一回読むだけでたちまち夢のように算数ができるようになる、……というものが書けないかなあと思いながら書いていこうと思います。国内の大学入試やその他の試験、近隣諸国の小学生の問題、文科省の動向など、受験算数の根っこの部分とか背景とか流行といったものがしっかりわかるようにすることを漠然と目標にして、思いつくまま書いています。
  算数は、何もかも人から学ぶということでは面白くないですし、しっかり身に付かないと思います。かといって、全く自分ひとりだけで考えようとすると、途方もなく時間がかかりますから、兼ね合いで学ぶのがよいでしょう。
  本稿をざっと読んで、これを参考に自分でもちょっと考えてみると、確実に力がつい>てくると思います。

算数エッセイ 『新編算数学入門』 
第37回 からこう ~中国の数学者のエピソード~


【目次】
1. 華羅庚(からこう)の少年時代
2. フェルマーの最終定理との出会い
3. らぼけちゃん
4. 私は不自由な足を使う分、頭を使って楽しむのだ
5. 国際学界が注目
6. 「華羅庚金杯」少年数学招待試合の簡単な紹介
7. 「華羅庚金杯」の紹介 角南篤(つなみあつし)氏
8. プチョルコ趣題 
9. 太陽の馬~立方体の部品~
10. 太陽の馬~立方体の部品~ (2010年 灘中2日目2番)
11. 団子ではなく団円 田辺寿美枝(たなべすみえ)氏


1. 華羅庚(からこう)の少年時代
 華羅庚は中国読みでは、「ファロークン」です。日本読みの「からこう」で知っておられる方もいるので、「進学レーダー」では「からこう」としました。羅庚の才能を見出した、恩師の王維克(ワンウィク)は日本ではあまり知られていないようなので、ワンウィクとしました。
 羅庚は中国では英雄的数学者で、中国の算数競技の1つの「華羅庚金杯(1986年から)」にも名を留めています。「華羅庚金杯」は、小4から小6、中1、中2が対象です。また、中国数学会が主催する専門家向けの「華羅庚数学賞」(第一回は1992年11月4日)というのもあります。
華羅庚の少年時代
 羅庚は1910年11月12日に江蘇省の金壇(きんだん)県で生まれました。父は小さな雑貨商を営んでいました。羅庚が生まれたときは、父はすでに四十歳になっていました。四十歳にして初めて授かった子なので、夫婦は、生まれると宝物のように2つの柳かごで彼をおおい、掌中の珠のようにかわいがりました。それは近所の評判になりました。
 羅庚は中学の時、あまり成績がよくありませんでした。数学もまた不合格になります。
 そのころ、金壇中学で教員を務める羅庚の数学の先生は、中国の有名な教育家で翻訳家の王維克(ワンウィク)でした。羅庚は遊びに夢中になっているが、考えは素早くて、数学の練習問題は何回も直して、自分の考えた方法で解いていました。王は書きつぶした文字のもとの字を想像したりして、羅庚の思考過程をたどりました。非常に独特で奇抜なので、素質があると気づいていました。
 一度、金壇中学の先生どうしで
 「成績のよい子はみんな都会の学校に行く。ウチの学校は、劣等生が多くて困ったことだ。人材がいない」
 という話題が出ました。王は
 「とは限らない、私が見るところ、華羅庚はとても素質があります。」と言いました。
「ううっ? 華羅庚!? 彼が書くあの字を見ましたか。カニが這いまわった跡のようなあの字を。大きな将来があるとは思えません。」
 「華羅庚の書く文字は確かによくはありません。書家になれる可能性はとても小さいでしょう。しかし、彼は数学方面の素質はあります。将来大物になります。」
 「なぜわかりますか?維克さん」
 「最初、私は皆さんが見るように、彼の書く字がゆがんでいて、とてもぞんざいなのが気がかりでした。数学の宿題のノートも乱雑で、いつも、むやみに書きつぶしがあります。
ところが、書きつぶしを注意深くみてみると、多くの書き直しから、柔軟で多様なアプローチの探求が見て取れるのです。確かに書家として大成するのは難しいでしょう。しかし、彼の数学上の才能のエネルギーを、あなたは、彼の字の上から見つけられるというのですか。黄金が砂の中に埋もれているかもしれないのです。私達教師は、生徒の見ているものを一緒に見るつもりで見るようにして、しばしば骨折り損をする気がなくては人材を埋もれさせます!」
 と多少興奮して言いました。
 王は羅庚の数学の素質を発見しただけではなくて、家に呼び寄せて、彼を育成しました。王維克本人は博学多才で、家には蔵書がたくさんありました。羅庚は王の家の常連になって、或いは本を借りて、或いは問題を教えてもらって、毎回すべて根気良い指導を手厚くもてなされました。それまで遊びに夢中に立っていた華羅庚でしたが恩師の教えのもとで、一心不乱に数学を研究するようになります。
 年末の試験をする時、王維克は彼に対して言います。
 「もう、あなたは試験する必要はありません。あなたに合う問題を出したのでは、他の人が解けないし、他の人用の試験問題はあなたがするに値しないので、私はあなたに一篇の論文のテーマを予定しています。あなたは家で書きなさい」

