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〔歴史〕

≪大和世≫


【平民苗字必称義務令】
 内地では1975(明治8)年に平民苗字必称義務令が発令されたが、沖縄県設置に伴い、琉球人も苗字を名乗ることが義務化された。それまで士の身分だった人たちは士族となり、士が名乗っていた家名や農民が名乗っていた名島は、転勤や移住によってその都度変わっていたが、これ以降は戸籍に登録する苗字として固定されるようになった。人々はやはりそれまでの習慣から、その時点で自分が住んでいた地域の名前をそのまま苗字として登録したが、この時は今と違い、漢字の苗字もうちなー口で読むものだった。
 例えば、「比嘉(ふぃじゃ)」、「大城(うふぐすく)」、「喜屋武(きゃん)」などである。


【旧藩王上京】
 他県では、廃藩置県と同時に旧藩主は居城を政府に明け渡して上京し、旧藩邸に住むことが義務付けられたが、沖縄においても旧藩王・華族尚泰に対して、上京の命が下された。
 4月13日午後。侍従・富小路敬直は宮内卿から尚泰への親書を携えて松田道之と共に中城御殿を訪れ、尚泰に上京するよう命じた。旧王府の士族たちが、尚泰が今なお病中であることを理由に、何とか上京を引き伸ばしてもらうように嘆願を繰り返したこともあり、尚泰に先立ってその嫡男である尚典が松田や富小路と共に4月27日に船に乗って上京。一ヵ月後の5月27日には尚泰と第二王子の尚寅も上京。琉球の“国王”が東京へ連れ去られてしまうという事態に、士族たちは嘆き悲しむ者も多かったが、清国が援軍に来て日本を追い出してくれるまでの辛抱だと信じていたらしい。


【旧慣温存】
 琉球処分から二ヵ月後の1879年5月19日。初代沖縄県令として鍋島直彬が赴任。日本の各府県の知事・県令は士族階級者が任命されることが一般的だった中、旧肥前鹿島藩の大名だった彼が県令に任命されたのは、華族の権威を利用して琉球処分から間がない沖縄県政の確立を企図しての人事であった。県庁が那覇に置かれて県政がスタート。公務員の多くは藩閥出身者によって占められ、警察関係は旧薩摩藩(鹿児島県)、行政職員のほとんどが長崎県(現在の佐賀県の地域)出身者によって占められた。
 6月25日。鍋島は政府の意向により、沖縄県政の方針として、「旧慣温存」を表明する。旧慣温存とは、当面の間は琉球王朝時代から行われていた制度を残し、急激な改革は行わないということである。
 明治維新以降、内地では廃藩置県、四民平等、廃刀令、秩禄処分など、旧支配層(士族)の特権を奪う政策を次々と断行したことにより士族らの反発を招いていた。各地で反乱が勃発し、琉球処分の前年には内務卿・大久保利通が石川県士族によって暗殺されるという事件まで発生していた。そうした抵抗勢力が現れることを防ぐために政府は、沖縄では急激な政治改革は行わず、長い年月をかけて少しずつ制度を新しくしていくという方針をとったのである。しかしこれが原因となり、明治という時代の中で目まぐるしい近代化を遂げる日本の中で、沖縄だけが大きく取り残されていくことになるのである。
 ともあれ、旧慣温存政策により、那覇や首里をはじめとする各間切の役場の職員は王朝時代の役人や官吏が引き続き採用された。


【琉球士族による反日抵抗運動】
 鍋島県令が赴任して間もなく、援軍を要請するために清国へ行っていた亀山親雲上が沖縄に帰ってきた。そして、中城御殿にいる旧王府の士族たちに清国が間もなく援軍に来てくれるという朗報をもたらした。内地から来た警察がすぐに亀山を捕らえ、拷問にかけると、亀山は士族たちに報告した話は皆を安心させるためのでっち上げだということを暴露。釈放された亀山は士族たちから「拷問に負けてヤマトに国を売った徒輩」として批判の的にされる。警察は今度は保護という名目で亀山の身柄を確保するが、警察で乱暴な扱いを受けた亀山は10日後に死んでしまう。

 これを皮切りに、旧王府の頑固党士族らを中心とする反日勢力は、日本による新県政に対する不服従運動を各地で展開した。

 役所に対する業務のボイコットのみならず、役場を閉鎖して徹底抗戦の構えを見せる者たちもいた。反日運動は宮古・八重山諸島の役場にも広がり、
「日本の命令を奉じる者は首をはねる。もしも日本に反抗したことで命を落とす者がいれば、その遺族は共有金で面倒をみる」
といった署名血判が各地で交わされた。そのため、役場を辞職したり、辞令の受け取りを拒否する者が次々と現れ、役場の業務は大いに混乱する事態に陥った。

 八重山ではこんな事件も起きている。県庁からの辞令書を交付するために巡査を伴った職員が八重山在番(現在でいう支庁)に来たが、旧王府出身の士族たちは受け取りを拒否。県庁職員は在番職員の渡慶次(とけし)親雲上を呼び出して訓告し、県庁への協力を約束する誓約書を提出させた。
 しかし、渡慶次親雲上は県庁、つまりは日本に屈してしまったという責任と、反日抗議を貫く意思表示のため、首里に向かうために乗船した船から投身自殺をしてしまう。


【サンシイ事件】
 宮古島では、「いかなる事情でもヤマトには服従しない。これに背く者は処刑し、一族を流刑に処する」という盟約状が回覧され、役人から島人に至るまで多くの人々が署名した。
 そんな中、下里村の下級士族・下地利社(しもぢりしゃ)という若者が通弁兼小使いとして警察に雇われた。
 警察と島人は対立状態だったため、下地は島人たちから白い目で見られることになる。あるとき、下地が女性に乱暴をはたらいたという根も葉もないデマが流れ、住人たちは怒り狂い、こん棒や木刀などの武器を持ち、二千余の群集が下地が勤務している派出所に殺到、投石をしながら「下地を出せ!」と警察官に迫った。警察官は下地を守ろうとしたが、暴徒化した群集は下地を外へ引きずり出し、撲殺してしまう。
 「賛成」のことをうちなー口で「サンシイ」というが、下地が日本の施政へ賛成したことから、この事件は【サンシイ事件】と呼ばれている。


【被支配層の葛藤】
 軍隊を率いて琉球処分を断行するためにやってきた日本政府に対し、琉球人たちは当然のことながら恐怖を感じたはずであるが、薩摩侵攻以来の圧制に苦しんできた農民層や、下地利社のような貧窮した下級士族の中には、むしろ日本による支配を“農奴解放”ととらえる人々も少なからずいた。
 琉球処分官の松田道之は大湾朝功などの探訪人(スパイ)を使って、民衆の動向を徹底的に調査し、
「平民輩は藩政の過酷を怨み、内地の直轄を希望するの念があり、士族の中でもその考えを持つ者があるが、藩庁の建議をおそれて黙憤している」
という報告をあげている。大湾朝功は無禄士族で、「琉球処分に反対しているのは民衆を搾取している側の士族たちであって、彼らは自らの保身のために抵抗しているだけである。我は民衆を救うために日本の統治を望む」という内容の告発書も提出している。
 しかし一方で、農民層の人々は長年に渡って圧制に苦しんできたものの、国王を崇拝する気持ちは強く、数百年に渡って信仰してきた琉球神道を禁止され、1880(明治13)年からは日本式の義務教育を強要されるなど、琉球人としてのアイデンティティを否定されるという屈辱感も味わっていた。
 当時の沖縄の民衆たちは、圧制からの解放に期待を持ちつつも、琉球人としてのアイデンティティの侵害に傷つくという葛藤を抱いていたのである。


【沖縄支配に手こずった大和人(やまとんちゅ)】
 とはいえ、日本による支配に反対する士族層は多く、沖縄県設置当初は、沖縄に派遣された政治家たちもかなり辛苦を舐めさせられている。
 琉球処分官・松田道之は各地間切の役場で展開された反日運動に悩まされ、精神病に病んでしまう。1879年8月に帰京し、東京府知事に就任するが、精神病からくる吐血や半面痛に悩まされるようになり、3年後に亡くなる。
 初代県令鍋島直彬は糖業を奨励したが、琉球王朝時代から利益を独占してきた鹿児島系寄留商人や琉球士族からの反発を買い、在任2年で辞職に追い込まれている。


【深まる日清両国の対立】
 「脱清人」といって、沖縄から清国に亡命する頑固党の士族が多数いた。彼らは琉球王国の復活のため、清国に助けを求めたのである。もちろん、彼らもまた王朝時代の自分たちの利権を取り戻したいという我欲があった。
 清帝国政府も、日本の沖縄県設置に関して、日本に厳重な抗議をした。戦になるかもしれないとの憶測も飛び交うなか、アメリカの前大統領グラントの仲介により、日清間で琉球帰属問題について外交交渉することになった。
 1879年5月。グラントは清国政府の北洋大臣・李鴻章の要請により、日本側に対して「琉球分島案」を提案した。
 日本が主張したのは、沖縄本島以北を日本、宮古・八重山諸島を清国領にするという「琉球二分割案」。同時に、日本の商人が清国内部において欧米諸国並みの通商が出来るように日清修好条規を増約するという条項も提示した。
 これに対し、清国の李鴻章が主張したのは、奄美諸島以北を日本、沖縄本島とその周辺離島は琉球王国として独立、宮古・八重山諸島は清国領にするという「琉球三分割案」だった。
 いずれにしても、琉球(沖縄)の領土を引っ張り合うという、両国が自分の都合だけで論議をしていただけであった。交渉は平行線をたどっていたが、当時の清国はロシア帝国とも国境紛争を抱えており、日本はこうした清国の不安をうまく煽り、1881年2月には日本案での調印を交わす直前までこぎつける。
 しかし、直前になって清国は調印を延期する。日本側の案を飲むことによって、ただでさえ米英葡といった諸国に占領されている国内市場がさらなる混乱に陥るということと、沖縄を足がかりにして朝鮮に侵攻してくるのではという不安があったためである。
 結局、林世功をはじめとする脱清人らによる調印阻止運動も相まって交渉は決裂。帰属問題はうやむやのままになってしまう。林世功はこの運動のなかで、抗議のために自決して果てている。


【沖縄の発展に尽力した大和人】
 1880(明治13)年には、内地に遅れること8年にして初めて沖縄に小学校が設立され、その数は徐々に増えていくが、当初は内地と同様、百姓の家では子供も農業・漁業に専念させるところが多く、就学率はなかなか上がらなかった。しかし内地と違うのは、内地では明治20年時点では適正年齢児童の45%が就学していたにもかかわらず、沖縄では7%にしか届いていなかったという点である。沖縄の学校教育の普及は、内地に比べてかなり遅れていたのだ。
 当時、沖縄の小学校で教えていた授業は、「小学入門」「いろは」「沖縄対話」などの教科書だった。沖縄対話とは、日本語とうちなー口の違いについて書かれた教書で、教師は主に日本語が堪能な首里の士族が充てられ、うちなー口しか話せない子供たちに対する日本語教育の徹底化が図られていた。

 1881(明治14)年5月18日。旧米沢藩主・上杉茂憲(もちのり)が第2代沖縄県令兼判事(当時は行政と司法は分離されていなかった)として赴任する。
 上杉茂憲は1844年4月15日、米沢藩上杉家の嫡子として生まれる。1868年に幕府軍と新政府軍の間で起きた戊辰戦争では、米沢藩は奥羽越列藩同盟に参加するものの、小松川彰仁親王率いる新政府軍が迫ってくると戦うことなく降伏。茂憲は新政府軍の先鋒として庄内藩に向かい、降伏させることに成功している。茂憲の父で当時の藩主・斉憲が隠居を命じられてからは茂憲が第13代、最後の米沢藩主となった。版籍奉還によって知藩事に任命された後、廃藩置県によって東京に移住。
 県令として来琉する際、茂憲は希望人事により、米沢藩時代の家臣で、自分の側役をしていた池田成章を沖縄県権少(ごんのしょう)書記官として一緒に赴任させる。
 茂憲は学校教育の重要性を熱心に説いて回るとともに、一般の民の意見を大事にした県令だった。来琉した茂憲はすぐに県の実情を把握するため、沖縄のほぼ全域(離島へは汽船を用いたが、陸路は江戸時代と同じ駕籠を利用)を視察し、住民から実状を直に聞きとり、記録を残している。足場が悪く、籠を降りなければならない箇所もあったが、彼は決して物見遊山ではなく、沖縄の実情を把握するために休む間もなく回った。間切役場だけでなく、民家を訪問して民衆の生活実態を見たり、設立されたばかりの小学校に赴いて子供たちに試験をさせて優秀者に褒美を与えたり、高齢者を集めて慰労を行なったりもした。
 産業発展には人材育成、教育の普及が要であり、教育こそが国を支える人材の育成に不可欠であるとして、彼は各間切の役人に対して、子供たちに読み・書き・算盤を教えることの大切さを説いた。

