 六波羅密寺 真言宗 十一面観音
十八 六角堂頂法寺 天台宗 如意輪観音
十九 革堂行願寺 山城京都市上京区 千手観音
 二十 善峯寺 同 乙訓郡大原野村
 二十一 穴太寺菩提寺 丹波南桑田郡曽我部村 正観音
 二十二 総持寺 摂津三島郡三島村 千手観音
 二十三 勝尾寺 同      豊川村 真言宗
 二十四 中山寺 同  河辺郡長尾村
 二十五 清水寺 播磨加東郡鴨川村 天台宗 千手観音
 二十六 法華山一乗寺 同 加西郡下里村
 二十七 書寫山圓教寺 同 飾磨郡曾左村 如意輪観音
 二十八 成相寺 丹後興謝郡府中村 真言宗 正観音
 二十九 松尾寺 同 加佐郡志楽村 馬頭観音
 三十 竹生島寶巌寺 近江東浅井郡竹生村 天台宗 千手観音
 三十一 長命寺 同 蒲生郡島村 十一面観音
 三十二 繖山観音寺 同      老蘇村 千手観音
 三十三 谷汲山華厳寺 美濃揖斐郡谷汲村 十一面観音

前山寺の明王堂で悠久の時を刻む最初の仏像、紛失した観音は何処に。
   気付いた事だが残っていた仏像は、立像で長い後輪を配しています、石物の座像で見る番号の仏像は有りません、唯一第二十七番が有りますが安易に見られない所だったのでしょう、やはり愚者の考えか。

第33番 第2番 第15番 第12番
第10番 第32番 第17番 第28番
第27番 第8番 第4番 第16番 第24番

 版木と予想登山道
    
仏像の配置と順路の略図は何年か通って私なりに、こうだろうと無理に当てはめた所も有ります、より正確な道を探していにしえの人達が歩いた道を整備して歴史を肌で感じたいものです。前山寺で見つかった版木


付録  弘法山の「ちがい石」
全国でも弘法山でしか見られない5mm程の×印の結晶で地元では「弘法様の誓い石」と呼ばれ大切にされてきました。
弘法山の岩石は火山の噴火によって出来たもので、現地では現在も見られるように溶岩に周りの土砂や石が採り込まれて出来た岩石で仏像を安置する穴として適していたと思われます。
石英安山岩と言われ石英分は結晶となり斜長石となったもので結晶は×印の双晶です。
海底火山から始まった弘法山も長い期間を経て岩石が風化してちがい石の結晶が露出したものです。
弘法大師の厄除けとして5mmの大きさを篩える金網持参で集めてみてはいかがでしょうか。