※「掌中の珠(しょうちゅうのたま)」
 最愛の子または妻。最も大切にしているものの意。いつも手のひらの中に盛っている珠のようなものという意味。傅玄という詩人の「短歌行」(「行」は定型詩の一種)の一節にあることばが起こりです。愛する者に対する慣用的なことばで、「掌上明珠」という成語もあります。
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2. フェルマーの最終定理との出会い
 王維克先生の激励と助けのもとで、華羅庚は数学の探求を進めます。教室の学習知識はすでに彼の要求を満たすことができません。あるとき、王維克は彼に1冊のアメリカ人が書いた微積分の教科書を貸しました。華羅庚が10日後に返したとき、王維克は彼に対して言います。
 「これは少し難しいはずだが、もう読んだのかね。あなたが分っていないまま読み進めている部分があるかもしれないので、いくつかの問題を出して少し聞きます。」
 その結果、華羅庚はすらすらと答えるだけではなく、その上、本の間違いも指摘しました。
 そんなある日、華羅庚は王維克をたずねてきて、自分作った1篇のガリ版刷り論文の「フェルマーの最終定理の証明」を王維克に手渡して、そして得意げに言いました。
 「私は、これをあちこちの大学に郵送して批判してもらいます。」
 今度ばかりは王維克は論文をみて、きつい口調で言いました。
 「フェルマーの最終定理の証明はそれほど簡単なものではない。フェルマーの最終定理の証明は17世紀以来、とても多くの数学者を悩ませて今なおまだ解決していない問題で、あなたのこのような簡単な証明ができるものではない。あなたの証明のところどころに思い込みによる間違いがあって、証明になっていない。……ふう」
 ため息をついて、最後に、王維克は心を込めて華羅庚に対して言います。
 「羅庚、がっかりする必要はない。成功を急ぐな。どこまでも粘り強く考えなさい。あなたの知恵と汗で作った鍵は、いつかはこれらの錠を開けるだろう。」
 長話をする中で、王維克は華羅庚に数論をもっと深く研鑚するように勧めました。羅庚は恩師の教えに従って、それから解けない数論(フェルマーの最終定理)の研究に打ち込むようになりました。
 羅庚は十五歳で初級中学を卒業したときに、家庭の暮らし向きが貧しくなり、高校に通えなくなり、中国職業学校で経理系を学びに行くことになりました。会計の類の職業について一家を支えようとしたのです。ところが、一年もしないうちに、物価が非常に高くなったためにさらに貧しくなり、やむを得ず中途退学して金壇にもどり、父の雑貨商を手伝うことになりました。

《付記》 中国職業学校
 黄炎培(ファンインペイ)が上海で創設した中華職業学校です。中華職業学校とすると、日本ではラーメン屋さんになるための学校と誤解されるような気がして中華を中国としました。
 黄炎培については、第5節の節末で触れます。
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3. らぼけちゃん
 小さい雑貨屋の中で帳簿の仕事や単調な販売の生活の中で、彼は数学を独学することにしました。
 羅庚がカウンターに立つたとき、数学に夢中になって、お客がいることを忘れたり、考えていた数学の練習問題の答えを、お客さんの商品の代金にして、顧客に飛び上がらんばかりに驚かせたこともしばしばでした。いつも似たようなわけがわからないことが起こったため、ほどなく、隣近所の笑いぐさになり、みんなは彼を「らぼけちゃん(羅呆子 ロウダイズ)」とニックネームで呼ぶようになりました。
 お客さんが来てもほおっておくことが何度もあったので、父は「難解な書物」が 羅庚をぼうっとさせるのだと言って、せっかちに本を焼き尽くします。こういうとき、羅庚はいつも必死で特に大事な3冊の本を抱きかかえて、放さないようにしていました。
 「なにをするんだ。お父さん、やめてくれ、やめてくれ。僕の大事な本を燃さないでくれー」羅庚は数学の本を抱きかかえてうずくまって、激しく泣きました。

特に大事な3冊の本を抱きかかえて、
放さないようにしていました。

 このとき、父もまた心では泣いていたのでした。
「許してくれ。お前を上の学校に進ませられないふがいない私は、お前よりもっとつらいのだ」
 このことを羅庚が知ったのはずっとあとのことでした。
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4. 私は不自由な足を使う分、頭を使って楽しむのだ
 1927年秋、 羅庚にはうれしいことが起こりました。全家族はすべて彼のために喜こびました。
 美しく、やさしくて賢い女の子、呉筱元と結婚することになったのです。
 彼女は、父は官吏でしたが、父が死んた後に暮らし向きが衰えていました。
 そのとき、王維克はフランスのパリ大学に留学して1928年秋に帰り、再び金壇県に帰って教員を務めます。間もなく、金壇中学校は学生運動が起きて、元校長が失脚し、留学帰りの王維克が校長に任命されます。彼はもとの会計、庶務員と事務の主任を解雇して、羅庚を呼び、彼らの3人の仕事を羅庚に渡しましたので、羅庚は高い給料で就職できました。羅庚は望外の喜びと感じ一生懸命仕事に励みました。彼は自分の仕事に対して少しも手を抜かず、毎晩、順々に教室の扉と窓を点検するなど、彼は学校の各雑務をきちんとこなしました。甚だしきに至っては教師達が使う鉛筆を削りました。数百人の学生の成績簿は机の上で積み上げて、いつも速く正確にこなしました。
 王維克は華羅庚の才能にとても感心して、彼に破格の抜擢をして補習クラスに着いて数学を教えさせますが、このことは県教育局長から激烈な反対にあいます。しかし、王維克は何度も無視して、羅庚に金壇中学の数学教師をさせます。
 結婚後は間もなく、羅庚の母は亡くなり、すぐ引き続いて羅庚が恐ろしいチフスにかかりました。新妻筱元は新婚の衣服と身の回り品を質屋にもっていき、夫の医薬に変えました。
 羅庚が重病のさなか、王維克は何度か訪問して見回して、そして筱元を慰めます。「恐がらなくてもよい。あなたは安心して、彼を療養させるようにしてください。月給は私は人を派遣して届けに来ます。彼の教えること課程は、私が代わってやります。」と言いました。しかし間もなく、王維克もチフスにかかって、病の床に伏していました。
 羅庚がベッドの上でいつ死ぬかという状態で半年横たわっているとき、妻は心をこめて世話しました。そして、彼はついに死神に打ち勝ちました。しかし、重い病気は彼を身体障害者にしました。彼の左足の関節は癒着して変形してくねくねしてしまいました。このときから、終生、杖が必要な体になりました。
 全快後の羅庚の直面する第一の事は、全家族の生計を維持する方法を講ずることです。彼は杖をついて、雨傘を支えて、足を引きずって病気の王維克の家に行きました。
 王維克は依然として彼に補習クラスで教授させましたが、しかし、間もなく、王維克が不適切な教員の華羅庚を任用していると訴える人がいて校長解任を言い渡されました。
 王維克はそれを聞き、憤然と辞職して、湖南大学の教員になりました。そのときの決まりによって、王維克は失脚して、会計も解雇することがきまりました。
 華羅庚は失業の危険に直面します。しかし、幸い新しい校長の韓は善意の人で、彼は華羅庚に対して言います。「他の人が会計にくる予定だったが、断ってあなたに引き続きさせるようにしましょう。でも、あなたは絶対に教えることができません。前任の校長はあなたに教えさせたことを人に訴えられたからです」
 というわけで、華羅庚は何とか生活が保たれるようになりました。
 昼間、彼は病んだ足を引きづって学校で会計の仕事をして、家に帰って、夜、暗いランプの下で精を出して研究しました。彼の心は数学王国の中を思いきり漫遊しました。羅庚は正面から撮った彼自身の写真に向かって言いました。
 「私は不自由な足を使う分、頭を使って楽しむのだ」
付記1 華羅庚の奥さんの名前
 華羅庚の奥さんの名前は呉筱元です。筱は日本にない文字だと思い、進学レーダーでは呉笹としましたが、筱は篠にあたりますので、呉篠元とすべきだったかもしれません。筱が普通に反映されますのでここでは文献通り筱にしました。