 視察を終えた茂憲は、沖縄では学校教育の普及が不十分であり、貧困、宿債(借金)に喘いでいる民衆が多いということが分かった。
 当時の沖縄には「欠補糖」という制度があった。これは住民が間切役場に砂糖を納めたら、役人はさらにそれを税として県に納めたが、自らの収入を補填するためにさらに住民から上乗せで上納させるという税制度だったが、沖縄視察を終えた茂憲はこれを廃止。
 また、明治政府が沖縄県限定で強いていた旧慣温存政策が民衆を圧迫する要因であるとして、1882(明治15)年3月には自ら上京して政府に県政改革案の上申書を提出する。
 上申書は茂憲が書いたものと、池田書記官が書いたものの2通あった。茂憲の上申書は主に平民から税を搾取している吏員の整理を訴えるものであったのに対し、池田の上申書は、蝦夷地(現・北海道)と沖縄に対する国家予算の支出差が述べてあった。当時、蝦夷地開拓使につぎ込まれていた国家予算は100万円以上にも上るのに対し、沖縄に対しては65万5千円余にとどまっていたのである。尚且つ、沖縄県民からは20万円以上の税を搾取していた。
 上申書に書いた県政改革のメリットしては、吏員整理をすることによって債務の返済に充てることができ、県民にも政府の威光を知らしめることができるということも盛り込まれていたが、時悪くも当時の内地は国会開設問題や開拓使官有物払い下げ事件、自由民権運動などによって世情が混乱しているときであり、とても沖縄問題に真剣に向き合っているような余裕は政府にはなく、茂憲に対する返答もなかなかこなかった。
 茂憲は5月29日、再度上申書を提出する。沖縄37万余人の県民が枯渇に喘いでいるという窮状、そしてこうした県民から附届を収納したり、農民を使って自分の畑を耕させたりするといった間切役人の横暴さを訴えるものだった。
 政府としてはやはり旧慣温存をすぐに改めるといった改革に手が回せる状況ではなかったが、担当者である旧長州藩士の内務大臣・山田顕義、旧薩摩藩士の大蔵大臣・松方正義らはさすがに胸を打たれ、茂憲の情熱こもった陳情に一応応える形で、沖縄の民情を視察するという名目で、7月に太政官参事員議官補・尾崎三郎、参事員書記生・白倉通倫(みちのり)の二人を派遣する。
 8月17日〜31日にかけて、二人は茂憲とともに先島諸島を視察してから帰京。政府に二人が見た沖縄の実情を報告するが、尾崎と白倉が報告したものは、「県民は生活に困っている者もなく、政府の新政に対しても有り難きことのみという認識を持っている」という、事実からはかなりかけ離れたものだった。
 政府からなかなかはっきりとした返答がこない中、茂憲は県政の改革案をまとめる。それは、

 ・「日用銭」とよばれる、百年以上前に書かれた台帳に沿って付けられた、時価の何倍もの食料品などを役人が徴発する税の廃止
 ・果樹、刳り舟などに課される「浮得税」のうち、不当に二重課税されていた分の廃止
 ・地方役人の人員削減
 ・小学校設立の奨励

などであった。
 こうした動きを知った明治政府は、茂憲の急進的な県政改革案が政府の旧慣温存政策に反することであり、政府に対する反発にもなりかねないとして、対策会議を開く。
 折しもこのころ、粟国島では島人たちが役人の徴税徴収の不正を暴き、課税帳簿の公開を求めて村吏の住居を襲撃するといった事件が発生。騒ぎは瞬く間に島じゅうに広がり、翌年まで続くことになった。これには茂憲もやむなく鎮圧に向かっている。
 こうした流れを受け、政府は上杉茂憲を更迭することを決定。茂憲は解任されて元老院議官に転任。茂憲の希望人事によって共に沖縄県政にあたった池田成章も東京に戻って大蔵省に出仕することになるが、1885(明治18)年に内閣制度が発足すると同時に非職となり、家族とともに米沢へ帰郷することになる。

 沖縄の歴史上、おそらく誰よりも沖縄の発展のために尽力した大和人、上杉茂憲は志半ばで県令職を解かれるが、彼が沖縄に蒔いた人材育成、教育の種は、その後の沖縄の歴史の中で大きく花開くことになる。
 彼は1882(明治15)年、謝花昇、太田朝敷(ちょうふ)ら5人の第1回県費留学生を東京に留学させている。
 謝花昇は後に沖縄自由民権運動の中心となる沖縄倶楽部を結成。太田朝敷は沖縄の日本同化思想を唱える代表的な人物となるのである。
 また、茂憲は離任時、3000円という、当時としては多額(当時県令の月給は200円)の私財を奨学資金として沖縄県に提供して沖縄を離れているのである。

 山形県米沢市に、上杉家廟所がある。米沢藩上杉家の歴代藩主が祀られている墓所だが、明治以降に死去した藩主からは東京に墓所がある。しかし、茂憲のみは沖縄県民有志から県令時代の功績を称えられ、上杉家廟所の歴代藩主廟に並んで記念碑が建立されている。


【皇民化政策による琉球人アイデンティティの侵害】
 上杉茂憲が更迭されると、代わって県令に任命されたのは、旧土佐藩士の岩村通俊だった。岩村は1840年生まれ。土佐藩では人斬りで有名な岡田以蔵に剣術を師事。戊辰戦争の際、世に言う小千谷会談で長岡藩の河井継之助と会談し、武装中立を主張した河井の弁を一蹴して新政府軍による徹底攻撃へと導いたり、維新後は蝦夷地開拓使で強硬的ともいえる手法で北海道の開拓に貢献。西南戦争では鹿児島県令として鹿児島に赴き、内乱の鎮圧に貢献した人物である。彼は上杉が奨励した小学校設立を否定し、政府の旧慣温存政策を固く守った。明治維新の際、強引で強行的な手段で新時代を切り開くのに一躍担った彼は、政府にとっては、上杉によって始まりかけた県政改革を徹底的に破壊するのに適材だったのである。
 しかしそのわずか8ヵ月後には、旧彦根藩士で、岩村より3つ年下の西村捨三が県令として赴任。西村は明治維新の際、下総国流山(現・千葉県流山市)で新撰組の近藤勇捕縛にも立ち会った人物である。彼は北大東島、南大東島の調査を行い、日本への領土編入に成功する。大東諸島は明治末期以降、リン鉱業、砂糖の製造、農業が活発に行なわれるようになり、沖縄や台湾などから沢山の出稼ぎ労働者が移住することになるのである。また、学校における英語教育を奨励するなど、一定の功績を挙げる。
 1886年4月には、旧薩摩藩士で、警視総監などを歴任した経歴のある大迫貞清(当時61歳)が県令として赴任。7月には制度改正により、初代県知事となる。彼は県庁で働いていた大勢の沖縄人職員のリストラを強行し、代わって内地人の職員を就かせた。

 1888(明治21)年9月。旧土佐藩士で明治政府の内務官僚を歴任した丸岡莞爾が沖縄県知事に就任。翌1889(明治22)年2月11日に大日本帝国憲法が発布されると、丸岡は沖縄県においても皇民化政策を実施して、学校などの公共場所における日本語の使用、天皇・国家神道の崇拝などを強要し、それまで琉球人が信仰していた御嶽を日本式の神社として改めさせ、敷地の入り口に鳥居を増設させたりなどした。
 琉球では古来より、男性はカタカシラとよばれる伝統的な髪型を結っていたが、これも廃止され、カタカシラで学校に登校した生徒はその場で髪を切り落とされたという話も残っている。
 皇民化政策は、日本人こそがもっとも優れた民族であり、日本人は全て天皇の臣民であるとする思想を概念としていた。沖縄人やアイヌ人も内地人と同じ“日本人”であるとする位置付けに置かれたが、その一方で、これらの沖縄人やアイヌ人に対しては一層の差別がなされ続け、こうした差別が昭和のアジア太平洋戦争時の沖縄地上決戦へと繋がっていくのである。


【日清戦争と県内派閥闘争の終結】
 日清両国の対立が深まり、今にも戦争が始まりそうな機運が高まってきた1893(明治26)年9月15日。県内初の新聞となる「琉球新報」が隔日刊新聞として発行開始。この新聞社は琉球王朝最後の国王尚泰の四男・尚順、太田朝敷によって設立されたもので、日本寄りの記事を掲載していた。
 翌1894(明治27)年に日清戦争が勃発すると、頑固党は旧王族の尚家の支援を受けて清国の戦勝祈願をして勢力を広げ、開化党は琉球新報を通じて日本軍の勝利を報じるなどして、両者の対立はまたもや過熱する。
 戦中、清国の南洋艦隊が沖縄にやってくるという噂が流れた。県民はかなり信じ込んでいたようで、師範学校の生徒は義勇団を結成して、首里城にいる日本軍に加勢することを決めていたらしい。また、内地出身の商人、官吏らは自主的な武装組織を作り、南洋艦隊が攻めてきたときは久米村の中国系人を成敗してから南洋艦隊に備えるという計画があったという。日清戦争中の県内はかなり騒然としていたであろう。
 しかし、清国軍が沖縄にやってくることもなく、戦争は日本の大勝利に終わった。すると、頑固党をはじめとする親清派の人々はここへきてようやく清国が沖縄を助けてくれることは不可能なんだということを悟り、親清派と親日派の対立は急速に無くなっていく。同化思想運動が盛んになるのは20世紀に入ってからだが、琉球人の日本への同化は、日清戦争の終結を機に始まったともいえるかもしれない。

 日本の勝利によって台湾が日本の植民地になると、与那国島と台湾は、内地や沖縄本島との間に1時間の時差が設けられた。
 そして、沖縄から台湾、台湾から沖縄への出稼ぎ者が頻繁に出入りするようになる。特に、沖縄本島よりも台湾に限りなく近い与那国島では、尋常小学校を卒業した者は、男子は丁稚奉公、女子は女中として台湾に出稼ぎに出た者が多かった。中学校や医学校に進学したり、理容師の資格を取る場合も、内地ではなく、台湾へ進学する者が多かったようだ。


【琉球王・奈良原繁】
 1892(明治25)年7月20日。沖縄県史上、在任期間が最長の16年にも渡った知事である奈良原繁が官選知事として赴任する。
 奈良原繁は1834年6月29日、薩摩藩の武家に生まれた。1862年に京・寺田屋で起きた薩摩藩士同士による同士討ちで生き残った人物の一人であり、同年に起きた生麦事件では、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人の家族を斬殺したのもこの人である。維新後の1872年には明治政府の特使として来琉し、首里王府に明治維新の意義を説いている。内務官僚、日本鉄道会社社長を歴任した後、沖縄県知事となった。16年にも渡って沖縄県政を振るったため、「琉球王」の異名をとったことでも知られている。


【人頭税廃止請願運動】
 着任して間もなく、彼のもとに人頭税廃止の請願が届く。請願運動の中心にいたのは、新潟県出身の真珠採取の事業家・中村十作(25歳)と、沖縄本島から製糖技師として宮古島に赴任していた城間正安(32歳)の二人である。二人は仕事のために宮古島へ到着すると、人頭税によって搾取され、疫病が蔓延して村そのものが絶滅してしまっているところがいくつもある宮古・八重山諸島の現状を目の当たりにして、この惨状から島民たちを救わなければならないという使命感に駆られたのである。

