石都岡崎の石工業

 岡崎市は良質の花崗岩(御影石)の産地であり,この御影石を使った石燈篭・水鉢・神社仏閣の彫刻物の製造が続けられてきた. 現在の石製品生産状況は,墓石が7割ほどで他に建築資材用・燈篭・彫刻物などであるが,燈篭や狛犬・仏像の製作技術は優秀で, 日本3大石製品生産地(岡崎市,香川県庵治町牟礼町,茨城県真壁町)として一家をなしている.
 
歴史
 
 岡崎は東海道の宿場町であり,古くから石で作った人形や馬,犬などのお土産物を売っていた人たちがいたと伝えられるが,石材としての実用価値を見出されたのは,亨徳元年(1452年)岡崎城築城のおり,三河の守護代西郷稠頼(つぎより)が,現在の小呂町・滝方面の庄屋たちに命じて,各部落から産出する花崗岩を上納させたのが始まりらしい.
 その後,家康の祖父松平清康が入城(1524)し,城下町として整備が始まった.さらに家康の代になり,家康も秀吉により関東に移封され,天正18年(1580)代わりに田中吉政が城主となった.吉政は東海道を城下に導き本格的に町の整備をした.その時,泉州岸和田の石工,春木某一党が招かれて石工事に従事し,隋念寺門前に住まいを与えられ保護された.そこは東海道の裏手に当り,本陣もすぐ近くにあったので,街道を行き交う旅人や参勤交代の大名たちの目にもよく止まったことであろう.旅人の口から口へと伝えられたり,大名達がこの地で燈篭を買い求め,徳川家縁の神社仏閣に奉納することも多かったりし,岡崎の石工業は全国に名が知られるようになっていった.
 嘉永の頃書かれた「参州名所図絵」には,花崗町一帯のことを
「石切町と云い,両側に石工並びて数十軒あり,其の製するところ,当所をもって最上とす.故に近国は更なり,江戸,大阪へ運送して是を鬻(ひさ)ぐ事果多し」と紹介されている. 重い石工品を遠方まで売りさばくことができたのは,「五万石でも岡崎さまは,お城下まで船が着く」と歌われた水運のおかげであった.城下を流れる菅生川の土場から川船で矢作川河口の西尾平坂湊へ,そこから千石船に積み替えて江戸大阪に運ばれたのである.
 
 明治の初めには,石工数約30軒,うち灯篭を作っているのはわずか5,6軒であったというが,明治10年代に入って再び盛んになる.その裏には,明治10年(1877),第1回内国勧業博覧会出品作の入賞,明治17年(1884)岡崎石匠組合の結成など五代目嶺田久七の努力があった.その後,志賀重昂の名著「日本風景論」で,参州みかげのすばらしさが紹介され,岡崎の花崗岩が三重県以東の三角点の標石に採用されたり,日露戦争後の樺太国境画定の際に岡崎の石工たちが岡崎産花崗岩で作った標石を設置されたりしたことなどから,政府要人にも高く評価されていたことがわかる.
 
 日清・日露戦争から第一次世界大戦と,戦争をへるたびに日本経済は急速に発展したる鉄道を中心に交通機関の整備も進み,岡崎石工業も需要が増え,販路が拡がって急成長を遂げた.大正5年の業者数十軒が,年季明けの徒弟の独立が相次いだ結果,昭和6年には,235軒,戦前のピークとなった昭和12年には350軒に達した.
 昭和30年代に入って,人々の生活に落ち着きと余裕が見られるようになるころ,石工業界にも活気がよみがえってきたる昭和29年の業者数99が昭和40年には160になり,その後の石工品ブームで昭和50年には245にまで達した.この間,公害・輸送・設備拡張などの問題から昭和39年に上佐々木町,昭和48年に稲熊町と2つの石工業団地がつくられ,昭和54年には通産省から伝統的工芸品の指定を受けた. 
 オイルショック後の低成長経済下では,やや低迷し業者の数は230前後であった.昭和40年代に韓国石工品が輸入されるようになり,その後は韓国製品に替わり中国産の石工品が大量に輸入されるようになり,岡崎の石工業は年ごとに衰退しつつある.平成10年の業者数は約180であるが,それ以後も廃業者がでており,石工業衰退の流れは続いている.
参考文献

「石屋史の旅」 渡辺 益国
 渡辺石彫事務所 
 昭和62年11月27日 発行

「東海の伝統工芸」
 伊藤 喜栄 編著
 中日新聞本社 
 昭和60年12月12日 発行
彫刻家 多和田泰山
         戸松甚五郎(明治45年生れ)からの聞き書き
 
 岡崎に彫刻の新風を送ってくれたのは,東京からこられた多和田泰山という鋳物の原型師でした.この先生によってねんどで彫塑することを教わったんです.今から50年前.私が20になる前だった.泰山先生に習いに行っておった頃には,二宮尊徳像が一番よく売れたんです.ほかに大黒さん・布袋さん・狐だ・狸だといって自分の作りたいものを作ると,それを先生がなおしてくれるんだね.先生は普段は銅像の原型を作っていて,一日,十五日は,「おれが見たるで,来い」ということで,半日ずつ行ったんです.先生は月謝なんてどうでもええ,というとったけど,それじゃぁしめしがつかんということで,グループの中で世話人つくってお金のしまつもしたもんです.
 私らが泰山先生に日頃よういわれたことは『ひとがこんなおかしなもの作ったといって笑うようなことではいかんぞよ.いくらへたに作ったものでも,どっかいいとこがある.なんでも見るときは,そのいいところを見なくちゃいかん』てね.泰山先生の弟子の内で一番出世した人は高村泰正といっていま東京におられます.この人は粘土が好きで,とうとう石屋の職人やめちゃって先生に弟子入りし彫刻家になりました.いまある岡崎公園の徳川家康の銅像を作った人です.
 
石工団地と技術革新
 
 日本石材工業新聞社の松井清記者は,石屋の技術革新と工場団地建設の推移をつぶさに見てきた.その間の事情をつぎのように述べている.
 「私が日本石材工業新聞社(昭和28年創刊)に入ったのが昭和34年.ちょうどその頃切削機が研究開発されたと思います.当時旭ダイヤモンドや茨城県真壁に村上鉄工所,安田鉄工所,四国の牟礼に多田鉄工所があり,相前後してダイヤモンドブレードを研究しておったんです.実用化段階に入ったのが昭和35年頃じゃなかったかな.岡崎の石屋さんもこの頃機械化が始まったんです.
 今までトンチントンチン叩いていた石屋の音が,急にガアーという轟音に変わって,近所はビックリした訳.それまでの石屋町はほとんどが石に関係した仕事の家ばかりだから,同業者はほとんど言わないけれど,それ以外の家から,騒音や埃・ヘドロの苦情が出るようになった.公害ということで,石材組合が市の協力を得て工場団地の造成に乗り出したわけです. 工場団地への移転にはいろいろ問題があったが,若い経営者が中心になって昭和39年に矢作の岡崎石製品工業団地に出たわけです.」
「この石工団地が成功したもんで,それから十年ほどして稲熊町の高台に岡崎石製品工業公園団地が昭和48年に出来たんです. ダイヤモンドブレードでの石の切削が始まった頃,一面才を職人が叩くと150円,ダイヤで切ると200円のコストがかかった.だから,腕の無い人,事業所ほど早く機械を入れたね.腕のある人ほど機械化が遅れましたよ.」