付記2 華羅庚の病名はチフス
 チフスで足が不自由になるとは思えず、「進学レーダー」では凍傷としましたが、しかし、いくつかの文献にいずれもチフスとありますので、また、チフスで足が不自由になることはあり得るということなので、ここではチフスにもどしました。

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5. 国際学界が注目
 羅庚は『上海科学』などの雑誌の上で論文を発表します。1930年春、「一般五次方程式の代数的解法の不可能な理由」を『上海科学』に発表しました。
 これに注目した清華大学の数学部主任の熊慶来(シュンチンライ)教授が羅庚に会いに来ました。

 当時、清華大学の教員の中に羅庚と同郷の三歳年下の唐培経がおりました。熊慶来は唐培経に同郷の華羅庚の身の上を紹介してもらいに行きました。熊慶来が聞いて、たいへん賞賛します。このとき、華羅庚はもう19歳だったので、すでにかなり遠回りなでこぼこ道を歩いたことになります。
 翌年、熊教授の推薦により羅庚は清華園の清華大学数学部図書館の補佐員になり清華大学で働きながら学ぶことになりました。彼は2年間で、普通なら8年かかってやっと到達できるほどの研究をして、破格の昇格で1933年助手に、1935年には講師になりました。
 1936年、彼は清華大学から推薦され、イギリスのケンブリッジ大学に留学します。彼はケンブリッジの2年間で、数学の難題の理論を全精力で研究しました。このころから、彼の研究成果は国際学界に注目されるようになりました。
 1938年に帰国して、南西連合大学教授に招聘されます。1939年から1941年まで、彼はとても苦労して、二十数篇の論文を書いて、数学の専門書の第一部を完成しました。これはそれからの数学の経典的名著になって、1947年、ソ連でロシア語版が出版され、相前後して各国でドイツ語、英語、ハンガリー語、中国語版が出版されました。
 1949年新中国が建国され、羅庚はこの上なくよろこんで、家族と帰国することを決心します。また、海外の学生に、帰って来て新中国に奉仕するように訴えます。新華社はこの手紙を放送しました。
 華羅庚は清華園に帰って、清華大学の数学の学部主任を担当します。彼は新中国で数学の人材育成に専念し、数々の弟子を育てました。数学の新しい定理を発見し、広い分野の専門書をたくさん書いたほか、子ども向けに応用数学のイメージを、生き生きとした分かりやすいことばで書きました。
 1984年4月、彼はワシントンで米国の科学院に出席して中国人では初めての外国籍のアカデミー会員に選ばれました。
 1985年6月12日午後4時、華羅庚は日本の東京大学のホールで『数学理論と応用』という講演を行いました。午後5時15分に講演は終わって、花束を受け取った直後、壇上で突然あお向けに倒れてしまいました。すぐに病院に運ばれましたが、夜10時9分に彼は持病の急性の心筋梗塞のため永眠しました。

付記1 華羅庚故事
 以上、1節から5節までが多少はしょっていますが「華羅庚故事」の概略です。「華羅庚故事」は中国の国語の本にも載っているそうです。数学者としての実力があったこともさることながら、新中国のために尽力したことも中国内での高い評価につながったのかもしれません。
 「進学レーダー」では「華羅庚故事」のうち、父と羅庚のからみを取り上げましたが、山場は次の3点でしょう。本稿では少し補いました。
1. 父と羅庚の対立
2. 王維克と華羅庚の師弟愛
3. 足を失った時の気持ち
「足を失った時の気持ち」が
 羅庚は正面から撮った彼自身の写真に向かって言いました。
 「私は不自由な足を使う分、頭を使って楽しむのだ」
に込められているように思いますがみなさんはどのように感じたでしょうか。

付記2 熊慶来教授に華羅庚を紹介した唐培経
 唐培経(1903年4月30日‐1988年10月)は,数学者、統計学者、教育家。江蘇省金壇出身です。華羅庚についてもよく知っていて関心を寄せていました。

1949年3月、アメリカ・アイオワ州立大学教授になりました。
1951年、国連の食糧農業機関の技術の顧問に招聘されて、パナマ2年、エクアドル3年、ペルー3年の期間在駐して、農業の全面調査して、農産物の生産が改善されました。
1959年 南米の後進地域の農業に務めて7年顧問をしました。
1967年7月、米国の首都ワシントンで米国の農業部の共同経営する国際を主宰して訓練班を全面調査しました。
1969年8月31日に定年退職しました。