 明治政府の旧慣温存政策により、地租改正が行われなかった先島諸島の人々は相変わらず人頭税に苦しんでいた。人頭税が免除される50歳を超える頃には、何十年もの間毎日奴隷として働かされ続けた末に足腰は弱り、一人で歩くこともままならない者が数知れずいた。西表島では、草木がジャングルのように生い茂り、渓流が氾濫している箇所も多々あり、道なき道を歩くときも膝頭まで泥水に浸かっているところもあった。泥にまみれた草木は太陽熱で腐り、悪臭を放っていた。薬も買えずに衰弱死する者も多く、年々人口を減らして絶滅する集落も多かった。西表島では、この頃には既に7以上の村が消滅しているほどだった。

 奈良原は実地調査を開始し、改革に乗り出す方針も見せたが、役人の立場である士族層からは猛反発を招いた。現場の役所では請願を保留扱いにし、島民に理解を示していた役所長は騒動の責任をとって辞職に追い込まれてしまう。これによって士族と平民の対立が激化していくのであった。

 中村と城間の二人はたびたび県庁に請願を出すが聞き入れてもらえなかった。そこで二人は、帝国議会に直接請願するという行動に出るのである。
 宮古島の農民、平良真牛らを連れて代表団を結成し、船で東京へと向かったわけだが、旅費を工面するため、農民らは持っていた田畑や牛などを売ったり、借金をしたりした。中村は自らの事業資金を旅費として捻出し、中には上納された粟を盗んで換金した農民もいたほどだった。粟を盗んだ者は逮捕投獄されたが、後に弁済している。
 代表団出発当日の宮古島・漲水港は、出航を阻止しようとする士族と農民の衝突が予想され、警官隊が総動員されるほどの厳戒態勢が敷かれたが、農民らは「平良真牛があやぐ」という唄と踊りで代表団を送り出した。この時の唄が現在でも宮古島に伝わる民謡「漲水のクイチャーあやぐ」である。

 その年の帝国議会では代表団の提出した建議書は採用されなかったが、中村たちは各新聞社を回って人頭税の実情、悲惨さを訴えたり、国会議員に請願書を配布するなどの活動をしている。請願運動の最中、官憲や士族による妨害に遭ったり、奈良原知事自らが上京して脅迫まがいのデマを流されたり、代表団を崩壊させるための裏工作などの嫌がらせを受けるものの、中村は屈することなく、代表団をまとめて運動を先導し続けた。
 そして日清戦争の最中だった1895(明治28)年1月。帝国議会で請願書が取り上げられ、「沖縄県宮古島島費軽減及島政改革ノ請願」が可決。
 こうして1899(明治32)年から土地整理が進められ、1903(明治36)年には完全に人頭税が廃止された。これにより、宮古・八重山諸島の人々は266年に渡って続いた奴隷生活から解放されることが出来たのである。

 ちなみに中村十作はこの後、真珠の事業を再開して、50歳で結婚して京都に移住。彼は学生時代も自由民権思想などに触れた経験もなく、人頭税廃止後も民権運動には一切手をつけていない。彼は決して思想家などではなく、人頭税に苦しむ宮古島の惨状を目の当たりにして、離島の人々を救いたいという正義感に駆られて運動をしていた人物だったのである。


【謝花昇(しゃばなのぼる)と公同会運動】
 時は前後して1894(明治27)年。この頃、杣山の所有権や開発方法について、官有林化を進める奈良原繁知事と、住民の共有地化を主張する担当官であった謝花昇が激しく対立していた。
 謝花昇は1865年11月16日島尻郡の農家の生まれ。上杉茂憲県令時代、県費留学生として東京帝国大学農科大学に進学。在学中は幸徳秋水らに接して自由民権運動に触れた。卒業後は沖縄県技師となり、共進会、砂糖審査会、土地調査委員、民法施行委員なども同時に兼任して県政改革に携わった。一緒に留学したメンバーは、謝花昇以外は全て首里や那覇の士族で、彼だけが南部出身の農民だった。

 一方、1896(明治29)年には、琉球王朝最後の国王尚泰の次男・尚寅(しょういん)らが中心となって公同会を組織した。公同会は沖縄県の執政権(知事職)を尚家が世襲制とすることを目指して結成されたもので、かつて謝花が東京留学時代に一緒に上京した学友たちが組織の中心にいたが、謝花だけは加わらなかった。
 1897年(明治30年)、公同会の代表が上京して政府に請願書を提出。
 _縄県の執政者を尚家に任せること。
 ⊆浩者は政府の監視下で沖縄県の行政を担当させること。
 2縄県に強い自治権を与え、議会を設けること。
を要求したが、政府はこの請願を却下。すると、公同会運動はすんなり終息する。

 さて、旧慣温存政策により、杣山の管理は王朝時代から士族層の役人によって独占されていたが、謝花昇は平民による共有を主張した。
 1898(明治31)年、謝花昇は上京した際、自由民権運動の主導者でもあった板垣退助内務大臣を直接訪ねて奈良原知事による県民の弾圧的ともいえる県政を訴え、奈良原の更迭内諾を受ける。しかし、更迭直前に内閣が総辞職したために頓挫。これにより、奈良原の謝花昇への風当たりが強くなり、謝花昇は同年12月に辞職を余儀なくされる。

 退職した謝花昇は沖縄倶楽部を結成し、機関誌『沖縄時論』を発行して沖縄自由民権運動を主導。奈良原県政や旧支配者層への抵抗は最終的に参政権獲得へと発展したが、暴力団を差し向けられて襲われたり、運動資金の財源だった南陽社の経営を破産させられたりと、民権運動を次々と妨害される。
 1901(明治34)年、生活が困窮していた謝花昇は職を求めて山口県へ赴く途中、神戸駅で発狂。以来、神経を侵されて廃人状態に陥り、1908年(明治41)年10月29日に44歳の若さで亡くなった。

 ちなみに、杣山は1906(明治39)年、奈良原知事の働きかけによって「沖縄県杣山特別処分規則」が公布。杣山の官有林化が図られたが、住民を排除するために夫役を廃して租税化したために多くの杣山の管理が行われなくなり、以来、荒廃が進んでいった。


【同化思想運動の始まり】
 1899(明治32)年には、ようやく沖縄でも児童の小学校就学率が45%を超えるようになっていた。
 1903(明治36)年3月。大坂・天王寺で政府主催で開催された第5回勧業博覧会において、人類館というパビリオンが建てられた。ここでは、アイヌ、台湾の先住民族であるパイワン族、朝鮮、清国、インド、ハワイなどの人が民族衣装を着て、それぞれの民族芸能や伝統文化を披露するといったイベントが行われていた。沖縄からは民族衣装を着た女性二人が「琉球の貴婦人」として参加していた。
 歴史学では、人類館のことを「人間動物園」として、アイヌや琉球人、台湾人に対して動物的扱いをし、見世物にしていたとする批判があるが、これはあくまで各先住民族の伝統芸能を披露するという目的であって、実際に当のパイワン族の人々の間では、今でもこれを非人道的な差別ではなかったと認識している。
 しかし、日本側の思惑はともかくとして、韓国からの留学生などからは抗議の声が上がった。沖縄でも沖縄人女性の“展示”中止をもとめて、地元紙などが全県各地で糾弾キャンペーンを展開。
 上杉茂憲県令時代に東京へ留学したメンバーの一人でもあった琉球新報の太田朝敷も、
「台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」 と持論を展開。すると、実際に沖縄人の“展示”は中止になった。
 この頃から、沖縄人は日本人に同化しようという意識を持ち始めていたといえるのだが、ここでくれぐれも注目しておきたいのは、太田は「沖縄人は立派な日本人であり、台湾の高砂族やアイヌと同列視するな」という主張だったということだ。沖縄人は内地人と同じ日本人だから差別するなと言っておきながら、アイヌや朝鮮人に対しては、内地人が考えているのと同様、自分たちよりも格下の“劣等国民”として認識していたのである。
 当時の内地人は、植民地であった沖縄、台湾、朝鮮のことを実質的な“異国”として認識しており、「日本人が沖縄や朝鮮などの“異国”を支配している」といった認識を持っていたのである。台湾人は二等国民として差別をされ、アイヌや沖縄人においては“劣等国民”として位置付けをされていた。これは沖縄や朝鮮などが元々は日本とは違う文化圏の国であり、言語・習慣も全く異なる民族だったということがある。
 台湾では植民地支配が始まった当初から台湾議会設置請願運動が展開され、台湾人としてのアイデンティティの確立を求めていた。朝鮮では三・一独立運動にもみられるように、朝鮮は独立国であり、朝鮮人は日本人とは違う民族なのだという独立意識が高まっていた。
 しかし、当時の沖縄人が、こうした自分たちに対する差別を払拭するべくとった行動は、沖縄人としての独自の民族性を守ることではなく、日本人に同化し、大和人と同じ日本人になることによって、差別を無くそうという動きだった。
 おそらく太田は東京に留学していたころ、めざましいほどの近代化を遂げる内地の姿を見て、沖縄の文明、文化がどれほど遅れているかを思い知らされたことであろう。彼は「沖縄が発展していくためには、クシャミすることまで日本に似せることが必要」との考えを持っており、1900(明治33)年の沖縄高等女学校の開校式では、
「若し(日本人として)消極的に同化させやうとすれば、幾多の不利を感じなければならぬやうになります」とも発言している。沖縄人が差別を受けなくて済むようにし、沖縄を内地並みに発展させていくためには、心身ともに日本人化しなければならないということを訴えていたのである。

 1904(明治37)〜05(明治38)年の日露戦争において、沖縄出身兵士の数は3864人。このうち、一割もの兵士が戦争で死傷している。兵士らは「敵をおそれることなく上官の命に従い、身命を顧みる者なし」と称えられ、“日本人”としての沖縄人に対する見方は、大勢の血を流すことによって一定の評価を上げることに成功した。

 1911(明治44)年、京都大学助教授・河上肇が沖縄を来訪した際、講演において、
「沖縄は言葉、風俗、習俗、信仰、思想、その他あらゆる点において、内地と歴史を異にしている。これをもって本県人を以って忠君愛国の思想に乏しいというが、これは決して嘆ずるべきことにあらず」
と発言。これに対し、地元紙や知識人らは猛反発し、「忠君愛国に邁進する沖縄県民を愚弄するものだ」として猛烈に非難。中には河上を擁護する者もいたものの、河上は沖縄の人たちから批判の的にされたまま、失意のうちに沖縄を離れていく。河上としては、沖縄の独自の文化や習俗というものに対して敬意を払って発言したものだったが、日本への同化に必死になって邁進していた沖縄人にとって、この発言は許せないものだったのである。


【高橋琢哉】
 1913(大正2)年には、平民出身の高橋琢哉が県知事に就任。内地の新聞各紙は、この時既に67歳に達していた彼を県知事に任命する人事を酷評。しかし、老体に似ず元気いっぱいだった彼は個性が強く豪腹で多弁、多策。余暇をみては県内各地を巡回し県民の啓発に努めた。また、県の振興策を政府に陳情する等、機会あるごとに要路に向かって沖縄紹介に骨を折る。このため、この頃から県政に政党色が反映されるようにもなった。翌1914(大正3)年に第2次大隈内閣が成立すると、大隈首相に辞表を提出。


【鉄道開通】
 明治時代後期から、サトウキビの運搬のために手押し式トロッコ鉄道はあったが、沖縄では汽車や電車などといった公共交通機関が相変わらず無かった。しかし、1913(大正2)年12月、那覇駅と那覇港の桟橋荷扱所を結ぶ「沖縄軽便鉄道」が開業する。
 そもそも、1894(明治27)年に内地の企業家によって鉄道開通の計画は進められていたが、日清、日露、第1次世界大戦といった相次ぐ戦争によって資金繰りが難しくなったため、再三にわたって立ち消えになっていた。ここへきて、国庫補助を受ける形でようやくの開業にこぎ着けたのである。“軽便”という名前は、内地で走っている鉄道に比べて小さいサイズの車両だったのと、レールも少し狭いものが使われていたからである。
 翌年12月には「那覇」〜「与那原」間を結ぶ与那原線が開通。1922(大正11)年3月には、「古波蔵」〜「嘉手納」間を結ぶ嘉手納線が、翌年7月には「国場」〜「糸満」間を結ぶ糸満線が開通し、県民の足として活躍した。糸満線は山川駅から東風平(こちんだ)駅まで敷設する際、旧玉城村出身の県議会議員・大城幸之一が、自分の郷里である島尻郡の人たちにも鉄道の恩恵を与えるべきだと主張したことから、山川から喜屋武、稲嶺を大きくカーブして通るルートに変更されたため、このルートは「幸之一カーブ」と呼ばれた。また、嘉手納線ではガソリン車も採用されていた。
 軽便鉄道は上り坂になると極端に速度が落ちたため、汽車に乗り遅れた客が畑の中を突っ切って走り、二つ先の駅で追いついて乗車したといった逸話も残されている。


【皇太子寄港】
 1921(大正10)年3月6日。ヨーロッパ訪問から帰国した皇太子(後の昭和天皇)を乗せた船が中城湾に投錨して、日本の皇室が初めて来琉を果たした。これを実現させたのは、後に沖縄出身軍人として最高階級の海軍少将まで昇進する漢那憲和大佐だった。漢那は皇太子の訪琉をなんとか実現させようと、内務省に談判して実現にこぎ着けたのである。彼は当時、沖縄県民の誇りとして大勢の人々から尊敬を集めており、皇太子と漢那が同船した船が中城湾に入港する際は、大勢の人々が日章旗を持って大いに歓迎した。


【ソテツ地獄】
 1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦で勝利を収めた日本は、アジア市場を撤退したヨーロッパ諸国にかわり、アジア市場を一時独占。軍需品や鉱産物、薬品関係などの大量輸出によって景気は回復し、日本の工業の発達を促した。沖縄もこの大戦景気の恩恵を受けており、特産物の砂糖で利益をあげる「砂糖成金」も生まれた。
 しかし、大戦景気は長くは続かず、第一次大戦が終わって西欧勢力が再びアジア市場に進出してくると、日本の輸出は急速に減少。国内では過剰生産による戦後恐慌に陥る。砂糖の価格は下落し、1923(大正12)年におこった関東大震災や、1929(昭和4)年におこった世界恐慌も相まって、「昭和恐慌」とよばれる慢性的な不況が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲った。
 大正末期から昭和初期にかけて起きたこの恐慌を、沖縄では【ソテツ地獄】と呼んでいる。当時、沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況のため、米どころか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄を食糧にして飢えを凌いでいた。毒性を持つ蘇鉄は、調理方法をあやまると死の危険性もあるが、その実や幹で飢えをしのぐ他に手段がないほど、農村は食糧難に陥っていたのである。
 しかし、県民がここまで貧窮に苦しんでいたにもかかわらず国税は容赦なく徴収され、さらに台風や干ばつなどが追い打ちをかけた。県民の暮らしは文字通り地獄の様相を呈することになる。
 農家では身売りが公然とおこなわれ、さらには海外への移民や本土への出稼ぎが増えていった。「糸満売り(いちまんうい)」といって、貧しい農家では食い扶持を減らすために少年少女を糸満の漁民の家に「雇い子(やといんぐゎ)」として身売りすることが盛んに行なわれた。
 糸満売りはれっきとした人身売買であり、現在のモラルでいえば人道に反することであるが、当時の人々の間では、商家や地主の家に売られることに比べれば、漁師としての技術を身につけられるといったメリットもあるため、歓迎的に受け止められていたようである。
 逆に、糸満の海人の中には、当時はまだ漁師が住んでいなかった鹿児島県の徳之島に移住して漁を行なって生計を立てる者もいた。戦後、沖縄密貿易の女王とよばれた金城(旧姓・宮城)夏子の父親は徳之島に移住した海人の先駆けであり、徳之島では現在でも漁師のことを「イトマン」と呼んでいる。


【移民者の活躍と社会主義運動】
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   本県に始めて募集の殖民・海外発展の新事例

 この度東洋移民、南米殖民両会社の那覇出張所の取扱ひに依りて伯国行き殖民募集する事となった。殖民の募集は本県下始めての新事業で、海外発展の志望者多き本県には在来移民以上さらに有利多望なる新天地を与えられたものと謂って宜い

「琉球新報(1917(大正6)年6月5日付)」より
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「ソテツ地獄」のために沖縄から海外へ移民(当時は“殖民”と呼んでいた)した人々は、1923(大正12)〜1930(昭和5)年にかけて、その数は日本からの移民者の中で最大となる約1割を占めていた。
 移民船は何ヶ月にも及ぶ船旅の途中、船内で疫病して死者が多数発生した。亡くなった人は船上から水葬に伏され、海の藻屑とされた。
 このような海外移民者から沖縄の家族への送金は、県民をはじめ県経済にとっても大きな支えとなっていた。しかし、移民した人々は一部の成功者をのぞき、ほとんどが辛い生活に耐えながら働き続けなければならず、生活は困難を極めた。そうした移民者の子供や孫の世代の人たちが戦後、出稼ぎのために日本へ移住しなければならない人も多いというのだから、皮肉な話である。
 海外へ移民した沖縄人の子孫たちは現在、南米、北中米、ハワイ、ヨーロッパ、東南アジアなど、世界中の色々な地域で県人会を組織して、琉球文化の継承を担っている。

 一方、海外移民と時を同じくして、本土へ出稼ぎに行く者も多かった。出稼ぎ地はほとんどが阪神方面で、おもに製糸や紡績業などの工場労働に従事することが多かった。大阪では現在でも沖縄料理の店が多いなど、関西人と沖縄人の交流が盛んだといわれるのは、このためである。
 しかし、沖縄人たちは劣悪な条件下で働かされており、相変わらず「琉球人」と呼ばれて差別を受け続けた。
 沖縄出身者の多くは、このような苦境に立たされても県人会を組織したり、沖縄人労働者の地位向上を求めて活動するなど、出稼ぎや就学で内地へ渡った人々により、労働運動の理論や階級闘争の思想がもたらされるようになる。
 1910年代には、教員ら知識階層の間に社会主義思想が普及。小作人が地主に対して権利を主張するという小作争議もひんぱんに起こるようになる。
 1926(大正15)年には、本土での社会主義運動に関わっていた活動家を中心に「沖縄青年同盟」が結成され、各職業の労働組合の結成やストライキの指導が行われた。1928(昭和3)年、日本初の普通選挙(満25歳以上の男子対象)では、沖縄社会主義運動の指導者が立候補するなど、社会運動は盛り上がりをみせた。
 また、学生運動や教員の組合運動も盛んになり、東京の大学や高等師範学校では、沖縄出身の学生による運動が激化し、処分を受ける者も大勢いた。沖縄本島、八重山諸島では、1930(昭和5)年ごろに教育労働者組合も結成されている。
 このような沖縄における社会運動の活発化に対応して、県警察特別高等課(特高)による取り締まりも強化されるようになり、さまざまな労働組合が不当な弾圧に遭う。1930年代後半には、運動家や学生らは投獄されたり、沖縄からの脱出を余儀なくされ、沖縄の社会運動は暗雲時代をむかえることになる。

 ちなみに、1930(昭和5)年8月には群馬県出身の井野次郎(53歳)が沖縄県知事に就任。「沖縄県振興計画」の策定に尽力して、1935(昭和10)年には那覇空港の建設・開業も実現するが、日中戦争の激化などといった情勢を受けて、計画の実施は途中で見送られた。


【生活改良運動】
 同化思想は昭和に入ると、生活改良運動として推し進められるようになり、そのうちの一つが、改姓運動である。
 沖縄の人々はそれまで、漢字をうちなー口で読む苗字が一般的だったが、昭和初期に流行したこの運動により、苗字を日本語読みに直したり、内地風に改姓する動きが多くみられた。

 例えば、
「比嘉」(ふぃじゃ)→(ひが)
「大城」(うふぐすく)→(おおしろ)
「仲村渠」(なかんだかり)→「仲村」(なかむら)
「島袋」(しまぶく)→(しまぶくろ)、または「島」(しま)
「上原」(うぃーばる)→(うえはら)

といった具合である。

 琉球処分以来、県の懸案だった日本語(標準語)の励行という気運も、国家主義の高まりにともなって次第に強くなってきた。1940(昭和15)年に県当局が推進した標準語励行運動では、日本語の強制やうちなー口の禁止が懲罰などで厳しくすすめられたため、「方言撲滅運動」と受け取られた。それは、来琉した日本民芸協会の柳宗悦(やなぎむねよし)らが、標準語励行運動は行き過ぎであると批判したことから、県内外に賛否両論の「方言論争」を巻き起こすほどだった。柳宗悦は県の学務課に対し、
「標準語の励行が行き過ぎて、このままでは琉球語を見下すことになる」と申し入れている。しかし県当局は、
「沖縄県民が引っ込み思案なのは標準語能力が劣っているからであり、これによって県外で不利益を受けている。標準語の励行が県民を繁栄に導く道だ」として反発。
 この論争ははっきりした形での結論は出なかったが、日本が挙国一致(きょこくいっち)体制で日中戦争を押し進めていた時期でもあったため、標準語励行運動はむしろ強化されていった。
 戦時期、小学校、尋常小学校は「国民学校」として改称されたが、ここでも生徒たちは「一億一心、ことばも一つ」を合言葉に、標準語の励行が義務付けられていた。
 日本軍の基地が置かれていた宮古島では、うちなー口を話していると「スパイ」だと疑われ、迫害を受けるといった問題があった。そのため宮古島市内では、自宅で家族と会話するとき以外は、あらゆる場所での会話が全て日本語に限定された。


【沖縄を見下していた知事】
 1943(昭和18)年7月26日、山梨県出身の泉守紀が県知事として赴任。泉は1898(明治31)年2月11日生まれ。従来の知事とは異なり、沖縄の文化や歴史を予め勉強してから来琉するなど前向きな姿勢だったため、県民からは歓迎的に迎えられた。
 しかし、実際に赴任してみると、便所で人糞を豚に食べさせて飼育する豚便所(ワーフール)など、内地との生活習慣の違いに苛立つようになり、
「沖縄は遅れている」
「だから沖縄はダメだ」などと、沖縄を見下すようになった。
 泉は仕事に厳しく、職員に飲酒を慎むよう指導するなど厳しい態度で臨んだことから、多くの部下から反発を買った。
 次第に孤立していった泉は、1944(昭和19)年2月頃には転任願望を持つようになり、大蔵省の幹部である実兄に宛てて転任工作を依頼する手紙を出している。在任中には出張名目で沖縄県を留守にすることが多く、在任期間一年半の間に9回も出張をし、三分の一に近い175日間もの期間を県外で過ごしている。

 仕事に厳しすぎるあまり、職場の部下や、それまでの習慣を見下しているような上司は部下から嫌われ、その職場に居づらい空気が出来るといったことが今日の日本の一般社会の職場においてもよく見られるが、彼こそまさにその典型であろう。


【軍部と泉守紀の対立】
 1941(昭和16)年12月8日、日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃に始まったアジア太平洋戦争は、はじめのうちは日本軍有利に進められたが、1942(昭和17)年にミッドウェー海戦でアメリカ軍に負けてからは次第に不利になっていき、太平洋の島々がアメリカ軍に奪われていく。沖縄の人々も多く出稼ぎにいっていたサイパン島も1944(昭和19)年7月7日に占領され、多くの人々が亡くなった。
 日本政府は、アメリカ軍の次の標的が沖縄上陸であるとみた。そこで、何としても沖縄を守ろうと考えるのかと思いきや、大本営はアメリカ軍を沖縄にくぎづけにする作戦をとった。つまり、沖縄のことを、アメリカ軍の本土上陸を遅らせるための“盾”にしたのである。