付記3 黄炎培 中国職業教育学校の設立者
 黄炎培は1世紀前の人、1878年10月1日生まれて、22歳で「秀才」の試験に受かって、その年、才色兼備で鳴る王糾思女史と結婚して、25歳で「挙人」の試験に受かり、次の年川沙小学校の校長に招聘されて、少しの間、郷里で教育・政治活動に従事しています。29歳で楊斯の頼みに応じて、六里橋で浦東中学(高校)を創設に参加して、校長になりました。
黄炎培

(中略)
 57歳の時、故郷で『川沙の県誌』の編集主幹をしました。58歳のとき、川沙に出席して中国職業教育学校の第9期の専門家の会議を行います。72歳で亡くなりました。

付記4 黄炎培故居
 黄炎培故居(黄炎培が住んでいたところ)は現在上海の名所旧跡の1つになっています。下は黄炎培故居の一部分です。


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6. 「華羅庚金杯」少年数学招待試合の簡単な紹介
 「華羅庚金杯」少年数学の招待試合(略称「華杯賽」)は1986年に中国の傑出した数学者の華羅庚教授を記念してできた全国的で大規模の少年数学競技です。中国少年報社(現中国少年児童新聞出版総社)、中国最適方案選出法と経済数学研究会、中央テレビ局青少中心等部門が共同発起主催しています。
 「華杯賽」は、小さいときから骨身を惜しまず学ぶ性質をもった、科学的な精神を心から愛していた華羅庚教授の愛国主義の思想を学んで発揚する広い範囲の青少年の教育です。
 広範囲の中・小学生を奮い立たせて、興味をもって数学を学び、知力を開発し、数学を普及させる目的の活動です。
 「華杯賽」はすでに20年間、みごとに11期開催して、全国に100近くの都市の、3000数万の少年が試合に参加しました。「華杯賽」はすでにみのりある教育になって、広範囲の青少年に代々伝えられ、年々広まっています。広範囲の生徒、教師、保護者に深い好感で受けられます。日本、韓国、マレーシア、シンガポールのなど国家と、香港、マカオ、台湾地区も団体で参加しに来ています。
 「華杯賽」は「普及性、興味性、清新性」が互いに結合するという原則を一貫して堅持します。「華杯賽」は華羅庚教授の多く教え子を主とする豊富な経験を持つ委員が専門家として集まって作っています。「華杯賽」は毎年1回で、2年ごとに一回の総合決勝戦を催します。総合決勝戦を催すときの第1回戦(予戦)は中央テレビ局から試験問題を、全国各地、みんながテレビの前に座って同時に解答できる形式で放送されています。
 総合決勝戦の口頭試問および授賞する式典は、中央テレビ局で現場を特別番組として作り、中央テレビ局の少年チャンネル番組の黄金時間に何度も全国に放送します。
「華杯賽」は初期から中央指導者と革命家の重視と配慮を受けています。1986年中国共産党中央総書記の胡耀邦は自ら「華羅庚金杯」の杯名を書きます。方毅、盧嘉錫、王首道、呉階平、銭偉長、王光英、万国権、張懐西、李蒙などの指導者はすべてかつて競技場の視察に自ら臨んで、受賞する選手のために授賞しています。
 中国は、「華杯賽」が学界の権威のある人によって、正しく、極めて大きい関心を持たれて、支持されていることを確認しています。有名な数学者、中国の科学院アカデミー会員の王元教授、楊楽教授、北京大学の元学長の丁石孫教授、有名な数学者の曾肯成教授、王寿仁教授、コン教授、梅向明教授まで、かつて主任を担当して委員会の顧問をして、そして自ら問題の吟味に参与します。世界の有名な数学の大家の陳省身先生は「華杯賽」の名誉主任で、そして「華杯賽」の題詞(記念・励ましの言葉)を述べます。
 各省、市の指導者は「華杯賽」に対して積極的な支持をしていて、広東省の元省長の盧瑞華先生は6期連続して「華杯賽」の組織委員会の主任を担当します。マカオの行政長官の何厚カ先生も何度もの第一戦の試合を支援します。
 「華杯賽」に関心を持って支持することに示してくれている、全国の各界の人士は年々増えています。「華杯賽」を成功させる催しが、報道機関の密接な協力と支持を得ています。新華社、中央テレビ局、中国テレビ局、中央人民放送局、人民日報、中国教育新聞、中国教師報、中国青年報、中国少年報、中国中学生報、科技日報などメディアは毎期皆次々と「華杯賽」のニュースを報道しています。
 華杯賽」の発展と青少年素質の教育がしっかり結合しています。科学的発展を未来に望みを託して、私達はだんだん多くなる「華杯賽」を受ける青少年が、科学を学ぶ魅力を見出し、科学的な歩みを愛することを信じます。怠らない努力を経て、「華杯賽」は必ずや国際舞台に踏み出すことでしょう。
「華羅庚金杯」少年数学の招待試合の簡単な紹介(中国補習班連盟網)
http://www.chinafudaoban.com/edunews/html/62910.html
 以上が、~「華羅庚金杯」少年数学の招待試合の簡単な紹介~ですがこれは、中国ではこの中国補習班連盟網だけではなく、全く同じ文面で多数のWEBサイトに掲載されていますので、国の要請があるのかもしれません。
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7. 「華羅庚金杯」の紹介 角南篤(つなみあつし)氏
 「華羅庚金杯」についての日本のサイトでは、政策研究大学院大学 角南篤(つなみあつし)氏の「中国の理系オリンピック」に詳しいです。許可がいただけたので該当部分を以下のように引用します。
「中国の理系オリンピック」
http://crds.jst.go.jp/kaigai/report/MR/CN2006-12.pdf
華羅庚杯
 「華羅庚杯」数学コンテストは、華羅庚教授を記念し実施されているものである。「華羅庚杯」は教育部の認可を受けている全国の青少年数学コンテスト(対象は主に小学校4年生~6年生と中学校1年と2年生である)である。同大会は、中国少年報社、中央テレビ局の青少年番組製作センター、中国最適方案選出法興経済数学研究会、中国科学技術協会の青少年活動センターなどと共同で主催している。そして、この大会が数学の普及活動として広がっていくことを主な目的として掲げている。また、その他に、同大会は「子供にたとえ1分元でもお金を払わせない」を原則として、各界の支持を得て運営していると言われている。
 これまで、有名な数学者である中国科学院院士王元、楊楽教授、北京大学の旧校長の丁石孫教授、有名な数学者である曾肯成、王寿仁、 昇、梅向明らは、かつて競技委員会の顧問を担当し、そして自ら出題の作成に参加したとも言われている。その他、徐偉宣、彭家貴、馬希文、計雷、楊徳庄、常庚哲、裘宗滬、陶懋 、張景中らは、競技委員会の主任委員を担当している。世界有名な数学家の陳省身先生も「華羅庚杯」の競技委員会の名誉主任に就任したことがある。
「華羅庚杯」は1986年から始まり、三年ごとに開催されている。第1回戦の模様は中央テレビ局から試験問題とともに全国各地の青少年に放送され、参加者はテレビを見ると同時に解答する。2004年から二年ごとに開催することになった。
 上海大学の博士指導教授、数学オリンピックの国家合同訓練隊のコーチ冷岡松教授と上海交通大学付属中学の特級教師楊徳勝などの有名な専門家が講座を担当する。
4華羅庚氏(Hua Loo Keng) (1910--1985)は1910年江蘇省金壇に生まれ、1924年初級中学卒業後、上海中華職業学校に進学するが、家が貧しいため 1 年で断念した。自力で数学を研究をしていたのを認められ、清華大学の数学図書室で雇員を勤めながら、勉強をするようになる。1936 年にイギリスのケンブリッジ大学に留学した。1946年よりはアメリカに渡り、プリンストン高等研究所やイリノイ大学で教授を勤めるが、新中国が成立すると帰国して、祖国の建設のために尽力をし、中国科学院の数学研究所の所長などを務めた。整数論の専門であり、また、古典領域に関する有名な書物の著者でもある。華羅庚は東京で客死した。
 1985年6月12日に東京大学理学部で「中華人民共和国における数学的方法の普及に関する若干の個人的な体験」という講演をされた直後、心臓の発作により聴衆の目前で倒れられ、医師の手当もむなしく急逝されたのである。