 9月。鹿児島県の士族出身で、日中戦争では南京攻略などの経験のある牛島満中将(57歳)が第32軍司令官として沖縄に着任。
 牛島は生まれて間もなく父親を亡くし、幼少・少年期は貧しい家庭で育った人物だった。沖縄戦で生存した住民の証言によれば、牛島は温厚な性格で、住民に対してとても親切だったという。
 彼は無辜の住民を何とか戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ泉守紀知事と協議。しかし、牛島と泉の意見は対立を極める。
 大本営や政府中央は6月30日に学童疎開促進要綱を閣議決定していたことも相まって、沖縄本島住民のうち10万人は県外疎開させ、残りの非戦闘員は翌年2月までに島の北部へと移動させて軍と分離する方針だった。軍人の食糧確保のために、また、戦闘活動の足手まといともなる一般住民を、戦闘の中心になるであろう沖縄本島中南部から追い出す、というのが大本営の方針である。
 しかし泉は、島外疎開すべきは戦闘の足手まといとなる老幼婦女子のみで、住民は軍の補助をすべきとの方針を強調。さらに島内疎開に関しては、島の北部は未開の山地が多く、食糧調達の困難や伝染病の危険が大きいと反対し、軍や内務省などに方針転換を求めた。だが、非武装の民間人を軍とともに玉砕させるのは不合理でもある。泉は適当な代替案を提示できたわけではなく、結局は食糧備蓄の促進を図るほかないということで諦めることになる。

 果たして、沖縄から10万人の老人や婦人、子どもたちを日本本土や台湾に疎開させる計画が始まり、同年7月から翌1945(昭和20)年の3月までに約7万人が南九州、台湾へと疎開した。しかし、「日本は勝つ」と言われ続けていたこともあったのと、海の航海は危険だということを知っていた県民たちの間では、
「沖縄にいる方が安全だ」と言う人も多く、最初のうちは疎開も遅々として思うようには進まなかった。そこで、那覇市内では映画館でCMを放映したり、有識者などが市内の各所で演説をして疎開の促進を図るなどした。

 また、沖縄駐留部隊の増加とともに兵士が地元女性に乱暴するなどの事件がおきたため、軍は県内に慰安所の設置協力を求めた。これに対して泉知事は「内地である沖縄に慰安所はふさわしくない」と拒んだ。だが結局、軍は警察に対して別に働きかけ、設置が実現。先島諸島も含めれば、沖縄県内だけで125箇所もの慰安所が設置され、東京の吉原や朝鮮からも大勢の遊女が従軍慰安婦として大量に連れてこられた。

 ところで、泉は軍国主義そのものに反対をしていたわけではない。衆議院議員選挙が行われる際は、全国各地で行われていた翼賛選挙に倣い、大政翼賛会系以外の立候補者に自ら圧力をかけて立候補を断念させ、大政翼賛会の立候補者を無投票当選させている。


【対馬丸事件】
 1944年8月22日。長崎への疎開児童らをのせた対馬丸が鹿児島沖でアメリカ軍の潜水艦によって沈没させられ、学童779人を含む1476人(2005年現在の統計)が亡くなるという忌まわしい事件が起きてしまう。
 この船は全長160mを越える巨大な船だったが、窓もなく、換気もままならない船倉に設けられた2段造りの板の間の上で、児童たちは所狭しと押し込められて寝起きをした。子供たちは就寝中でも浮衣(救命胴衣)の着用が義務付けられ、風呂に入ることもできず、船倉の中は汗でびっしょりになった人たちの体臭が充満していた。
 疎開については先にも述べたように、軍人の食糧確保、戦闘の足手まといとなる子供を沖縄から追い出すというのが軍部の狙いだったが、軍部から指導を受けて疎開の準備を進めていた学校側は子供たちに対して、
「九州に行けば雪が見れるよ」などと言って説明をしており、子供たちはまるで修学旅行気分で船出の日を待っていたのである。
 中には「行きたくない」と駄々をこねる子供もいたが、
「沖縄にいるより九州の方が安全だよ」と親に諭されて泣く泣く疎開することになったという話も残っている。
 学童疎開促進要綱によれば、
「地方庁ハ疎開者ノ的確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス」とあったように、対馬丸の乗船に際しては予め名簿が作成されていたにもかかわらず、出航当日の8月21日の夕方には、名簿に記載されていても来なかった者や、記載されていないのに乗船を申し込んできた者もいたりなど、混乱の中で出航したようである。
 翌22日の夜10時過ぎ、鹿児島県沖において、「真珠湾の復讐者」とのニックネームもつけられたアメリカ潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けた対馬丸は、魚雷命中から11分後に沈没。乗船していた人のほとんどは船倉にいたために逃げるのが遅れ、何とか逃げ出して海に飛び込んでも、この時接近していた台風による高波にのまれて命を落とした人も多かった。イカダや丸太などに必死につかまって漂流した数少ない生存者は、近くを航行していた漁船などに偶然見つけられて救助されたそうである。
 なお、対馬丸は他にも、疎開者を乗せた船や護衛艦など合わせて5隻の船団を組んで航海していたが、攻撃を受けたのは対馬丸だけだったそうである。
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ひとつのイカダを何十人もの人々が奪い合っていた。はい上がる自信を失ってしまったがとりすがらなければ死んでしまう。
やっとの思いではい上がったとき男の人が「あとから入ってきたな」とこぶしで私の背を打った。私はよけいに力を込めてふんばった。
啓子さん(当時、安波国民学校4年生)
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夜が明けると、周囲に点々とイカダが浮いているのが見えた。そして、遠くに島影も見えた。
三つのイカダがつなぎ合わされ計13名が乗っていたがその重みで腰まで海水に沈んでいた。
日中は焼け付く暑さ、夜は震える寒さ。
口の渇きはどうすることも出来ない。
真勝くん(当時、垣花国民学校6年生)
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 運良く助け出された生存者らは熊本や鹿児島などへ疎開したが、生き残った人たちや遺族にはかん口令が敷かれ、事件のことを口外することが固く禁じられた。生存者や、沖縄に残された親兄弟たちは、自分の家族が死んだという事実を誰にも話すことができず、終戦後までこのことが明るみになることは無かった。
 なお、対馬丸事件については、事件発生時から数年経つまで調査が行なわれなかったということもあり、正確な死者・生存者の数は現在においても把握されておらず、遺族からの申告や、聞き取り調査などが進めば、今後も死者の数は増える可能性もある。しかし、当時はかん口令が敷かれた上に、その直後の空襲や地上戦によって遺族も全滅してしまった家庭もあるため、正確な数字はおそらく出てこないだろうとも言われている。


【十・十空襲】
 1944(昭和19)年10月、アメリカ軍はフィリピンへの進攻作戦を準備していた。これに先立ち、後方の南西諸島から台湾方面に散在する日本軍の拠点を、空母艦載機をもって攻撃。この作戦の一環として、沖縄にも空襲を仕掛けることになる。アメリカはこの時点で、日本本土上陸の作戦(ダウンフォール作戦)も立案していた。

 10月6日、アメリカ海軍第38任務部隊第2群は、沖縄・台湾方面空襲のため、西太平洋のウルシー環礁を出撃。アドミラルティ諸島などから来航した第1、第3、第4群と洋上で合流し、正規空母9隻、軽空母8隻を基幹とする大部隊となった。艦隊は洋上給油の後、沖縄へと向かった。
 日本海軍は、通信解析やパラオ基地の監視情報から、アメリカ艦隊の集結と出動は察知していたが、その目的地までは確定できていなかった。台風のため哨戒機の活動は制限されたうえ、飛び立った哨戒機は報告の間もなく撃墜されて行方不明となり、アメリカ第38任務部隊の動向をこの日以降見失ってしまった。しかし、沖縄南西沖には当時台風が北上していたため、日本軍首脳部は未帰還の哨戒機が多いのは悪天候が原因と安易に判断してしまう。そしてこれが、空襲被害拡大の要因ともなってしまうのであった。
 日本海軍は沖縄の陸軍第32軍司令部に対して警戒を促していたが、司令部はこの情報を信頼せず、輸送船に退避を命じるなどの措置は行わなかった。

 9日夜。アメリカ艦隊は日本軍に発見されることなく沖縄近海まで接近。
 こんな時、翌10日に第32軍首脳部を集めての大掛かりな図上演習を予定していた日本軍は、各地の司令官たちが那覇の料亭に集められて宴会を開いていた。

 10日午前6時前、アメリカ艦隊は沖縄本島に向けて最初の攻撃隊を出動させた。日本軍は6時20分には海軍の警戒レーダーで攻撃隊の接近を探知していたが、当時の日本のレーダーは精度が低く、「どうせ故障だろう」と判断され、報告は信用されなかった。午前6時45分、第1次攻撃隊は日本軍の北飛行場に到達し、攻撃を開始。小禄飛行場なども次々と攻撃を受けた。アメリカ艦隊はその後も午前中に第4次攻撃隊までを次々と出撃させた。宮古島など離島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ1400機近くにまで達した。

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 朝霧を受けてキラキラと光る瓦屋根、家々の軒先からいっせいに立ち昇る白いけむりは朝餉の支度であろうか。けむりはやがて中天に立ち込める真綿のような朝霧と交わり合いながら、薄紫色の霞となっておだやかに棚びくさまは、あたかも、ワイドパネルに描かれた水彩画を見るような美しい風景であった。これが私の瞼に残った最後の那覇の姿であった。
※ある一兵卒の証言。
『逃げる兵−高射砲は見ていたー』(渡辺憲央)より ==========================================

 前夜の那覇市内にある沖縄ホテルで行われていた歓迎会に出席していた指揮官が不在だった各部隊は、有効に対処することができず、航空隊の迎撃機はほとんど応戦できないまま地上で破壊された。この日の図上演習が一般隊員には単に「演習」としてしか知らされていなかったため、日本軍の高射砲の応戦などを見ても「本格的な演習をしている」と受け止めた隊員が多く、これも応戦が遅れる一因となった。
 作戦参謀だった八原博通によれば、未明に叩き起こされ、慌てて参謀部事務室へ走りながら空を見上げると、既に敵機が上空にいたということである。
 だいいち、沖縄に展開中の日本の戦闘機部隊は12機のみで、防空戦力としてはもともと不十分だった。このほかには、海軍の銀河爆撃機9機や偵察機、輸送途中の航空機があるだけという状態で、空中退避が間に合わないまま多くの航空機が地上撃破された。戦闘機部隊は離陸に成功したものの、大半が撃墜された。

 航空機以外にも日本側の被害は大きく、港に停泊中の潜水母艦など海軍艦艇22隻、輸送船4隻が撃沈され、輸送船2隻が大破。攻撃は民間人に対しても激しく及び、沖縄本島だけではなく、八重山諸島、宮古島を含める沖縄全域に及んだ。最も被害が大きかったのは那覇市(現在の那覇市の一部)で、市街地の9割が焼失して同市は壊滅。市内の死者は255名にのぼった。また、沿岸を航行中の漁船までも機銃掃射を受けた。

 こうした中、泉守紀知事は空襲の最中、警備本部や県庁には一切姿を見せず、官舎の防空壕に籠もったままだったという。10日深夜には県庁を地下壕の充実した普天間の県中頭地区地方事務所に移す県達を出し、自らも率先して公用車で避難。空襲に続いて米軍の上陸作戦の可能性があると判断したためだった。
 結果として、この行動が戦災復興や行政機能回復に足枷をかけることになり、県職員の士気は喪失、県民の間からは傲然たる知事批判が巻き起こったとされる。「県庁放棄」の情報は政府中央にも伝わり、問題視された。

 この空襲の被害によって、住民の県外疎開が促進されることとなったが、多くの住民が県内に取り残されることになる。そしてこのことが、翌年の地上決戦における悲劇を生み出すことになるのだが、この時点で、そこまで予想していた人はどれだけいただろうか…。

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 日本海軍はアメリカ艦隊への反撃のため、九州や台湾の基地から翌11日朝までに延べ40機余りの索敵機が発進してアメリカ艦隊を発見したものの、距離が遠かったために攻撃は断念された。

 ちなみに、十・十空襲により焼失した辻(つじ)の遊郭の一部の尾類たちは、牛島満司令官から、
「兵隊さんと一緒に陣地構築の手伝いをしていれば、そのうちに戦争は終わるよ」と優しく諭され、上間村の給水部隊に遊女看護婦として配置、従軍することになる。