 現在、「華羅庚杯」に参加している都市は、100までに達し、コンテストに参加した学生は累計で2000 数万人にも達している。日本、韓国、マレーシア、シンガポール、香港のなど国家と地区も競技に参加している。
 さらに、数学領域の相互交流を促進するため、競技委員会は「華羅庚杯」金メダルの学生を各国際競技に参加させている。1996年6月に韓国で開かれた国際少年数学コンテストで2金、1銀、1銅、団体の総得点一位の好成績を収めた。また、1997年8月に日本で開催された数学オリンピックでは、銀メダル1枚、その年12月のソウル国際数学コンテストでは金1、銀1、銅1をそれぞれ獲得した。これまで、「華羅庚杯」で入賞した学生の中にも、中国を代表して国際数学、物理などのオリンピック大会に参加し金メダルを取った学生もいたということである。

角南篤(つなみあつし)氏
 ワークショップ角南篤 政策研究大学院大学准教授、科学技術・学術政策プログラムディレクター
1988年 ジョージタウン大学School of Foreign Service卒業
(その間,87年北京夏期語学コース終了,88年韓国・延世大学国際教育コース終了),
1989年 株式会社野村総合研究所政策研究部研究員,
1992年 コロンビア大学国際関係・行政大学院Reader,
1993年 同大学国際関係学修士,
1997年 英サセックス大学科学政策研究所(SPRU)TAGSフェロー,
1999年 金沢大学非常勤講師,米ワシントンアーバン・インスティテュート非常勤コンサルタント,
2000年 東京大学先端科学技術研究センター協力研究員,
2001年 同客員研究員,コロンビア大学政治学博士号(Ph.D.)取得。
2001年 より独立行政法人経済産業研究所フェロー。
2003年 本学助教授,
2007年 本学准教授(現在に至る)。
他に,文部科学省科学技術政策研究所客員研究官,
東京大学先端経済工学研究センター客員研究員,
科学技術振興機構研究開発戦略センターコンサルタント,
岡山光量子科学研究所評議委員等を務める。
現在の研究対象は国家(地域)イノベーション・システムの比較研究(主に中国),アジアの科学技術政策,「Evolutionaryアプローチ」を用いた科学技術分野における政策形成過程の分析,「科学技術と社会」(レギュラトリーサイエンスの制度設計)。
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8. プチョルコ趣題 
 「先生に会わなかったら僕の人生が損をするところだった」と生徒に言わしめた、また、レーニンが金メダルを与えた旧ソ連の算数教育者プチョルコについてお伝えします。


小学生時代
 ベラルーシ共和国がまだソ連領のビテブスク州だったころ、アレキサンダー・スピリドノビッチ・プチョルコは貧しい労働者階級の石工の家庭に生まれました。
 ベラルーシ共和国といっても日本ではあまりなじみがないかもしれません。東はロシア、北はラトビア・リトアニア、西はポーランド、南はウクライナと国境を接しています。彼は、小学校の頃、学習が大好きでした。家が貧しかったので、上の学校に進めないものと思い、せめて小学生のときにせいいっぱい学習をしておこうと一生けん命学習しました。特に算数が好きで学校で習ったことはもちろん、自分でいろいろな問題を考えて解いて遊んでいました。彼の学習の評判は街中で知られるほどでした。そのため、父は重大な覚悟を決め、彼を進学させることにしました。