 12月には、日本軍が中心になって行われていた看護訓練によって女子学徒隊が結成され、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒によって構成された部隊は【ひめゆり学徒隊】と命名された。これは花の名前の“ひめゆり”ではなく、両校の学校広報誌の名前をとって付けられた名前であった。


【軽便鉄道爆発事件】
 軍隊が大量に沖縄に移動してくるなか、軽便鉄道は軍用列車となり、兵隊や軍事物資の輸送に使われるようになり、一般住民は利用できないようになってしまった。そんな中、悲しい事件が起きてしまう。
 12月11日。嘉手納から大量の弾薬等を満載した列車が、普段から列車が通過するときに火花が飛び散る喜屋武駅から稲嶺駅へ向かう上り坂の途中、火花がドラム缶のガソリンに引火して列車が大爆発を起こす。学校帰りの女学生を含む200人以上が犠牲になった大事故だったが、戦時中は一切が極秘のこととされたため、戦後しばらく経つまでこの事が公にされることはなかった。


【沖縄と運命を共にした知事】
 1945(昭和20)年1月10日、東京へ出張中の泉守紀知事の後任として、大阪府内政部長・島田叡が知事に就任する。

 島田叡は1901(明治34)年12月25日、神戸市須磨区生まれ。少年時代から野球、ラグビーの腕に優れ、東京帝国大在学中は神宮球場で活躍した選手でもあった。

 この時、沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば知事の身にも危険が及ぶことから周囲の者は皆止めたが、島田は、
「誰かがどうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」
として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせ、周囲の反対を押し切り、死を覚悟して沖縄へやってきた。

 1月31日。島田は赴任するとすぐ、沖縄に駐留している第32軍との関係改善に努め、泉前知事のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開、食料の分散確保などの諸問題を迅速に処理。2月下旬には自ら台湾へ飛び、台湾総督府と交渉の末、3月に蓬莱米3000石分を那覇に搬入させた。こうした島田の献身的姿勢により、県民は知事に対して深い信頼の念を抱くようになったのである。


【アイスバーグ作戦】
 十・十空襲後の10月24日にはレイテ沖で連合艦隊がほぼ壊滅。日本の敗北はもはや時間の問題となっていた。そんな中、1945(昭和20)年2月14日には、貴族議員・近衛文麿が昭和天皇に謁見して、
「勝利の見込みの無い戦争を続けるよりも、国体護持の立場よりすれば戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信す」と具申する。しかし、これに対して天皇の答えは、
「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」というものだった。昭和天皇は多くの国民の生命や生活よりも、不名誉な降伏によって自分の地位がどうなるかといったことを憂慮し、戦争継続の方針をとったのである。歴史の流れに“もしも”はないが、この時天皇が近衛の具申を聞き入れ、戦争を終わらせていれば、沖縄は血戦の舞台にならずに済んだのだが…。

 沖縄守備軍の兵力不足を補うため、17〜45歳の現地男性が防衛隊として動員された。学生も疎開を許されることなく、学徒として駆り出された。
 日本軍の想定では、「敵は沖縄で6ヶ月頑張り、へとへとになって戦線を放棄。それからまた兵力を編成して二度目の上陸作戦に挑んでくる」ということになっており、首里城の地下壕内に第32軍司令部を設置。沖縄の守備部隊は陸軍8万6千人、海軍1万人、沖縄現地から動員された17〜45歳の男性の学徒隊・防衛隊2万人の計11万6千人である。
 それに対し、沖縄を本土攻略の重要な拠点として見ていたアメリカ軍は3ヵ年以上の戦争で蓄積に蓄積を重ねた陸海空軍いっさいの軍事力の大結集をはかり、船舶1500隻と、日本軍を上回る18万人の兵力で沖縄上陸作戦「Operation Iceberg(アイスバーグ作戦)」に当たった。作戦の指揮をとるのは第10軍司令官Simon Bolivar Buckner, Jr(サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア)中将である。

 アメリカ軍が沖縄に上陸するという危険性が本格化してきた際、「鬼畜米兵は沖縄の女を強姦する」という噂が広まった。琉球王朝時代、薩摩からの侵略を受けた際に女性たちが手首に刺青をしたという言い伝えから、沖縄の女性たちはこの時もやはり手首から掌にかけて刺青をし、自らを悪女として振舞うことによって、強姦から身を守ろうとした者もいたということである。

 3月に入り、硫黄島が陥落すると、アメリカ軍は23日から沖縄本島、慶良間列島に本格的な空襲を開始。初日だけで延べ2000機を出撃させた。翌日には戦艦5隻などが本島南部に対して艦砲射撃、上陸予定地点の掃海作業も始められた。

 いよいよ米軍上陸が迫ってきた25日午前10時ごろ、座間味村では村長や村三役、女子青年団の宮城初江らが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねて、
「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英に獣のように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」
「すでに住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」
と梅沢少佐に説明し、自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めたが、梅沢少佐は断った。そのため、村長は同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、
「少佐に自決用の弾薬類をもらいに行ったが貰えなかった。皆さん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話し、住民らはそれぞれの家族の壕に引き返したという。

 26日早朝。アメリカ第10軍は慶良間列島に上陸。
 沖縄本島においては軽便鉄道が、既に空襲によってそのほとんどが破壊されていたが、鉄道管理所長が解散命令を出したことによってその機能が完全に停止。この時以来、軽便鉄道は現在に至るまで復活を成しえていない。

 27日から、日本軍は最初の特攻機が沖縄本島から出撃するなど散発的な航空反撃を行ったが、29日には慶良間列島のほとんどがアメリカ軍に占領された。日本軍は慶良間方面には守備軍をほとんど置いていなかったため、米軍は比較的簡単に慶良間列島を制圧したのだった。

 渡嘉敷島では、米軍上陸によって追いつめられた住民は友軍を頼って丘の上にある森の中に集結。しかし、瞬く間に敵に包囲され、逃げ場を失った。刻々と迫る危機を感じた住民は、
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して国に殉ずることが国民としての本分である」として3月28日、
「祖国の勝利を念じて笑って死のう」と悲壮な決意をした。
 防衛隊員一人ひとりが手榴弾を2個づつ持っていたが、親戚縁故のまとまりを中心に1個の手榴弾の周りに2〜30名が集まり、そこで隊員が手榴弾の栓を抜いて自爆。こうして、老若男女315名の尊い命が失われたのである。
 米軍はその夜、島に露営を敷いたが、丘の方からうめき声や泣き声が聞こえてきたという。翌朝、兵士が丘の上に登っていくと、そこには無数の遺体が横たわる他、大怪我をした人が多数いた。前夜に米軍兵士が聞いた泣き声は、爆発によって死にきれなかった人たちのうめき声だったのである。
 生き残った住民たちのなかには「鬼畜米に残酷な殺され方をするくらいなら」という思想のもとに親子兄弟を絞殺する者もいた。
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キリスト信者・金城重明さんの証言

・「住民は軍から命令が出たというふうに伝えられておりまして、そのつもりで自決を始めた…」
・「母と弟妹に対する愛情による責任ということもありまして、大変強烈に心の中に残っておりますことは、兄と二人で自分たちを生んでくれた母親を手に掛けたときです。私は生まれて初めて、悲痛の余り号泣しました」

以上は『家永教科書裁判――三二年にわたる弁護活動の総括』(日本評論社)より

・「私たちは『生きる残る』ことが恐ろしかったのです」
・「死の虜になってしまっていたのです」
・「当時の『教育』の凄まじさに身震いがします」

以上は『「集団自決」を心に刻んで――一沖縄キリスト者の絶望からの精神史』(高文研)より
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 米軍の軍医達は死にかけている人々にモルヒネを注射して痛みを和らげ、 米軍の担架兵が負傷者を海岸の応急救護所まで移そうとした。すると、道筋のガマに隠れていた一人の日本兵が機関銃で担架兵を銃撃。歩兵らはその日本兵を阻止しながら、救助活動を続行。
 その後、質問に答えられるまでに回復した島人たちは、
「米国人は女には暴行、男は拷問して殺してしまうと日本兵が言った」と通訳に話した。
 島人らは、鬼畜米英だと思い込まされていた米国人が自分たちに手厚い医療手当をし、食料避難所を与えてくれた事に驚いた。
 爆発で死にきれなかった自分の娘を絞め殺した老人は、生き残った他の女性が米軍人から危害を加えられるどころか、手厚い保護を受けているのを見て、後悔の念にさいなまれたという。

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 空襲が始まると、島田叡知事は県庁を首里に移転。地下壕の中で執務を始める。以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を移転させながら指揮を執ることになる。軍部とは密接な連携を保ちながらも、とても温厚で優しい性格だった彼は、女子職員が洗顔を勧めると「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」といい、他の職員と同様、米の研ぎ汁に手拭いを浸して顔を拭っていた。

 3月31日。アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸し、そのうち神山島に野戦重砲24門を展開させて那覇への砲撃を開始。

 同日、沖縄県の14〜17歳の男子学徒1780人による鉄血勤皇隊が結成された。ガマの中で簡単な卒業式を終えたあと、年齢に応じて各部隊に配属された。高学年の多くは前線に従軍させられたが、彼らは充分な装備もさせてもらえず、爆雷(箱に火薬を詰めた爆弾)を背負って米軍への自爆攻撃を命令され、玉砕した者もいた。低学年には伝令の任務もあったが、同じ文書を複数人に持たせ、そのうちの1人でもたどり着けばよいという有り様だった。

 4月1日。アメリカ軍は日本軍の迎撃を受けることもなく、あっさりと沖縄本島への上陸を開始。米軍の従軍記者によれば、日本軍は奇妙にも静まりかえっており、上陸はあまりにも容易だったという。同日中に日本軍が何ヶ月もの期間と費用をかけて造った読谷、嘉手納飛行場を占領し、3日間で中部を制圧して、沖縄本島を南北に分断。日本軍は本土決戦を遅らせる時間稼ぎのため、サイパンなどの南洋諸島で行なわれたような水際での戦闘を避け、宜野湾以南での持久戦に持ち込む作戦をとったのである。
 しかし、これが一因となって、多くの沖縄住民が悲惨な目に遭わされることになり、米軍兵士にとっても、上陸こそあっさりと達成したものの、この後、戦史上最も苛烈で血みどろの戦闘が待ち受けていたのである。


【犠牲になる県民たち】
 4月1日に読谷村に上陸した米軍のある部隊はチビチリガマにやってきた。「ガマ」とは洞窟のことで、当時の人々は近隣住民、親族同士がガマに避難して生活していた人も多数いたのである。読谷村のチビチリガマには140人ほどの住民が避難しており、ガマの入り口に米兵が現れると、ガマの中にいた3人が竹槍を持って米兵に向かって突進するが、このうち2人が死傷。外が米軍でいっぱいであることが分かると、ガマの中はパニックになった。南方帰りの在郷軍人(満期によって除隊した高齢の男性)が布団に火をつけて窒息自殺しようとするのを、周囲の人が消火して止めるなどガマの中は騒然となった。翌日、米兵がガマの中に入ってきて投降を呼びかけ、投降勧告ビラをまいていった。
「もう終わりだ。」
 中国戦線で従軍看護婦の経験を持つ25歳の女性が、中国人住民が日本兵によってむごく殺された話を語り、
「死のう」と言った。彼女は持っていた注射器で毒薬を家族親戚15人ほどに注射。注射を打たれた人たちは死んでいった。
 その様子を目の当たりにした住民らは「あんなに楽に死ねる」と言って、再び布団に火をつけて自殺した人もおり、ガマの中は大パニックになった。最終的にガマの中では84人が死んだが、その半数は12歳以下の子供だったという。
 生き残った数十人はガマを出て米軍に投降。ガマを出たとたんに、米兵に大歓迎を受けたと感じる者もいたらしい。
 ちなみに、チビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人の住民は、英語が堪能な男性の誘導により、1人も死ぬことなく投降している。