人生の損
 彼は教師になりたいと思い、教師養成学校に進み、「二等教師」の資格を得て1906年13歳で卒業しました。それから、彼はポロツクの神学校に入学します。このころは、牧師の道も考えたのかもしれません。彼は家庭教師をしながら、神学を修めましたが、家庭教師の生徒から、「先生に会わなかったら僕の人生が損をするところだった」と激賞され、進む道が決まりました。卒業後、ビテブスクの高等小学校の講師として勤務を始めました。彼の指導は大好評で、1920年には、重要会議にたびたび招待されるようになりました。
 1935年には、「中学生のための数学の問題のプログラムとその説明書」を書き、請われるまま4年生の算数の問題コレクションを公開しました。1940年に彼は「算数教授法」を発表して大喝采を受けました。
 1941年に、彼は民兵に志願し、兵役を終えた1944年にエッセイ集「18、19世紀と20世紀初期の算数の技術」を書き、彼の論文の正当性をみずから裏付けました。1945年、プチョルコ研究所はソ連の初等教育セクターを主導するようになりました。この期間に書いた最大の出版物『小学校算数教授法~教師の手引き~(1951)』は文字通り、長年ソ連の数学教師の手引きとなりました。
それまでの算数教育を一変した教科書はソ連の数百万人の児童生徒に渡されました。数学の教授法の主要な問題に関する記事を公開している雑誌『小学校』に寄せられる質問の回答者になり、やがて、プチョルコはその定期刊行物の代理の編集長(1946~1960)になりました。モスクワ市の副委員長なども兼務します。プチョルコの教育的活動は広く知れ渡り、レーニンはNK勲章の金メダルを授与しました。また公教育に対する大きな貢献についてクルプスカヤ勲章や、その他、RSFSRの名誉称号(立派な肩書)が与えられました。
※「小学校算数教授法~教師の手引き~」は
≪Методика преподавания арифметики в начальной школе. Пособие для учителей≫.
(小学校で教える算数のメソッド。教師のためのハンドブック。)
の日本語訳です。原文がロシアのサイトで紹介されています。(ページ一番下の項目)
http://www.mathedu.ru/people/p

中国の数学典故に
 また、『教授法』はソ連はもとより、中国語訳では中国の初等教育の算数についても大きく影響を与えています。中国語訳では「小学算術教学法」という題の本になっています。この本の中に、次のような一つの面白い問題があります。この問題は「プチョルコ趣題」といわれて中国の数学典故に数えられています。
それでは、「プチョルコ趣題」を紹介します。

プチョルコ趣題1
ある店で3日間で合わせて、1026mの布を売りました。2日目は1日目の2倍でした。3日目は2日目の3倍です。3日ではそれぞれ何メートルの布を売りましたか。
解説
 この問題は次のように考えることができます。1日目に売った布の長さを1とみなします。1日目1です。翌日は1日目の2倍です。3日目は2日目の3倍で、1日目の2×3倍です。次のように線分図で表すことができます。

 こうしたことを併せて考えると1日目に売った、布の長さを求めることができます。
 つまり、1日目は、
1026÷(l+2+6)=1026÷9=114(m)
 2日目は、
114×2=228(m)
 3日目は、
228×3=684(m)
 ですから3日で売った布の長さはそれぞれ114m、228m、684mになります。
★答え★ 1日目 114m、 2日目 228m、 3日目 684m
 では、次の問題をあなた自身で考えてみてください。

プチョルコ趣題2
 4人は寄付して被災者を救済します。乙の寄付は甲の2倍、丙の寄付は乙の3倍、丁の寄付は丙の4倍でした。4人は合わせて、132元寄付しました。4人はそれぞれ何元寄付しましたか?

略解
132÷(1+2+2×3+2×3×4)=4(元)
4×2=8(元)、8×3=24(元)、24×4=96(元)
★答え★ 甲 4元、 乙 8元、 丙 24元、 丁 96元

プチョルコ趣題の秘密
 この問題を小学の低学年に取り組ませることがなぜ重要かというと、もとにする量が1つの問題の中に複数あるということです。
 割合問題で、例えば「読書の問題」で「ある本を、1日目は5分の1読み、2日目は残りの4分の1読み、……」という問題があります。また、「売買算」で、「原価の3割の利益を見込んで定価をつけ、定価の1割引きで売ると、……」という問題があります。いずれも、1つの問題の中にもとにする量が複数あるので、初めて見たときには悩ましい問題です。こうしたことを、クリアしやすいようにするのは、「割合分数」や「割合小数」に取り組ませる前に、「割合整数」を体験させるとよいというわけです。また、この問題は、十進数や二進法など、位どり記数法について、自由な思考が養われるということです。
 この問題は、そこそこ難しいのに、意外と解きやすく、解いた子どもが「ヤッター解けた」といって、算数好きになるということです。
 どうでしょうか。『キッズレーダー』に出会わなかったらうちの子の人生が損をするところだったと心を熱くなさったお母さんがたくさんおられることでしょう。・・・・・・
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9. 太陽の馬~立方体の部品~
 立方体を切断してできる、いわば、立方体の部品には、塹堵(ぜんと)、陽馬(ようま)、鼈臑(べつどう)というものがあります。「陽馬」は錐体の体積を求めるために、三十余年前に関西の女子中に出ていましたが、今年は灘中2日目の2番に出ましたので、少し触れてみます。

塹堵(ぜんと)
「ぜんと」とは、立方体を次のように半分にした立体です。


陽馬(ようま)と鼈臑(べつどう)


 「塹堵(ぜんと)」は四角推と三角錐に切り分けられます。
 四角推の方を「陽馬(ようま)」、三角錐の方を「鼈臑(べつどう)」といいます。鼈(べつ)はすっぽん、臑(どう)はすねのことで、鼈臑(べつどう)とはすっぽんのすねの骨という意味です。
 「ぜんと」、「陽馬」、「べつどう」という言葉は、中国の『九章算術』という古い算数の本に出ています。それより前にもあった「算数書」にも出てきます。
 「陽馬」は2つの「べつどう」に分けられます。このときできた2つの「べつどう」は鏡像の関係にあります。移動で重ね合わせられない立体です。


 ところで、「ぜんと」から陽馬を除いた、「べつどう」と、陽馬を半分にしてできた、「べつどう」とは全然違うのではないかと思う人もいるのではないでしょうか。4つの面の形に注目して展開図で見てみましょう。

となり、まあ同じものとみてよいでしょう。
 「ぜんと」や「陽馬」はそれぞれすべて合同ですが、「べつどう」は合同なものと、鏡像のものがあります。「すっぽんのすねの骨(鼈臑)」はよくぞ言ったものです。すっぽんにも左右のすねがありますからね。また、「べつどう」は4つの面が直角三角形であることも特徴です。
 「べつどう」の体積は「ぜんと」の で、



 陽馬の体積はもとの立方体の でもあります。


 これらのことばは、錐の体積を分かりやすくします。また、立方体の3つの面に陽馬を張り付けると面が連なって6面体ができます


3つの正四角柱の交わりのイメージ
 この6面体を8つ集め、直角二等辺三角形の面を張り合わせると、また面が連なり、「3つの正四角柱の交わりの立体」にあたる12面体ができます。イメージできるでしょうか。


 3つの角柱の交わりは1987年麻布中の5番に出ています。その後、3つの円柱の交わりの問題があちこちの大学で出るようになりました。

付記
 この原稿は難しい字を使っているので、みんな嫌がるかなと思って、「算数科」の何人かに聞いたところ、概して好評なので、気をよくして出してみました。「学校選択」の編集部からも難色がなく、「へえ。皆さんこんなすごい字に抵抗ないんだ」と再認識しました。私としてはちょっとオッカナビックリでしたが、……。

参考 1987年 麻布中の5番
 類題が今年(2010年)の栄東中Aの5番に出ています。栄東中Aは他の問題もなかなかよい問題だと思いました。追って紹介したいと思っています。

問題
  1辺の長さが6cmの立方体があります。その立方体の各面に,次の図1の正四角すいを図2のようにはりつけます。(図2は,2つの面に対してだけはりつけてあります。)
 このとき,2つの正四角すいの頂点A,Bを通る直線と立方体の辺CDが交わりました。
 立方体の6つのすべての面に図1の正四角すいをはりつけて新しい立体(ア)を完成させるとき,次の各問いに答えなさい。

(1) 立体(ア)は図2の四角形ACBDと同じ形の四角形から作られます。立体(ア)には,この四角形がいくつありますか。
(2) 立体(ア)の体積を求めなさい。
(2010年 栄東中5番)
★答え★ (1) 12個 (2) 432㎝3
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10. 太陽の馬~立方体の部品~ (2010年 灘中2日目2番)
 前節で述べたことを、一度知っておけば、次の問題はがぐっと解きやすく感じられることでしょう。

問題
 図のような形をした厚紙A,B,Cがそれぞれ何枚かあります。AおよびCの厚紙は点線で必ず折り曲げ,これらの厚紙を何枚かつなげて,立体を作ります。ここで,「つなげる」とは等しい長さの辺どうしをくっつけることを意味します。また,Cの厚紙の中で,等しい長さの辺どうしをくっつけてもよいとします。つなげた辺でも必ず折り曲げ,他の部分では折り曲げないものとします。また,厚紙は裏返して使ってもよく,厚さは考えないものとします。

(1) Aの厚紙2枚とBの厚紙1枚を使って,5つの面をもった立体を作ります。下の解答欄の図形に線や点線をかき加えて,この立体の見取図を完成させなさい。ただし,辺の見えている部分は線で,見えていない部分は点線でかきなさい。
(2) Aの厚紙2枚とCの厚紙1枚を使って,7つの面をもった立体を作ります。下の解答欄の図形に線や点線をかき加えて,この立体の見取図を完成させなさい。ただし,辺の見えている部分は線で,見えていない部分は点線でかきなさい。