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 4月6日。日本海軍は「菊水作戦」によって、特攻機を含む攻撃機約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入して反撃。戦艦大和なども出撃したが、200機以上の軍機が失われ、戦艦大和も坊ノ岬沖海戦で撃沈された。それでも日本軍は、以後も鹿児島県の鹿屋基地などから出撃する特攻機を中心とした攻撃を続行。まだ若く、次代を担うであろうはずだった優秀なパイロットが次々と海上に散っていったのである。

 日本軍の作戦計画では、南部を主戦場とすることになっていたため、北部には1個大隊程度しか配備されていなかった。日本軍は八重岳などの山地帯に拠って抵抗したが、米軍の掃討作戦や飢餓によって命を落とす者も多く、米軍は4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了。
 この戦闘での日本軍の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった。

 なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定15万人の住民が県内疎開してきており、そのままアメリカ軍の管理下に入ることとなった。しかし、北部にいた住民のうち、相当数の者はアメリカ軍の北上後に山中に隠れながら南進して逃走し、すぐには捕虜にならなかった。
 首里、那覇では、避難を誘導すべき立場の警察官は先に逃げていたためにいなかった。その代わりに、憲兵が民家を一軒一軒回って避難誘導をしたのである。憲兵が住民に対して避難を促した際、住民の中には、
「自分の家で死ぬのが本望です」と言った者もいたが、憲兵から、
「死に急ぐな! 生きることを考えなさい!」と叱責されて避難壕に避難したという人もいたらしい。

 4月16日。アメリカ軍は、伊江島に飛行場を設置するために上陸。伊江島には日本軍守備隊2000人が配置されていた。このうち半数以上は急遽召集された現地住民で、中には婦女子も従軍させられたいた。臨時に召集された地元住民で構成された守備隊にはまともな武器がほとんどまわらず、人々は銃剣に見立てた棒などで武器を持っているふりをして、米軍に向かって突撃。肉弾戦法で戦うなどさせられたが、米軍のマシンガンや戦車攻撃の前に無残に散っていった。
 伊江島には沖縄戦の直前に造られたアジア最大級を誇る陸軍飛行場があったが、連合軍の上陸が迫った3月には、その飛行場をせっかく造った日本軍自らによって破壊放棄されていた。島民は人口8000人のうち5000人が残留していて、日本軍は島民多数とともに抵抗して激戦となった。
 島の北東部にアハシャガマというとても狭いガマがあるが、ここには付近の住民約120人が避難。防衛隊の残存兵もその中に逃げ込んだ。
 米軍がガマの前までやってきた時、表へ出てきて投降するように呼びかけたが、住民らは鬼畜米兵に捕まったら女性は冒されてから殺され、男も惨殺されると教え込まれていたため、誰もガマから出ようはとしなかった。切羽詰った彼らは、防衛隊が持っていた地雷で爆死を遂げてしまった。
 日本側は民間人多数を含む4706人が戦闘によって死亡し、3人が捕虜となった。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両、自走砲6両が被撃破などの大きな物的損害を受けた。
 沖縄本島の中北部は20日間でほぼ米軍の手中に落ち、伊江島は実に多くの死傷者を出した挙句、21日までに占領された。

 日本軍は米軍の砲弾や銃弾を少しでも消耗させるため、竹で編んで作った戦闘機の模型や、丸太を挿し込んで戦車に見立てた石垣などを至るところに置いていった。あたかもそこに戦闘機があるかのように見せかけ、敵の目を欺こうという作戦だったが、このあまりに幼稚なごまかしに、米軍兵士らはただ呆れ、あざ笑うだけだった。

 この当時、軍部は軍人のみならず民間人に対しても、敵軍に投降してはいけないという命令を出していた。投降すると敵に情報を提供することになり、日本軍を不利に陥れる行為だとして、当事施行されていた治安維持法の「国体の変革を目的とする者」と見なされ、投降者へは日本兵による狙撃も行われたほどである。

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 戦後、アハシャガマは長年そのままにされていたが、1971年に発掘調査されたところ、百数十体の遺骨が見つかった。


【嘉数、シュガーローフの戦い】
 4月8日〜24日にかけて、第七〇高地(現・宜野湾市)では沖縄戦最大の激戦ともいわれる【嘉数の戦い】が行われた。高台を陣地に構えた日本軍は比較的有利に戦闘を進め、米軍と激しい銃撃、砲撃戦を繰り広げ、キング大佐、スティア中佐率いる米軍部隊を何度も撃退。
 しかし、補給が絶たれている日本に対し、物量で勝る米軍は次から次へと部隊編成や作戦変更を駆使しながら攻撃を続け、22日からブラッドフォード准将率いる特攻隊が攻撃に加わると、日本軍主力部隊は撤退。
 24日にも日本軍の残存部隊と米軍部隊による激しい戦闘が行われたが、2時間ほどで米軍が勝利。午前中のうちに嘉数陣地を占領した。

 5月4〜5日にかけては、日本軍が反転攻勢に転じたものの逆に大打撃を受け、日本軍は継戦能力を一気に喪失することになる。火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は7000人にも及んだ。

 一方、当初は3月1日からアイスバーグ作戦を実行する計画だった米軍の司令官バックナー中将は、軍関係者らから進軍が遅いと批判を受け始めていた。そのため、北部で戦闘を終了させた部隊も南部戦線に送り込み、安謝川を越えた米軍は5月12日、小さな丘に陣取る日本軍を発見する。これこそがシュガーローフ(安里五二高地)であり、1週間に渡る激戦【シュガーローフの戦い】がここで繰り広げられたのである。
 14日までにかけて、米軍部隊は立て続けに日本軍に対して攻撃を仕掛けるが、その度に激しい集中砲火を浴びて撤退を余儀なくされ、15日の午前3時過ぎには、大隊幕僚のコートニー少佐が戦死。
 15日の夜明けと共に日本軍は猛反撃を仕掛け、大学フットボールのスター選手でもあるジョージ・マーフィー中尉がこの時の砲弾によって落命。加えて、米軍大隊本部にも日本軍の砲撃が命中し、大隊長をはじめとする多くの指揮官が命を落とした。
 米軍は当初、シュガーローフはただの小さい丘が一つあるだけかと見込んでいたが、実はその周りにはハーフムーン、ホースショアといった二つの丘があり、日本軍はこれら三つの丘に陣取り、シュガーローフ以外の丘から同時に集中砲火を仕掛けていたのである。米軍は勝つためには三つの丘を同時に攻める必要があったが、16〜17日にかけても、やはり日本軍の反撃に遭って戦車隊も歩兵隊も次々に壊滅させられてしまう。しかし、17日の日没までにハーフムーンの北側を制圧することに成功。物量、兵力で米軍に劣る日本軍は、後方からの支援部隊が次々とやってくる米軍の前に力尽き、18日には遂に米軍が一帯の丘を制圧することに成功する。この一週間の間に米軍が出した死傷者は2,662人にものぼった。


【日本軍の敗北】
 5月24日。第32軍の牛島司令官は、
「主戦力は消耗したが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とで、最後の一人まで戦い続ける」として、首里城地下の司令部を放棄して南部に撤退することを決断。
 陸軍守備隊の首里撤退に際して、軍団長会議に同席した島田叡知事は、
「南部には多くの住民が避難しており、住民が巻き添えになる。軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を道連れにするのは愚策である」と憤慨。しかし牛島司令官は、
「第32軍の使命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて会議を締め括ってしまった。沖縄地上決戦において、軍部の方針は沖縄の県民を守ることではなく、あくまでも米軍の本土上陸を遅らせるための時間稼ぎだった。牛島は優しくて親切な性格だった半面、戦争に対しては非常に厳しい考えを持っており、与えられた任務を遂行するためには、もはや住民を庇っている余裕もなくなっていたようである。

 那覇の市街地においては激しい肉弾戦が繰り広げられた。空襲で焼け残った民家や学校、教会などに日本兵が潜み、進軍してくる米軍部隊を狙撃したのである。米軍は狙撃を避けるため、道路ではなく、民家と民家の間を潜り抜けるようにして移動しながら戦った。
 首里城の地下に置かれた司令部と、那覇市内にある各戦闘部隊の間は、日本軍によって構築された地下通路によって連結され、兵士の移動が速やかに行なわれていた。こうした堅固な地下の防衛陣地を、米軍は「リトル・ジーグフリート」と呼んで恐れたのである。

 司令部は30日には本島南端の摩文仁を中心に新しい防御陣営を設営したが、この時点で第32軍は兵力の80%が失われていた。
 また、この時の県南部は日本軍のみならず、避難民なども合わせて十数万人が混在する異常事態となっていた。道を歩けば、小さい子供の手を引く親、家族と生き別れになって歩く者、恐怖感と現実逃避に駆られた住民たちが歩く行列はどこまでも延々と続いていた。
 日本兵は自己保身のために、ガマに逃げ込んだ住民を、
「作戦の邪魔になる」
「出て行かない者は非国民として厳罰に処する」
「おまえたちが戦争をしているのか」などといって追い出し、米軍からの砲撃の盾にしたり、「徴発」と称し、住民が避難している民家に押し入って食料を略奪したり、ガマの中にいる住民に食糧を持っているか訊ね、持っている者から無理矢理奪い取ったりもした。母親のお乳が出ないために泣き止まない赤ん坊がいると、
「敵に見つかるから口を塞いで殺しなさい」「皆のためだ」と言って、母親に赤ん坊を殺すことを強要。また、親とはぐれ、心細さのあまり泣き止まない子供を容赦なく三角巾で絞殺したり、毒薬を注射して殺したり、ガマからの立退きや食糧の要求を断った住民を日本刀で切り殺したりもした。
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 …女の人の二才くらいになる男の子があんまり泣きわめくもんだから 兵隊がひどく怒って しかりつけたんですよ 子どもを泣かすなって…… それでも子どもは泣き止まない そしたらネ そのお母さんは 子どもをつれて出て行ったんです ……しばらくしたら お母さんひとりだけ帰ってきたんですよ 子どもをどうしたのか わかりませんけどね…… そのお母さんもなんにも言わないし だれも子どものことを訊こうともしませんでした
大城志津子(当時首里市在住の14歳)
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 また中には、41歳にして軍に徴兵され、大和人の隊長の命令によって同じ沖縄人の住民をガマから追い出さなければいけない立場に立たされた沖縄人兵士もいたという。うちなー口を話しただけで日本兵からスパイの疑いをかけられて撃ち殺された人もいた。

 米軍は投降を呼びかけるビラをまいたり、日系2世兵士がスピーカーで日本語を使って投降を呼びかけるなどしていたが、投降しようとガマを出る住民や兵士は、日本兵によって後ろから射殺される者もいた。また、米軍からまかれたビラを持っているだけでスパイだと見なされて射殺される人もいた。

 この頃、沖縄陸軍病院に看護要因として動員されていたひめゆり部隊も、糸満市にある第3外科壕と名付けられた天然の広いガマに設置された負傷兵の治療場所での活動をすることになっていた。
 蝋燭の灯だけが頼りの薄暗い、狭い洞窟の中にところ狭しと2段ベッドのように敷き詰められた板の間の上に、戦闘で手足を失ったり、出血多量の兵士らがひっきりなしに運ばれてくるようになり、ひめゆり部隊の学徒たちは連日仮眠をとる暇も無いほどに働かされた。ガマの中では負傷した兵たちのうめき声や水を求める怒号が響いた。中には、休む間もなく献身の看護を続ける女生徒に対して、
「俺たちは沖縄を守るために来てやってるのにこの様は何だ!」
「お前たちも外へ出て傷ついて見ろ!」
などと暴言を吐き散らす兵士もいたという。
 また、ガマの中は既に手狭だったため、炊事は全てガマの外で行われ、学徒たちは炊き出しやご飯の運搬のために、足場の悪いごつごつした岩場の中、銃弾が飛び交う荒野を無防備な状態で歩かなければならず、何人もの生徒が銃弾の犠牲になった。

 一方、義号作戦といって、熊本などの基地からも、米軍に占領された沖縄の飛行場へ戦闘機が多数飛ばされ、数名ばかりは飛行場までたどり着いて米軍の戦闘機や輸送機などを破壊した日本兵もいたが、大多数の者は途中で撃墜されてしまったりなど、これといった反撃は出来ずにいた。