(3) (2)の7つの面で囲まれた立体の体積を求めなさい。
(2010年 灘中2日目2番)
■解法■
(1) ちょうど1つの陽馬ができます。


(2) 立方体から1つの陽馬を抜き取ったような形になります。


(3) 6×6×6×(1- )=144(cm3
★答え★ (1)(2) 解法参照 (3) 144㎝3
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11. 団子ではなく団円 田辺寿美枝(たなべすみえ)氏
 前回の「キッズレーダー」で原稿では、
三人同行七十稀、五樹梅花廿一枝,
七子団圓月正半,除百零五便得知。
この詩は、3で割った余りに70をかけて、5で割った余りに21をかけて、7で割った余りに15をかけて、その三数の和から105を、ひけるだけひくと、人数が求まるという意味です。
と書きましたところ、キッズレーダーの編集部で
この詩の意味は、「3で割った余りに70をかけて、5で割った余りに21をかけて、7で割った余りに15をかけて、その三数の和から105を、ひけるだけひくと、人数が求められる」ということです。
と変えてきましたので、この詩の表向きの意味
 3人の70歳のお年寄りが並んで歩いている。5本の梅に21本の枝、7個のだんご、十五夜の月、105をひくとわかりうる。ということです。と添え書きし、「意味」の位置をもどすように指示したところ、「これは面白いこれを載せましょう」とおだてられて載せることになってしまいました。
 「三人同行七十稀」の意味も、「70歳の3人が同行している」ではなく、「同行している三人の年齢は合わせて七十歳」という意味かもしれないという思いがよぎりました。「七子団圓月正半」の意味も、「七」と「十五」を導き出すヒントということが重要で、表向きのナゾの意味は別にどうでもよいと思っていて、月正半は十五夜を表すので、七子団圓を7個の団子としてしまいました。
いったん、キッズレーダーに書いてしまいましたので、WEB記事もそれに合わせて書きましたが、七子は「7人の子ども」という意味ではないか。
というご指摘を、田辺寿美枝(たなべすみえ)氏から受けました。言われてみると「そりゃそうだ」と気付きました。
 三人同行七十稀は、3×70に結びつけたほうがよいので、「70歳の3人が同行している」でよいと思っています。たとえ作者程大位がどういうつもりで書いていようとも、という感じがします。
五樹梅花廿一枝は「21の枝をもつ梅の花が5本」ととると、21×5になる。
七子団圓月正半では、「七子の団円、十五夜」でも、7×15にならないなあという感じがします。
 程大位がもとにしたのであろうと思われる候補のいくつかの詩も詩の表向きの意味はさほど重要ではないと今でも思っていますが、「七子の団円」の語の意味は「七人の子が団円を作っている(集まっているという意味)」というのは動かしがたく正しいと思います。
 こういうことを大事になさっている方には不愉快かもしれないと思います。
さて、みなさんはどんな風に書いているかなあと思い、google,yahoo,gooなどの検索エンジンで「七子団円」と入れたところ、いずれも、私が書いた先月の記事が早くも筆頭に挙がっていました。
 正しいのがたくさんあればご愛嬌ですが、このサイトが筆頭になっているのであれば、直さないと間違えて覚える人が出るといった悪影響が出そうですね。
三人同行七十稀、五樹梅花廿一枝,
七子団圓月正半,除百零五便得知。
 私は、
3人の70歳のおじいさんが歩いている。
5本の木に、それそれ21個ずつ梅の花が咲いている。
7人の子どもが真ん丸な円を作っていて15夜の月のようだ。
105を引くと、知るを得る。
を訳とします。これは、田辺氏の助言を参考に私なりに書いたもので、田辺氏自身のご指示通りではないので、そういうことにします。おそらく、早晩、田辺氏自身の訳が発表されるのではないかと思います。
 ありがとうございました。田辺氏には深くお礼申しあげます。先月の記事は近く更新しようと思います。(というか、WEB編集部の川畑さんにお世話になるのですが……)
 専門家にご指導いただき深謝に堪えません。今後も恥をかきかき勉強したいと思います。
 なお、次のサイトですてきな田辺氏のお写真が見られます。
田辺寿美枝(たなべすみえ)氏
和算研究家 聖心女子学院教諭 『和算の辞典(朝倉書店)』執筆者
http://gp.math.meiji.ac.jp/activities/2006/sk/07.html
 江戸時代に急速に発達した日本固有の数学和算。和算を歴史から紐解き,その生活に根ざした計算法,知的な遊戯としての和算,各地を旅し和算を説いた人々など,さまざまな視点から取り上げる。
http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11122-4/
 後にリンク先を示した、田辺氏の『勘者御伽雙紙』の翦管術 (数学史の研究)も面白いです。
 この中で、ちょうど「鬼谷算」と「鬼谷算の解法」が載っています。実は、『勘者御伽雙紙』は東北大学付属図書館蔵書で見ていて、ここに書いてある「算数的な意味」は数からたどって私にも読み取ることができますのでご紹介します。

第19節
 7で割って3余り、5で割って1余り、3で割って2余る数はいくつか。
答えは101である。
解法
3×15=45
1×21=21
2×70=140
45+21+140=206
206-105=101

【補足】
15は7で割って1余る3、5の公倍数
21は5で割って1余る3、7の公倍数
70は3で割って1余る5、7の公倍数
105は7、5、3の最小公倍数

第20節 315減算
 5で割って3余り、7で割って4余り、9で割って5余る数はいくつか。
答えは158である。

解法
3×126=378
4×225=900
5×280=1400
378+900+1400=2678
2678-315×8=158

【補足】
15は5で割って1余る7、9の公倍数
225は7で割って1余る5、9の公倍数
280は9で割って1余る5、7の公倍数
315は5、7、9の最小公倍数

第21節 63減算
 7で割って3余り、9で割って5余る数はいくつか。
答えは59である。
解法
3×36=108
5×28=140
108+140=248
248-63×3=59
【補足】
36は7で割って1余る9倍数
28は9で割って1余る7の倍数
63は7、9の公倍数
 本文には補足は入っていないこと以外は本質的には同じことです。訳としては不正確ですが、算数の学習には間に合うと思います。

正確な訳は専門家田辺寿美枝氏の次の論文をご覧ください。
『勘者御伽雙紙』の翦管術 (数学史の研究)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/81479/1/1583-3.pdf

 ところで、『勘者御伽雙紙』は中根彦循が子ども向けに書いた本と伝えられていますが、目次の次にある第1節「小町算の事」の中に見開き2ページの絵がかいてあり、この図の右下のほうに女性が
「あの侍はよい男じゃ」
と言っているのが笑えます。


中根彦循『勘者御伽雙紙』の挿絵(部分) 東北大学付属図書館蔵書
http://www2.library.tohoku.ac.jp/wasan/wsn-smnl.php?id=001421&cls=l&km=1&v=1


中根彦循『勘者御伽雙紙』 東北大学付属図書館蔵書
http://www2.library.tohoku.ac.jp/wasan/wsn-smnl.php?id=001421&cls=l&km=1&v=1
右ページ
 「今年は こぶち 売りじゃ」「やみげん こなら 売ってしまを」
左ページ
 「むつかしそうなことじゃ。ひまがいろにいねむろ」「なんぎなことじゃ」「さような ことは できませぬ」「3色にて ぜにのかず ほど ほしい」「それでそろばん もたしてきた おれがしてやろう」
 この読みも、田辺寿美枝(たなべすみえ)氏に教えていただきました。また、「こぶち売り」は「投げ売り」の意味の江戸時代の言葉だそうです。このことも併せて、教えていただきました。これらを加えることにより、拙い本稿のレベルが上がったような気がします。誠にありがとうございました。
 現在、東北大学の中根彦循『勘者御伽雙紙』 はちょっとたどりにくいようです国立図書館のものがたどりやすいようです。


 では、今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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