 6月1日。沖縄戦の組織的抗戦がほぼ終結しそうな状況であることを知らされた昭和天皇は、
「天機ははなはだうるわしからず、御下問も少なかった」と発言。去る2月の時点で自らの判断で戦争を終わらせることが出来たという責任も棚に上げ、ただ沖縄の陥落を嘆くのみだったのである。

 米軍は当初の予定では、アイスバーグ作戦は1ヶ月ほどで終わらせるつもりでいたのだが、思っていたよりも沖縄の制圧に時間がかかっていた。5月は日本本土よりも早くやってくる梅雨の時期にかぶっており、長く降り続く雨によって地面はぬかるみ、行軍の足かせとなっていたことや、日本軍が仕掛けていった対戦車地雷に引っかかって戦車が移動不能に陥ったりといったことも要因にあったのだ。
 なかなか終わらない戦争。日を負うごとに増える死傷者…。米軍兵士のなかにも、精神病に病み、戦闘不能になる者もいたという。
 4日。米軍は海兵師団を海上迂回させて南部を包囲。牧港から那覇を通って前線へと伝わる補給路が狭いため、山を削って道路を拡張した。これが後に1号線と呼ばれる道路であり、現在の国道58号線である。

 6日。海軍部隊司令官・大田實中将は、豊見城に造られた海軍司令部壕内から、海軍次官宛に生前最後の電報を打っている。「県知事より報告せらるべきも」に始まる電報には、既に県内の通信手段は閉ざされ、焦土と化している惨状、家屋を焼き払われ、着の身着のまま家族・親類と離別して狭い防空壕で風雨を凌ぎながら窮乏した生活をしている沖縄県民の実状、傷を負った兵士に対して献身的な看護をしている看護婦の姿などが切実に打たれている。当時の決まり文句であった「天皇陛下万歳」「皇国の弥栄を祈る」などの文言はなく、文末は、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ(県民はこのように戦った)。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(県民に対してどうかどうか特別な配慮をお願いする)」と打たれて締めくくられている。
 この電報を打った7日後の6月13日、大田は豊見城の海軍司令部の壕内で、手榴弾で自決した。大田が自決した部屋は今でもそのままの状態で保存されており、爆発の際に出来た壁の傷は現在でも見ることが出来る。ちなみに、この海軍司令部壕が建設される際には、朝鮮人軍夫が多数連れてこられてその建設に充てられていた。

 6月9日。島田叡知事は同行した県職員・警察官に対し、
「どうか命を永らえて欲しい」と訓示して、県及び警察組織を解散させた。

 既に勝敗も目に見えていた10日。米軍司令官バックナー中将は日本軍の牛島司令官に対して降伏勧告文書を送る。
「貴殿の部隊はよく戦いました。本島における日本軍の敗北は時間の問題です。日本の封建時代の指揮官が部下将兵を無駄に犠牲にせず立派に救った実例を貴殿に促す必要はありません。貴殿は当然彼らの選んだ道を選ぶべきです」といった内容だった。

 14〜17日にかけては八重瀬岳方面で両軍の激しい戦闘があったが、日本軍は戦況を打開をすることは出来ず、逆に兵の大半を失うことになる。
 それでも牛島司令官は17日、バックナー中将から送られてきた降伏勧告を拒否。徹底抗戦の構えを見せるのだった。
 翌18日。アメリカ第10軍司令官バックナー中将は喜屋武半島の最前線を視察中、日本軍の糎榴弾の砲撃を受けて戦死。これはアメリカ史上、最高階級兵士の戦死であり、日本軍にとっては敵軍の司令官を討ち取ったという名誉だったが、この時既に日本軍はほぼ壊滅に近い状態であり、これで戦況が変わることもなく、23日にはJosepf Warren Stilwell(ジョセフ・ワーレン・スティルウェル)大将が新司令官に就任している。バックナー中将が戦死してから数日後には、喜屋武地域では徹底的な掃討作戦が実施され、日本側は軍人、住民に多数の被害が出ている。

 ひめゆり部隊は6月18日、指揮官から「諸君らは今日までよく働いてくれた。これからは自らの判断で行動するように」として突然解散命令が出された。学徒たちはガマの外に追い出され、教師・学徒240人のうち126人が翌19日〜約1週間の間に従軍して戦闘により死亡。10人(教師1人・生徒9人)は荒崎海岸で崖から飛び降りて自らその生涯を終えている。隣の洞窟では米軍の銃乱射によって3名が死亡、3名が重傷を負った。

 ひめゆり学徒隊の生徒の死の場面について、小説や映画などでは、涙を誘うような訣別の場面として描かれることが多いが、実際にその場に居合わせた生存者の体験談によると、現実はそうではなかったという話が残っている。
 生徒たちは逃げる途中で親友が銃弾に倒れても、助けることもせずに自分だけで逃げた。立ち止まっていたら自分も撃たれてしまう。生死を分ける戦場において、もはや他人を庇っている余裕はなくなっていたのである。学徒隊の引率教師だった中宗根政善によれば、死の恐怖に直面した教師と生徒たちは自分たちの保身だけを考え、怪我をして動けなくなった渡嘉敷良子を置き去りにしてガマから逃げたということである。そして米軍の捕虜になって収容所に入り、身の安全が確保されて冷静になってから自分たちがしたことを後悔し、罪悪感に苛まれたというのが現実なのである。
 また、親子兄弟、友人同士の生き別れについても同様の証言が残っている。生きるか死ぬかの瀬戸際に追いやられている者にとって、大怪我をした人のことを構う余裕はなく、「助けて」という叫び声を聞いて近づいたら自分の肉親が出血多量で倒れているのを見たが、とても助けられそうもないから構わずに逃げてしまったというような話がいくつも残っている。

 日本軍の敗色濃厚となったこの頃になると、堪忍して投降する日本兵もいた。当時、敵に降伏することは軍人の恥であり、切腹に値することとされていたため相当な勇気が必要だったが、既に捕虜となった住民が、米軍から残存兵の説得を頼まれてスピーカーを通して投降を促すと、勇気を出して白旗を揚げ、投降に応じる兵隊もいた。
 ガマに隠れた日本軍に対しても投降の勧告は行なわれた。しかし、なおも投降しない日本兵に対しては、当時の最新兵器であるファイヤーランチャーを駆使してガマの中に火炎を放射し、たまらず外に出てきた兵士に対して銃撃を加えるといった方法で徹底的に攻撃した。無論、これによって犠牲になった住民も数多くいた。

 24日午前4時ごろ、第32軍司令官・牛島満中将と、参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決。24日には基幹部隊であった歩兵第22・89連隊が、連隊旗である軍旗(旭日旗)を奉焼して玉砕。これによって沖縄における軍部の指揮系統は完全に壊滅し、25日には、大本営が沖縄戦の組織的な戦闘の終了を宣言した。
 しかし、指揮系統が崩壊して組織的な戦闘が出来なくなった後も、沖縄本島各地で散発的な戦闘は続いた。牛島満は死ぬ前に「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との命令を出していたため、兵士たちは死力を尽くして戦い続けたのである。しかし、この頃になると県内の通信手段はほとんど壊滅していたことから、牛島の命令というよりは、当時の軍部では徴兵した兵士に対して「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えていたこともあり、個々の兵士たちが自らの意思で抵抗を続けていたのではないかとする説が有力だ。

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 6月26日、島田叡は荒井退造警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たまま消息を絶ち、行方不明に。
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 元兵士による「(島田は)壕で自決した」との証言もある。また、1971年(昭和46年)9月1日付の沖縄タイムスに掲載された記事によれば、機関銃隊の兵長だった山本初雄が、「私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”とたずねると“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”ときくと、“足をやられました”といわれた。知事さんが“兵隊さん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。二つもらって“元気にいて下さい”といって自分のごうに戻ったのを忘れません。その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。ところが、先日と同じ地方人が“知事さんはなくなりましたよ”という。ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんのごうを出ました。知事は白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた」と証言をした。

『Wikipedia』より
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 26日には、米軍は久米島に上陸。30日には、一日だけで沖縄本島の日本軍は戦死者5686人、捕虜2838人、米軍に保護された住民は6万2316人にのぼった。

 7月2日。米軍司令官・スティルウェル大将が沖縄戦終了宣言を発令。

 しかし、この後も九州の基地からは数多くの特攻隊が沖縄の米軍の飛行場や戦艦に向かって飛び立ち、犠牲者が出ている。
 沖縄戦における住民の死者数は約9万4千人。日本軍兵士やその関係者の数とほぼ同数だが、餓死や栄養失調からくる疫病によって亡くなった人は15万人以上にのぼるとされている。当事の沖縄県民の4人に1人。日本兵をはるかに上回る沖縄人が、無意味な地上決戦によって犠牲になったのである。

 ところで、沖縄戦で亡くなった他都道府県出身者のデータがある。沖縄県以外の都道府県出身の戦没者7万5457人(2010年8月現在)のうち、大半は兵士であると思われるが、そのなかで北海道出身者は全体の14%を占める1万786人。実に7人に一人が北海道出身者だということになる。このことについては『「沖縄問題」とは何か』(藤原書店)の中で西川潤氏が考察を述べている。
 北海道出身戦没者の中にはアイヌ人も多く含まれていたようだが、北海道は明治維新以降、移民者によって開拓された土地である。東北地方を中心に、貧困に苦しむ農民が屯田兵として多く蝦夷地(北海道)へ赴き、新しい生活を営んだ。歴史の被害者、戦争の犠牲になるのは、いつの時代も弱い者、貧しい人である。東北地方の貧しい家庭では、男子は兵隊に、女子は女中になって家計を援けるということが多かったというが、日本の辺境である北海道で辛酸なる生活を送っていた民衆は、日本の先兵として、つまりは日本の為政者にとっては“駒”同然に扱われる形で、沖縄戦に送り込まれたのではないかということである。第二次世界大戦において、沖縄は勿論、ビルマやサイパン、ガダルカナル、満州など、日本兵や住民が大勢亡くなった激戦地はいずれも当時の日本の辺境地域だった。辺境の地は常に日本の防波堤にされ、辺境の人々は盾として犠牲にされてきたのである。

 なお、沖縄地上決戦においては、一般住民による自決が多く見られたが、これは現在において、沖縄人の中でも議論を醸している問題である。軍による命令があったのか、無かったのか。自決を先導して周囲の人に促した無理心中ではないかという説もある。当時、日本の国民はアメリカ人のことを「鬼畜米兵」といって、鬼のごとく残酷な人種だと教育されていたから、沖縄の住民はまさか降伏すればアメリカ兵が自分たちを保護してくれるなどという発想を持つことは出来るはずもなく、“自分で死ぬ”か“アメリカ兵に殺される”かという究極の選択に追い詰められてしまった。そこに集団心理も相まって、多くの住民が自ら命を絶つという忌まわしい出来事を生んでしまったのである。
 また、地上決戦が始まった直後まで、沖縄の人々の多くは、まさか自分が住んでいるところにまでアメリカが攻めてくるなどという予想はしておらず、もうじき梅雨が来るから神風が吹いてきてアメリカの軍艦を皆沈めてくれるから戦争もそのうち終わるだろうくらいに考えていた人が多かった。ひめゆり学徒隊の生存者の証言によれば、結成された当初は「ちょっとした遠足にでも出かけるような気分だった」から、勉強に使うノートや鉛筆、身だしなみを整えるのに使う櫛や手鏡なども陸軍病院に持参していたというほどだ。まさか自分が死の恐怖に直面するなどという危機意識も無いまま、あれよあれよという間に住民たちは、もはや「投降すれば…」などという冷静な判断も出来ないほどに追い詰められていたのである。

 なお、この時の沖縄戦で落とされた爆弾は数多く、2009年2月末現在、約2300トンの不発弾が埋没しており、現在でも毎年のように不発弾が見つかり、犠牲者も出ている。処理される不発弾は年間30トンものペースである。また、沖縄戦で亡くなった人の未収骨者数は4025柱もあり、新築家屋やマンション、ビル建設の際には今でも発見されることがある。